2021年12月28日火曜日

生野城(兵庫県朝来市生野町口銀谷字古城山)

 生野城(いくのじょう)

●所在地 兵庫県朝来市生野町口銀谷字古城山
●別名 生野古城、古城山、御主殿
●高さ 601m(比高290m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 山名時熈
●城主 山名氏、太田垣朝延等
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年5月4日

◆解説
 兵庫県のほぼ中央部を南北に走るのが、古代から使われてきた但馬街道(但馬道)である。播磨灘に注ぐ市川河口の飾磨(しかま)から市川沿いに北上し、神崎郡を抜け、生野峠を越えて但馬に入り、和田山から八鹿までは部分的に山陰道と重なるが、八鹿から北上し城崎に至る。この部分は豊岡街道とも呼ばれた。城崎に至ると円山川河口となり、ここから日本海に繋がる。
 生野城はこの但馬街道沿いにある生野の街並みから北東に聳える御立山に築かれた城郭である。
【写真左】生野城
 登城途中の別郭付近から生野の街並みを俯瞰する。








現地の説明板より その1
    
”生野城古城山
 この後の山は、御立山(みたてやま)といいます。応永34年(1427)播磨の守護職であった赤松満祐が将軍足利義持に反抗して兵を挙げた際、将軍は、その討伐を但馬の守護職である山名時熈(ときひろ)に命じました。
 時熈は兵を率いて生野に来て、この御立山の山頂に城を築き、満祐討伐に備えました。
 その後、満祐が将軍に謝罪し、赦されて討伐は行われず、時熈は兵を収めて出石に帰りました。
 山頂にはその当時の城址があり、これを「生野古城」山「古城山(こじょうさん)」又は「御主殿(ごしゅでん)」と呼んでおります。
    平成4年3月
                    生野町教育委員会”
【写真左】生野城遠望
 生野の町から遠望した写真で、右の谷を行くと市川本流と並走する国道429号線に繋がり、青垣峠を越えて丹波に繋がる。
 左側が但馬街道(国道312号線)になる。


山名時熈(ときひろ)

 生野城は応永34年(1427)、山名時熈が築城したといわれる。このころの室町幕府将軍は、足利義満の子・第4代足利義持である。赤松満祐については置塩城の稿でも紹介しているように、時熈が生野城を築いてから14年後の嘉吉元年(1441)、満祐は6代将軍・義教を謀殺している(「嘉吉の変」)。
【左図】生野城縄張図
 現地に設置されていたものだが、だいぶ劣化し不鮮明になっていたので管理人によって修正を加えている。

 主だった遺構としては、東側に主郭を置き、西方にニの郭(曲輪)、三の郭を並列させ、南側の東西にそれぞれ別郭と主郭規模の郭を置いている。また、北側にはそれぞれ東西に延びる尾根筋に犬走を介して細長い郭が数段設けられている。


 時熈の祖父は山名時氏(山名寺・山名時氏の墓参照)である。
 時氏の代に幕府の侍所頭人となってから以来、伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後・美作・紀伊・和泉・備後など多くの守護職を獲得、隆盛を極めた。

 時氏の子には師義、義理、氏冬、氏清、義継、時義、時治など12人前後いたが、このうち美作・伯耆・但馬国などの守護職を受け継いだのが時義の子時熈である。
 そして、時熈の子として最も有名なのが、後の応仁の乱において西軍を率いることになる山名持豊、すなわち山名宗全である。
【写真左】登城口付近
 登城口は生野城の南西麓にある琵琶の丸公園駐車場側にある。琵琶の丸は下段で紹介している最初の郭だが、この付近も生野城時代の平時の住まいなどがあった場所と思われる。
 なお、この近くに公園造成中に発見されたという間歩(坑道入口)がある。


生野銀山

 生野銀山の歴史をたどると、大同2年(807)に銀が出たとされている。大同2年ごろといえば、ちょうど奈良時代から平安時代に移行する時期で、宗教の世界では唐から帰朝した最澄が天台宗を、また空海が真言宗をそれぞれ広めていく時期と重なる。おそらく、生野銀山で銀が出たというのも、こうした平安仏教(天台宗と真言宗)による需要(仏像・仏具・建物など)が起因しているのかもしれない。
【写真左】琵琶の丸
 上段で示した縄張図には登城道の一部のような描き方がしてあるが、郭としては十分な広さを持っている。
 奥には本丸が見える。


