鶴首城(かくしゅじょう)
●岡山県高梁市成羽町下原
●別名 成羽城
●築城期 文治5年(1189)
●築城者 河村四郎秀清
●城主 三村家親等
●形態 連郭式山城
●遺構 本丸・出丸・城井戸、石垣等
●高さ 338m
●登城日 2013年4月19日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
鶴首城は、前稿まで紹介してきた宇喜多直家と戦国期の永禄年間、備中兵乱を中心として争った三村氏の居城である。
【写真左】鶴首城遠望
北麓を流れる成羽川を挟んで、北西にある「なりわ運動公園」から見たもの。
東西に成羽川が流れ、左に下ると高梁川に合流する。
所在地は、以前紹介した備中松山城(岡山県高梁市内山下)の西麓を流れる高梁川を3キロほど下ると、落合という箇所で支流の成羽川が合流するが、この成羽川を西に4キロほど上った所の鶴首山に築かれている。
現地の説明板より
“鶴首城
ここは標高338mの山頂、中世の連郭式山城鶴首城の本丸跡である。
平安末期文治5年(1189)、当地の地頭職となった河村四郎秀清が築城したと伝えられ、鎌倉時代以降成羽の庄の支配治政の拠点となった。
【写真左】略測図
中央に一ノ壇(主郭)を置き、その下には西側から東側にかけて二ノ壇を取り込み、南にはさらに三ノ壇が連続する。以下南に四ノ壇・五ノ壇が、そして二ノ壇の西には小規模な郭・六ノ壇がある。
なお、中心部から北東に向かって尾根が続くが、この位置には七ノ壇があり、その先には鞍部を経て二の丸がある。
なお、大手側の登城ルートで最初に現れるのが、太鼓丸である。
戦国時代の天文2年(1533)、成羽へ進出した三村家親が、この城砦を堅固に増補構築し、当城を拠点として備中制覇をめざした備中兵乱は世に名高い。永禄4年(1561)、家親・元親父子が備中松山へ進出した後、三村親成・親宣父子が城主となる。
関ヶ原戦(1600)後、岡越前守家俊在城。大坂の陣後、元和3年(1617)に、成羽藩主となった山崎甲斐守家治の時「一国一城」の定めにより廃城となった。
本丸(東西33m、南北23m)をめぐり、全7壇で構築されており、往時を偲ぶ貴重な史蹟である。
平成19年(2007)3月
鶴首城址へ登ろう会”
【写真左】登城口付近
成羽小学校の南側に道があり、途中で鋭角に左に枝分かれした道が登城道となる。
なお、駐車場は成羽総合福祉センター付近に広い駐車スペースがあり、道路脇には観光案内所もあり、ここで鶴首城の資料も頂いた。
三村氏
鶴首城の築城者は、説明板にもあるように平安末期に当地地頭職であった河村四郎秀清とされている。ただ、この点に関しては『日本城郭体系第13巻』によると、否定的な見解が出ていると記されている。
現在残る鶴首城の基礎を築いたのが三村氏といわれ、事実上三村氏が築城者ともいわれる。そして、当城の城主としてもっとも有名なのが、三村家親である。家親の父は三村宗親とされ、備中国人であった三村氏の一族とされる。
【写真左】太鼓丸
登っていくと最初に現れるのが、太鼓丸である。北側に突出した奥行20m×最大幅10mの三角形の郭で、物見櫓があったと思われる。
この三村氏は元々信濃三村氏の傍流が鎌倉時代に備中星田郷の新補地頭となって当地に在住したことに始まる。
このため、当時この鶴首城の所在する成羽は勿論だが、初期はこの地から南方約20キロほど下った星田(現井原市美星町)を中心に支配していたといわれる。
この星田については、以前紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)でも紹介したように、星田姓を名乗る星田内蔵助が、戦国末期(文禄5年)、備中国川上郡平川村から出雲国仁多郡小馬木に800石で入っているが、元は三村内蔵助親貞と名乗っていたという点もでも頷ける。
【写真左】太鼓丸から眼下に成羽の町並みを見る。
北方は勿論だが、当時は東西の視界も広かったものと思われる。
備中兵乱
さて、備中国における戦国期中葉の争いは、以前にも紹介したように備中松山城主の上野氏を打ち破った猿掛城(備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)主・庄氏と、鶴首城主三村氏との争いが発端になる。
