豊前・長岩城(ぶぜん・ながいわじょう)
●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字川原口
●指定 大分県指定史跡(平成23年3月29日)
●別名 永岩城
●高さ 530.8m(比高200m)
●築城期 建久9年(1198)
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏
●指定 中津市指定史跡
●遺構 石塁・砲座・虎口・竪堀・塹壕等
●登城日 2015年10月11日
◆解説(参考文献 『黒田官兵衛をめぐる65の城』中井均・萩原さちこ・吉田龍司共著タツミムック、諏訪勝則著『黒田官兵衛』中央公論新社等)
【写真左】長岩城の石塁
当城遺構の特徴の一つで、「原型が完全に遺る石塁」と書かれた標識が設置されている。
中津城(大分県中津市二ノ丁)の西麓を流れる山国川を遡っていくと、日本三大奇勝の一つ耶馬渓がある。一口に耶馬渓といっても大変に範囲が広く、本耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓・奥耶馬渓・椎屋耶馬渓・津民耶馬渓などが点在している。
このうち津民耶馬渓は、山国川支流の津民川水系にあり、その西側に隣接する峰に豊前・長岩城(以下「長岩城」とする。)が所在する。
【写真左】長岩城跡の図
現地に設置されているもので、この写真では文字が小さくて読めないかもしれないが、中央の細い渓流(なべもと谷)を挟んで、右に本丸・東之台・西之台があり、左側には今回踏査していないが、陣屋跡・馬場・砲座跡・石積櫓などが配置されている。
なお、同図は下方向が北を示す。
現地の説明板より
“○耶馬渓町・長岩城址保存会○
豊前の国の守護職宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与した。
重房は姓を野仲と改め建久9年(1198)に長岩城を創築した。以後野仲氏22代、390年間の居城となった。
この城は高い山や深い谷窪、岩壁等の天険の要害をとり入れ、石塁、砲座、塹壕等にて防備を補強した山城である。20余ヶ所に点在する石塁の長さh、延700m余の長さに達する。戦国時代の山城としては、九州における最大規模のものであり、尚銃眼のある石積櫓は全国に類例を見ない貴重な文化遺跡である。
【写真左】長岩城遠望
北麓にある入口付近から見たもので、右側の山に本丸があり、谷を隔てた左側の山に陣屋跡などがある。
野仲氏は次第に勢力を拡大し、下毛郡の政治軍事を掌握し、凡そ400年間、下毛郡の統治者として栄えた。全盛時代の所領支配は、宇佐郡、下毛郡の一部まで拡大した。
その間、元寇の役や、玖珠城の戦い、大友義鎮(宗麟)の来攻等で下毛郡の勇者としての強豪振りを発揮した。
然し天正16年(1588)には、後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の精兵3500騎の大軍に攻められ、迎え撃つ長岩軍は城主野仲兵庫守鎮兼以下一族郎党700余、与力雑兵800余、合せ総勢1500余、難攻不落を誇った堅城に楯籠り勇戦したが、多勢に無勢、遂に落城し、野仲一族は自決滅亡した。以後廃城となる。”
【写真左】専用駐車場
麓にはご覧のように数台駐車できる場所や便所などが設置されている。近年竣工したようだ。
保存会の皆さんの熱意が伝わってくる。感謝申し上げたい。
奥にある「おねがい」板には、
「急いでも半日はかかります。ましてごゆっくりと御覧になりますと一日は充分にかかると思います。…また非常に危険な場所もかなり御座いますので、危ないと思われたら絶対に行かないで下さい。…」
と書かれている。
野仲氏
長岩城の城主・野仲氏については、すでに城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたとおり、宇都宮氏の庶流である。そして、野仲氏からは内尾・友枝・三尾母(みおも)・野依(のより)・犬丸等の分流が輩出した。
ただ史料上に初めて登場するのは鎌倉時代後半期からで、『野仲文書』によると、南北朝時代に武家方(尊氏)に属して、玖珠城の大友貞順らを攻めたことなどが知られる。この頃は主家であった宇都宮城井氏の頼房時代が勢威を高めたときで、宇都宮庶家として頼房の傘下にあったのが、野仲氏をはじめ山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏などである。
