2022年3月31日木曜日

林野城(岡山県美作市林野)

 林野城(はやしのじょう)

●所在地 岡山県美作市林野
●別名 倉敷城
●高さ 250m(比高170m)
●築城期 鎌倉時代
●築城者 後藤氏
●城主 後藤氏、尼子氏、江見久盛・久資、戸川秀安・岡市丞(宇喜多氏)、稲葉通政等
●遺構 郭、土塁、堀切、井戸等
●登城日 2017年9月3日、2020年3月30日

解説(参考資料 HP『岡山県古代吉備文化財センター』等)
 林野城は以前紹介した美作の三星城(岡山県美作市明見)の南方にあって、両城の間には吉井川の支流・梶並川が、林野城の南麓は吉野川がそれぞれ流れ、両川は林野城の西南端で合流している。
【写真左】林野城遠望
南麓を東西に流れる吉野川沿いの田圃の農道(朽木地区)から見たもので、この方向から見ると美しい山容である。




現地の説明板より

”林野城跡
 群雄割拠の鎌倉時代林野城と呼ばれ、又、以後倉敷城とも呼ばれていた。向かい合う三星城の後藤一族が在城し、後に尼子勢・江見一族・宇喜多・小早川の勢力下にあったといわれている。
 しかし、康安元年(正平16年・1361年)、山名伊豆守時氏が足利氏に背き、美作に侵攻の際に三星城とともにこの城も落ちたと伝えられている。
 この城は三方を川によって遮られた馬の背状の地形をうまく利用して築かれた天然の要塞であり、城郭も立派で本丸・二の丸・三の丸と三段に活用した連郭式の豪壮な山城で、標高250米山容の雄大なることは作東随一のものといわれている。”

 上掲の説明板は登城口付近に設置されたものだが、この文面では戦国期時代から南北朝時代へ移ったかのような内容となっており、これでは初心者にとって混乱と誤解を生むことになる。すっきりと時系列に沿って書き改めた方がいいと思われる。

【写真左】林野城想像復元図
 現地本丸に設置されているもので、色が褪せていたので管理人によって少し修正している。

 この図(鳥瞰図)は、北西側から見たもので、右側(南西麓)に大手道があり、そこから北東方向に伸びる尾根伝いに三の丸、二の丸と続き、途中の枝線左側(北)に物見台があり、再び本道へ戻り、本丸へ繋がる。

 当城の北側法面はこの図にもあるように岩塊が連なる険峻な景観で、反対側南面も急傾斜が多いが北側ほどではない。


渡辺氏から後藤氏へ

 さて、林野城は鎌倉期にすでにあったとされている。隣接する三星城の築城期は、応保・長寛年間(1161~63)といわれる。

 このころは、源頼朝が伊豆に、頼朝の弟の一人希義(源希義墓所(高知県高知市介良)参照)が土佐にそれぞれ配流された頃で、出雲国では出雲守・源光保らが謀反の疑いで遠国へ配流(『百錬抄』)、また、石見守・藤原水範は罷免されている(『大日本史』)。このことから三星城の築城は後に内大臣になる平清盛の命によるものだろう。
【写真左】安養寺
 林野城の南麓に建立されている寺院で、元はこの場所から北へ向かった上相間山(かみやはしたやま)に慶長6年(1601)建てられ、元禄10年(1697)に現在地に移転されている。
 写真後背が林野城になる。なお、登城口はこの写真の左側にある。


 林野城の築城者は不明だが、おそらく三星城を築いた渡辺長寛の一族と考えられる。しかし、この渡辺氏も長寛の子・長信が、正治2年(1200)に梶原景時に殉じたことにより、渡辺氏も消滅、その跡に後藤氏が入城(築城)したと思われる。

 そして、三星城は後藤良猶とされ、その弟・良兼が林野城に在城したといわれる。ただ、別説では木下道光とするものもある。この木下氏はおそらく津山市新田の新宮城の城主であった木下氏と同族だろう(美作 新宮城-城郭放浪記 参照)。

