2022年6月21日火曜日

伽藍山城(岡山県小田郡矢掛町江良)

 伽藍山城(がらんやまじょう)

●所在地 岡山県小田郡矢掛町江良
●高さ H:292m(比高250m)
●築城期 不明
●築城者 不明(宍戸備前か)
●城主 宍戸氏、渡辺佐右衛門
●遺構 郭、土塁、堀、石垣
●登城日 2017年11月27日

解説(参考資料『日本城郭体系 第13巻』等)
 伽藍山城は、前稿の備中・矢掛茶臼山城(岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三城)から小田川を挟んで西南2.1キロほど隔てた伽藍山に築かれた城郭である。
【写真左】伽藍山城遠望
 前稿茶臼山城から見たもの。








 
現地の説明板より

❝伽藍山極楽寺跡
 天平9年(737)伽藍山頂に行基菩薩により本堂及び十二坊が開創された。
 寛永年間に東麓里山田に東極楽寺五坊
 西麓の江良に西極楽寺七坊が移転下山した。
現在伽藍山両麓には極楽寺、西方院、大光院の三ヶ寺がある。❞

❝伽藍山城址
  海抜292m
 江戸時代後期山頂の極楽寺跡に猿掛城主毛利候の出城(砦)として本丸が築城され、北に二段、南に三段の堡塁跡がある。
 宍戸安芸守舎弟備前(下道群鬼の身場主)が伽藍山城主であった。
       備中府誌による。❞

※下線 管理人による。
【写真左】西法院
 伽藍山城の西麓にある寺院で、現在当院の西隣には大光院、北東麓には本丸にあった極楽寺が建立されている。



伽藍山城の歴史

 上掲した説明板は、本丸に設けられたものだが、内容を見てみると、校正が不徹底だったのか、首を傾げたくなる箇所が見られる。

 先ず、築城期を江戸時代後期としていることは完全な錯誤で、戦国時代後期である。次に誤字と思われるのが、「下道」の箇所で、これは下道郡(かとうぐん)が正しい。さらに鬼の身主、とあるのも、「鬼ノ身城」または「鬼身城」である。
【写真左】登城開始
 前半は幅員が広くなだらかな道となっている。









鬼ノ身城と上田氏

 さて、伽藍山城の築城期については、前述したように戦国期であるが、当城はここから北東へおよそ20キロほど向かった総社市山田の備中・鬼ノ身城(以下「鬼ノ身城」とする。)と深い関係がある。
【写真左】牛神社
 登城道の途中で分岐した道があり、そこに向かうと御覧の石碑。「中牛神社氏子中」とあり、平成5年に建立されている。
 文字通り牛の病気平癒祈願を目的としたもので、岡山県下には牛を祀る社が多いようだ。


 
 南北朝時代を過ぎたころ、鬼ノ身城の城主は上田氏であったといい、史料上初見されるのは文亀元年(1501)で、天正年間を過ぎると、当時の城主上田入道阿西が備中松山城を抑えた三村元親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)の弟を養子に迎え、上田孫次郎実親と名乗らせる。

 このころすでに伽藍山城も上田氏の支配下にはいっていたものと考えられるが、多くの寺坊を抱えた山岳寺院であったことから、寺院城郭の形態をもったものだったのだろう。
【写真左】八合目
 登城道は途中で直登の短距離コースと大回りになるが、比較的緩やかな道の二通りある。今回は後者の方を選んだ。
 写真は途中でたどり着いた尾根筋にある八合目付近。


毛利氏侵攻

 実親が鬼ノ身城主となってから間もない天正3年(1575)、毛利氏が備中に侵攻、鬼ノ身城は落城、実親は城内に残った者たちの助命を条件に自害した。

 伽藍山城もほぼ時を同じくして落城したものと思われ、鬼ノ身城には宍戸隆家(安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)参照)が城主となり、城代には佐々部美作守(面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)参照)が在番、しばらくして鬼ノ身城には隆家の嫡子左衛門佐元秀の子・備前守基継が城主となり、8万石を領したという。

 伽藍山城には毛利氏の家臣渡部佐右衛門尉が在陣とあるので、伽藍山城は鬼ノ身城の支城の一つとしたものと思われる。
【写真左】分岐点
八合目付近で分岐点があり、右に進むと別の山へ向かう。