【写真左】記帳所
登城口手前には津民川が流れ、橋が架けられている。その手前に記帳所がある。
遭難することはないと思うが、先ず記帳しておく。
長岩城の落城
説明板にもあるように長岩城での戦いで最も知られるのは戦国末期である。すなわち、落城することになった天正16年(1588)における黒田長政軍との攻防である。この戦いは、前述した城井ノ上城の戦いと連動するもので、その前年(天正15年)黒田官兵衛や小早川隆景らが、肥後一揆鎮圧に向かったあとである。
官兵衛らは新しい領地となった豊前国の安定した掌握が、おそらく未だ完遂していないことを多少は自覚はしていたのだろう。しかし、天正15年(1587)9月7日付の秀吉からの書状には、小早川隆景と協力して肥後国一揆の鎮圧を成し遂げるよう命が出されている。当然官兵衛らはこの命に従わざるを得ない。
官兵衛らが具体的に豊前国を出立し、肥後に向かった時期ははっきりしないが、この年(天正15年)の9月後半から10月上旬と思われる。
【写真左】登城開始
津民川の橋を渡り、鳥獣防護の柵がある入口から進むと、ご覧のような幟などが出迎えてくれる。
麓から急峻な地形になっているため、息が上がらない様ゆっくりと足を進める。
城井ノ上城・長岩城など宇都宮一族が一斉蜂起したとの報を官兵衛らが受けたのは、行軍途中の久留米城(福岡県久留米市)に陣を構えていたときである。この急報によって、もはや肥後国鎮圧どころではなくなった。
豊前国の蜂起は宇都宮(城井)一族を中心とするものだが、具体的には当城(長岩城)の野仲氏、犬丸城(中津市犬丸)の城主犬丸清俊、大畑城(同市加来)の城主賀来統直(むねなお)、田丸城(同市福島)の城主福島鎮充(しげみつ)ら地元国人領主たちである。
【写真左】一之城戸
城戸は虎口の一種だが、長岩城にはこの一之城戸をはじめ、二之城戸、三之城戸と3か所が設けられている。
概ね扁平な石を積んで塀を設け、敵の侵入を防いでいる。
戦いの経緯については詳細なものはないが、最初に城井ノ上城が陥れられ、その後本稿の長岩城が落城、次いで犬丸城が攻略されたといわれる。
なお、官兵衛方には途中から毛利軍(隆景)らの援軍が加わり、残りの大畑城や田丸城を一掃したという。官兵衛の息子長政は緒戦の城井ノ上城による戦いで失態を演じたが、その後の戦いで軍功を挙げ、秀吉から激賞され「御秘蔵之御馬」を送られた(『黒田家文書』)。
【写真左】二之城戸と石塁
当城の特徴の一つである石塁が見えた。急斜面に崩れることなく丁寧に積み上げられている。
【写真左】三ケ月塹壕
二之城戸の近くには三ケ月塹壕という遺構が残っている。写真では分かりずらいが、Uの字を逆さまにした竪堀のような構造となっている。
【写真左】なべもと谷の渓流
登城道は本丸の左側を流れる急斜面の谷に沿って向かうコースになる。途中で2回ほどこの渓流を渡るようになっている。御覧のような場所なので、雨天時やその直後の登城は無理だろう。
なお、この写真の位置だったと思うが、左側の真上には古城ヶ鼻・馬場跡などが残っている。
【写真左】三之城戸
最終の城戸で、これを過ぎると谷筋からはなれて本丸側の斜面にコースを変える。
なお、三之城戸や二之城戸はなべもと谷を挟んで両側に石塁が構築され、挟むように配置されているが、最初に通過した一之城戸はなべもと谷の右側にのみ設置され、虎口は直角に曲がる。
【写真左】本丸直下付近の案内図
三之城戸を過ぎ、本丸に向かうには、左図のように東之台側から向かうコースと、西之台側から向かう二つのコースがある。
今回は反時計回り(東之台から)を選ぶ。
【写真左】東之台に向かう道
西之台に向かう分岐点を過ぎ、小さな谷を越えてしばらくトラバースする。周りには伐採や倒木などが散見され、道は踏み跡で自然にできたような状況だ。
【写真左】古城ヶ鼻側
周囲は植林された木々に覆われているが、途中で木立の間から反対側の奇岩の山が見える。おそらく古城ヶ鼻があるところだろう。
このさらに奥に津民耶馬渓があるが、長岩城そのものも地肌は凝灰岩で構成された山塊である。
【写真左】東之台
本丸の下に所在する郭で、自然地形を利用しながらさらに人工的に盛土されたものだろう。
なお、ここから左側の方に長い石塁が上に向かって伸びている。
