2020年7月22日水曜日

平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)

平島館(ひらしまやかた)

●所在地 徳島県阿南市那賀川町古津字居
●別名 阿波公方館、平島塁
●築城期 天文3年(1534)
●築城者 足利義維
●城主 足利氏(義冬・義助・義種)、平島氏(義次、義景、平島義辰、義武、義宜、義根)
●遺構 土塁
●備考 阿波公方・民俗資料館
●登城日 2017年3月4日

◆解説
 徳島県を流れる大河として有名なのは吉野川だが、県内区域内でもっとも幹川流路延長が長いのは剣山を源流とする那賀川である。この那賀川沿いに築城された山城としてこれまで紹介したのは、上流部の仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)、そして中流域では上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)があった。
 今稿で紹介するのは、下流域に築かれた館跡とされる阿波・平島館、別名阿波公方館である。
【写真左】平島館
 平島館の所在地である古津という地名からも分かるように、足利義冬が当地に移ったころ(天文年間)、このあたりは多くの中洲状の島が点在していた。

 古津には古津湊があり、その北方の中洲には手島、今津浦、色ヶ島などがあり、さらに北の江野島などに多くの船が往来していた。従って、当時の平島館は海城形態の城館だったことが推測される。
 写真は平島館に残る土塁の一部

現地の説明板より

”阿波(平島)公方

 戦国時代の動乱の中、将軍継承争いに敗れた足利義冬は、阿波の守護細川氏に迎えられ、天文3年(1534)那賀川河口の平島庄(ひらしましょう)に移り住んだ。これが阿波(平島)公方の始まりである。

 平島庄は足利家ゆかりの天龍寺領であった。義冬は上洛の機会をうかがいながらも、病に倒れてしまったが、その子足利義栄(よしひで)がついに上洛を果たし、永禄10年(1568)に征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。しかし、将軍職も織田信長の登場によって、わずかな期間で失い、まもなく阿波の撫養の地で病死した。
【写真左】平島館遠望
 阿波公方民俗資料館がすぐ近くにあり、そこから歩いておよそ100mほど向かった田圃の中に見える。



 江戸時代になると、歴代阿波公方は徳島藩主蜂須賀家の政策により、公方の権威を引き下げられ、圧迫した生活を余儀なくされた。その中にあって、9代公方義根(よしもと)は、漢文学に優れた才能をあらわし、「棲龍閣(せいりゅうかく)詩集」に多くの秀作を残している。

 しかし、公方に対する蜂須賀家の圧迫は一段と厳しくなり、ついに文化2年(1805)に阿波国を退去するに至った。那賀川赤池の西光寺には室町幕府10代、14代将軍をはじめ、歴代阿波公方の墓石を残し、民間に幾多の伝承を伝え、往年の面影をしのばせている。”
【左図】阿波公方系図
 民俗資料館の展示ブースに掲示されていたものを管理人によって少し加工したもの。

 文字が小さいため分かりずらいが、義冬を初代とし、以下赤字で示したものが阿波公方の系譜となる。









阿波公方

 大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、室町幕府10代将軍は大内義興の支援を受けて足利義稙がその座に着いた。しかし、その後義稙は、管領細川高国の専横が激しくなると対立、大永元年(1521)細川晴元・持隆を頼り京都を出奔、阿波国撫養にたどり着いた。その後当地で病没することになる。
【写真左】足利義稙像
 室町幕府第10代将軍。
民俗資料館に展示されている義稙の像。
寛正5年(1464)誕生。父は8代将軍義政の弟・義視で、母は日野富子の妹である。従って、足利家の兄弟と、日野家の姉妹同士がそれぞれ縁組していることになる。

 結果的に彼は延徳2年(1490)に第10代将軍となり、一旦退いたものの、永正5年(1508)再び将軍に復帰し、細川高国と対立するまで約13年間その座に就いたことになる。大永3年(1523)58歳で死去。