そして両者の背後にはそれぞれ出雲の尼子氏と、安芸の毛利氏が手を結んでいた。三村氏は家親の代になって毛利氏と結んで、庄氏を追いやり、鶴首城から備中松山城に移った。永禄4年(1561)のことである。このとき、鶴首城には三村親成・親宣父子が入り、城主には親成となった。
この親成は、家親の弟(別説では甥)であるが、のちに一族から離反することになる。
【写真左】ピーク
左に向かうと、二の丸に繋がり、右に向かうと本丸へ向かう。
帰りに二の丸へも向かうつもりだったが、時間がなく取りやめてしまった。
三村家親暗殺
永禄9年(1566)、家親は宇喜多直家によって突然謀殺された。家親はその頃、備前に侵入し、特に松田元賢の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)を攻略し始めていた。
このころ陣所を弓削荘籾村(久米南町下籾)の興善寺に定めていたが、軍評定後酒を飲み、酔いがまわり寝入った家親は、直家から命を受けていた鉄砲の名手・遠藤兄弟の二連短筒によって絶命した。
【写真左】三村家親の墓
所在地 久米南町下籾源田
探訪日 2018年10月12日
旧興善寺の近くにあり、ため池の奥に建立されているが、付近は雑草で覆われていて分かりづらい。
左側には「建造物宝篋印塔 昭和32年2月26日町指定」と書かれた標柱が建つ。
至近距離であったため、家親の頭蓋に命中、あっという間の出来事だった。同年2月5日の夜のことである。
【写真左】稲荷神社
登城道の途中で枝分かれし、尾根上に建立されている。
戦国期における直家のこうした行動は、今でいうテロ行為というものだろうが、目的のためには手段を択ばない調略が多くなっていく。
三村親成・親宣の離反
さて、家親が謀殺された三村家では、あとを元親が継いだ。しかし、その後三村家にとって不倶戴天の宇喜多直家が毛利氏についたことにより、三村元親らは毛利氏から離れ、織田方につくことになった。
しかし、鶴首城主であった親成は、この決断を不満とし、元親ら袂を分かち離反、毛利軍につくことになる。そして、毛利軍の先陣として、皮肉にも同族の諸城を攻め落としていくことになった。親成・親信父子が三村氏の諸城を攻め行ったものは次の通り。
翌永禄10年(1567)、元親は父家親の弔い合戦として、約2万の兵を引連れ、備前の明禅寺において直家と戦う。その後の経緯については、既に明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)で紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】さらに進む。
この辺りからの登城道は、尾根の南側をほぼ直線に進むコースとなっており、途中で大きく右に旋回して、一気に高度を稼ぐ。
この先100m進むと、下段写真で示した「馬場」に出る。
【写真左】馬場跡
冒頭で示した「七ノ壇」といわれているところで、北東に延びる尾根の先端部に当たる。
規模は幅20m×奥行15m前後のもの。
ここから反対の北西方向に延びる尾根に進むと、城域中心部に向かう。
【写真左】二ノ壇
前記したように、一ノ壇を取り囲むように西・北・東面で構成され、南側は三ノ壇が連続する。
【写真左】石積み
二ノ壇と一ノ壇の高さは1.5~2,0mあるが、一部にはこのような石積が残る。
【写真左】虎口
現地には「虎ノ口」と表記されているが、虎口のことで、二ノ壇の東面の一角に認められ、ここから一ノ壇に向かう。
この付近で以前数多くの瓦片が出土したという。
【写真左】一ノ壇
不定形な六角形の形をなし、広さは約700㎡あるという。
なお、ほぼ全周囲に低い土塁跡が確認できる。
【写真左】三ノ壇
一ノ壇から南西に延びる尾根筋に沿って構築され、幅17m前後×奥行27m近くの規模となっている。
一ノ壇からは2.5m程度低い。
【写真左】四ノ壇
四ノ壇及び五ノ壇は三ノ壇と同じ幅だが、規模が小さく、いずれも10m未満である。
【写真左】五ノ壇
この写真には写っていないが、ほぼ中央部に直径約3m程度の比較的大きな窪みが認められた。井戸跡だろうか。
【写真左】堀切
五ノ壇を過ぎると、その先は切崖となっている。
滑るように降りていくと、ご覧の比較的大きな堀切がある。
なお、この先に「武士池」があるということで、更に進んでみたが、道は整備されておらず、断念した。
●岡山県高梁市成羽町下原
●別名 成羽城