【写真左】石塁・その1
上方の本丸に向かって伸びる石塁。
長岩城にはかなりの数の石塁が残るが、その中でも最長のもの。
【写真左】石塁・その2
場所によって大きさに多少のばらつきはあるが、高さは2m前後、幅は1m弱の規模。
【写真左】石塁と竪堀
傾斜が緩やかになった本丸近くの虎口付近から下方を撮ったもので、左側には竪堀が並列している。
このあといよいよ本丸に向かう。
【写真左】本丸平面図
下段の虎口付近から下に先ほどの石塁が繋がっている。
【写真左】虎口(城門)
下から伸びた石塁が終点となったところには虎口が待っている。
【写真左】腰郭
本丸直下の段で、概ね2か所で構成されているが、郭間は連絡されている。
【写真左】本丸
ほぼ円形に近いもので、奥には礎石がのこることから簡単な建物があったと思われる。
一角には「長岩城址修復記念之碑」と筆耕された石碑が建立されている。
多少の凹凸はあるが削平されている。
【写真左】もう一つの腰郭
登り口側とは別の腰郭で、北側に設置されている。
なおこの一角にも虎口があり、石垣で構成された犬走りから向かうようになっている。
このあと下山を兼ねて西之台に向かう。
【写真左】堀切
西之台方面のルートもかなりの急坂となる下り坂で、度々足をすくわれ尻もちをついた。
この堀切もそうした個所なので効果は大分あったのだろう。
【写真左】竪堀
西之台に向かう途中ではこうした石塁に囲まれた竪堀を通ることになる。
【写真左】西之台
西之台は東之台と大分雰囲気が違うもので、より実践的な遺構が残る。
狭義的解釈をすれば、東之台側が大手道で、西之台側が搦手道のような位置づけだろうか。
下からここに向かうまであまり防御的なものがないため、下段に示すようにこの付近には遺構が集約されている。
【写真左】堀切
上から見たもので、二段(二条)の堀切だろう。
【写真左】物見台
尾根筋の一画先端部に石塁を構築して下からの侵入を監視するようになっている。
【写真左】もう一つの堀切
先ほどのものとは別の箇所に設けられているもので、この箇所には相当意を用いている様子がうかがえる。
【写真左】下山
津民川にかかる「長岩城橋」を渡る。
なお、このあともう一つの見どころである陣屋跡や砲座跡が残る隣の山にも向いたいところだったが、時間的にも体力的にも限界だったので、残念ながら下山することにした。
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●高さ 530.8m(比高200m)
●築城期 建久9年(1198)
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏
●指定 中津市指定史跡
●遺構 石塁・砲座・虎口・竪堀・塹壕等
●登城日 2015年10月11日
◆解説(参考文献 『黒田官兵衛をめぐる65の城』中井均・萩原さちこ・吉田龍司共著タツミムック、諏訪勝則著『黒田官兵衛』中央公論新社等)
当城遺構の特徴の一つで、「原型が完全に遺る石塁」と書かれた標識が設置されている。
中津城(大分県中津市二ノ丁)の西麓を流れる山国川を遡っていくと、日本三大奇勝の一つ耶馬渓がある。一口に耶馬渓といっても大変に範囲が広く、本耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓・奥耶馬渓・椎屋耶馬渓・津民耶馬渓などが点在している。
このうち津民耶馬渓は、山国川支流の津民川水系にあり、その西側に隣接する峰に豊前・長岩城(以下「長岩城」とする。)が所在する。
【写真左】長岩城跡の図
現地に設置されているもので、この写真では文字が小さくて読めないかもしれないが、中央の細い渓流(なべもと谷)を挟んで、右に本丸・東之台・西之台があり、左側には今回踏査していないが、陣屋跡・馬場・砲座跡・石積櫓などが配置されている。
なお、同図は下方向が北を示す。
現地の説明板より
“○耶馬渓町・長岩城址保存会○
豊前の国の守護職宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与した。
重房は姓を野仲と改め建久9年(1198)に長岩城を創築した。以後野仲氏22代、390年間の居城となった。
