ラベル 土佐 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 土佐 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年2月22日火曜日

中村御所(高知県四万十市中村本町1 一條神社)

 中村御所(なかむらごしょ)

●所在地 高知県四万十市中村本町1 一條神社
●高さ 19m(比高9m)
●形態 居館
●築城期 不明
●城主 一条氏
●登城日 2017年5月21日
●備考 一條神社

解説(「中村城跡調査報告書」1985年中村市教育委員会編等)
 前稿中村城より南東へおよそ500mほど向かったところにあるのが一條神社である。現在中村本町という市街地に独立した小丘があり、その上に当社が祀られている。
【写真左】一条神社の参道
 中村市の市街地にあり、付近にはスーパーや銀行など町の中心部に当たる。
 写真は南側から見たもので、鳥居が建ち参道を進むと小高い丘に一条神社が祀られている。


現地の説明板より

“一條神社

 この神社は、文久2年(1862)、中村御所跡の小森山山頂にあった一条家御廟所跡に、土佐一条氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立されました。土佐一条氏は応仁の乱を避け荘園の復興を目指して下向した関白一条教房に始まり、その子房家以後4代、中村の文化、経済の発展に力をそそぎました。

 この神社には教房の父、兼良をはじめ、土佐一条氏歴代の霊を祀っています。毎年11月に行われる大祭は、土佐の3大祭の一つに数えられています。現在の社殿は、昭和19年(1944)の建立です。“
【写真左】「中村御所跡」の石碑
 鳥居の左側には「一条氏 中村御所跡」と筆耕された石碑が建つ。





中村御所

 神社の参道脇には「中村御所跡」と記された石碑が建立され、石碑には下段のように記されている。

”中村御所跡
 御所は一条教房が中村下向の時居館として構築、一条氏敗去のあと荒廃したが、慶長12年(1607)、遺臣により一条氏数代の霊をまつる一祠が建てられた。
 神域には藤見の御殿跡や化粧の井戸など一条氏ゆかりの旧跡が残っている。”
【写真左】参道
 南北凡そ100mほどの長さだが、街中にあるためか幅は20mもない。






比定地

 ところで、通称中村城といわれている城郭も、前稿でその比定地を明確に定めていなかったが、本稿の中村御所についても、今のところその比定地は完全に確定していない。
【写真左】中村御所館跡 推定復元図
 現地に設置されたもので、総面積は18,000㎡、東西11.5m、南北157mの規模。

 また、この図板の右側には以下のように記されている。






説明板より

❝中村御所館跡
 天正17年(1589)の『地検帳』によると、此の丘陵が森山で維摩(ゆいま)堂床がある。
 小山の東側に、御堀・北堀・寺院跡や小田つきの広い土地に建物がある。
 西側には、御土居が散田と登録され「居(いる)」の記載で家屋のあったことが知れる。
 御土居・御堀の敬称は長宗我部元親に付けたものではあるが、東・西同じ地割の絵図範囲が土佐一條氏の『中村御所』跡と推定できる。

 応仁2年(1468)前(さき)の関白従一位一條教房が幡多庄に下向から一世紀ーー-。
往時の華やかな公家文化と壮大な権勢が偲ばれる。
   昭和63年(1988)
   提供 中村南ロータリークラブ
   <解説>岡村憲治❞
【写真左】一条神社
 祭神は、若藤男命(一條兼良)、若藤女命(同夫人)、一條教房並びに子孫房家・房冬・房基・兼定・内政及び其の連枝の霊、としている。
 祭日の一つである春祭りでは、土佐一條公家行列藤祭が5月3日に行われる。


 中村御所がこの一条神社を含めた小丘部であるとしたのは、「中村御所と敬称された一条氏の御土居は、現在の中村市本町一丁目に当たり、森山、すなわち一条神社のある小丘を含めた一帯にあったと見られている」と「高知県歴史辞典」で記した島田豊寿氏である。
【写真左】「御化粧の井戸」
 本殿に向かう参道が階段となる左脇に一条家が使ったといわれる井戸が残る。
 女官・侍女たちが化粧のために使用されたと伝わり、一枚岩をくりぬいたもので、水深は5m。今日まで枯れたことがないという。