 写真の右側に「☚山頂」と表示された案内板に従い、左側を進む。
【写真左】この辺りから段が見え始める。
【写真左】周囲の景色が変わってきた。
 すでに遺構の一部があっただろうと思わせる地形の変化を感じる。
【写真左】堀切
 この辺りから九十九折れの登城道となるが、途中でこの堀切に出会う。
【写真左】畝状竪堀群
斜面に何状かの竪堀が見える。
【写真左】本丸が近くなってきた。
【写真左】空堀
 上の段を囲繞しているもので、浅いものの良く分かる。
【写真左】中の段
【写真左】虎口
 中の段を過ぎると前方に虎口が見えてきた。
【写真左】本丸・その1
伽藍山城の最高所となる本丸で、かなり広い。
【写真左】本丸・その2
 奥に祠のようなものが見える。
【写真左】地蔵仏
近づくと、地蔵仏が中に安置されている。

 行基の時代に本堂や寺坊などが建立されていたことから、その面影を残したものだろう。
【写真左】礎石
 4,5m四方の大きさで、礎石が敷き詰められている。本堂若しくは寺坊跡だろう。
【写真左】伽藍山登山記録の箱
 登ってきた人に記録をつけてもらうため設置されているようだ。
【写真左】十二天の岩文字
現地の説明板より

十二天の岩文字(現存する)
古代インドから護法神として伝来した。伽藍山西斜面の岩に刻まれている帝釈天(東)水天(西)閻魔天(南)毘沙門天(北)伊舎那天(東北)火天(東南)風天(西北)羅刹天(西南)梵天(天) (以上平成18年発見)
地天、日天、月天、の十二天である。❞
【写真左】中央に大きな木が立っている。
樹名は分からないが10m前後の高さはあるだろう。
【写真左】東方面
【写真左】北方面
【写真左】小田川が見える。
【写真左】本丸西側の下の段
 帯郭状の段で、2m前後の高低差がある。
【写真左】西の段にある石
自然石の上に皿状の石が乗っている。
【写真左】もう一度北方を見る。
 この方角は井原市美星町方面になる。
【写真左】東側の段
腰郭だが、かなり広い。
【写真左】土塁
長さはさほどないが、土塁が一部残る。
【写真左】茶臼山城俯瞰
本丸から北東方向に小田川を挟んで前稿の矢掛茶臼山城が見える。

2022年6月9日木曜日

備中・矢掛茶臼山城(岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三城)

 備中・矢掛茶臼山城
              (びっちゅう・やかげちゃうすやまじょう)

●所在地 岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三城
●形態 平山城
●高さ H:114m(比高80m)
●築城期 不明(天正年間か)
●築城者 毛利元清
●遺構 石垣、郭、堀、井戸等
●備考 茶臼山文化の丘
●登城日 2017年11月27日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 備中・矢掛茶臼山城(以下『茶臼山城』とする。)は、以前取り上げた小田川南岸に築かれた備中・猿掛城(岡山県小田郡矢掛町横谷)から、北西方向3.5キロほど向かった小田川北岸に突き出た茶臼山に築かれた城郭である。
【写真左】茶臼山城遠望
南側を流れる小田川の南岸から遠望したもので、中央の一番高いところが本丸となる。




現地の説明板より

“茶臼山城址
 天正3年(1575)、毛利元清は備中一円を平定して猿掛城へ入ったが、民政充実のため天正12年(1584)標高96メートルの茶臼山へ移城した。そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦に西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城した城址である。

 その間には天正15年(1587)の九州征伐に引き続いて征韓の役で三度往復の途次、豊臣秀吉が再三立ち寄った史実があり、また長府藩主毛利秀元との由縁(ゆかり)も深い。

【写真左】茶臼山城略図
 現地に設置されたもので、大雑把な図だが、主だった遺構が描かれている。



 更に築城史的にも中世の山城から近世の平城に移る過渡期の升形をもった平山城の典型的な形式を遺し、周囲に濠を廻らし、本丸、太鼓丸、二の丸、三の丸、小丸、的前(まとさき)と幾段にも曲輪や櫓を設け、鎮守の段、爺(じい)が段、茶屋敷、渇(か)れずの井戸の遺構など、山陽道の要衝を扼した見事な城構えを今に遺す貴重な史跡なので、矢掛町合併30周年を記念し、「茶臼山文化の丘」として整備したものである“
【写真左】駐車場
 南側の三の丸付近に設置されている。この駐車場エリアも当時何らかの遺構があったものと思われるが、整地されたため不明だ。

