2020年5月31日日曜日

出雲・諏訪城(島根県雲南市大東町須賀須我山)

出雲・諏訪城(いずも・すわじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町須賀須我山
●別名 須賀城、須我城
●高さ H:211m(比高80m)
●築城期 興国年間(1340~46)
●築城者 菅孫三郎義綱
●城主 菅氏等
●遺構 郭、堀切、竪堀、虎口等
●備考 須賀神社
●登城日 2017年1月2日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第14巻』)
 出雲・諏訪城(以下『諏訪城』とする。)は、前稿八雲山(島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀)から南西2キロほど向かった雲南市大東町の須賀神社後背に築かれた山城である。
 当城に関する史料はあまり多くないものの、築城期は南北朝時代の興国年間(1340~46)とされ、築城者は菅孫三郎義綱といわれる。
【写真左】義綱神社
 本丸付近に設置された小祠で、築城者とされる菅孫三郎義綱を祀る。







菅氏(すがし)

 菅氏は以前紹介した三笠城(島根県雲南市大東町南村) の城主・牛尾氏の一族といわれ、牛尾氏の始祖は信濃・中沢氏である。中沢氏は豪族神氏の一族とされ、本拠地は信濃国伊那郡中沢郷、現在の長野県駒ケ根市中沢地区である。
 因みに、この中沢地区から天竜川を越え、南におよそ12キロほど下った上伊那郡飯島本郷には、三沢城(島根県奥出雲町仁多三沢 )の城主となる同氏の始祖、信濃・飯島氏の居城・飯島城がある。
【写真左】諏訪城遠望
 南麓の須我神社参道側から見たもので、本殿の後背の小山が諏訪城となる。






 下向した時期については鎌倉期の承久の乱後で、いわゆる新補地頭として中沢真直が当地に移ったと伝える。下向した具体的な年月日は記録されていないが、このころおなじ信濃国から新補地頭として下向した三刀屋氏(三刀屋じゃ山城 その2 参照)、すなわち源助長が承久3年(1221)9月4日、同国三刀屋郷に入っているので、中沢(牛尾氏)もそのころと考えられる。
【写真左】須我神社・本殿
 楼門前の大きな石には「日本初之宮」と刻まれた石碑があり、八岐大蛇を退治した須佐之男命が、この地に宮を造り、「須賀宮」と命名、のちに「須我神社」となったという。

 「日本初之宮」については、真偽のほどはともかく、古事記・日本書紀に著されているところから相当古い宮であることは間違いない。


 真直の子・信濃守の娘に、玉造の湯氏初代頼清玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上)参照) の子・清信が婿として入り諏訪姓を名乗ったという。その後大原郡の佐世に移り、 金剛城(佐世城(島根県雲南市大東町下佐世) 参照)を居城とし佐世氏を名乗った。
 
 中沢氏はその後牛尾氏を名乗り、同族から今稿の諏訪城の城主・菅氏が出ている。そして、同氏の中から菅孫三郎義綱、菅四郎左衛門尉などが記録されている。

 この中沢氏が出雲国と関わった初見としては、
  • 正和2年(1313)7月7日、六波羅探題が淀本荘(よどほんのしょう)(牛尾荘)の雑掌・経範と地頭・中沢氏との相論を裁定し、中沢氏の地頭職を承認する(「集古文書」)。
 という記録があるが、これは旧来からあった荘園所有管理の荘官(雑掌)と、新たに下向してきた地頭職との土地を巡る争いで、鎌倉時代以降各地で勃発したトラブルの一例である。こうした記録を見ると、中沢(牛尾)氏も地頭職として安定した領地経営はすぐにはできなかったことが推察される。
 因みに、淀本荘は「旧島根県史」(第6)によれば、諏訪城を中心とした現在の薦沢・須賀・山王寺・北村・小河内・刈畑・中湯谷地域に比定している。
【写真左】登城口
 須賀神社の右側(東)の裏に回ると、御祖神社・社日神社と書かれた鳥居がある。