 これとは別に「中村の御所」と記された史料が残っている。これは宝永5年(1708)吉田孝世が著した『土佐物語』に出てくるもので、一条氏が土佐に下向した際、
「文明11年已亥、中村の古城を結構に築きて、教房・房家移り給ひ、国中の諸士国司と仰ぎ奉り、中村の御所とぞ申しける」
 と記され、ここではこの「中村の御所」を山地、即ち天守谷山と呼ばれる現在の公園(桜の壇)と推定している。
【写真左】一条神社から中村城方面を遠望する。
 本殿から北西方向に中村城を模した四万十市郷土博物館の建物が見える。
【写真左】一条神社の西端部
 本殿の西側法面を見たもので、コンクリートで覆われているものの、この個所は当時から険峻な斜面であったものと思われる。

【写真左】一条神社の看板猫・チビちゃん
 参拝したこの日(2017年5月21日)、境内に人懐っこい猫がいた。当社の看板猫で、「チビ」という。

 管理人が訪れたとき、連れ合いは参拝もそこそこにチビちゃんに夢中だった。あれから随分年が経っている。今も元気だろうか。

中村御所と中村城

 確定的な史料がないため、中村御所と中村城の位置についてこれ以上推考することはできないが、管理人が抱くイメージとしては、一条氏は本稿の一条神社にあった中村御所を居館とし、山地にあたる中村城(為松城など)には、家臣であった為松氏など主だった重臣を配置し、それぞれのエリアで館を建てていたのではないかと想像する。
【写真左】四万十川南岸にある香山寺側から中村城及び中村の街並みを見る。




 というのも、元々教房が土佐に下向する前から当地(幡多庄等)は一条氏の荘園(家領)であって、この時代すでに当地を治めるための拠点があったはずで、荘園領主から大名領主へと変貌を遂げる際、中村の街づくり(京を模倣)を開始し、最も財を成したとされる南海航路からもたらされた対明貿易などをみたとき、後川及び四万十川に挟まれた中村御所は、その機能性から考えて、近くに河湊を配置し、海運を中心とした産業の振興を図っていたのではないかと考えられるからである。
【写真左】四万十川河口部を見る。
 上記の香山寺から四万十川の河口部を見たもので、後川と合流した箇所が見える。
 その先には土佐湾(太平洋)が見える。

2022年2月19日土曜日

土佐・中村城・その2(高知県四万十市中村丸之内)

 土佐・中村城(とさ・なかむらじょう)・その2

●所在地 高知県四万十市中村丸之内
●別名 為松城
●形態 平山城
●高さ 70m
●築城期 不明
●築城者 為松氏
●城主 為松氏、吉良親貞、山内氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2005年6月10日、及び2017年5月21日

◆解説(参考資料『中村城跡調査報告書』1985年3月 中村市教育委員会 等)
 前稿に続いて中村城をとり上げるが、本稿では一条氏が滅亡したあとの動きを追ってみたい。
【写真左】四万十市郷土博物館
 旧二の丸跡に建つ模擬天守風の四万十市郷土博物館
 前稿でも述べたが、手前には土塁が残っている。因みにこの博物館が建っている箇所にも土塁があったという。


現地の説明板より

❝史跡めぐり  中村城跡
 中村城とは、為松山頂にあった4つの城群、即ち東ノ城、為松城、詰(本丸)、今城の総称で、連立式の城郭であったと考えられています。

 ここに残っている石垣は、昭和40年に発見されたもので、山内2万石2代藩主山内政豊(別名 良豊)時代の慶長18(1613)年、新たに中村城として修復された時のものだと思われます。
 この城の詳細は不明ですが、翌々年の元和元(1615)年の一国一城令により廃城となり、以後修復されることはありませんでした。❞


長宗我部氏、幡多郡一円を支配

 中村城の最後の城主一条兼定が豊後に去ったのは、前稿でも述べたように天正2年である。この段階で、次に入ったのが長宗我部元親である(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)。

 天正2年(1574)2月、兼定が豊後臼杵に逃れたあと、長曾我部元親は兼定の子内政を中村御所(中村城か)から高知の大津・天竺城(高知県高知市大津)へ移した。その後、中村城の城監に命じられたのが、元親の弟で当時吾川郡の吉良城(高知県高知市春野町大谷)主となっていた吉良左京進親貞である。ところが、親貞はその2年後の天正4年に死去したため、谷忠兵衛忠澄が城監となった。
【写真左】中ノ森段付近
 中村公園(城)の中心部である為松城から北に進んだ位置で、現在は遊園地などになっている。
 このため遺構はほどんど認められない。


