2020年5月13日水曜日

八雲山(島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀)

八雲山(やくもやま)

●所在地 島根県松江市八雲町~雲南市大東町須賀
●高さ H:426m(比高250m)
●築城期 永禄6年(1563)ごろ
●築城者 毛利元就
●遺構 郭等
●備考 須我神社奥宮、和歌発祥地「八雲山」
●登城日 2017年1月2日

◆解説
 八雲山については以前出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1 で少し触れているが、熊野城から北西方向へ直線で約1.5㎞ほどむかった位置に所在する山である。
 島根県遺跡データーベースでは城郭としては登録されていないが、熊野城が落城した際、毛利方が当山に拠って戦った記録があり、遺構の同定等はともかく、陣所として使われた場所である。
【写真左】八雲山遠望・その1
 西側の雲南市大東町側から見たもので、中央部が伐採されているのがよく分かる。




現地の説明板より ①

”八雲山
 標高426mの山頂からは周囲の宍道湖、中海、大山、中国山脈が木々の間から見わたせる眺望のすばらしい場所です。
 「古事記」によると、須佐之男命は山岐の大蛇を退治、稲田姫を妻にし、宮殿建立の地を求め大東町須賀へ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」と詠まれた和歌発祥の地であり、国名「出雲」もこの歌にちなんだものです。
 山も八雲山と称し、また中腹に巨大な霊石が二基あって、これを夫婦岩と言います。
     雲南市”
【写真左】八雲山と熊野城配置図
 北側にある熊野神社に設置された案内図で、八雲山に向かうには、熊野城へ向かう県道53号線の途中に案内標識が出ている。
 また、これとは別に西側(雲南市大東町)から向かう道もある。管理人はこの日(2017年1月2日)西側(県道24号線)から向かった。


現地の説明板より ②

❝和歌発祥地「八雲山」について
 出雲国八雲山は、素戔嗚尊によって

  八雲立つ出雲八重垣妻籠によって
      八重垣作るその八重垣を

 の短詩が詠われ、三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風(くにぶり)となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。
 伝承神話によれば、素戔嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥(たらい)に結び、梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して“八雲立つ″の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し、我国弦楽の濫觴(はじめ)として古式"歌祭り"に伝わった。
 八雲山の伝承を世に顕彰したのは、大本の出口王仁三郎聖師で、昭和8年(10月10日)、次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤れる官憲の弾圧を受け破壊されている。)

 千早ぶる神の聖跡(みあと)をしたひつつ 八雲の山に吾が来つるかも
 八雲立つ出雲の歌の生まれたる 須賀の皇居(みやい)の八重垣のあと
 大山はみ空に霞み海は光る 出雲の国は錦の秋なり

 悠久の太古最初の和歌を生んだ八雲山上の風光は、今に明媚なること天下第一で、発祥の和歌に秘められた平和なこころを伝えている。
 昭和40年10月
   八雲山顕彰保存会❞
【写真左】熊野城側から北西に八雲山を遠望する。
 右に熊野城があり、その左側の麓には奥に進む道が見えるが、残念ながらこの道は八雲山には直接アクセスすることはできない。


 上掲した二つの説明板にもあるように、八雲山は出雲神話である八岐大蛇伝説や、和歌発祥の地として所縁が深く、またに西麓に鎮座する須賀(須我)神社との関係も深く、『出雲風土記』に出てくる「須我山」の主峰で当社の奥宮とされている。
【写真左】登山口
 雲南市大東町側の県道24号線から向かう道があり、要所に案内標識があったのでこれを頼りに進むと、かなり高度を上げた位置まで道が続く。
 写真は登山口の駐車場。

 
遺構

 写真でもわかるように、頂上部には現在「八雲叢舎」という研修施設のようなものが建っており、そのころ周辺部が改変された可能性もあるが、それでも山城遺構らしき郭段や帯郭状のものが散見されるため、熊野城攻めの際、毛利方が当山(当城)を一時的にせよ戦のための向城として手を加えた可能性が高い。
【写真左】尾根分岐点
 登って行くと尾根にたどり着く。右方向が八雲山に向かい、反対側の道は松江市(熊野神社方面)からの道となっている。




熊野城の落城

 ところで、出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1 で少し触れたように、当城が史料上記録されているのは、永禄から元亀年間の頃である。
  • 永禄6年(1563)12月20日、毛利元就は吉川元春の出雲国白潟・熊野での軍功を賞する(『吉川家文書』)。
 これは、当時毛利軍が尼子方の支城の一つ白鹿城(島根県松江市法吉町) 攻めの際に発給されたもので、この年10月29日、白鹿城は落城した。
 この後は、山中鹿助らが起こした尼子再興軍との戦いで、元亀元年(1570)2月、毛利輝元が布部要害山城・島根県安来市広瀬町布部 で鹿助を破った後、再興軍が死守していた牛尾城(三笠城(みかさじょう)その2 参照)、熊野城、及び高瀬城(島根県斐川町) などを攻略していった記録である。このうち熊野城関係だけを拾うと次の記録がある。

  1. 元亀元年(1570)4月20日、毛利輝元、冷泉元満(冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生) 参照)に対して、牛尾城攻略のこと、熊野城・高瀬城で城を数城造らせ通路をふさいだので、ほどなく落城するだろうことなどを伝え、島根へ陣替えすべしと命ず(『萩閥108』)。
  2. 同年7月22日、小早川隆景、一昨夜山中鹿介ら熊野城へ兵糧を搬入しようとしたが、約束の場所を間違えて引き返したという湯原春綱(満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)参照) の報告を謝し、末次城の普請に応じられるよう準備すべしと伝える(『萩閥115』)。
  3. 同年9月3日、尼子方の熊野城が落城する(『萩閥151』)。
【写真左】段
 登って行く途中の左側に見えたもので、郭のようにも見える。
【写真左】広場が見えてきた。
 ほぼ直線コースの登山道で、階段が設置されているため歩きやすい。
 登りきると、途端に視界が広がり広場が出てきた。
 右側に建物が見える。
【写真左】正面には一段と高くなった段が
ある
【写真左】研修館
文字が薄くなっているが「八雲叢舎」と読める。
【写真左】正面の階段を登る。
【写真左】主郭か
 登りきると、奥に2m前後高くなった段が見える。
【写真左】出口王任三郎関係の石碑
 東側には昭和8年10月10日、上記説明板の和歌三首を刻んた歌碑などが建立されている。
【写真左】東側
【写真左】西側
 このあと東側から少し尾根伝いに降りてみる。
【写真左】主郭南端部
 この位置で1m程度下がった段になる。
【写真左】帯郭か
 主郭からさほどの高低差はないが、少し低くなった位置に、南北に長い郭状のものが繋がる。
【写真左】郭段
 小規模なものだが、上と下にそれぞれ段が認められる。
【写真左】熊野城を俯瞰する。
 八雲山は標高426mで、熊野城が280mなので、当山に陣を張った毛利方としては、この位置からは熊野城の搦手の様子も見ることができたのだろう。
【写真左】八雲山から常栄寺などを遠望する。
 この位置からでは見えないが、手前に熊野神社があり、その北隣に常栄寺及び普済寺が見える。
 常栄寺は尼子経久が開山した寺で、のちに大東の阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内) の戦いで戦死した経久の長男政久の墓が祀られている。
 普済寺は、出雲札所第16番の寺。
【写真左】常栄寺と普済寺
【写真左】尼子政久の墓


【写真左】八雲山から北方に松江市街地を遠望する。
 天気が良いと松江市街地、中海、宍道湖などが見えるようだが、この日は靄がかかって鮮明でない。




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