2019年3月27日水曜日

東川城(香川県木田郡三木町朝倉字吉谷)

東川城(ひがしかわじょう)

●所在地 香川県木田郡三木町朝倉字吉谷
●高さ H:110m(比高:15m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 植田美濃守安信
●形態 丘城
●遺構 郭
●廃城 天正10年(1582)
●登城日 2016年7月10日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 東川城が所在する三木町は、香川県の中央部からやや東に位置する町で、南北19キロ、東西5キロ前後と細長い形の町域を持つ。西隣が高松市で、東隣がさぬき市となる。
 三木町を南北に縦断するのが、吉田川でこの川をのぼっていき、ほぼ中流域となる朝倉に東川城がある。
【写真左】東川城遠望
 北側から見たもので、左側は切通された県道42号線が走る。

 因みに、東川城は前稿戸田山城(香川県高松市東植田町南城)から東へおよそ1キロほど離れた位置に所在する。


現地の碑文より

“城址由来

 植田城と共に元亀―天正年間 植田美濃守安信公の居城にして当時、旧山田郡・三木郡・香川郡の一部を領し代々善政をしく 天正10年秋、土佐の将長曾我部元親の侵攻を受け将兵果敢に大軍を迎え撃つもついに力尽き壮烈な最期を遂ぐ。その名は今もなお世に惜しまれている。

高松市番町 剣道10段範士 勲三等 植田平太郎  長女 信子 記”

【写真左】道路側から見る。
 南側から見たもので、以前は道路を挟んだ右側の丘陵とつながっていたものと思われる。

 ちなみに、右側の丘陵先端部の高さは東川城の頂部とほぼ同じだが、その先(東方)はゴルフ場があるため当時の状況は分からない。



植田美濃守安信

 前稿戸田山城(香川県高松市東植田町南城) で紹介した植田氏の居城といわれる。上掲した碑文にはこの東川城を居城としたのが植田美濃守安信とされ、長曾我部の侵攻において力尽き最期を遂げたとある。
 しかし、東川城の規模・形状を見る限り、同氏の居城とするには少し無理があるように思われる。というのも、写真でも分かるように、南北を走る道路とその西に流れる川の間にあって、狭小なこの丘城を見る限り居城としては、あまりにも小規模で不似合いであるからである。
【写真左】「東川城」の石碑
 道路わきに階段があり、その左側に設置してある。
 なお、これとは別に碑文を記したものがあるが、この日は草丈が伸びすぎてその場所を確認することはできなかった。
 このためHP『城郭放浪記』の写真より抄出させていただいた。いつもながらお礼申し上げます。

  
 やはり、植田氏が居城としていたのは、戸田山城(香川県高松市東植田町南城) および、その麓にあった戸田城(館)であろう。そして東川城はあくまでも支城としての機能を持ったもので、同氏家臣が守城していたと考えられる。

 ところで、この植田美濃守安信(以下「植田安信」とする)は、別名景隆ともいわれ、天正14年の九州における戸次川の戦い(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次) 参照)に参戦している。従って、天正10年の長曾我部軍の讃岐侵攻の際は、亡くなってはおらず、秀吉の配下にあった仙谷秀久の一軍として九州へ赴いている。
【写真左】階段
 この階段を登って行く。
【写真左】北側の斜面
 登って行くと、右側に大きな岩の塊が見える
【写真左】主郭手前
 階段があるのはここまでで、ここから手すりを伝って上に登る。
【写真左】主郭・その1
 主郭とされる頂部は削平とまではいかないが、なだらかな面となっている。規模はおよそ7,8m前後の円形。
【写真左】祠
 主郭には二つの祠が祀られている。記銘されたものがないため分からないが、おそらく植田氏を祀ったものだろう。
【写真左】主郭・その2
 階段から登ってきた入口付近で、虎口に当たる箇所。
【写真左】西側先端部
 川(吉田川)方向へ伸びる郭。
【写真左】北側
 この先は急峻な崖となっている。

 このあと、一旦降りて河原側へ向かう。
【写真左】西麓
 以前は畑地となっていたような状況だが、当時(中世)はこの付近も川もしくは河原だったのだろう。
 左側が東川城の切岸で、右の竹藪側に吉田川が流れる。
【写真左】遠望
 再度南側から見たもの。

2019年3月24日日曜日

戸田山城(香川県高松市東植田町南城)

戸田山城(とだやまじょう)