 その後、南北朝期における林野城の動きは、概ね三星城のそれとほぼ変わらないと思われ、戦国期に至るまで後藤氏が在城している。しかし、天文13年(1544)になると、一気に美作も激動の時代を迎える。
【写真左】登城口
 右の説明板が冒頭で紹介したもので、その脇に階段が設置してあり、ここから登って行く。




尼子氏美作侵攻

 出雲の尼子晴久が美作に侵攻し始めた。後藤氏は尼子氏の麾下となり、同氏は主として三星城の方を、林野城の方は尼子方の部将・川副久盛を置き、東作地方を守らせた。
 因みに尼子氏は、このころ三星城・林野城以外に美作・高田城(岡山県真庭市勝山)も攻めており、この戦い後、尼子晴久は、田口志右衛門に対し同国北高田荘を安堵している(『美作古簡集』)。

 それから10年後の天文23年(1554)、尼子氏麾下にあった後藤勝基は、天神山城の城主浦上宗景(備前・太鼓丸城(岡山県和気郡和気町田土 天神山)参照)と通じ、林野城攻略に転じた。
【写真左】登城道
 この日めずらしく母娘の親子と一緒になった。地元では結構当城に登られる人が多いのかもしれない。

 そんなこともあってか、枯葉が堆積しているものの歩きやすい道だ。


 これに対し、城将川副久盛は、江見久次、水島宇京助、長瀬三郎兵衛らと共にこれを迎え撃ち、逆に三星城まで迫った。その後も数回両城での戦いが続いていくが、永禄8年(1565)になると、久盛の主君尼子氏の領国出雲が毛利氏に攻囲され出すと、久盛はやむなく出雲へ引き上げることになる。

 これにより、久盛が引き上げた後、当城の城番は江見一族が守っていた。このときの浦上氏の動きははっきりしないが、このころ三村氏との戦いも激化しており、林野城攻略は取りやめていたのかもしれない。
【写真左】三の丸へ到着
 このあと下の方に遺構があるようなので降りてみる。








宇喜多直家、東作へ侵攻

 天正7年(1579)、宇喜多直家は東作地方に侵攻してきた。林野城番であった江見市之亟は、矢櫃城(やびつじょう)(津山市大吉)主・江見次郎と共に、勝田郡の鷹巣城(美作市海田)で宇喜多勢と戦ったが討死した。これにより、宇喜多氏は林野城を奪取、城番に片岡土佐守・森藤新五左衛門を置いた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属した宇喜多氏は敗れ、代わって小早川秀秋が備前・美作を領知することなった。そして林野城には稲葉通政が入城、2年後に秀秋が亡くなると、翌年森忠政が美作に入封されることになる。
【写真左】三の丸の下方
 冒頭の復元絵図にもあるように複数の郭が描かれている。資料では大小7郭が複雑に構築され、先端部でかなり大きな土塁が構築され、大手道へと繋いでいる。

 残念ながらこの日はそこまで降りて行っていない。
 このあとUターンし二の丸を目指す。


森忠政と美作国人一揆

 ところで、森忠政(津山城(岡山県津山市山下)参照)が美作に入封する際、同国では国人一揆による忠政への反発が起こった。
 
 当時美作では小早川秀秋、宇喜多秀家の元家臣らが在地しており、忠政が美作に足を踏み入れる手前の国境である播磨及び因幡両国のそれぞれの地点で、両家(小早川・宇喜多)の家臣・浪人及び、地元の土豪ら2,680名らが陣取り入国を阻止しようとした。
【写真左】三の丸から二の丸へ向かう。
 三の丸から二の丸へはアップダウンがあるものの、全体に緩やかな登り勾配で、途中には親切に階段が設置してある。

 復元図ではさほど長い距離に描かれていないが、実際はかなりの距離を感じる。


 そもそも一揆による阻止行動の理由は、それまで持っていた彼ら旧領主一族の既得権益が、新藩主となる森忠政らによって奪われることを恐れていたからである。最終的には忠政らによる一揆側への懐柔策が功を奏し、一揆側は瓦解し降伏した。