 義稙の養子・義冬(別名:義維(よしつな))は、永禄年間那賀郡平島庄・西光寺に入り古津の平島館を修築してここに移り、父に代わって将軍になるべくこの阿波から天下を窺った。のちに阿波公方の初代となるのがこの義冬である。
【写真左】平島館
 義冬は当初古津の平島塁(現資料館)を改築して公方館とし、およそ南北110m×東西110mの方形屋敷を構え、周囲には堀を巡らし、那賀川支流の苅屋川から水を引き入れた。
 義冬の住む居館や重臣の住宅もこの中に数棟建てた。意匠的には京の公家屋敷と武家屋敷が混在する景観だったという。



 ところで、義冬を阿波平島庄に斡旋したのは、前述したように細川持隆(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)だが、このとき、当庄と併せ近隣の吉井・楠根・仁宇・鷲敷を宛がわれた。

 いずれも那賀川沿いに集積する地域で、吉井・楠根は仁木氏の居城・上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)に隣接するところで、仁宇・鷲敷は当川をさらに遡った那賀郡那賀町内で、仁宇城でも紹介したように、細川氏所縁の地である。これらを併せて三千貫だったが、義冬に随従した家臣がそれぞれの家族を合わせておよそ360人前後だったため、この貫高ではとても満たせず、幾人かを本国に帰国させている。
【写真左】阿波公方民俗資料館
 平島館の土塁の西側には阿波公方関係の史料が展示されている阿波公方民俗資料館がある。



 上大野城の稿でも述べたように、義冬は三好三人衆らの支援を受け息子の義栄を第14代室町幕府将軍にさせたが、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢力に圧され、しかもその最中に義栄が病死したため、再度阿波に引き上げた。
【写真左】足利義冬像
阿波公方初代。
 上述したように、義稙に子供がなく、11代将軍義澄の子・亀王君が義稙の養子となり、後に義冬を名乗る。

 母は阿波守護・細川成之の娘(清雲院)で、義冬は後に周防大内義興の娘を妻としている。
 阿波公方となる前は、和泉国堺において異母兄である将軍足利義晴と対峙し、自ら幕府の体制を敷き、堺公方とも呼ばれた。



 阿波公方はそれでも一縷の望みを持ち続け、義冬の弟義助は当地平島館にあって、上洛の機会を窺うべく、支援者であった阿波細川氏などに期待を寄せていたが、細川氏の滅亡さらに、三好一族は土佐の長宗我部氏の阿波侵攻により滅び、上洛の方途は閉ざされることになる。
【写真左】足利義栄像
 室町幕府第14代将軍。
 天文7年(1538)義冬の長男として平島で誕生。永禄9年(1566)父義冬に代わって京都に上り、従五位に叙せられ左馬頭に任ぜられる。

 2年後の永禄11年(1568)2月に征夷大将軍に任ぜられ名前を義親から義栄と改める。
 同年9月、足利義昭を奉じて京に攻め上った織田信長に攻められ、阿波に奔走。10月撫養で病没。享年31。



 その後、義稙、義次、義景、義辰、義武、義宜、義智と阿波公方の系譜は続いたが、9代義根に至って徳島藩主・蜂須賀家により阿波国退去を命ぜられ、約250年続いた阿波公方・平島館はここに歴史の幕を閉じた。


蜂須賀氏

 ところで、江戸期における阿波国の藩主は蜂須賀家であるが、それ以前の天正13年(1585)に当時秀吉の家臣であった蜂須賀家政が最初に当国に入っている。家政の父は正勝である。当初秀吉は四国攻めなどで武功を挙げた正勝に阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを選んだため、秀吉はその子家政に阿波国を与えたという。
【写真左】徳島城
 徳島城の前身は室町初期に細川頼之が築いた渭水城(いすいじょう)ともいわれ、後に家政が修築して徳島城とした。





 家政が最初に入城したのは一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)で、その後徳島城を築城することになる。
 関ヶ原の戦いでは東軍方に属した形になり、淡路国も加増され25万石余の大名となった。
【写真左】蜂須賀家政像
 この像は徳島城内に建立されている。家政は跡を継いだ嫡男・至鎮が夭折したため、孫の忠秀の後見をすることになり、結局寛永6年(1629)まで徳島藩の政務を取り仕切った。その後寛永15年に81歳で亡くなる。