毛利元清

 茶臼山城を築城した毛利元清については、冒頭の備中・猿掛城でも紹介しているが、これ以外のものとしては佐井田城(岡山県真庭市下中津井)の稿でも触れている。

 元清は毛利元就の四男で、母は側室であった乃美弘平の娘(乃美大方)といわれる。元清の兄達(隆元、元春、隆景)が元就の正室すなわち、吉川国経の娘・妙玖を母としているので、彼らとは異母兄弟である。
【写真左】本丸に向かう道
 道路を少し登って行くと、途中から狭い道が枝道で分岐する。この道を登って行く。




 元清の母の実家は乃美氏で、同氏については賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)でも紹介しているが、乃美氏自体は、元々小早川敬平の弟・是景を祖としている(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1)参照)。

 乃美大方は側室とはなっているが、実際には正室の妙玖が天文14年(1545)11月に47歳で亡くなったあと、後妻として元就に嫁いでいる。大方の父は乃美隆興である(稲村山城(広島県三原市小坂町)参照)
【写真左】本丸・その1
 本丸跡には御覧のようなテレビ中継基地の施設が建っている。






 生まれたのは天文20年(1551)といわれ、永禄9年(1566)元服し、2年後の永禄11年(1568)伊予の河野氏支援要請もあって来島村上水軍(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の村上通康の娘を娶った。その後、備中・備前での宇喜多直家らの動きが激しくなると、元就の命を受け備中猿掛城奪還に向けて東進した。
【写真左】本丸・その2
 施設を含めた本丸周辺部はあまり整備されていない。
 写真は外周部から切岸となった部分だが分かりにくい。



 この時の動きについては、前述したように備中・猿掛城佐井田城(岡山県真庭市下中津井)の稿でも触れているので詳細は省くが、元清は猿掛城に在城した時期に、一時当地名の穗井田(穗田)を姓名とし、穗井田元清とも名乗っている。

 戦歴を見てみると、かなり若いころから活躍し、特にすぐ上の兄・小早川隆景とは多くの戦場で共に戦っている。
 陶晴賢との厳島合戦後、桜尾城主となった桂元澄のあとを受け、当城の城主となり慶長2年に没した(洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)参照)。
【写真左】太鼓丸
 本丸の東側の段で、この個所は整備されている。








過渡期の平山城

 説明板にもあるように、天正12年(1584)の築城期ということからも近世城郭へと移行する時期に築かれた城郭である。現在は「茶臼山文化の丘」という公園化を図ったものになっているが、南西端の小田川北岸から北東方向に延びる長さおよそ1キロの独立丘陵全体が当時の城域だったと考えられ、高さは100m余りしかないが、面積ではかなりの広さを持つ。
【写真左】井戸
 本丸を見た後、再び南方向へ下がっていき、途中で矢掛神社及び、蛸ノ頭という看板があったので向かってみたが、途中から藪コギとなったので引き返し、駐車場の方へ向かった。その道中に見つけたのがこの井戸である。
 略図を見ると、当城には3か所の井戸があるようだ。この井戸は鎮守丸付近のものだったと記憶している。


 大手を東麓に置き、平場の郭に屋敷を配置し、その南側には小田川や、旧山陽道が東西を走る。このことから、縄張配置そのもので近世城郭へアプローチしようとする姿勢が読み取れる。
 南西端から三の丸を据え、北に向かって二の丸、鎮守丸と続き、本丸は北端部の最高所(114m)に太鼓丸を付随させている。また、本丸北側には東西に堀切を設けている。
【写真左】神社
「最上位 経王大菩薩」と書かれた神社。おそらく岡山市にある最上稲荷から勧請されたものだろう。