谷忠兵衛忠澄

 谷忠兵衛忠澄は長宗我部氏臣下の中でも特に外交面を担当していた武将で、元親も彼には全幅の信頼を置いていた。

 長曾我部氏が治めていたのは、伊予の一部を除く四国全土であったが、天正13年(1585)8月、羽柴秀吉による四国攻めによって彼の軍門に降り、それに伴い、忠澄は同14年12月、九州豊後の戸次川の戦い(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)参照)に従軍した。

 この戦い直後、戦死した元親の長男信親の遺骸・遺品を受け取るために島津軍と交渉、荼毘に付したのち遺灰を高野山に登り奥の院に納めた。このとき、土佐武士700人の供養を併せて行い石塔婆を建立している。
 
 忠澄のこうした動きからも、彼が土佐中村城に常に在城する状況ではなかったようで、忠澄のあとを受け持ったのが桑名藤蔵人並びに、その息子桑名弥次兵衛一孝といわれ、当城の城監と記録されている。
【写真左】広場
 二ノ丸から南東部に進んだ場所で、郭跡と見られる。








現地の説明板より

❝史跡めぐり
東ノ城跡
 この城跡は中村城跡の城群の一つで、一条氏一門の西小路氏の持城と考えられています。城は二区画に分かれていて、面積は約200平方米(約60坪)程度であったと思われます。16世紀後半に一条政権が滅び、西小路氏も中村を退去すると、城は荒廃し、山畠となりました。

 現在は地形が変化し、かつての城の面影はほとんどありませんが、わずかに土塁の一部が残っています。❞
【写真左】上ノ段から見る。
 この個所も公園となっており改変された跡だが、もとは郭だったのだろう。





山内氏

 長宗我部氏のあとは山内一豊の一族が当地・土佐一円を治めることになる。一豊が土佐に入ったのは関ヶ原後の慶長6年(1601)1月である。最初に入ったのが浦戸城である。

 一豊は浦戸を拠点としてこの年の4月から家臣を従えて、土佐領内の巡視を行い、その2か月後には領内要地に一門・重臣を配置していった。中村については、一豊の弟・康豊を置き、2万石を分封させている。

 康豊が中村に住んでから4年後の慶長10年、一豊が死去し嫡子がいなかったため、同年11月康豊の長子・忠義が本家を襲封し2代藩主となった。そして忠義が若かったため、実父康豊が後見役となり、このため中村には常住することはなく、さらに元和元年(1615)の一国一城令により中村城は破却され、中村城はここに幕を下ろすことになる。
【写真左】駐車場付近に戻る。
 この近くに「中村城」と記された石碑が建っている。

 




現地の説明板より

❝為松城跡
 城跡のこのあたりは為松城の詰(本丸)とよばれ、約800平方米(240坪)の広さであったようです。この詰につづき8区画で城を形成していました。

 城主とされる為松氏は、この地方の有力な豪族(国人)の出ですが、一条氏の入国以来家臣となっています。しかし、16世紀後半の一条政権滅亡とともに所領を失い、歴史から姿を消しました。
現在、この碑の左手50mの地点に土塁の一部が残っています。❞
【写真左】一条神社を遠望する。
中村城から見たもので、次稿で予定している一条氏を祀った神社が見える。



2022年1月28日金曜日

土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)

 土佐・中村城(とさ・なかむらじょう)・その1

●所在地 高知県四万十市中村丸之内
●別名 為松城
●形態 平山城
●高さ 70m
●築城期 不明
●築城者 為松氏
●城主 為松氏、吉良親貞、山内氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2005年6月10日、及び2017年5月21日

解説(参考資料『中村城跡調査報告書』1985年3月 中村市教育委員会 等)
 高知県の西部にある四万十市に築かれたのが、通称「中村城」といわれている城郭である。当城の歴史については不明な点が多いが、歴代城主とされる一条氏、長宗我部氏、山内氏が当地を治めた。
 今稿では主に初期の城主とされる一条氏について紹介したい。
【写真左】中村城遠望
 中村城の南方にある香山寺公園から俯瞰したもので、正面の小丘全体が中村城とされる。
 手前の川は四万十川。中央右側に模擬天守風の四万十市郷土博物館が見える。


土佐・一条氏

 土佐・一条氏(以下「一条氏」とする。」については、以前取り上げた河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の稿でも触れているが、改めて同氏の経歴について見てみたい。