 晩年の寛永元年(1624)、平島公方家に館の修理資材などを下賜しているので、当時家政としては阿波公方に対しそれなりに敬意を払っていたのだろう。


 阿波公方が途中から足利から平島姓を名乗るようになったのは、義次の代(4代)からであって、命じたのは蜂須賀家政である。もっとも阿波公方側では公式には平島姓を名乗っていたものの、一族自身では足利姓を自認し代々名乗っていた。


西光寺

 説明板にもあるように、平島館からJR牟岐線を東に向かった阿波中島駅の南には、西光寺という寺院があるが、ここには平島公方墓所として一族の墓が祀られている。
【写真左】西光寺
所在地:徳島県阿南市那賀川町赤池185番地
 山号 己心山
 宗派 真言宗大覚寺派
 本尊 薬師如来



現地の説明板より

❝平島公方墓所
 平島公方一族の墓は義稙・義冬・義栄の3基を含め、この墓所内に23基を数えることができる。しかし、昭和17年の西光寺の火災のため国宝の阿弥陀如来をはじめ、貴重な古文書を焼失し、さらに過去帳も廃燼に帰したため、公方の墓についても調査は困難を極め、現在判明しているのは案内標柱のある14基のみである。
【写真左】足利義稙の墓
 中央のものが義稙の墓である。









 なお、8代平島公方義宜の時代に、京都の名儒島津崋山(1737~94、那賀川町熊氏須賀墓地に墓あり)を招いて、子弟を教育し、9代公方義根の時代には阿波国南方地域における漢文学の中心地の観を呈していたが、その当時平島館に出入りしていた数多くの文人のうち、医者であり儒学者でもあった高橋赤水(1769~1848)の墓も当墓地内にあり、その壁面には江戸末期の大書家貫名菘翁による書が刻まれている。
   阿南市教育委員会”
【写真左】足利義冬の墓
 義稙の右側に義冬の墓が隣接している。
【写真左】2代公方 義助の墓
左側に義助の墓があり、その右に義冬室(大内義興の女)、さらに右には義冬の母の墓がある。
なお、写真には入っていないが、義助の墓の左には義助の室で、周防柳沢氏の女の墓がある。
【写真左】5代義景の弟・義国の墓
 墓の形式から見ると、晩年は出家したようだ。
【写真左】7代義武の墓
 写真の右側にあるのが、7代義武で、その左に弟・義人の墓がある。
 また、奥には8代義宜の長子・義智の墓がある。


【写真左】石川政子の墓
 彼女は阿波公方8代の義宜の室。
【写真左】義人の子・義智室琴和の墓
 義人は7代義武の弟で、その娘が琴和である。彼女は、8代義宜の長子・義智に嫁いでいる。系図から見ると、琴和が年上妻になるかもしれない。
【写真左】墓所全景
 このほか阿波公方関係の墓を記したものが数基あるが、省略させていただく。





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2020年7月8日水曜日

堤城(鳥取県北栄町北条島)

堤城(つつみじょう)

●所在地 鳥取県北栄町北条島
●別名 津々見城
●高さ 標高60m(比高50m)
●形態 平城
●築城期 不明(承平年間 931~38)
●築城者 不明(長田氏、山田氏)
●城主 山田出雲守重直、十六島氏(越振氏)
●登城日 2020年6月16日

◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く【鳥取編】』加賀康之著 ハーベスト出版、HP「山城攻略記」、『鳥取県の歴史 県史31』内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門著 ㈱山川出版等)

 堤城については前稿伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎) でも触れているが、それ以前では八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋) の稿でも取り上げている。
 所在地は、伯耆・松崎城から西へ直線距離で8.2キロの位置に在り、東方を北条川が南北に流れる。また、当城に最も近い戦国期の史跡としては、茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)が 北東1.7キロの位置にある。
【写真左】堤城
 東側を流れる北条川の橋付近から見たもので、前方の家並み全体が当時の堤城とされている。