 また左側には両社と併せて、築城者である菅義綱を祀る義綱神社の案内板も掲げられている。
 登城道でもあるが、参道も兼ねている。


遺構

 諏訪城は写真で紹介するように小規模な部類の城郭である。主な遺構としては、郭が尾根上に数か所あり、手前には大分埋まっているが堀切があり、見どころとしては主郭の後背即ち搦手側に横堀や竪堀群がある。
 諏訪城の搦手から北東部へ向かうと八所(はっそ)という地区があるが、この個所には大屋敷・下屋敷・殿居などの地名が残っているので、平時の住まいはこの付近であったものと思われる。
 因みに、この八所からさらに北東部に向かうと、前稿で紹介した八雲山に至る。
【写真左】登城道
 尾根にたどり着くと少し登坂だが、ほぼまっすぐな道が続く。
【写真左】最初の堀切
 しばらくすると、登城道の両端側に堀切跡が見えてくる。

 写真はそのうち左側の部分だが、当時はもっと深く抉られていたと思われる。
【写真左】2番目の堀切
 最初の堀切を越えて、さらに奥に進むと次第に傾斜は緩やかになる。途中でもう一つの堀切が見える。

 いずれの堀切も現在の参道(登城道)を整備する際、断ち切っていた堀切は歩きやすくするため、道の箇所(尾根筋)は埋められてしまったようだ。
【写真左】御祖神社
 参道を進んでいくと正面に小郭が現れた。中央部に御祖神社が祀られている。
【写真左】左側にも小祠
 御祖神社の左側にも小祠が祀られている。
【写真左】義綱神社への案内標識
 上記の郭から北東方向に道があり、手前に義綱神社への案内板が設置されている。
【写真左】鞍部
 道中一旦低くなった箇所があり、自然地形の鞍部とも思えるが、浅い堀切だった可能性もある。
【写真左】主郭
 鞍部を過ぎると再び登り勾配の道を少し進むと、やがて主郭と思われる郭が見えてくる。
【写真左】東の段
 主郭の東側にはやや不定形な段が接する。腰郭の役目を果たすものだろう。
【写真左】義綱神社・その1
 奥に義綱を祀る神社(祠)が建立され、手前には「南朝忠臣 菅孫三郎義綱公御社」と書かれた標柱が建っている。
【写真左】義綱神社・その2 冒頭の写真にもあるように、当城の最高所と思われる個所に御覧の義綱神社が祀られている。

 これとは別に、東側にもこの写真にもあるように小祠が祀られている。この位置は主郭から少し下がった郭になる。
【写真左】横堀・その1
 主郭から東の段を経てさらに下がると、北に向かって伸びる横堀がある。
【写真左】横堀・その2
 横堀をさらに北に進んでみた箇所で、思った以上に長く構築されている。
【写真左】竪堀
 横堀から東に登って行くと、一条の竪堀が見えた。

 この付近にはこれ以外に数本あるようだが、藪状態なので写真はこれだけ。
【写真左】堀切
 北東方向に伸びる尾根筋に設けられたもので、右側にも浅い堀切があるので、この個所には二条の堀切が配置されている。
【写真左】主郭(義綱神社)を見上げる。
 横堀や竪堀のある東側斜面から見たもの。

 



2020年5月13日水曜日

八雲山(島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀)

八雲山(やくもやま)

●所在地 島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀
●高さ H:426m(比高250m)
●築城期 永禄6年(1563)ごろ
●築城者 毛利元就
●遺構 郭等
●備考 須我神社奥宮、和歌発祥地「八雲山」
●登城日 2017年1月2日

◆解説
 八雲山については以前出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1 で少し触れているが、熊野城から北西方向へ直線で約1.5㎞ほどむかった位置に所在する山である。
 島根県遺跡データーベースでは城郭としては登録されていないが、熊野城が落城した際、毛利方が当山に拠って戦った記録があり、遺構の同定等はともかく、陣所として使われた場所である。
【写真左】八雲山遠望・その1
 西側の雲南市大東町側から見たもので、中央部が伐採されているのがよく分かる。




現地の説明板より ①

”八雲山
 標高426mの山頂からは周囲の宍道湖、中海、大山、中国山脈が木々の間から見わたせる眺望のすばらしい場所です。
 「古事記」によると、須佐之男命は山岐の大蛇を退治、稲田姫を妻にし、宮殿建立の地を求め大東町須賀へ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」と詠まれた和歌発祥の地であり、国名「出雲」もこの歌にちなんだものです。
 山も八雲山と称し、また中腹に巨大な霊石が二基あって、これを夫婦岩と言います。
     雲南市”
【写真左】八雲山と熊野城配置図
 北側にある熊野神社に設置された案内図で、八雲山に向かうには、熊野城へ向かう県道53号線の途中に案内標識が出ている。
 また、これとは別に西側(雲南市大東町)から向かう道もある。管理人はこの日(2017年1月2日)西側(県道24号線)から向かった。