この城は高い山や深い谷窪、岩壁等の天険の要害をとり入れ、石塁、砲座、塹壕等にて防備を補強した山城である。20余ヶ所に点在する石塁の長さh、延700m余の長さに達する。戦国時代の山城としては、九州における最大規模のものであり、尚銃眼のある石積櫓は全国に類例を見ない貴重な文化遺跡である。
【写真左】長岩城遠望
北麓にある入口付近から見たもので、右側の山に本丸があり、谷を隔てた左側の山に陣屋跡などがある。
野仲氏は次第に勢力を拡大し、下毛郡の政治軍事を掌握し、凡そ400年間、下毛郡の統治者として栄えた。全盛時代の所領支配は、宇佐郡、下毛郡の一部まで拡大した。
その間、元寇の役や、玖珠城の戦い、大友義鎮(宗麟)の来攻等で下毛郡の勇者としての強豪振りを発揮した。
然し天正16年(1588)には、後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の精兵3500騎の大軍に攻められ、迎え撃つ長岩軍は城主野仲兵庫守鎮兼以下一族郎党700余、与力雑兵800余、合せ総勢1500余、難攻不落を誇った堅城に楯籠り勇戦したが、多勢に無勢、遂に落城し、野仲一族は自決滅亡した。以後廃城となる。”
【写真左】専用駐車場
麓にはご覧のように数台駐車できる場所や便所などが設置されている。近年竣工したようだ。
保存会の皆さんの熱意が伝わってくる。感謝申し上げたい。
奥にある「おねがい」板には、
「急いでも半日はかかります。ましてごゆっくりと御覧になりますと一日は充分にかかると思います。…また非常に危険な場所もかなり御座いますので、危ないと思われたら絶対に行かないで下さい。…」
と書かれている。
野仲氏
長岩城の城主・野仲氏については、すでに城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたとおり、宇都宮氏の庶流である。そして、野仲氏からは内尾・友枝・三尾母(みおも)・野依(のより)・犬丸等の分流が輩出した。
ただ史料上に初めて登場するのは鎌倉時代後半期からで、『野仲文書』によると、南北朝時代に武家方(尊氏)に属して、玖珠城の大友貞順らを攻めたことなどが知られる。この頃は主家であった宇都宮城井氏の頼房時代が勢威を高めたときで、宇都宮庶家として頼房の傘下にあったのが、野仲氏をはじめ山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏などである。
【写真左】記帳所
登城口手前には津民川が流れ、橋が架けられている。その手前に記帳所がある。
遭難することはないと思うが、先ず記帳しておく。
長岩城の落城
説明板にもあるように長岩城での戦いで最も知られるのは戦国末期である。すなわち、落城することになった天正16年(1588)における黒田長政軍との攻防である。この戦いは、前述した城井ノ上城の戦いと連動するもので、その前年(天正15年)黒田官兵衛や小早川隆景らが、肥後一揆鎮圧に向かったあとである。
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官兵衛らが具体的に豊前国を出立し、肥後に向かった時期ははっきりしないが、この年(天正15年)の9月後半から10月上旬と思われる。
【写真左】登城開始
津民川の橋を渡り、鳥獣防護の柵がある入口から進むと、ご覧のような幟などが出迎えてくれる。
麓から急峻な地形になっているため、息が上がらない様ゆっくりと足を進める。
城井ノ上城・長岩城など宇都宮一族が一斉蜂起したとの報を官兵衛らが受けたのは、行軍途中の久留米城(福岡県久留米市)に陣を構えていたときである。この急報によって、もはや肥後国鎮圧どころではなくなった。
豊前国の蜂起は宇都宮(城井)一族を中心とするものだが、具体的には当城(長岩城)の野仲氏、犬丸城(中津市犬丸)の城主犬丸清俊、大畑城(同市加来)の城主賀来統直(むねなお)、田丸城(同市福島)の城主福島鎮充(しげみつ)ら地元国人領主たちである。
【写真左】一之城戸
城戸は虎口の一種だが、長岩城にはこの一之城戸をはじめ、二之城戸、三之城戸と3か所が設けられている。
概ね扁平な石を積んで塀を設け、敵の侵入を防いでいる。
戦いの経緯については詳細なものはないが、最初に城井ノ上城が陥れられ、その後本稿の長岩城が落城、次いで犬丸城が攻略されたといわれる。
なお、官兵衛方には途中から毛利軍(隆景)らの援軍が加わり、残りの大畑城や田丸城を一掃したという。官兵衛の息子長政は緒戦の城井ノ上城による戦いで失態を演じたが、その後の戦いで軍功を挙げ、秀吉から激賞され「御秘蔵之御馬」を送られた(『黒田家文書』)。