現地の説明板より

❝堤城跡 ~中世豪族の館~

 ここは蜘ヶ家山(くもがいやま)を中心とした丘陵地の東、半島状の小さい丘にあたり、「伯耆民談記」に北条郷嶋村(現 北条島)にあったと記される「堤城」と考えられる場所です。
 堤城は小字「城之内」を中心に広がると見られ、江戸時代末の天保期に作られた絵図面では小高い丘が描かれていますが、現在は家が建て込んでおり、城郭の構造など詳細はわかっていません。
【写真左】堤城の説明板
 川岸の民家に設置されているもので、奥の民家は後段で紹介している当城の最後の城主越振(十六島氏)の後裔とされる東地氏の家。



 この城に拠ったのは山田氏です。山田氏は北条郷にあった京都石清水八幡宮の所領として知られる「山田別宮」(現 北条八幡宮)周辺の地にあって、管理者として鎌倉時代頃からの記録にその名が見られます。戦国時代に登場する山田出雲守重直は、羽衣石城の南条氏の重臣として活躍しますが、永禄年間(16世紀中頃)に毛利氏に従い、所領を安堵されています。
 関ヶ原の戦いの後、毛利氏一門の吉川氏の家臣となり、周防国(現山口県東南部)岩国の地に移っていきました。

 堤城は大規模な城郭ではありませんが、関係資料も伝わっており、郷土史を語る上で重要な史跡の一つといえるでしょう。
          北栄町教育委員会❞
【写真左】堤城絵図
 説明板の中に添付されている絵図で、天保年間といわれるので、江戸末期のもの。右方向が北を示し、中央が堤城を記す。堤城の下を斜めに流れているのは当時の北条川。
 なお、おそらくこの絵図で囲まれた範囲とほぼ合致すると思われるのが下の図である。
【写真左】堤城位置図
 現在の島集落の配置図で、管理人によってその個所を特定し、着色(黄土色)した箇所が堤城跡と思われる。右側をまっすぐに伸びるのは近代になって整備された北条川と国道313号線。


山田氏

 『鳥取県の歴史 県史31』によれば、城主とされている山田氏は、紀姓で朱雀天皇の承平(931~38)の頃より当国に居住し、連綿として子孫代々この城を居城としていたという。そして、当初長田氏を称し、その後山田氏を名乗ったとされている。

 山田氏の記録が現れるのは、後段で紹介する北条八幡宮(山田別宮)が、平安時代中期、山城国の石清水八幡宮から勧請されているが、その主体者が当時の堤城主山田山城守頼円とされている。
【写真左】北条川に架かる橋から見る。
 奥が北を示し、右側の川が北条川。左側に説明板が設置されている。
 北条川は現在まっすぐに北に延びているが、天保絵図でも示されているように、当時は堤城の北側に大きく蛇行していたと思われる。


 戦国時代の天文年間(1532~55)になると、山田氏の居城堤城は出雲の尼子晴久の東伯耆侵攻で落とされ、山田高直は城を追われた。しかし、その後高直の嫡男重直が永禄3年(1560)当城に返り咲いたとされている。そのきっかけは毛利氏の支援を受けたことからといわれていることもあり、このころ堤城主であった山田氏は、羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)の南条氏の重臣とされていたものの、自らは毛利氏の家臣としての自覚が強かった。
【写真左】北側の道路から東を見る。
 橋を渡って北側の路地のような道路に入り振り返ったもので、右側の民家などが堤城区域となる。
 因みに、絵図や現在の集落状況から考えると、当時の堤城は東西150m×南北60m前後の規模を持つ城館だったと考えられる。

 

 伯耆・松崎城でも触れたように、天正3年(1575)南条宗勝が亡くなると、嫡男元続が家督を引継ぎ、元続は毛利氏から離反し、織田方につく姿勢を示した。これに対し重直は度々元続に翻意を促すよう迫ったが、元続はそれを聞かず、それどころか、ついに元続は重直の居城・堤城を攻撃するに至った。天正7年(1579)9月のことである。因みに、元続はさらに毛利方となっていた河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園) もこの時期攻撃している。
【写真左】南側の道路
 おそらく江戸時代の道(路地)がそのまま残っているのだろう。
 何か所か屈曲した箇所が見られる。



 重直は元続の攻撃にかろうじて逃れ、嫡男・信直と共に鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野) へ向かった。そして、重直は改めて毛利氏(吉川元春)の臣下となり、南条氏攻撃の先鋒に立つことになる。天正10年(1582)ついに南条元続の拠る羽衣石城を自らの手で堕とし、武功を挙げた。