 上述した井戸と同じ鎮守丸に囲まれた一角に建立されている。周辺部はかなり広い削平地だったので、この付近にも屋敷など建物があったと推測される。
【写真左】二の丸へ向かう。
【写真左】二の丸
先端部の南側から振り返ったもので、きれいに整備されている。
【写真左】二の丸の下の段
 帯郭状の郭が下の方に付随している。このあと、三の丸方面に向かう。
【写真左】三の丸・その1
【写真左】三の丸・その2
中央に井戸が見える(下の写真参照)。
【写真左】井戸
 径は小さいがしっかりと残っている。
【写真左】縄文・弥生時代の説明板
 散策している途中にあった説明板で、この辺りの古代の様子が以下のように書かれている。



”原始時代(無土器・縄文・弥生時代 数十万年前~紀元300年ごろ)

 数万年前に瀬戸内海に人類が住み着いたと考えられているが、無数の石やじりや、弥生式土器などが発見されていることから、この地方には石器時代に人類が住み着いたと考えられる。
 中、白江遺跡の生活跡に見られるように、弥生式時代には人口もかなり密な集村的集落に発達し、この地方でも水稲栽培がこのころ始められたものと考えられている。”
【写真左】三の丸の東の段から二の丸方面を見る。
【写真左】伽藍山城遠望
 茶臼山城の西には伽藍山城が見える。当城については次稿で紹介したい。

2022年6月1日水曜日

桂城(広島県安芸高田市吉田町桂)

 桂城(かつらじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町桂
●別名 中山城、三笠山城、三笠城
●高さ H:295m(比高80m)
●指定 安芸高田市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 不明(桂広澄か)
●城主 桂氏
●遺構 土塁、郭、堀等
●登城日 2017年11月16日

解説(参考資料 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド』安芸高田市歴史民俗博物館編、HP『戦国大名探究武将家出自事典』等)

 桂城は前稿鈴尾城(広島県安芸高田市吉田町福原)の西方可愛川を挟んで1キロほどの位置に築かれた城郭である。
【写真上】桂城遠望
 2007年に登城した安芸・星ヶ城(広島県安芸高田市吉田町桂・高野)から見たもの。


 現地の説明板より

桂城跡
         町史跡指定 1968(昭和43)年91
 桂城跡は、標高295m・比高80mで中山城または三笠山城とも呼ばれていた。毛利氏譜代の桂氏の居城で、16世紀初頭頃坂氏から分家した広澄がこの城に入ったとされる。

 城郭は、西・中央・東の三群に分かれる。
 西郭群は、背後を堀切で区切って北・南西方向に延びる尾根上に小郭を配したもので、小規模な城の体裁をなしている。
 中央郭群は、独立丘陵の最高所に位置し、北東に延びる尾根上に堀切と郭を並べており、見張所的なものと考えられる。
              1996(平成8)年7
                            吉田町教育委員会“
【写真左】駐車場所
 西側を走る国道54号線脇に、安芸・星ヶ城の看板があり、その近くに駐車スペースがあったのでここに停める。
 桂城はこの写真では左側の54号線を渡った方向にある。


桂氏

 桂氏は説明板にもあるように、坂氏から分家した広澄を始祖とし、当地桂に移り桂氏を名乗ったとされる。

【上図】桂氏関係略系図
 坂広秋の孫・広澄が桂氏の始祖となっているが、同じ孫としては志道氏から分かれ、後に毛利家四家老の一人といわれ、実務に長けた口羽通良(琵琶甲城(びわこうじょう)(島根県邑南町下口羽))参照)がいる。


元就の家督相続

 以前にも述べたが、毛利元就が毛利家を継いだのは大永3年(1523)8月のことである。  
 兄興元が亡くなり、その嫡男幸松丸が跡を継いだものの、9歳で病死、この事態に宿老間で次の後継者を選ぶ協議がなされた。このとき、元就を推挙したのが、下段に示した重臣15名である。

(一族)
  志道広良、福原広俊、桂元澄、坂広秀
(譜代家人)
  渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、赤川就秀、飯田元親
(国人領主)
  中村元明、井上就在、井上元盛、井上元貞、井上元吉、井上元兼

 もっともこの前には、元就を家督継承者とする意見と、尼子家から養子を迎えようという意見があったが、結果として、一族の志道広良、福原広俊、そして桂元澄らが、尼子家から養子を迎えると、毛利家は乗っ取られるとして衆議がまとまった。
【写真左】桂広澄の墓
当城の東側麓には桂広澄の墓が祀られている。