 このとき、一揆側の首謀者の一人とされるのが、元小早川秀秋の家臣であった難波宗守だが、彼らが占拠していたのがこの林野城である。一揆側の敗北の責任をとって難波宗守は自害、林野城も森忠政に明け渡された。
【写真左】堀切
二の丸に向かう途中で見えた堀切。
【写真左】二の丸到着
【写真左】二の丸南西端から吉野川を見る。
 南の方を眺望したもので、林野城の南西麓を吉野川が流れている。

 この川は北側から流れてきた梶並川と合流し、南下しながら赤磐市周匝の備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)の東麓で本流吉井川と合流する。
 なお、この日三星城が望めるかと期待したが、木立に遮られて見ることはできなかった。写真でいえばこの右側に当たる。
【写真左】整地された二の丸
 長軸(南西~北東)はおよそ70m。これを3区画に分けている。

 『日本城郭体系』によれば、最も手の入れ込んだ郭だという。
【写真左】二の丸東端部
 二の丸の東端部は少し下がった郭になり、そこから再び登り勾配となり階段がついている。
【写真左】堀切
 二の丸から本丸に向かう道は、尾根中央部や南側の斜面にある犬走などとなっているが、本丸直前はほとんど南側の犬走となる。写真は本丸手前で左側に見えた堀切。
【写真左】本丸
 長径170mの峡長な平坦面をなし、それを3区画に切って郭を構えている。
 東端の段には中央部より一段高く、東西15m×南北9mの郭があり、ここが主郭とされる。
 写真の中央部にあるものは、南側の位置に設置された冒頭の復元図。
【左図】本丸周辺の復元図
冒頭で紹介した復元図だが、本丸及び二の丸を含めた周辺部分をズームしたもの。
【写真左】土塁
西側先端部にある土塁で、手前には大分前に設置されたと思われるテレビ電波塔のような残骸。
【写真左】本丸北側
 全長が170mもある長大なもので、復元図にもあるようにこの場所には複数の建物が建っていたのだろう。
【写真左】北西方面を望む。
 本丸から北西方面を見たもので、三星城が確認できると思われたが、木立が遮り見えない。
 当時は手に取るように見えたことだろう。

【写真左】井戸跡
林野城には復元図を見ると井戸が2か所描かれている。一つは主郭部にあるもので、もう一つは本丸北側の一段下がった郭にあるもの。
 写真は主郭部にあるもの。
【写真左】笹が枯れた郭
 先を進むと、突然周りの景色と違い小笹が枯れた平坦面が現れた。
【写真左】三角点
 上記の郭をさらに進むと、三角点が見えた。
 どうやらこの場所が最高所(H:250m)のようだ。
 ここから下がって次の段がある。
【写真左】下の段
 上との高低差はおよそ4m前後ある。
 この先にも段が続いている。
【写真左】犬走
 次の段へは右にある犬走りを使って降りる。
【写真左】井戸跡から本丸方面を振り返る。
 犬走りを降りて振り返ると、林野城の別名「倉敷城」と書かれた看板が法面に設置されている。
 またその手前は大きな窪みがあり、石積が残っているので井戸跡だろう。
 本丸から連続する郭の最終段のもので、北端部に当たる。
【写真左】強烈な切岸遭遇に足が止まった連れ合い。
 切岸先端部に立ったところ、あまりの険しい切岸を眼にして、連れ合いはここから降りるのを拒否。

 しかし、ここまで来て再び戻るのもかなり体力的にきついため、先ず管理人が先導し、滑落しそうな箇所はサポートするからということで決行する。
【写真左】切岸と格闘
 険しい上に枯葉が堆積しているため、度々足元がすべる。写真の個所はまだ緩いほうだ。
 おそらくこの道が搦め手だろうが、敵はここからは攻め込めないだろう。
【写真左】物見台か
 急峻な道の一角にコブのような箇所がある。