 ところが、こうした活躍を挙げたものの、恩賞は久米郡内の28石で、しかもその2年後の天正12年から13年にかけて行われた秀吉と毛利輝元の領土交渉、すなわち「京芸和睦」によって、因幡と伯耆東三郡は豊臣領へ、伯耆西三郡が毛利領となったことから、久米郡は南条領(豊臣領)となったため、重直はこの地を領地できず、西伯耆の会見郡小鷹城に移された。
【写真左】小鷹城
所在地:西伯郡南部町福成
別名・柏尾城とも呼ばれ、山田重直が居城とした。当城についてはいずれ別稿で取り上げたい。




 もっとも、山田氏の庶流であろうか、堤城から北へ300mほど向かった北尾にある山田氏の居館の一つとされる「堤屋敷」跡に残る墓地には、「山田氏累代の墓」が数基建立されているので、一族全員が会見郡へ移ってはいない可能性がある(山田氏庶流の一部が当地に残った可能性もある)。
【写真左】堤屋敷
 堤城から北へ向かうと、隣の集落北尾に繋がるが、その一角には丘状の台地がある。これが堤屋敷があったところとされている。



【写真左】山田家代々の墓・その1
 現在堤屋敷跡は北側に墓地があり、南側は野地となっているが、元は畑地だったようだ。
 この墓地には山田家と刻銘された墓石が3,4基建立されている。
【写真左】山田家代々の墓・その2
 現在は新しい墓石が多いが、写真にあるように五輪塔をはじめ古い墓も残されている。
 登り口に数体の地蔵仏があったので、ひょっとして江戸時代はこの堤屋敷跡に寺院が建てられていた可能性もある。


越振氏十六島氏

 さて、山田氏が堤城から去ったあとは、南条元続の家臣といわれる越振氏が入城したといわれる。越振は「おつふるし」又は「うつぶるいし」もしくは「うっぷるいし」と呼称される。

 越振氏は伯耆国の国人領主で、『伯耆民談記』『羽衣石南条記』には、十六島(うっぷるい)の名で出ている。越振氏は、伯耆国東部河村郡合田(現・湯梨浜町羽合地域)を本拠とし、室町時代中期に在地領主としてあったとされる。それ以前の領主は河村氏であったとされ、実力で越振氏が奪い取ったのか分からないが、いずれにしろ明応元年(1492)秋には、山名尚之被官として「越振飛騨守」の名が残っている。
【写真左】北条八幡宮
 平安時代に当時の堤城主山田山城守頼円が勧請した北条八幡宮(山田別宮)。
 堤城から北西へ直線距離で800mほど向かった標高60m余の山頂部に建立されている。



 山名尚之は、当時の伯耆守護であったが、これに敵対する反守護勢力で尼子経久の支援を受けていた山名澄之と守護職を争い、永正3年(1506)以前に没落している。

 この後、越振氏は紆余曲折した後、南条氏の家臣となっていく。「京芸和睦」の後、越振氏は山田氏の居城であった堤城に入城した。現在当地北条島の集落内にある堤城跡に建つ東地家に「城主・宗太郎」の供養塔があるが、当家記録(過去帳か)に記載されているのが、十六島宗太郎という人物で、彼が堤城の城主であったといわれる。
【写真左】精緻な彫刻
 拝殿から本殿にかけて地垂木や手挟みには見事な彫刻が施されている。






 
 十六島・越振氏については、別稿で取り上げる予定だが、前述したように同氏初代は、もともと伯耆国に在した黒美信基という武将で、南北朝期名和氏及び塩冶氏に仕えた。
 
 康安2年(1362)、出雲十六島の高島城に移り、ここで十六島氏を名乗ったといわれる。その後、永正年間ごろに再び伯耆に戻り南条氏に仕えたといわれる。
【写真左】高島城遠望
 所在地:島根県出雲市十六島町

 別名:十六島城ともいう。
 南側の海岸部(十六島湾)から見たもので、現在主郭跡には発電用の風車が設置されたため、主郭付近の遺構はほとんど消滅していると思われる。