 この家督相続に絡んで、もう一人の候補者で元就の異母弟・元綱や、坂氏及びその一族であった桂広澄も誅殺や自刃に追い込まれている。しかし、広澄の嫡男・元澄は毛利氏の重臣として活躍していく。
【写真左】桂城の看板
 国道54号線の東側に設置されている。写真の右側に桂城が見える。ここから少し歩くと、この看板とは別に、➡のついたもう一つの看板があり、そこから向かう。


桂元澄

 彼の主な実績としては、安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)の稿で紹介したように、天文24年・弘治元年(1555)の厳島合戦がある。この戦いで敵方・陶晴賢に偽の内応書を送り、陶軍を厳島に導き寄せることに成功した。その後元澄は桜尾城主となり、永禄12年没した。墓は洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)にある。
【写真左】桂城略図
 桂城は東西700m前後の丘陵地に3か所分散して遺構が残っている。このうち、東端部は館跡ともいわれ、中央のものが主郭と思われ、西端部は主に物見櫓のきのうがあったものといわれている。
【写真左】尾根にたどり着く。
 上の略図にある「現在地」付近で、西の郭と東(中央)主郭の間の位置に当たる。
 先ず、西の郭に向かう。
【写真左】堀切
略図には示されていないが、東側から尾根伝いに進むと、最初に堀切が見えてくる。この堀切は二条あり、写真の右(北側)にも堀切の延長上に横堀らしき遺構が確認できる。
 このあと上に登って行く。
【写真左】土塁
西郭の最高所となる箇所で、東側に土塁が組まれている。
【写真左】西側から見る。
郭は丁寧な普請となっている。奥に先ほどの土塁が見える。
【写真左】矢竹
この付近には質のいい矢竹が生えている。
【写真左】帯郭
中央の郭から南側に降りると帯郭があり、西に回り込んで囲繞している。
 なお、写真には紹介していないが、南側のさらに下に下がった位置にも2,3段の小郭が配置されている。また、西側の鉄塔が建っている箇所にも小規模な堀切が2条残る。
このあと、再び分岐点まで戻り、中央の郭(主郭)に向かう。
【写真左】可愛川(江の川)が見える。
主郭に向かう途中の道は尾根幅が狭くなり、特に南側が険峻な切岸となっている。
 途中で視界が開けた場所から可愛川が見えた。おそらく、戦国期はこの川が桂城の南麓直下を流れていたのだろう。
【写真左】奥の左側に郭が見えてきた。
【写真左】主郭か
 略図にもあるように、中央の郭群は手前に段を設けず、いきなり郭が最高所に設置されている。
【写真左】主郭の東側
 削平は丁寧だが、この郭だけ石ころがやけに多い。石積された基壇のような遺構があったのかもしれない。
【写真左】主郭からさらに北に向かう。
 主郭を起点にして尾根は北に向きを変えて伸びる。北端部まで進んでみる。
【写真左】北端部の土塁
北端部の郭幅は狭められて細くなっているが、その短い外周部には土塁が設けられている。
【写真左】堀切
 北端部から下を覗くと堀切が見える。降りてみる。
【写真左】堀切
 上から見ていた堀切で、主郭は左側の切岸を登ったところにある。
 このあとさらに右に進む。
【写真左】北に伸びる郭
 地形上段々と尾根幅は狭くなるが、奥行は予想以上にある。
【写真左】次の段が見える。
 降りてみる。
【写真左】次の堀切
 降りてみると、やはりこの個所にも堀切が介してある。
【写真左】振り返る
 それぞれの段との比高差は平均すると4,5mはあるだろう。
【写真左】次の段に進む。
 結局主郭下から北に伸びる郭段は連郭式で4から5段程度で構成されている。
【写真左】桂城遠望
 南西麓側から見たもので、略図にもあった東端部の郭群は踏査していない。この場所は館跡ともいわれ、現在桂大仙神社が祀られている。
 写真で言えば、右側の先端部に当たる。
【写真左】桂城周辺の史跡配置図
 文字が小さいため分かりにくいが、桂城が中央に記されている。