●築城期 文治5年(1189)
●築城者 河村四郎秀清
●城主 三村家親等
●形態 連郭式山城
●遺構 本丸・出丸・城井戸、石垣等
●高さ 338m
●登城日 2013年4月19日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
鶴首城は、前稿まで紹介してきた宇喜多直家と戦国期の永禄年間、備中兵乱を中心として争った三村氏の居城である。
【写真左】鶴首城遠望
北麓を流れる成羽川を挟んで、北西にある「なりわ運動公園」から見たもの。
東西に成羽川が流れ、左に下ると高梁川に合流する。
所在地は、以前紹介した備中松山城(岡山県高梁市内山下)の西麓を流れる高梁川を3キロほど下ると、落合という箇所で支流の成羽川が合流するが、この成羽川を西に4キロほど上った所の鶴首山に築かれている。
現地の説明板より
“鶴首城
ここは標高338mの山頂、中世の連郭式山城鶴首城の本丸跡である。
平安末期文治5年(1189)、当地の地頭職となった河村四郎秀清が築城したと伝えられ、鎌倉時代以降成羽の庄の支配治政の拠点となった。
【写真左】略測図
中央に一ノ壇(主郭)を置き、その下には西側から東側にかけて二ノ壇を取り込み、南にはさらに三ノ壇が連続する。以下南に四ノ壇・五ノ壇が、そして二ノ壇の西には小規模な郭・六ノ壇がある。
なお、中心部から北東に向かって尾根が続くが、この位置には七ノ壇があり、その先には鞍部を経て二の丸がある。
なお、大手側の登城ルートで最初に現れるのが、太鼓丸である。
戦国時代の天文2年(1533)、成羽へ進出した三村家親が、この城砦を堅固に増補構築し、当城を拠点として備中制覇をめざした備中兵乱は世に名高い。永禄4年(1561)、家親・元親父子が備中松山へ進出した後、三村親成・親宣父子が城主となる。
関ヶ原戦(1600)後、岡越前守家俊在城。大坂の陣後、元和3年(1617)に、成羽藩主となった山崎甲斐守家治の時「一国一城」の定めにより廃城となった。
本丸(東西33m、南北23m)をめぐり、全7壇で構築されており、往時を偲ぶ貴重な史蹟である。
平成19年(2007)3月
鶴首城址へ登ろう会”
【写真左】登城口付近
成羽小学校の南側に道があり、途中で鋭角に左に枝分かれした道が登城道となる。
なお、駐車場は成羽総合福祉センター付近に広い駐車スペースがあり、道路脇には観光案内所もあり、ここで鶴首城の資料も頂いた。
三村氏
鶴首城の築城者は、説明板にもあるように平安末期に当地地頭職であった河村四郎秀清とされている。ただ、この点に関しては『日本城郭体系第13巻』によると、否定的な見解が出ていると記されている。
現在残る鶴首城の基礎を築いたのが三村氏といわれ、事実上三村氏が築城者ともいわれる。そして、当城の城主としてもっとも有名なのが、三村家親である。家親の父は三村宗親とされ、備中国人であった三村氏の一族とされる。
【写真左】太鼓丸
登っていくと最初に現れるのが、太鼓丸である。北側に突出した奥行20m×最大幅10mの三角形の郭で、物見櫓があったと思われる。
この三村氏は元々信濃三村氏の傍流が鎌倉時代に備中星田郷の新補地頭となって当地に在住したことに始まる。
このため、当時この鶴首城の所在する成羽は勿論だが、初期はこの地から南方約20キロほど下った星田(現井原市美星町)を中心に支配していたといわれる。
この星田については、以前紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)でも紹介したように、星田姓を名乗る星田内蔵助が、戦国末期(文禄5年)、備中国川上郡平川村から出雲国仁多郡小馬木に800石で入っているが、元は三村内蔵助親貞と名乗っていたという点もでも頷ける。
【写真左】太鼓丸から眼下に成羽の町並みを見る。
北方は勿論だが、当時は東西の視界も広かったものと思われる。
備中兵乱
さて、備中国における戦国期中葉の争いは、以前にも紹介したように備中松山城主の上野氏を打ち破った猿掛城(備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)主・庄氏と、鶴首城主三村氏との争いが発端になる。