現地の説明板より ②

❝和歌発祥地「八雲山」について
 出雲国八雲山は、素戔嗚尊によって

  八雲立つ出雲八重垣妻籠によって
      八重垣作るその八重垣を

 の短詩が詠われ、三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風(くにぶり)となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。
 伝承神話によれば、素戔嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥(たらい)に結び、梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して“八雲立つ″の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し、我国弦楽の濫觴(はじめ)として古式"歌祭り"に伝わった。
 八雲山の伝承を世に顕彰したのは、大本の出口王仁三郎聖師で、昭和8年(10月10日)、次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤れる官憲の弾圧を受け破壊されている。)

 千早ぶる神の聖跡(みあと)をしたひつつ 八雲の山に吾が来つるかも
 八雲立つ出雲の歌の生まれたる 須賀の皇居(みやい)の八重垣のあと
 大山はみ空に霞み海は光る 出雲の国は錦の秋なり

 悠久の太古最初の和歌を生んだ八雲山上の風光は、今に明媚なること天下第一で、発祥の和歌に秘められた平和なこころを伝えている。
 昭和40年10月
   八雲山顕彰保存会❞
【写真左】熊野城側から北西に八雲山を遠望する。
 右に熊野城があり、その左側の麓には奥に進む道が見えるが、残念ながらこの道は八雲山には直接アクセスすることはできない。


 上掲した二つの説明板にもあるように、八雲山は出雲神話である八岐大蛇伝説や、和歌発祥の地として所縁が深く、またに西麓に鎮座する須賀(須我)神社との関係も深く、『出雲風土記』に出てくる「須我山」の主峰で当社の奥宮とされている。
【写真左】登山口
 雲南市大東町側の県道24号線から向かう道があり、要所に案内標識があったのでこれを頼りに進むと、かなり高度を上げた位置まで道が続く。
 写真は登山口の駐車場。

 
遺構

 写真でもわかるように、頂上部には現在「八雲叢舎」という研修施設のようなものが建っており、そのころ周辺部が改変された可能性もあるが、それでも山城遺構らしき郭段や帯郭状のものが散見されるため、熊野城攻めの際、毛利方が当山(当城)を一時的にせよ戦のための向城として手を加えた可能性が高い。
【写真左】尾根分岐点
 登って行くと尾根にたどり着く。右方向が八雲山に向かい、反対側の道は松江市(熊野神社方面)からの道となっている。




熊野城の落城

 ところで、出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1 で少し触れたように、当城が史料上記録されているのは、永禄から元亀年間の頃である。
  • 永禄6年(1563)12月20日、毛利元就は吉川元春の出雲国白潟・熊野での軍功を賞する(『吉川家文書』)。
 これは、当時毛利軍が尼子方の支城の一つ白鹿城(島根県松江市法吉町) 攻めの際に発給されたもので、この年10月29日、白鹿城は落城した。
 この後は、山中鹿助らが起こした尼子再興軍との戦いで、元亀元年(1570)2月、毛利輝元が布部要害山城・島根県安来市広瀬町布部 で鹿助を破った後、再興軍が死守していた牛尾城(三笠城(みかさじょう)その2 参照)、熊野城、及び高瀬城(島根県斐川町) などを攻略していった記録である。このうち熊野城関係だけを拾うと次の記録がある。