 生野銀山が本格的に鉱山として稼働し始めたのは、戦国期の天文11年(1542)からで、城山の南表で掘り出されたという。

 因みにこれより遡る記録では、石見銀山(矢滝城(島根県大田市温泉津町湯里)参照)が採掘されたのが大永6年(1526)で、博多の豪商・神谷寿貞が出雲の銅山師・三島清右衛門の協力を得て銀を博多に持ち帰っている。後に、石見銀山は大内・尼子・毛利の三氏によって激しい争奪戦が繰り広げられる。

 さて、生野銀山を最初に支配したのは、当時の但馬守護山名祐豊(此隅山城参照)で、鉱山操業と併せて、生野城の大規模な改修も始めている。
【写真左】間歩か
 登城途中に見えたもので、井戸跡にも見えるが、横穴形態なので間歩だったのかもしれない。




生野城

 山名祐豊が当城の城主にあったのは、天文11年から弘治2年(1556)までの14年間で、その後但馬の竹田城・太田垣朝延が祐豊から銀山の領有権を奪取、生野城主として新たに入城した。因みに、竹田城から生野城までは、但馬街道を使っておよそ20キロ余りの距離になる。
【写真左】但馬竹田城
南東の立雲狭から遠望したもの。
撮影日 2019年4月5日








 太田垣朝延は竹田城の第5代城主だが、元々太田垣氏は山名氏の家臣で、山名四天王の一人であったが、途中から他の但馬衆らとともに山名氏から離れていった。
【写真左】視界が開けてきた。
 途中で小さな郭などがあるが、この辺りでやっと視界が開け明るくなる。





 その後羽柴秀吉が織田信長の命により但馬に侵攻、生野城の守備をしていた太田垣方は抗戦を諦め、本城の竹田城に退散した。しかし、竹田城での防戦もむなしく、太田垣朝延は秀吉の軍門に降り、竹田城も落城した。

 この結果生野城は廃城となったが、秀吉は生野銀山を直轄地として代官を置き、鉱山経営に当たらせた。その後関ヶ原の戦い後、徳川幕府が生野を天領として支配、以後260年にわたって生野銀山は幕府の重要な財源となった。
写真左】切岸と三の郭・ニの郭
 右側の登城道を進んでいくと、次第に左側の切岸が険しくなってくる。
 この辺りですでに最南端の「別郭」「三の郭」の横を通過しているはずだが、切岸のために直接向かうことはできない。この写真では「三の郭」から「二の郭」辺りとなる。


遺構
 生野城の遺構の概要については、上述した縄張図、及び下記の現地の説面板で紹介しておきたい。

現地の説明板より、その2

遺構について
 応永34年(1427)但馬の守護職・山名時熈(宗全の父)は、四代将軍・足利義持の命により、幕府の守護職・赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城であります。
【写真左】三の郭
 険しい切岸の側面に設けらた道を登ると三の郭にたどり着く。


 標高601mの山頂には、36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模なニの曲輪、三の曲輪がつづき、尾根の要所には、多数の別郭や堀切を構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見ることができます。

 570年余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や、堀切がよく残り、戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。また、城跡からの眺めはすばらしく、南の方向には、赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、攻撃に備えての万全の構えを示していたことがよくわかります。”
【写真左】三の郭西端部
 丁寧な普請だ。
【写真左】三の郭から下方に別郭を見る。
 三の郭から切岸を介して下方に別郭が突き出している。
【写真左】ニの郭の石積
 三の郭側からニの郭を見ると、側面に石積跡が残る。
【写真左】ニの郭
 西端部を北側から見たもの。
【写真左】ニの郭から三の郭及び別郭を見る。
 二の郭から一番下の別郭までの比高は50m前後はあるだろう。
【写真左】ニの郭から主郭(本丸)を見る。
 奥に主郭が見えているが、主郭との比高差は5m前後はあるだろう。
【写真左】ニの郭
 南端部付近で、この下には中規模の郭があるが、かなりの距離を降りて行かなければならないので、踏査していない。

 配置構造からいえば腰郭ともいえるが、あまりにも距離が離れているので、南東部方面を防御する単独の郭だったと思われる。
 写真の奥に見えるのは生野の街並み。
【写真左】主郭を見上げる。


