2010年1月15日金曜日

一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)

一宮城跡(いちのみやじょうあと)

● 所在地 徳島県徳島市一宮町
●史跡指定 県指定史跡
●登城日 2008年4月29日
●築城期 暦応元年・延元3年(1338)
●築城者 小笠原長宗
●標高 144m

【写真上】一宮城案内図
 四国霊場13番・大日寺のほぼ真上の山にある。主な遺構としては図にもあるように、倉庫跡、才蔵丸、明神丸、本丸、釜床跡、畑跡、貯水池跡、水手丸(2カ所)、郭などがある。


◆解説(参考文献「週刊 日本の100人番外編№04 豊臣秀長」「西国の戦国合戦」山本浩樹著、その他)

 前稿「引田城」探訪後、隣の徳島に入り、一宮町の一宮城を訪れた。所在地である一宮は、徳島市中心部から吉野川の支流である鮎喰川をさかのぼったところにある。
 城下には四国霊場88札所の第13番大日寺が建ち、道路21号線を挟んで、一宮神社と神宮寺跡がある。主な登り口は上図のように、2カ所だが、南側から上がるミニチュア版遍路道のようなコースをたどる方法もある。
【写真左】登城口付近
 この左側には、神宮寺跡がある。登城路は全体に整備され、登城する人も多いようだ。








 一宮城は、延元3年(1338)年小笠原長宗によって築城されたとある。小笠原氏の始祖は甲斐国で、のちに信州に移り、その後地元と京都に分かれ、庶流は、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥などに分散していく。

 ちなみに、以前取り上げた石見国の山城で、度々出てくる小笠原氏(温湯城・その1(島根県邑智郡川本町河本谷)参照)は、直接信州から下向したのではなく、一宮城のある阿波からその一族がやってきている。

 時期は津和野・三本松城を吉見頼行が築城した永仁3年(1295)ごろで、小笠原長経の孫・長親が同国邑智郡村之郷(現島根県美郷町の南山城が最初の居城)に入っている。
【写真左】一宮城立体配置図
 上段の図と同じようなものだが、立体的な絵図で分かりやすい。なお、この図では、2カ所の水の手丸のうち、高所のものを「小倉丸」と明示している。



 さて、阿波小笠原氏は、その後姓を一宮氏とあらため、一宮城を居城として阿波国を治めていく。

 一宮城の概要については、現地の説明板より転載する。

徳島県史跡 一宮城跡
 一宮城は延元3年、小笠原長宗が構築したもので、自然の地形を利用した城として知られる。また、阿波山岳武士の根拠地として、さらには戦国時代の一宮氏の拠点として活躍した名城であった。

 今日残っている本丸の城壁、明神丸、才蔵丸等の跡は、この頃のものであろう。その後、長宗我部氏の侵入、豊臣秀吉の四国統一の際、攻防場となり、天正13年、蜂須賀家政が入国のときにも、徳島城に移るまで居城となっていたものである。元和元年、一国一城の制により廃城となっている。

昭和43年11月 徳島市教育委員会、一宮城跡保勝会”
【写真左】倉庫跡
 登り始めて最初に見えるのが、倉庫跡といわれるところで、登城路脇のものと、途中で枝分かれした道の先端部にもある。この日は、後者の方までは探訪していない。



 当城の名前が特に出てくるのは、上記説明板にもあるように、戦国期である。

 四国を統一した長宗我部元親に対し、秀吉(信長)は紀伊国統一後、天正13年(1585)大掛かりな布陣を擁して攻め入った。その規模は10万余りで、阿波、讃岐、伊予の三方から攻め入る作戦に出た。

 このうち紀伊・和泉の兵3万を率いたのが秀吉の弟・秀長で、同年6月16日、堺から淡路に到着。ここで、明石から同じく3万の兵を率いて渡海した甥の秀次と合流し、同時に阿波に入った。
【写真左】上記倉庫跡付近から徳島市街方面を見る
 豊臣秀長らが一宮城に向かったルートはおそらくこの写真にある徳島市街からだと思われる。
 道のわきに綺麗な花が咲いていた。