 復元図には小規模な郭と小屋らしきものが描かれているので、もともと物見台があったところかもしれない。
【写真左】平坦部に辿り着く。
 高低差40m前後あったと思われる切岸を、冷や汗をかきながら一気に降りると、北側から登ってくる道と合流した。

 右の看板には「藤乃森神社まで300m(全長700m) 美作美しい里山公園」と書かれた看板が設置されている。

 左の道を降りても下山できそうだが、こちらを使うと北麓に出て大回りになることから、このまま藤乃森神社方面に向かうことにする。
【写真左】林野城が遠くなる。
 林野城から北東に伸びる南麓斜面に御覧のような整地された林道が造られている。
【写真左】藤乃森正一位稲荷
祭神:倉稲魂神・大宮売神・猿田彦神・素戔嗚尊。
 この稲荷神社は林野城の鬼門に守護神として艮(うしとら)に、京の伏見稲荷より勧請したという。

 このあとさらに降りて農道を歩きながら林野城の登城口である冒頭の安養寺に戻った。

2022年3月21日月曜日

摂津・山下城(兵庫県川西市山下)

 摂津・山下城(せっつ・やましたじょう)

●所在地 兵庫県川西市山下
●別名 龍尾城・一庫城・塩川城・獅子山城・多田城
●高さ 184m(比高 101m)
●築城期 天禄年間(970~973)、南北朝時代、天正7年(1579)など
●築城者 塩川氏(仲義、仲章、国満のいずれか)
●城主 塩川国満
●遺構 土塁、郭、空堀、井戸
●備考 向山城
●登城日 2017年6月18日

解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』、『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦著、等)

 摂津・山下城は、多田神社が所在する川西市の北部山下に所在する山城で、別称として一庫城、塩川城など5つの名が残る。
 当城の西麓を南北に走るのが、国道173号線で、丹州街道または能勢街道とも呼ばれた。現在は、大阪府池田市から北に向かって京都府綾部市まで繋ぐ路線として整備されている。中世は摂津と丹波を結ぶ重要な街道であった。
【写真左】山下城遠望
 南側の山下本町付近から見たもので、右側が山下(本城)で、谷を隔てて左側には向山(城)が見える。

 写真に見える道路は、国道173号線で、この道を奥に進んでいくと、北隣の能勢町や、以前紹介したデカンショ街道(神尾山城(京都府亀岡市宮前町)参照)と合流し、丹波篠山に繋がる。


 後段で紹介する東方の芥川山城からは平地を徒歩で行くとおよそ30キロほどの距離になる。また、北方の位置に当たる丹波の丹波・八上城からはおよそ32キロほどになる。

塩川氏

 さて、当城については、すでに信貴山城の稿で少し触れているが、築城期・築城者については三説もあり、確定していない。

 この中で、最も古いものとしては、築城期を天禄年間(970~973)とし、築城者は源満仲の婿・塩川仲義が新田城の支城として築いたという説がある。
 源満仲については、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)の稿で紹介したように、満仲の子・頼光が摂津源氏の祖となり、頼国を経て彼の五男・頼綱が現在の川西市にある多田神社を中心とした多田荘を治めている。
【写真左】登城口
 登城口は山下城の南西麓側にある。ただ、明確に登城口と標記されたものはない。写真にある看板の左下に小さな文字で「山下古城山管理員会」と標記された注意書きが目安になる。


 満仲の婿・塩川氏については、詳しい史料はないが、代々多田院御家人筆頭の任にあり、多田荘から北隣の能勢郡にまで支配をしていたという。
 新田城については、多田神社の東隣新田(しんでん)に築かれていた平城で、因みに現在は住宅地や公園となって遺構は消滅している。

 既述した説以外のものについても、いずれも塩川氏が関わっており、戦国期までの500年という長い期間、同氏がこの地を治めていたことになる。
【写真左】登城道
 前半は谷の左側を登って行く。次第に谷が狭くなっていく。