現地の説明板より

❝高知県指定史跡
一条教房墓
      指定年月日 昭和28年1月28日
        所在地 四万十市丸の内1639の1(妙華寺谷)

 一條教房は、応永30年(1423)京都の一條室町第で五摂家の一つである一條家の嫡子として生まれた。父は、摂政、関白、太政大臣を歴任した従一位一條兼良で、母は、権中納言中御門宜俊の娘である。
 長禄2年(1458)関白となり、寛正4年(1463)に辞し、この間に従一位に叙せられている。
【写真左】為松城
 中村城は別名為松城ともいわれる。為松城の名は、一条氏が土佐に入国する前の地元の豪族・為松氏の名から来ている。
 一条氏が土佐に入国以来為松氏は同氏の家臣として仕えたという。
 写真は為松城時代の詰(本丸)のあったところで、約800㎡の広さであったという。
 

 応仁2年(1468)9月、泉州堺から船出し、同年10月頃幡多ノ庄に着いた。そして中村に館をかまえ、以来一條氏は、五代百余年にわたり戦国大名として土佐西部を支配するとともに京文化を伝えた。

 文明12年(1480)58歳で逝去。墓はこの付近にあった妙華寺境内に祀られたようであるが、江戸時代に入り寺が退転すると、墓所は時の経過とともに人々に顧みられなくなったらしい。この墓碑は、後年教房の遺徳を慕う人々によりここに再建されたものである。
  平成8年3月1日
     四万十市教育委員会❞

【上図】土佐・一条家系図
 図中の〇数字は、土佐・一条氏の始祖から5代兼定に至るまでを示す。

教房、幡多庄中村に下向

 土佐一条氏の始祖となる教房が土佐の幡多(ノ)庄に下向したのは、説明板にもあるように応仁2年(1468)9月である。応仁の乱が勃発するのはこの前年(元年)の5月26日だが、それまで教房をはじめとする摂家等も在京のまま、戦乱が収まることを期待していたのだろう。

 しかし、この年の8月、大内政弘(鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)参照)が西軍に属して摂津国で東軍を破り入京を果たすと、いよいよ乱は激化した。あくる2年8月19日、教房の父・兼良及び、前内大臣九条政忠らは、戦乱を避け南下し奈良に赴いた。このとき、教房と父兼良は最後の別れをしたのだろう。
【写真左】土塁か
 北西の方向に向かったところで、道の左側がしばらく道路と並行して高くなっている。どの程度改変されたものか分からないが、土塁のような遺構に見える。
【写真左】中ノ森段
 さらに北に向かった位置に当たるが、現地は遊戯施設のようなものが建っており、遺構らしきものは消滅している。
 このあと、折り返して南に向かう。

 同年9月25日、教房は大平氏(下段参照)から回送された船に乗り、堺から船出し、26日土佐の神浦(甲浦)に着いた。この港は往古から使われてきた港で、畿内から土佐国に入る時の表玄関である。数日当地で休んだ後、10月1日出帆、一旦宇佐の猪ノ尻に着いた。
【写真左】一条教房の墓・その1
 教房の墓は、北側の中ノ森という場所の東麓に建立されている。
【写真左】一条教房の墓・その2



 宇佐の猪ノ尻とは、現在の土佐市宇佐町井尻のことで、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)の稿でも述べたように、このころ蓮池城の城主は大平氏で、同氏が一条氏の土佐下向に大きくかかわっていたことが分かる。

 教房がそのあと、宇佐の猪ノ尻から中村に到着した日時は記録されていないが、おそらく10月下旬か、11月ごろだろう。教房が中村において最初に居館とした場所は不明だが、『大乗院寺社雑事記』(文明3年1月1日条)に、「家門御方前殿土佐波多中村館」と記され、これ以外に土佐御所・幡多御所・波多御所といった名が残る。

 因みに、『南路志』という史料には「愛宕山古城」という城郭名が記され、この場所で教房以後兼定までの5代が居住したと記されている。残念ながら、この場所が現在の中村城といわれている場所だったかどうかは確定していない。
【写真左】資料館側に向かう。
 旧二の丸といわれている箇所で、この先に資料館が建っている。
房家・房冬

 さて、教房は中村に下向してから12年後の文明12年(1480)10月5日に死去する。跡を継いだのが房家である。房家には兄・政房が居たが、応仁の乱において京で殺害されていたため、次男であった房家が跡を継いだ。この房家が長宗我部千王丸(のちの国親)(波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)参照)を養育する。