【写真左】主郭(本丸)
【写真左】主郭にある岩
 主郭には御覧のような大きな石が残る。
【写真左】主郭の奥
主郭の北側から切岸を設けて尾根が続くがこの下にも郭があるのでそちらに向かう。
【写真左】大岩
 主郭北端部に見えたもので、さきほどの単独に残った大岩と同じものだろう。築城期にはもともとこの主郭付近はこうした岩塊が多くあったのかもしれない。
【写真左】北の郭に降りて行く。
 左側の切岸の下にも郭が見える。
【写真左】北の郭の土塁
 縄張図を見ても分かるように、幅及び奥行もかなりあり、普請も丁寧だ。
【写真左】北の郭の北端側切岸
 この切岸も見事なもので、この下から西側にかけて、さらに二段にわたって郭群があるというから相当この方角(北東方向)には留意していたことが分かる。
【写真左】北の郭とニの郭の犬走から下の郭を見る。
 時間があまりなかったため踏査していないが、下の郭には井戸、櫓台、門跡、さらに一段下がった位置には最北端の郭がある。
 この位置では植林などもあって確認できない。
 このあと、最初にみえた別郭へ向かう。
【写真左】別郭
 この郭は下から直接向かうことができないため、三の郭からすべるように降りて行く。
【写真左】別郭先端部から生野の町を俯瞰する。
 左奥に向かうと姫路方面、右に向かうと但馬竹田城に繋がる。

2021年12月9日木曜日

十膳山城(島根県出雲市野郷町~松江市大野町空山)

 十膳山城(じゅうぜんやまじょう)

●所在地 島根県出雲市野郷町~松江市大野町空山
●高さ 193.5m(比高40m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(宮倉氏か)
●城主 宮倉氏(大野氏一族)
●遺構 郭等
●登城日 2017年4月15日

◆ 解説(参考資料 『日本城郭体系第14巻』、『宍道町ふるさと文庫16』等)

 十膳山城は以前取り上げた本宮山城(島根県松江市上大野町)から西に直線距離で2.6キロほど向かった十膳山に築かれた城郭である。
【写真左】十膳山城遠望
 東方にある大野氏居城・本宮山城から下山途中の道から見たもの。
 主郭は南北に軸をとった独立峰である。左側が宍道湖方面になる。
 撮影日 2021年12月6日


現地の説明板より

”十膳山 標高193.6m
 出雲市と松江市の境界に位置。3等三角点がある。
出雲風土記に都勢野とあり辺りに沢がありおしどりが住んでいたと記されています。
戦国時代には、大野氏の一族宮倉氏の居城があったと伝わっています。
近年、伊野地区の方により整備され、休憩施設もあり、桜祭りが開催されたり季節の花が訪れる人々を和ませてくれる。”
【写真左】登城道・その1
 登り始めて振り返って見たものだが、ちょうどこの付近に1本の見事な桜が咲いており、その下で地元の老人会の皆さんが花見をしておられた。
 駐車場はこの桜のある広場に設置されている。


宮倉氏と大野氏

 本宮山城の稿でも紹介したように、現在の松江市大野町地域は大野氏が治めていたところで、十膳山城は現在の松江市と出雲市(旧平田市)との境に所在し、本宮山城の西の守りとして築かれたものと思われる。
 城主は大野氏の一族宮倉氏とされ、宮倉八郎五郎の居城と記されている。

 宮倉氏の主君大野氏については、本宮山城の稿ですでに紹介しているが、同氏本姓は紀氏といわれる。紀季康の孫季清のとき、源頼朝より大野庄地頭職に補任されて以来、大野庄に土着し、本宮山城を築き、館は坂本山(土居城(大野氏居館)跡(島根県松江市大野町)参照)に構えて大野氏と称した。
【写真左】登城途中、西方を見る。
 十膳山城の西側から登って行く道なので、東側は見えないが、西方の眺めは確保できる。西麓の野郷町の景色と奥には地元では北山といっている山がかすかに見える、この山には古刹鰐淵寺がある。


 頼朝から補任されている点から考えると、具体的な時期は建久年間(1190~98)の頃と思われる。
 大野氏の重臣として知られるのは、大垣亀畑山城主であった大垣八郎左衛門秀清だが、本稿の十膳山城主宮倉氏も大野氏を支えた一族である。