  1. 元亀元年(1570)4月20日、毛利輝元、冷泉元満(冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生) 参照)に対して、牛尾城攻略のこと、熊野城・高瀬城で城を数城造らせ通路をふさいだので、ほどなく落城するだろうことなどを伝え、島根へ陣替えすべしと命ず(『萩閥108』)。
  2. 同年7月22日、小早川隆景、一昨夜山中鹿介ら熊野城へ兵糧を搬入しようとしたが、約束の場所を間違えて引き返したという湯原春綱(満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)参照) の報告を謝し、末次城の普請に応じられるよう準備すべしと伝える(『萩閥115』)。
  3. 同年9月3日、尼子方の熊野城が落城する(『萩閥151』)。
【写真左】段
 登って行く途中の左側に見えたもので、郭のようにも見える。
【写真左】広場が見えてきた。
 ほぼ直線コースの登山道で、階段が設置されているため歩きやすい。
 登りきると、途端に視界が広がり広場が出てきた。
 右側に建物が見える。
【写真左】正面には一段と高くなった段が
ある
【写真左】研修館
文字が薄くなっているが「八雲叢舎」と読める。
【写真左】正面の階段を登る。
【写真左】主郭か
 登りきると、奥に2m前後高くなった段が見える。
【写真左】出口王任三郎関係の石碑
 東側には昭和8年10月10日、上記説明板の和歌三首を刻んた歌碑などが建立されている。
【写真左】東側
【写真左】西側
 このあと東側から少し尾根伝いに降りてみる。
【写真左】主郭南端部
 この位置で1m程度下がった段になる。
【写真左】帯郭か
 主郭からさほどの高低差はないが、少し低くなった位置に、南北に長い郭状のものが繋がる。
【写真左】郭段
 小規模なものだが、上と下にそれぞれ段が認められる。
【写真左】熊野城を俯瞰する。
 八雲山は標高426mで、熊野城が280mなので、当山に陣を張った毛利方としては、この位置からは熊野城の搦手の様子も見ることができたのだろう。
【写真左】八雲山から常栄寺などを遠望する。
 この位置からでは見えないが、手前に熊野神社があり、その北隣に常栄寺及び普済寺が見える。
 常栄寺は尼子経久が開山した寺で、のちに大東の阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内) の戦いで戦死した経久の長男政久の墓が祀られている。
 普済寺は、出雲札所第16番の寺。
【写真左】常栄寺と普済寺
【写真左】尼子政久の墓


【写真左】八雲山から北方に松江市街地を遠望する。
 天気が良いと松江市街地、中海、宍道湖などが見えるようだが、この日は靄がかかって鮮明でない。




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2020年5月3日日曜日

但馬・轟城(兵庫県豊岡市竹野町轟字城山)

但馬・轟城(たじま・とどろきじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市竹野町轟字城山 
●別名 青葉城
●高さ H:147.1m(比高 130m)
●築城期 不明(永享2年(1430)か)
●築城者 不明(垣屋国時又は豊茂か)
●城主 垣屋豊続
●遺構 郭・堀切・竪堀・土塁等
●備考 秋葉神社
●登城日 2016年12月19日

解説(参考資料 第20回国史跡指定記念見学会 竹野・轟(青葉)城跡見学会(山名氏城跡保存会主催)資料(2015年8月23日)等)

 但馬・轟城(以下「轟城」とする。)は、垣屋氏の居城であったといわれている。場所は、日本海に注ぐ竹野川とその支流大谷川の間に挟まれた標高150m足らずの青葉山に築かれている。
【写真左】轟城鳥瞰図
 縄張図を基に管理人が描写したもので、この図では描いていないが、南側から大谷川が流れ、東側で竹野川と合流している。


 築城者は垣屋隆国の三男国時が築城した(『因幡垣屋系図』)とされているが、史料的には確認できていない。城主として確認できているのが、駿河守豊続(宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)参照) だけで、『高畑垣屋文書』では、豊保→豊続→知継が駿河家の系譜と記されている。