 房家は天文8年(1539)に死去し、跡を継いだのが房冬だが、彼は家督を継いだ2年後の同10年に死去する。房冬には、同氏4代となる房基と、側室である大内義隆の姉との間に生まれた晴持がいた。
 晴持は後に姉の実家である山口の大内義隆の養嗣子となり、月山富田城攻めに大内軍として参陣するも敗死することになる。
【写真左】大内神社
 所在地 島根県安来市揖屋町
 大内晴持を祀ったもので、天文11年(1542)、大内義隆が月山富田城攻めで大敗し、中海に停泊していた船で敗走すべく乗ろうとしたら、大勢の敗兵が乗ったため船は沈没し溺死した。享年20歳。
 その直後、地元の綱元であった吉儀惣右衛門が介護したものの亡くなり、密かに御霊を祀ったのがこの神社である。


房基から兼定へ

 房家が亡くなってから跡を継いだ房冬もわずか2年で亡くなったこともあり、このころ一条家は不安定な状況だったと思われるが、跡を継いだのが房基である。
 天文10年(1541)に家督を継いだ房基は一条家を強固なものにすべく奮闘した。このころ東隣となる高岡郡内のほとんどを支配していた豪族・津野氏との戦いが多くみられる。その房基も、家督を継いでわずか8年で死去(自害)し、その跡を継いだのが最後の当主となる兼定である。
【写真左】山之神社
 旧二の丸に向かう途中の左手にあるもので、この辺りでは最高所となる位置と思われる。
 現地には最高所に水道タンクが設置され、その少し下には「山之神社」と記された祠が祀られている。
 タンク周辺部はさほど広くはないものの、この場所が主郭ではなかったかと思われる。

兼定の苦悩

 父房基が自害した理由は諸説あるが、28歳という若さで亡くなったことから、嫡男兼定はこのときわずか7歳である。当然ながら後見人が必要で、その任に当たったのが、房冬の弟・一条房通である。

 永禄元年(1558)、すなわち兼定15歳のとき、宇都宮豊綱の娘を娶る。宇都宮豊綱は、伊予の大洲城主で、この婚儀は文字通り同盟を目的としたものだったが、6年後の永禄7年離別し、豊後の大友義鎮、すなわち宗麟(大友宗麟墓地参照)の長女を娶り大友氏との盟約を結んだ。
【写真左】二の丸・その1
 資料館が建っている箇所で、土塁などの遺構が残る(下の写真参照)。
【写真左】二の丸・その2
 高さ1.5~2mの土塁が残る。


 兼定は永禄11年(1568)、宇都宮豊綱を支援し伊予に入ったが、安芸の毛利氏の援助を受けた河野氏と戦い大敗。さらに追い打ちをかけたのが、土佐で急激に台頭してきた長宗我部元親の猛攻である。

 元親は土佐全土に版図を拡大すべく西進してきた。これに対し、兼定は妹婿であった土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の城主・国虎と呼応し、元親を挟み撃ちにする計画だったが、永禄12年(1569)国虎が元親に敗れ、兼定はさらに劣勢に陥った。
【写真左】土塁
 土塁の天端から見たもので、半円状の形で囲繞している。

豊後大友氏に奔る

 こうしたこともあって、このころから、筆頭家老・土居宗珊を無実の罪で殺害するなど、次第に領主としてのまともな判断ができなくなり、家臣たちから非難を浴び、天正元年(1573)9月、ついに強制的に隠居を余儀なくされた。

 翌2年2月にはついに追放され、豊後・臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)に逃れ大友氏を頼ることになる。一旦豊後に渡った兼定であったが、それでも中村の地に固執するものがあったのだろう、伊予高森城の城主・梶谷景則の下に行き、土佐奪還のため兵を募っている。
 因みに、豊後大友氏の庇護にあったことから、彼もまたこのときキリスト教に入信、ドン・パウロの洗礼名を受けている。
【写真左】四万十市郷土博物館
 二の丸の一角には冒頭で紹介した天守風の建物が建つ。名称は四万十市郷土博物館。
 管理人が訪れたときは閉館中で入っていないが、現在は開館しているようだ。