合戦の記録

 山下城における戦いの記録としては、天文10年(1541)のものが特に有名である。このときの城主は、塩川伯耆守国満といわれるが、史料によって国満の父・政年との説もある。

 この年(天文10年)9月、山下城主塩川国満が当城に立て籠った。これはその直前細川晴元(幕府34代管領)が敵対していた細川高国を打ち破り、高国派残党狩りの流からきたものだった。塩川一族が攻められたのは、政年の妻が討死した高国の妹であったことや、摂津国衆が当初から三好一族と対立していたことなどがその背景にある。
【写真左】吉秀大神
 左側の道を進んでいくと、一旦谷の窪みは途切れ、その中央部に御覧の社が祀られている。
 「正一位 吉秀大神」と記されている。



 晴元の命を受け山下城を囲んだのは、三好政長、三好長慶(芥川山城(大阪府高槻市大字原)参照)、波多野秀忠(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)らの軍である。

 これに対し、伊丹城(有岡城)の伊丹親興や、三宅城( 大阪府茨木市蔵垣内)の三宅国村が幕府に対し、山下城攻撃の不当性を直訴、時の将軍義輝も晴元とは反目していたこともあり、その訴えを認めた。

 また、木沢長政(笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置)参照)が晴元方から突然離脱し、山下城救援に駆け付けた。長政が反旗を翻した理由としては、三好長政との確執や、長政の弟が伊丹氏の婿に入っていることなどが挙げられる。
【写真左】川西市の市街地を俯瞰する。
 吉秀大神を過ぎると右側の道を進むが、途中で尾根を越え反対側の南斜面に出る。
 その先には御覧の解放された平場があり、川西市の市街地が望める。


 伊丹親興、三宅国村並びに木沢長政らが山下城救援に駆け付けることを知った晴元方は、攻囲を解き同年9月29日に越水城(西宮市桜谷町)に退去した。

 このほかの記録としては、天文18年(1549)に三好長慶が晴元、三好長政らと敵対したときである。離合集散の典型的な流れだが、長慶に味方したのは、摂津衆の三宅・池田・瓦林ら、また山城西岡の鶏冠井(かいで)・物集女(もずめ)、更に丹波からは内藤国貞、和泉からは松浦氏が合力した。

 対する晴元は、政長・政勝父子支援のため、4月26日迂回するように丹波経由で摂津へ入り、塩川氏の持城・山下城へ入った。この時の合戦の詳細な記録は残っていない。
【写真左】愛宕神社
 上記の広場側の奥には愛宕神社が祀られている。
 由来などは不明だが、この付近(境内)はきれいにしてあるので定期的な祭事が行われているのかもしれない。
 また、山下城の郭だった可能性もある。


国満、秀吉の逆鱗に触れ自害
 
 さて、信長の時代になると、天正7年(1579)、山下城主塩川国満は改めて山下城を含む多田領を信長から安堵されている。しかし、その後秀吉時代になると、それまで度々争っていた北隣の能勢郡の能勢氏とさらに関係が悪化する。

 ところで、秀吉による九州征伐は一般的には天正15年(1587)に開始されたといわれているが、件の能勢氏はそれより3年前の天正12年(1584)6月に九州征伐の先鋒として向かっているとされている。

 出典元が明示されていないため、この時期については、信憑性に疑義がもたれる。しいて言えば、これは九州征伐ではなく、翌天正13年(1585)に始まった長曾我部元親軍討伐の四国征伐ではないだろうか。
【写真左】郭段
 愛宕神社の右側を通ってさらに上に進むと、左側に段が見えてきた。
 幅はさほどないが奥行がある。



 どちらにしても、秀吉の命を受けた能勢氏が当地を留守にした隙を狙って、塩川氏が能勢氏の地黄城(じおうじょう)(大阪府能勢町地黄)や、田尻城(大阪府能勢町下田尻)を攻略した。天正12年10月14日のことである。