 最初に秀長らは、木津城(鳴門市)を陥れたが、その後長宗我部軍の抵抗が激しいため、兵を海部、一宮、岩倉の三手に分けた。

 一宮城の戦いでは、秀長は鮎喰(あくい)川を挟んで、辰ノ山に陣をとった。四国を平定する際の重要な戦いがこの一宮城戦だった。

 戦況が好転せず、長期戦の様相を呈し始めた時、大阪城で病気治療していた秀吉は、自らが出向くと再三決意したが、秀長らが度々の書状をおくって押しとどめ、2ヶ月後の8月6日、ついに元親の降伏により和睦となった。

 元親が降伏した理由は、直接的には秀長らによる同城の水路の阻止が挙げられているが、伝承では元親が、秀吉軍が持ち運んだ騎馬の屈強さ、能力の高さに驚いたからだともいわれている。
 なお、降伏した長宗我部元親は、同日の和睦条件の中で、出身地である土佐1国を安堵された。
【写真左】曲輪跡
 後段に示す才蔵丸や、明神丸が出てくる前に見える郭で、確か2段あったと思われる。











【写真左】堀切
 明神丸と才蔵丸の中間部にあるもので、これにより区画としては才蔵丸を孤立させたものだという。従って、写真左側に才蔵丸専用の入口がある。








【写真左】門跡
 上記の堀切を抜けると、この門跡に出る。写真右を行くと、明神丸に向かう。左方には帯郭や井戸跡がある。










【写真左】明神丸周辺案内図
赤い文字位置が上記門跡。










【写真左】明神丸から徳島市街を見る
 明神丸は上図のような形状で、展望台として使われており、眺めがいい。
 写真中央に流れているのは、鮎喰川で、中央の山並み鞍部には、銅鐸・銅剣が出土した源田遺跡がある。なお、この写真の右下丘陵地には「御殿居」といわれた場所があり、一宮氏のものと思われる。






【写真左】帯郭
 明神丸と本丸をつなぐ部分で、戦略的にも重要な場所である。









【写真左】本丸その1 本丸の形状図面
 三角形の縄張りで、周辺に石垣を積んでいる。












【写真左】本丸その2
 東側にある本丸登城用階段部
 小ぶりな石垣だが、全体に破損個所が少なく、見ごたえのあるものである。この位置からの高さは4m前後だが、北側の方になるとぐっと深くなり、要害堅固な城造りを見せる






【写真左】本丸その3
 平坦面の精度がよいことから、蜂須賀家がいたころには建築物(天守)があったと思われる。











【写真左】本丸その4
 中心部に建立されている「若宮神社」










【写真左】本丸その5 
 東端部から登り口方面を見る











【写真左】本丸跡から辰ノ山(辰ヶ山)を見る
 前述したように、豊臣秀長らが布陣した山で、標高は197mと、一宮城よりは少し高い。










【写真左】本丸下の釜床跡付近













【写真左】堀切
 本丸を過ぎて小倉丸方面に向かう途中に堀切がある。このあたりからは管理が少し雑になっていて、雑木が目立つ。









【写真左】曲輪跡
 明瞭な遺構としての郭ではないが、このあたりの地形に合わせた小ぶりな廓が点在している。









【写真左】小倉丸の側面
 ここに来ると、本丸ほどの整備がされておらず、登るのを断念した。
 図面を見ると、二段の構成となり、西側に土塁を南北に伸ばし、先端部に櫓台があるという。






 このあと、方向音痴になり、一宮城の南の幹線道路に出てしまった。このため、最初の登城口まで歩いて戻ることになった。しかし、そのルートはおそらく搦手側になると思うので、これはこれで無駄ではなかった。
【写真左】一宮神社

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