兼定の最期

 天正3年(1575)7月、大友氏の支援を受け豊後水道を渡海し、土佐に入った。しかし、四万十川の戦いで大敗、以後一条氏の復活は潰えてしまう。土佐一条氏の滅亡である。兼定はその後戸島(愛媛県宇和島市)に隠棲、天正13年(1585)7月同島で死去した。享年42歳。
【写真左】空堀か
 土塁の外側に見えたもので、整備されていないため断定できないが、空堀のようにも見える。




次稿に続く
 次稿では一条氏滅亡後の動きと、中村城(為松城)周辺の遺構などを紹介したい。

2017年1月11日水曜日

吉良城(高知県高知市春野町大谷)

吉良城(きらじょう)

●所在地 高知県高知市春野町大谷
●指定 高知市指定史跡
●別名 弘岡城
●高さ 116m(比高110m)
●築城期 不明
●築城者 不明(吉良氏か)
●城主 吉良氏、本山氏、吉良(長宗我部)親貞
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●登城日 2015年5月6日

◆解説(参考文献 『吉良城跡発掘調査 概要報告』昭和59年度 春野町教育委員会編、『春野 歴史の百景』宅間一之著等)
 土佐・吉良城は、土佐・朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)でも述べたように、高知市の春野町にあって、朝倉城から南西方向におよそ4.5kmの位置に当たる。
【写真左】吉良城遠望
 吉良城の西側にある大谷という地区から撮ったもので、吉良城からさらに尾根伝いに北に進むと、東西に伸びる吉良ヶ峰(最高所H:249.5m)に繋がる。



現地の説明板より

“春野町史跡 吉良城跡

 土佐戦国の世、吉良氏は三千貫を領した「土佐の七守護」の一人でした。しかし、1500年頃から吾南をめぐる戦国の風雲は激しくなり、1540(天文9)年頃にはすでに北からの本山氏に滅ぼされています。しかし、その本山氏も1563(永禄6)年には長宗我部元親の軍勢に追われます。城の支配は、吉良、本山、そして長宗我部氏と変わっていきます。
【写真左】登り口付近
 大谷集落の東側に進むと、柿の木畑のようなところがあり、そこに案内板が設置されているので、ここから入っていく。




 城跡は、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心とする北曲輪群と、111.5mの南ノ段(南嶺)を中心とする南曲輪群にわかれます。厳しい切崖に囲まれた詰からは、掘立柱建物跡や、周縁部に柵列も発掘されています。南北両曲輪の周辺には多くの曲輪群や、何条もの雄大な堀切群、それに畝状竪堀や竪堀群の遺構がそのままに中世城郭の姿を伝えています。
 山下にはニノ構や三ノ構などの地名を残す土居跡や、家臣団の邸跡、寺院跡もある数少ない貴重な中世の史跡です。
      春野町教育委員会”
【写真左】ここから尾根に取り付く
 途中まで谷間を進み、右手に近道の案内標識もあるが、かなり急峻なので、少し谷間をあがったところに「吉良城↗」の標識がある地点から登る。




春野

 吉良城が所在する春野町は、2008年に現在の高知市と合併する前までは、吾川郡内の弘岡上ノ村・弘岡中ノ村・弘岡下ノ村・仁西村・森山村・西分村・平和村が合併してできた同郡春野村が前身である。

 天平勝宝7年(755)、土佐国吾川郡桑原郷野夜恵が調として絁(あしぎぬ:古代日本にあった絹織物の一種)を献上したとき、国史上初めて吾川郡の名が記録されている。
 当時、吾川郡の大野郷が東大寺の封戸(ふこ)で、この地が出す租の半分と調(ちょう)、庸(よう)の全部を東大寺に支給する義務を負っていた。東大寺の大仏造立開始が天平19年(747)といわれ、大仏鋳造終了後、大仏殿の建設が竣工したのはそれから11年後の天平宝字2年(758)であるので、まさに東大寺建設中に貢がれた記録である。
【写真左】「チリいれ」と書かれたドラム缶
 尾根にたどり着くと、いきなり青いドラム缶が目に入った。

“すみよい町づくりは あなたの手から  チリいれ  寄贈 歴史公園建設期成同盟会 1977、2,13”