そして両者の背後にはそれぞれ出雲の尼子氏と、安芸の毛利氏が手を結んでいた。三村氏は家親の代になって毛利氏と結んで、庄氏を追いやり、鶴首城から備中松山城に移った。永禄4年(1561)のことである。このとき、鶴首城には三村親成・親宣父子が入り、城主には親成となった。
この親成は、家親の弟(別説では甥)であるが、のちに一族から離反することになる。
【写真左】ピーク
左に向かうと、二の丸に繋がり、右に向かうと本丸へ向かう。
帰りに二の丸へも向かうつもりだったが、時間がなく取りやめてしまった。
三村家親暗殺
永禄9年(1566)、家親は宇喜多直家によって突然謀殺された。家親はその頃、備前に侵入し、特に松田元賢の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)を攻略し始めていた。
このころ陣所を弓削荘籾村(久米南町下籾)の興善寺に定めていたが、軍評定後酒を飲み、酔いがまわり寝入った家親は、直家から命を受けていた鉄砲の名手・遠藤兄弟の二連短筒によって絶命した。
【写真左】三村家親の墓
所在地 久米南町下籾源田
探訪日 2018年10月12日
旧興善寺の近くにあり、ため池の奥に建立されているが、付近は雑草で覆われていて分かりづらい。
左側には「建造物宝篋印塔 昭和32年2月26日町指定」と書かれた標柱が建つ。
至近距離であったため、家親の頭蓋に命中、あっという間の出来事だった。同年2月5日の夜のことである。
【写真左】稲荷神社
登城道の途中で枝分かれし、尾根上に建立されている。
戦国期における直家のこうした行動は、今でいうテロ行為というものだろうが、目的のためには手段を択ばない調略が多くなっていく。
三村親成・親宣の離反
さて、家親が謀殺された三村家では、あとを元親が継いだ。しかし、その後三村家にとって不倶戴天の宇喜多直家が毛利氏についたことにより、三村元親らは毛利氏から離れ、織田方につくことになった。
しかし、鶴首城主であった親成は、この決断を不満とし、元親ら袂を分かち離反、毛利軍につくことになる。そして、毛利軍の先陣として、皮肉にも同族の諸城を攻め落としていくことになった。親成・親信父子が三村氏の諸城を攻め行ったものは次の通り。
翌永禄10年(1567)、元親は父家親の弔い合戦として、約2万の兵を引連れ、備前の明禅寺において直家と戦う。その後の経緯については、既に明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)で紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】さらに進む。
この辺りからの登城道は、尾根の南側をほぼ直線に進むコースとなっており、途中で大きく右に旋回して、一気に高度を稼ぐ。
この先100m進むと、下段写真で示した「馬場」に出る。
【写真左】馬場跡
冒頭で示した「七ノ壇」といわれているところで、北東に延びる尾根の先端部に当たる。
規模は幅20m×奥行15m前後のもの。
ここから反対の北西方向に延びる尾根に進むと、城域中心部に向かう。
【写真左】二ノ壇
前記したように、一ノ壇を取り囲むように西・北・東面で構成され、南側は三ノ壇が連続する。
【写真左】石積み
二ノ壇と一ノ壇の高さは1.5~2,0mあるが、一部にはこのような石積が残る。
【写真左】虎口
現地には「虎ノ口」と表記されているが、虎口のことで、二ノ壇の東面の一角に認められ、ここから一ノ壇に向かう。
この付近で以前数多くの瓦片が出土したという。
【写真左】一ノ壇
不定形な六角形の形をなし、広さは約700㎡あるという。
なお、ほぼ全周囲に低い土塁跡が確認できる。
【写真左】三ノ壇
一ノ壇から南西に延びる尾根筋に沿って構築され、幅17m前後×奥行27m近くの規模となっている。
一ノ壇からは2.5m程度低い。
【写真左】四ノ壇
四ノ壇及び五ノ壇は三ノ壇と同じ幅だが、規模が小さく、いずれも10m未満である。
【写真左】五ノ壇
この写真には写っていないが、ほぼ中央部に直径約3m程度の比較的大きな窪みが認められた。井戸跡だろうか。
【写真左】堀切
五ノ壇を過ぎると、その先は切崖となっている。
滑るように降りていくと、ご覧の比較的大きな堀切がある。
なお、この先に「武士池」があるということで、更に進んでみたが、道は整備されておらず、断念した。
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