●所在地 香川県高松市東植田町南城・木田郡三木町朝倉
●高さ H:245m(170m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 植田氏
●城主 植田氏
●遺構 郭・堀切
●備考 戸田城
●登城日 2016年10月30日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 屋嶋城の南西麓で瀬戸内に注ぎ込む主な川は3本ある。東から新川、春日川、そして詰田川である。このうち、中央を流れるのが西植田町を源流とする春日川である。そして、この春日川の途中で合流するのが三木町と接する東植田町にある城池(じょういけ)から流下する朝倉川である。
 戸田山城はこの城池を北に見下ろす位置に築城された標高240m余の城郭である。
【写真左】戸田山城遠望
 北麓側から見たもの。









植田氏

 戸田山城の城主は植田氏といわれている。
 植田氏についてはすでにこの近くにある王佐山城(香川県高松市西植田町)で紹介しているが、讃岐国造(神櫛皇子)の末裔ともいわれている。平安時代末期の屋島の源平合戦では源氏方として活躍しているので、かなり古くから当地を治めていた土豪と思われる。
【写真左】「戸田城址之碑」
 北麓側には平時の住まいとされる「戸田城」があり、その場所には御覧の石碑が建つ。

 管理人は戸田城側の踏査はしていないが、屋敷跡らしき段や堀などの遺構が残っているようだ。
 HP『城郭放浪記』氏が、この戸田城の写真をアップされているのでご覧いただきたい。
 参考までに件の碑文を抄出しておく(◇印:判読不能)。

‟戸田城址之碑
景行天皇皇子神櫛◇讃岐國造の始祖にして◇其の第三世須賣保禮命◇初代讃岐國造となる 命の嫡流讃岐朝臣永成の後裔殖田氏を称し世々東讃の雄として名を馳せたり

源平合戦の時  植田若狭守
戦国争乱の時  植田美濃守

◇の戸田城の城主として善政を布く

昭和五十二年丁巳一月”



 室町期に至ると、細川氏が讃岐国の守護職となり、西讃を事実上支配していた守護代の安富氏(讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)参照) の臣下となっていく。治めていた領地は、現在の高松市域となるが、明治時代の郡域でいえば山田郡を中心とした地域になる。

 植田氏が平時の住まいをしていたのが、戸田山城の北麓にあった戸田城(上記写真参照)である。
 この植田氏も天正7年ごろから侵攻してきた土佐の長曾我部元親の軍によって戸田城及び戸田山城が攻略され、同12年(1584)には廃城となった。その後、秀吉の四国征伐後は秀吉の傘下となっていく。
【写真左】登城開始
 車を先ほどの戸田城側の空き地に止め、そこから歩いて向かう。
 この写真の右奥に戸田山城が見える。
 なお、この付近も元は戸田城(居館)の区域だった可能性がある。
【写真左】祠
 上の写真の位置だったと思うが、左側に祭られていたもので、おそらく植田氏所縁の祠だろう。
【写真左】谷に入る。
 登城コースを示すような案内板はほとんどないため、磁石と地図を頼りにこの谷から向かう。
【写真左】登城道・その1
 不安だったのは上の谷付近のみで、この辺りから明瞭な道がでてきた。
【写真左】小郭
さっそく左側に小郭が見えた。

戸田山城は南北に長く、東西は400mほどの幅を持つ山に築城されているせいか、比高の割に急坂道が多く、このため中腹部には郭段がほとんどない。ただ、この箇所だけ小郭が配置されている。
【写真左】登城道・その2
 次第に傾斜がきつくなる。
【写真左】小郭
 だいぶ崩れているが、郭段の跡が残る。
【写真左】眺望が開けてきた。
登城途中ほとんど眺望はできなかったが、この付近から少しづつ明るくなってくる。
【写真左】ピークにたどり着く。
南から伸びる尾根のピークにやっとたどり着く。
 戸田山城の本丸は南から伸びる尾根の北端部にあるが、そのまま尾根を南に進んでもさほど高低差はない。このため、途中に堀切などがあった可能性もあるが、御覧の状況なので踏査していない。
【写真左】本丸・その1
 登り始めてからおよそ50分、急坂道の連続で、少し息が荒くなった時、目の前に明かりが見えた。本丸である。
【写真左】本丸・その2
 本丸はさほど大きくはないが、定期的に清掃されているせいか、きれいだ。
 形状はほぼ円形で、直径7~8m前後の規模。
【写真左】祠 本丸の一角には祠が祀られている。植田氏を祀ったものだろう。
【写真左】本丸から北を見る。
 手前に城池が見え、奥には屋嶋城(香川県高松市屋島東町) が見える。
【写真左】由良山城遠望
 同じく北の方向に由良山城が遠望できる。なお、由良山城は未登城だが、城主・由良兼光は三谷氏の一族であったが、香西氏が三谷氏を攻略したとき、当城も攻められ、その後香西氏と和睦している。
【写真左】王佐山城遠望
 冒頭で紹介した王佐山城(香川県高松市西植田町)が見える。 
 