 と記されている。凡そ40年前の昭和52年に設置されたということになる。このドラム缶を見ると、当時の地元住民の思いが伝わってくる。


吉良氏

 吉良氏については、以前紹介した源希義墓所(高知県高知市介良)でも述べたように、源頼朝の実弟希義の末裔といわれ、希義の子・希望が父亡き後、介良から西へ15キロほど向かった仁淀川東岸の春野弘岡の地で基盤を固めたとされる。なお、希義が拠った介良(けら)は、元々「気良(きら)」といい、これが転じて吉良氏を称したのに始まる。
【写真左】尾根を直登
 「チリ入れ ドラム缶」から上を見上げると、ほぼ直線の尾根が見える。ここを直登する。






 ところで、以前紹介した大津・天竺城(高知県高知市大津)の中で、
 「土佐の天竺・吉良(介良)、三河の天竹(天竺)・吉良とほぼ同じ地名が隣接して所在していることになる。これは単なる偶然ではないだろう。明らかに両国当該地との密接な関連があったものと考えられるが、残念ながら詳細は分からない。」 と記していた。

 その後調べてみると、凡そつぎのような経緯であったことが分かった。
 すなわち、建久5年(1194)、希義の遺児・希望が、希義の旧友夜須行宗(七郎)に伴われて、鎌倉幕府将軍頼朝に拝謁した。これにより、頼朝は最終的に希望が甥(希義の子)であることを認め、土佐国吾川郡に数千貫を与え、さらに三河国吉良荘(現:愛知県西尾市)に馬の飼場三百余貫を下賜したという。このことから、土佐と三河両国に同名の地名「吉良」が残ったものと思われる。
【写真左】小郭段
 単調な尾根を登っていくと、やがて小郭で構成された段が出てくる。
 下段でも述べているように、この位置が南郭群の最初の箇所で、この位置に3段の郭が構成されている。



 さて、戦国期における吉良氏の動向は、土佐・朝倉城の稿でも述べているが、土佐・七雄の一人に数えられ、特に吉良宣経は文武両道の善政を施す名君と讃えられた。

 しかし、その子宣直の代となる天正9年(1581)、北から進出してきた本山氏(本山城(高知県長岡郡本山町本山)参照)の攻略によって滅ぶことになる。吉良氏を滅ぼした本山氏ではあったが、そのあとすぐに長宗我部氏の軍門に降り、本山氏も倒された。長宗我部元親はその後、実弟の親貞を養子として吉良城に入れ、宣直の女を妻として、吉良親貞と名乗らせた。
【写真左】尾根分岐点
 登城口から登ってきた道は西側に伸びる尾根だが、この位置で、東へ50m程伸びる尾根と、北曲輪群へ向かう尾根とに分かれる。
【写真左】犬走り
 登ってきた尾根の分岐点北側斜面を見ると、犬走りが確認できる。どのあたりから始まっているのか分からないが、おそらく下段の小郭が設置された箇所あたりだろう。

 このあと、先ず南東に伸びる郭群に向かう。



遺構

 吉良城の発掘調査は、昭和35年に当時の春野町時代に町の史跡として指定され、その後昭和59年から5カ年計画で国・県の補助を受けて学術調査などが行われている。しかし、その後復元整備等も含めた保存整備構想も設定されたが、具体化に至らないまま今日に及んでいるという。
【写真左】東の尾根
 南郭群の東に伸びる箇所で、尾根幅は大分狭まり、写真の左側斜面は絶壁に近い切崖である。






 残念ながら昭和59年度に春野町教育委員会によって作成された『吉良城跡発掘調査 概要報告』書でも、縄張図が作成されていないため、詳細な遺構は詳らかでないが、説明板にもあるように、概要として、標高111.2mの詰ノ城(北嶺)を中心とする北曲輪群と、111.5mの南ノ段(南嶺)を中心とする南曲輪群に分けられる。

 南曲輪群に向かう西方斜面には5条の竪堀があり、そのうちの一つが現在の登城道となっている。そこから更に上に向かって3段ほどの曲輪が続き、南曲輪群の南端部から城下となる春野の集落が俯瞰できる。
【写真左】巨大な穴
 少し進むと突然巨大な穴に遭遇。一瞬井戸跡かと思ったが、この場所では山の構造上水脈はないと思われるので、狼煙台か、又は近年掘られた塵溜め用のものかもしれない。