 因みに、大垣氏は本宮山城の東隣大垣町の地名から名乗った武将と思われるが、宮倉氏については、そもそも出雲国に宮倉という地名がないため、地元の国人領主ではなく、他国から入国した可能性が高い。そこで全く確証はないのだが、元々大野氏が紀氏を名乗っていた時代、出雲国東部および伯耆国にも触手を伸ばしていた時期があり、そのとき伯耆国から移ってきた可能性もある。現在でも宮倉姓が多いのは伯耆国(鳥取県)である。

 さて、十膳山城への登城コースとしては、西側(出雲市側)から向かうものと、東側(松江市側)から向かう二つのものがある。松江市側から向かうと、途中で宮倉氏が勧請したといわれる稲荷神社がある。これは宮倉氏の末裔奥原氏が奉斎したもので、元は別の所にあったようだが、現在地に移転している(下の写真参照)。
【写真左】正一位稲荷神社
 十膳山城の東側中腹にある社で、十膳山城主宮倉氏が勧請したもの。
 宮倉氏の末裔奥原氏が奉斎し現在地に移転し、その由緒を認められて明和8年(1771)神祇官より正一位の位階を贈られた。
 現在も奥原氏をはじめとする殿山地区の氏神として崇敬されている。
撮影日 2009年3月28日

【写真左】九十九折れ途中のターンする箇所。
 十膳山城の主郭は南北に軸をとる尾根の南端部に配置されているが、主郭となる頂部と、さらに尾根の北にも頂部がある。
 遺跡データではこの北側頂部に関する記録は残っていないが、北側にも物見櫓的なものがあった可能性が高い。


遺構

 十膳山城は写真でも分かるように、現在本丸跡とされる場所にはビニールハウスが建てられ、地元の方々がこの中でくつろげるようになっている。まわりにはきれいな花が植えられ、天気が良い日には宍道湖が眺望できる。

 このためか、島根県遺跡データベースでは「明確な遺構なし」となっている。たしかに明確な遺構は見受けられないが、当城本丸から眺望できる視界はきわめて広く、物見櫓などがあった可能性は高い。
【写真左】最後のターンを過ぎると、奥に本丸が控えている。
 今回利用した登城道は、地元のご年配の人が重機で整備されたとのこと。軽トラックならこのまま本丸まで行けそうだ。


 東南麓に「殿山」という地名があるが、おそらく平時はこの地区に住まいを持ち、有事の際本丸に上がるという体制をとっていたのだろう。
 また、西側から少し降りた中腹の野郷町(出雲市側)の畑の一角には土塁のような遺構が残っていることから、この付近にも何らかの手が加わっていた可能性が高い(下段の写真参照)。
【写真左】本丸にたどり着く。
 ごらんのハウスが見えた。
【写真左】説明板
 一角には冒頭で紹介した説明板が掲示されている。
【写真左】入口付近
 右側が登ってきた道で、左側に本丸。
【写真左】本丸に建つビニールハウス
 休憩小屋として建てられたようで、
ハウス ご自由にお使いください」と書かれたものや、
認定 地域が誇る観光スポット 十膳山山頂及び山頂からの風景 2016、3,14
出雲市
と記されたものも掲示してある。
 ハウスの中は敷物があり、座布団まで用意してある。
【写真左】本丸南側
 ハウスから南側を眺める。
【写真左】南側から本丸を見る。
 休憩小屋や桜の木、チューリップなどが植えられているため当時の状況は分からないが、現状は東西幅はおよそ5m、奥行は30m弱程度の規模である。
 おそらく築城当時は東西幅は狭かったかもしれない。
【写真左】三角点
 ビニールハウスの一角に設置されている。
【写真左】本宮山城遠望
 東に目を向けると、大野氏居城の本宮山城が見える。
【写真左】本丸から南に宍道湖を見る。
【写真左】本丸から高瀬城を遠望する。
 本宮山城から斐川の高瀬城までは直線距離で15キロ前後となる。





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【写真左】本丸から丸倉山城、大平山城を遠望する。
 なお、宍道湖対岸の宍道町西来待には「伝大野次郎左衛門墓」という大きな五輪塔がある(下の写真参照)。
【写真左】伝 大野次郎左衛門墓
 所在地 松江市宍道町西来待
 高さ2.9mの大型石塔。地元から産出される来待石で造られたもので、同石で造られたものとしては広瀬町にある堀尾吉晴墓に次ぐ大きさ。なお、この地域は大野原という地名である。
撮影日 2021年12月10日