当城の特徴の一つである石塁が見えた。急斜面に崩れることなく丁寧に積み上げられている。
【写真左】三ケ月塹壕
二之城戸の近くには三ケ月塹壕という遺構が残っている。写真では分かりずらいが、Uの字を逆さまにした竪堀のような構造となっている。
【写真左】なべもと谷の渓流
登城道は本丸の左側を流れる急斜面の谷に沿って向かうコースになる。途中で2回ほどこの渓流を渡るようになっている。御覧のような場所なので、雨天時やその直後の登城は無理だろう。
なお、この写真の位置だったと思うが、左側の真上には古城ヶ鼻・馬場跡などが残っている。
【写真左】三之城戸
最終の城戸で、これを過ぎると谷筋からはなれて本丸側の斜面にコースを変える。
なお、三之城戸や二之城戸はなべもと谷を挟んで両側に石塁が構築され、挟むように配置されているが、最初に通過した一之城戸はなべもと谷の右側にのみ設置され、虎口は直角に曲がる。
【写真左】本丸直下付近の案内図
三之城戸を過ぎ、本丸に向かうには、左図のように東之台側から向かうコースと、西之台側から向かう二つのコースがある。
今回は反時計回り(東之台から)を選ぶ。
【写真左】東之台に向かう道
西之台に向かう分岐点を過ぎ、小さな谷を越えてしばらくトラバースする。周りには伐採や倒木などが散見され、道は踏み跡で自然にできたような状況だ。
【写真左】古城ヶ鼻側
周囲は植林された木々に覆われているが、途中で木立の間から反対側の奇岩の山が見える。おそらく古城ヶ鼻があるところだろう。
このさらに奥に津民耶馬渓があるが、長岩城そのものも地肌は凝灰岩で構成された山塊である。
【写真左】東之台
本丸の下に所在する郭で、自然地形を利用しながらさらに人工的に盛土されたものだろう。
なお、ここから左側の方に長い石塁が上に向かって伸びている。
【写真左】石塁・その1
上方の本丸に向かって伸びる石塁。
長岩城にはかなりの数の石塁が残るが、その中でも最長のもの。
【写真左】石塁・その2
場所によって大きさに多少のばらつきはあるが、高さは2m前後、幅は1m弱の規模。
傾斜が緩やかになった本丸近くの虎口付近から下方を撮ったもので、左側には竪堀が並列している。
このあといよいよ本丸に向かう。
【写真左】本丸平面図
下段の虎口付近から下に先ほどの石塁が繋がっている。
【写真左】虎口(城門)
下から伸びた石塁が終点となったところには虎口が待っている。
【写真左】腰郭
本丸直下の段で、概ね2か所で構成されているが、郭間は連絡されている。
【写真左】本丸
ほぼ円形に近いもので、奥には礎石がのこることから簡単な建物があったと思われる。
一角には「長岩城址修復記念之碑」と筆耕された石碑が建立されている。
多少の凹凸はあるが削平されている。
【写真左】もう一つの腰郭
登り口側とは別の腰郭で、北側に設置されている。
なおこの一角にも虎口があり、石垣で構成された犬走りから向かうようになっている。
このあと下山を兼ねて西之台に向かう。
【写真左】堀切
西之台方面のルートもかなりの急坂となる下り坂で、度々足をすくわれ尻もちをついた。
この堀切もそうした個所なので効果は大分あったのだろう。
【写真左】竪堀
西之台に向かう途中ではこうした石塁に囲まれた竪堀を通ることになる。
【写真左】西之台
西之台は東之台と大分雰囲気が違うもので、より実践的な遺構が残る。
狭義的解釈をすれば、東之台側が大手道で、西之台側が搦手道のような位置づけだろうか。
下からここに向かうまであまり防御的なものがないため、下段に示すようにこの付近には遺構が集約されている。
【写真左】堀切
上から見たもので、二段(二条)の堀切だろう。
【写真左】物見台
尾根筋の一画先端部に石塁を構築して下からの侵入を監視するようになっている。
【写真左】もう一つの堀切
先ほどのものとは別の箇所に設けられているもので、この箇所には相当意を用いている様子がうかがえる。
【写真左】下山
津民川にかかる「長岩城橋」を渡る。
なお、このあともう一つの見どころである陣屋跡や砲座跡が残る隣の山にも向いたいところだったが、時間的にも体力的にも限界だったので、残念ながら下山することにした。
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