 北曲輪群へ向かう尾根の途中には、当城の最大の見どころである大堀切が仕切られ、南郭群からの侵入を断ち切る。

 詰の曲輪は北曲輪群の方に設定され、東西20m×南北40m規模の楕円形のものとなっている。

 また特筆されることは、この北曲輪群の主郭付近までは、標高が111m(又は116m)という低い山城でありながら、尾根上に構築された郭群の縁周囲は、極めて急峻な切崖で構成されていることである。そして、吉良城の北方に聳える吉良ヶ峰から伸びてきた尾根筋上にもかなり大きな竪堀や堀切があり、北からの攻めにも対応している。
【写真左】南東端部
 先端部に小さな祠が祀られている。この辺りになると尾根幅は大分狭く、3~4m程度となっている。
【写真左】春野の田園と仁淀川を見る
 この東端部から南方を俯瞰すると、春野の田園が広がり、その奥には蛇行した仁淀川が見て取れる。

 因みに仁淀川対岸は土佐市になるが、以前取り上げた土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)は、吉良城から徒歩で6キロ余りと予想以上に近い位置になる。
【写真左】井戸跡か
 先ほどの位置から再び戻り、北曲輪群に向かう。軸線が北に変わる地点で尾根は人為的に削られたように4~5m位低くなり、その始点ではご覧の様な大きな窪みがある。先述した「巨大な穴」とは違い、井戸跡らしき遺構である。
【写真左】堀切・その1
 吉良城の見どころの一つ、巨大な堀切である。

 この写真でも分かるように、尾根幅も丁度狭まった位置で設置されている。
【写真左】堀切・その2
 下から見たもので、高さは7m以上あるだろう。竹を使った橋が設置されているが、大分年数が経っていたため、渡るのを躊躇したが、なんとか未だ使えた。
【写真左】本丸の東側
 堀切を抜けさらに北の尾根を進むと、やがて東面に石垣が見える。本丸である。

 吉良城に残る石垣や石積遺構は主としてこの本丸を囲繞する箇所に多く残っており、このほかにも小規模ながら点在しているが、この石垣はその中でも特に顕著なもの。
【写真左】本丸の土壇
 前述したように、本丸(北曲輪群・詰曲輪)は東西20m×南北40m規模の楕円形をなし、南側にはこの土壇が設置されている。長さは尾根幅の制約もあって短いが、土塁の機能を有している。
【写真左】土壇から本丸を見る
  発掘調査された跡のためか、予想以上に整理されている。

 参考までに、本丸付近で以前行われた調査で出土した遺物としては概ね次のようなものが報告されている。

土師質土器  402
青磁        9
白磁          31
染付          40
備前          6
瀬戸天目         1
  計     489(量・片)
【写真左】北側から本丸を見る
 平滑に仕上がっている。
 このあと、右(東)側に犬走りが見えたので、そこに向かう。
【写真左】本丸北の郭
 犬走りを降りて北に向かうと、本丸を取り囲むように郭がある。
 大分竹が繁茂しているため奥の方までは向かっていないが、規模はかなりあるようだ。
【写真左】西側から本丸を見上げる。
 このあと、この西側付近から更に西を見ると、別の箇所に3条の堀切が見えたので、そちらに向かう。
【写真左】一条目の堀切
 下山してから分かったのだが、この尾根が北の吉良ヶ峰から伸びてきたもので、この箇所に3条の堀切を設けている。
【写真左】二条目の堀切
【写真左】三条目の堀切
 3か所の堀切とも良好に残っている。

 このあと下山し、登城口まで戻り、屋敷跡・菩提寺跡といわれるところに向かう。
【写真左】屋敷跡付近
 吉良城の西麓全体に屋敷や菩提寺など吉良氏関係の建物があったとされているが、現在は畑や民家などが点在し、当時の面影は消えている。



その他の城砦

 春野町には吉良城以外に残る城砦としては次のものがある。

  1. 芳原城 … 虎口をはじめ掘立柱跡。出土品として、銅碗・硯・土師質土器・備前瀬戸物・白磁・赤絵の碗・下駄・ヒシャク並びに明応2年(1493)記銘の札(護符)等。
  2. 木塚城 … 城主木塚左衛門(伝承)、堀切・竪堀など、南北朝期の山城
  3. 西の城 … 吉良城の西方谷を挟んだ位置にあり、弘岡上城八幡を祀る。標高50m
  4. 森山城と森山南城 … JAはるの森山支所の裏山が森山城。土豪森山氏居城、のちに吉良氏となり、その後一条氏、弘治3年に本山氏、永禄3年には長宗我部氏の居城となる。森山南城は別名「シロトコ」と呼ばれ、直径20mの詰を持ち、二ノ段及び大規模な堀切あり。
  5. その他