 伝承では左衛門は本宮山城主であったといわれ、大野氏がもっとも活躍した南北朝期から室町期にかけて、この西来待(大野原)付近も同氏が治めていたといわれる。

◎関連投稿
【写真左】土塁?
 下山途中に見えたもので、右側が旧畑地で、左側には堤が控えている。

 わざわざここで盛土する必要がないような地形なので、場合によっては屋敷跡とも考えられる。
【写真左】旧畑地側から見る。
 高さは2m近くあるだろう。

2021年12月3日金曜日

備前・太鼓丸城(岡山県和気郡和気町田土 天神山)

 備前・太鼓丸城(びぜん・たいこまるじょう)

●所在地 岡山県和気郡和気町田土 天神山
●別名 天神山城
●高さ 409m(比高360m)
●築城期 享徳5年(1532)
●築城者 日笠氏、浦上宗景
●城主 浦上宗景
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2017年4月16日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 前稿の備前・日笠青山城(岡山県和気郡和気町日笠上)でも少し触れているが、浦上氏の居城であった天神山城(岡山県和気郡和気町田土)が築かれる際、最初に築いたのが太鼓丸城である。
【写真左】太鼓丸城
 太鼓の丸と記された郭。










現地の説明板より

❝太鼓の丸城(旧天神山城)
 室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享禄4年天神山出陣の足掛かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋があり、搦手門となる。❞
【写真上】天神山(太鼓丸城跡)~和気美しい森 案内図
 現地に設置されているもので、右側に「和気美しい森」公園があり、そこから西に向かって太鼓丸に向かう道が描かれている。



浦上宗景、室津から太鼓丸城(天神山城)へ移る。

 太鼓丸城及び天神山城の城主は浦上宗景である。彼については既に三石城(岡山県備前市三石)の稿でも述べているが、宗景の父村宗が播磨中津川で討死したあと、宗景は兄・政宗と対立、播磨室津城から大田原・日笠・延原ら六名の部将を引き連れ、備前国天神山へ移った。

 天神山城を宗景の居城として勧めたのが、日笠青山城の城主日笠頼房である。最初に築いたのが本稿の太鼓丸城であるが、説明板にもあるように、元々日笠氏が出城もしくは砦形態のものとしてすでに築いていたとされている。
【写真左】和気美しい森公園
 天神山東部60㌶を整備し森林公園として岡山県が造ったもので、平成13年にオープン。
 写真は同公園入口。


 上図の案内図に主だった遺構が描かれているが、天神山城のもう一つの登城口となる南東側の「和気美しい森」公園から進むと、太鼓丸城まではおよそ500mほどになる。

 公園として整備されたため、元の地形がどの程度のものだったか分からないが、この区域も日笠氏時代にある程度城砦遺構があったのではないかと推測される。
【写真左】溜池
 太鼓丸城へ向かう途中、公園内にあったもので、小さな溜池があった。説明板などはなかったが公園になる前から存在していたような池である。あるいは井戸だったかもしれない。


宗景と政宗の対峙

 浦上宗景が太鼓丸城へ移ったのは、享禄4年(1531)である。翌天文元年(1532)、宗景の兄・政宗は富田松山城(岡山県備前市東片上)参照)に布陣し、弟宗景を討つべく動き出した。これに対し、宗景は太鼓丸城から南下し、富田松山城の北麓片上の葛坂に出陣した。

 片上の葛坂とは、現在のJR赤穂線の西片上駅と伊部駅の間にあって、当時の西国街道葛坂峠付近である。富田松山城からは直線距離で西へ1.5キロほど向かった位置になる。
 この時の合戦は理由は不明だが、途中で両者は軍を引き上げたため勝敗はつかなかった。
【写真左】根小屋
 公園の脇を抜けるとすぐに左手に根小屋の標識がある。
 雑木などに覆われているがかなりの広さで、家臣団などの屋敷があったところと思われる。