城の構造

 当城の縄張構成は特徴的なものは見られないが、鳥瞰図にもあるように、主郭(A)から(E)までの郭は規模は中規模ながら、施工精度もよく、保存状態も良好である。
主郭には現在秋葉神社が祀られている。参考までに主だった郭の規模を下段に示す。
  • 主郭(A) 南北45m×東西25m
  • B郭    南北22m×37m
  • C郭    南北44m×26m
  • D郭    29m×18m
  • E郭    43m×10m
 このほか主郭を挟んで、北西の尾根筋に堀切が3か所あり、南西のには小郭3段のあと東の尾根に1条の堀切(大手筋)、また南に分かれる尾根筋に2条の堀切が構築されている。
写真左】轟城遠望
 東麓側を南北に走る日高竹野線(1号線)から見たもので、手前の橋の下を流れるのは竹野川。写真の右方向が下流で日本海へそそぐ。
【写真左】登城開始
 当初東麓側に登城道があるものと思い周辺部を探索したが見つからず、南麓側を流れる竹野川支流の大谷川沿いまで回り込んだ。
 しばらくすると、木製の橋が架かっているところを見つけ、それらしき道があったので進んだ。
 ところが、これは途中にある墓地専用の道で、この先には道がなく、やむを得ず藪コギ覚悟の道なき道をひたすら登って行く。
【写真左】尾根筋にたどり着く。
 途中で旧道らしき窪道が確認できたが、現地は孟宗竹などの繁茂で度々行く手を阻まれ、かなり体力を消耗した。
 やっとたどり着いたのが御覧の尾根筋。主郭から南東方向に伸びる尾根で、上図鳥瞰図でいえば、郭(G群)の先端部に当たる。
【写真左】南東尾根先端部の郭
 さきほどの尾根筋から一旦下っていくと、まとまった小規模な郭が出てきた。郭(G群)の一つと思われ、この尾根軸を更に下ると2条の堀切があり、また尾根軸の右下にも一条の堀切が配置されているが、当日はそこまで向かっていない。
 このあと主郭をめざして登って行く。
【写真左】南東側郭
 上掲した鳥瞰図では小規模な郭群として描写しているが、この個所は尾根幅が狭いものの、長軸は3か所の郭が連続していることもあり全長では50~60m前後ある。
【写真左】郭と堀切
 郭(G)群の最高所付近で、東に向かって堀切が残る。
 このあと、しばらく九十九折しながら主郭の方向へ向かう。
【写真左】主郭の南東端が見えてきた。
【写真左】主郭・その1
 南側から見たもので、右下には後ほど紹介する郭(C)が控える。
【写真左】主郭・その2
 光線の具合で分かりずらいが、中央やや左に秋葉神社が祀られている。
【写真左】主郭北側
 左側には秋葉神社の建物が見える。この右下には後段で紹介する郭(B)が控える。
【写真左】郭(C)から主郭を見上げる。
左側には主郭に向かう道が見え、その開口部は虎口の跡を残している。
 なお、この位置から右側に向かうと郭(B)に繋がる。
【写真左】郭(C)
 主郭下の郭で、奥行きはさほどないが、幅がある。
【写真左】郭(B)
 郭(C)から北西の方向に向かうと、細長い郭(B)が配置されている。
 このあと、先端部まで進んでみる。
【写真左】堀切
 郭(B)の先をさらに尾根伝いに降りて行くと堀切が見える。写真では樹木があるため分かりにくい。
【写真左】堀切側から郭(E)の方へ回り込む。
 堀切のほぼ最下点辺りまできたところで、高度を上げずそのまま切岸面をトラバースし、郭(E)の方向へ向かう。
【写真左】郭(E)
 上段の郭に比べ、劣化が進んでいるが、細長い形状は残している。
【写真左】郭(D)
 郭(E)から再び上に上がり、郭(D)を見る。ちょうど郭(C)に繋がる連絡路が見える。
【写真左】下城開始
 この途中には小規模な単発の郭や、竪堀群などもあるが、明瞭な写真が撮れなかったため割愛させていただく。
 下城コースは、登城コースとは反対側、すなわち大手と思われる東側の方へ降りるようになっている。
【写真左】鳥居
 降りてくると、鳥居が建っている。結局下城コースは、主郭に祀られている秋葉神社への参道だったことになる。
 鳥居には、宝暦の年号が刻まれている。
さらにその下には、
「別當 蓮華寺朝禅」
と筆耕された文字が確認できる。宝暦は、江戸期の寛延後の1751~64年の期間で、鳥居と同じころ、主郭に秋葉神社が祀られたものだろう。
 この鳥居を寄進した蓮華寺とは、轟城の東麓に所在する古刹である。

峰山 蓮華寺

 但馬西国第31番霊場で、木月道人(もくげつどうじん)の書画・襖絵で飾られていることから別名木月寺とも呼ばれている同寺は、慶雲4年(707)行基開創と伝わる。
 大門坊、宝積院、鎮守社拝殿、本坊、松尾坊、愛染堂、不動堂といった多くの坊舎等があったが、現在はほとんどその跡を残すのみである。
【写真左】蓮華寺入口付近
【写真左】参道
 当院とは別に、北側には「阿古谷神社」「森神社」が祀られている。神仏混交の時代を残しているのだろう。
【写真左】蓮華寺の文化財説明板
当院には多くの文化財が残る。


 主だったものとしては、次のものがある。



①絹本著色大日如来像(鎌倉時代後期)
絹本著色愛染明王像(鎌倉時代末期)
③木造聖観音菩薩立像(平安時代中期から後期)
④木造十一面観音菩薩立像(平安時代後期)
⑤その他


【写真左】不動堂跡付近


【写真左】蓮華寺から轟城を遠望する。