 このとき、三草山清山砦を守備していた塩川国良も能勢氏の抵抗に遭い討死した。しかし、能勢氏は衆寡敵せず敗北、これを知った当主能勢頼次は急ぎ大阪城に戻り、秀吉に事の次第を報告、その足で地黄城へ戻った。
【写真左】能勢頼次の像
所在地:大阪府豊能郡能勢町野間中661

 日蓮宗霊場能勢妙見山を開基したのが能勢頼次で、当地に建立されている。
2010年7月27日参拝



 こうした塩川氏の動きに対し、秀吉は激怒し、すぐさま池田輝政を始めとした軍を山下城へ向かわせた。塩川国満は城を囲まれ、抵抗する術もなく、もはやこれまでと、山下城を開城し、自らは切腹し果てた。国満の頸は山下城の大手門に葬られ、当城はここに廃城となった。
【写真左】切岸
 先ほどの段を過ぎると、この個所で大きな切岸が出てくる。
【写真左】連続する郭段
 切岸を登りきると果樹園のようなところに出た。
 手前にはネットなどが張られ鳥獣対策をしているようだ。植樹されている樹木名は分からない。
 右側に道がついており、この個所から上に向かって4段ぐらいありそうだ。
【写真左】上から見る。
 左手に連続する郭段を見ながら上に上がって下を見たもので、4段ぐらいの段になっている。
 桜の木なども見えたので、果樹園というより公園に近い状況だ。
 それぞれの段の幅はまちまちだが、奥行は40~50m程度前後ある。
【写真左】連続段の最後の段
 連続する段の最高所の段で、この右側に階段が見えるが、この階段を上がると本丸に向かう。
【写真左】本丸
 最後の段から5m前後の高低差のある切岸を登ると、本丸が控えている。
 なお、この位置における虎口は明瞭でないが、右側の隅に開口部らしきものがあり、その左側から土塁が伸びている。
【写真左】土塁
 尾根筋に向かって右側に土塁が構築されている。
 本丸(主郭)の長径は尾根軸にとられ、およそ50m前後ある。
 土塁に沿って奥に進む。

【写真左】土塁側から中を見る。
 本丸北側の土塁側から中を見たもので、現況に残る土塁の天端幅から考えると、当時はもっと大きく、高さは3m以上あったと考えられる。
【写真左】本丸の中央部
【写真左】井戸跡か
 本丸の一角には4m四方の窪みが残る。おそらく井戸跡と思われる。
 なお、本丸から左方向(西側)に伸びる尾根筋にも郭段があるようだが、この日は向かっていない。
 
【写真左】竪堀
 一旦本丸の虎口まで戻り、上に向かうべく右側の斜面に続く道を進む。
 右手に竪堀が見えてくる。
【写真左】一条目の堀切
 先ほどの竪堀が上まで伸び、この堀切と繋がる。
【写真左】一条目の堀底から本丸を見上げる。
【写真左】土塁
一条目から次の二条目の堀切との間にあるもので、特徴的なのは尾根幅に対しそれ以上に左右に盛り土を伸ばし、幅を長くとっていることである。
 しかも中央部で屈曲した虎口のような道が残っている。
【写真左】二条目の堀切
 長大な規模なので、この写真では左側半分の箇所しか撮れない。
【写真左】二条目の堀切
 反対の右側から見たもの。
【写真左】土橋
 二条目の堀切に残るもの。
【写真左】平野神社
山下城の南麓に建立されているもので、塩川氏所縁の神社。
【写真左】多田神社
 山下城が所在する川西市には冒頭で紹介した多田神社がある。
 主祭神は、清和源氏の祖ともいえる源満仲から始まり、その曾孫・源義家までの5人を祀る。

 山下城主・塩川氏の名が具体的に現れるのは鎌倉末期で、この時期同氏の他、既述した能勢氏や渡辺氏の名が出てくる。いずれも多田院(神社)の御家人となっている。