新たな天神山城の築城開始

 兄政宗との戦った翌年(天文2年)、宗景は太鼓丸城から北に延びる尾根伝いに新たな城を築き始めた(第一期工事)。おそらく太鼓丸城のままでは防衛戦略的に弱いと判断したのだろう。

 その後、天文8年にはさらに桜の馬場・西南端に鍛冶場・北に大手門・百貫井戸・長屋(倉庫)・腰曲輪を配し西方の中心部とした(第二期工事)。 
 そして最後の仕上げとなるのが第三期工事で、天文12年(1543)から開始し、三の丸・西櫓台・下の段を設け西方防備の郭とする。この年、宇喜多直家は初陣を果たしている。
【写真左】土塁
 冒頭の案内図に表記されている土塁だが、案内図そのものの絵図を見ると、郭の姿が描かれ、それを土塁と表示している。
 実際写真で見る限り、土塁の痕跡はあまり見られず、郭と比定した方がよいように思われる。


天神山城落城

 天神山城が落城する直接的要因は、家臣であった宇喜多直家(新庄山城(岡山県岡山市竹原)参照)の離反からであるが、大局的にみれば、東方から侵攻してきた織田信長と、中国の覇者毛利氏との板挟みによって生じた結果ともいえる。

 天正5年(1577)、4月12日、最初に日笠青山城が落城。5月には宗景の嫡男・浦上与次郎宗辰が直家により毒殺される。そして、8月10日天神山城は落城した。
 宗景が築いた天神山城は、初期の日笠氏時代もあったものの、ほぼ宗景一代の居城として46年の歴史に幕を閉じたことなる。
【写真左】堀切
 太鼓丸までの登城道は割と平坦に続くが、途中で堀切が出てくる。
 だいぶ埋まっているため浅いが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】次の堀切
 さきほどの堀切を抜けると、周囲には削平された平坦地が現れだす。
 整備されていないので規模は明確でないが、このあたりからまとまった郭が見え始める。
【写真左】三角点
 三角点は必ずしも最高所を示すものではないが、この位置がおそらく天神山の頂部(H:409m)となり、上掲した絵図の「本丸跡」になると思われる。
 絵図ではここから犬走を介して西にも出丸が描かれているので、そちらに向かう。
【写真左】出丸の礎石
 出丸は本丸からかなり離れた位置にあり、より吉井川沿いに配置されている。
 下段の鳥瞰図にもあるように、出丸にも建屋が描かれているので、写真はその礎石と思われる。
 このあと再び元の道に戻る。

 
 
【写真左】石門
 太鼓丸城の本丸とその先にある太鼓丸城(狼煙台)の間に設置されているもので、有事の際ここで敵の侵入を阻止するために設置されたものだろう。
【写真左】軍用石
 石門を過ぎると主に左側に大きな岩が積んである。下から敵が登ってくる際、この石を使って上から落とすためのものだという。
 それにしてもこのままでは大きすぎて、実際にはさらに砕いて使っていたものだろう。
【写真左】太鼓丸城が見えてきた。
【写真左】太鼓丸城・その1
【写真左】太鼓丸城・その2
 この岩も軍用石として使われたかもしれない。
【写真左】太鼓丸城・その3
 前記した天神山頂部にある郭(本丸)より整備が行き届いているせいか、こちらが本丸に思える。

【写真左】眼下に吉井川
【上図】天神山城(太鼓丸城)鳥瞰図
 前段で紹介した案内図と重複するが、この図は右に前期天神山城(太鼓丸城)を描き、左に堀切を介して後期天神山城の様子を鳥瞰図で描いたもの。
 太鼓丸城を過ぎて左(北側)に進むと次第に下っていき、上の門・下の門・古井戸・亀の甲などがあり、最深部で堀切となる。そしてそこから再び尾根筋を上がっていくと後期天神山城へと続く。
【写真左】太鼓丸城から北東方向を眺望する。
 中腹部が上田土で、その上の谷が杉平という地区になる。さらにその奥の山並みには大芦高原が見え、左側の谷を下がってくと吉井川と合流する。
【写真左】上の石門(上の門)
【写真左】後期天神山城が見えてきた。
 因みに後期天神山城の最高所は337mなので、太鼓丸城(天神山)の頂部409mと比べると、72mほど低い。
【写真左】コバノミツバツツジ
 山城登城しているとよく見かけるツツジだが、天神山城のツツジは特に色が鮮やかだ。