2019年3月11日月曜日

旧・高松城(香川県高松市高松町帰来)

旧・高松城(きゅう・たかまつじょう)

●所在地 香川県高松市高松町
●別名 喜岡城
●高さ 標高6.8m
●形態 平城・居館
●築城期 南北朝期
●築城者 舟木(高松)頼重
●城主 舟木頼重、高松左馬助頼邑
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年7月10日

◆解説
 香川県の高松城といえば、現在の高松市内の玉藻町にある高松城(別名・玉藻城)が一般的である。これは天正18年(1590)生駒親正が築いた近世城郭ともいえるもので、瀬戸内海から直接城内に出入りできるようにした海城でもあった。
 これとは別に、この高松城が築城される前に、ここから東南東約6キロほど向かったJR高徳線の屋島駅の近くに、もう一つの高松城があった。
【写真左】「高松城跡」の石碑
 喜岡寺の前に建立された石碑









現地の説明板より

‟高松城跡(喜岡)

 鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣・細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。

 その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13年(1585)4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵100余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか200をもって勇敢に戦いましたが、衆寡敵しがたく城兵一人残らず討死しました。

 高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。
 高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。
      高松市
      高松観光協会”
【写真左】案内図
 現地に設置されている「古高松地区ふれあいウォークルートマップ」という案内図で、赤字で示したところが高松城(喜岡寺)。
 
 ちなみにこの近くには、東西を走るJR高徳線を挟んで北に、義経鞍掛の松などがある。







常光寺・喜岡寺

 最初に築かれた旧・高松城(以下本稿では「高松城」とする。)が所在する位置には現在喜岡寺という寺院が建っている。
 もともとこの場所には常光寺という寺院が建っており、その後説明板にもあるように南北朝期に至って、舟木頼重が築城したとされている。そして、建武2年(1335)11月に足利尊氏派の細川定禅が当城を攻略し落城したとある。しかし、別説では主だった舟木一族は討死したものの、頼重自身は生き延び、その子孫は戦国期まで続いたとされている。

 戦国期に城主とされる高松左馬助頼邑の名が残っているが、おそらくこの左馬助が頼重の子孫ということだろう。
【写真左】喜岡寺山門
 標高は7mにも満たない低地に築城されていた平城(居館)となるが、築城期とされる南北朝時代を考えると、この付近も瀬戸内の海がこの辺りまで来ていたものかもしれない。
 したがって、形態としては海城の可能性が高い。
【写真左】境内
【写真左】五輪塔
 境内一角には墓地があるが、そこには2,3基の五輪塔形式のものや、歴代住職とおもわれる墓が並んでいる

 なお、当地には秀吉による四国征伐の際、討死した唐人弾正・片山志摩の墓があったようだが、見過ごしてしまった。

 ちなみに、他のサイトで見る限り、墓は当時の形式(宝篋印塔・五輪塔)でなく、近代になって改めて建立された一般的な墓石となっている。
 このあと少し東の方へ向かってみる。
【写真左】権現宮の鳥居
 喜岡寺の東側の堺は木立が南北に延び、その東側には社が安置されている。
 額束には「権現宮」と記されているが、由来などは分からない。

 右側の境内となる箇所は空き地となっているが、往時当社に関連するものがあったのだろう。
 なお、この付近までは喜岡寺の境内と地盤高は同じくらいである。
 さらに東に進む。
【写真左】もう一つの「高松城」の碑
 南側の道路を東に進むと、少し下り坂になるが、権現宮の東側入口に「高松城址」と筆耕された石碑が建立されている。
【写真左】東側との段差
 上記の位置から中に入らず道路を東(右)に進むと、ここで段差がある。

 おそらく当時の城域はここまでだったのだろう。
【写真左】道路から見る。
 段差のある箇所からそのまま道路を横切り、向側から見たもので、この位置からだと3,4m程度の段差があることが分かる。
 このあと、北に向かう。
【写真左】東側中間地点
 北に向かうほど段差は高くなり、この位置では6~7m前後の高低差が生じている。
 右側の石碑は、昭和52年に行われた土地区画整理事業の碑。

 このことから当時の状況とはだいぶ様変わりしたのだろう。
 さらに北へ向かう。
【写真左】永之谷公園
 上記の写真の位置もすでにこの公園の一角になるが、高松城は現在この永之谷公園という公園が、東から北へさらに西へとほぼ囲むような配置となっている。

 想像だが、永之谷という名称から推察するに、築城期とされる南北朝期には、この東から北にかけて谷(永之谷)が形成されていた可能性が高く、濠の役目をしていたのかもしれない

2019年3月6日水曜日

屋嶋城(香川県高松市屋島東町)

屋嶋城(やしまのき)

●所在地 香川県高松市屋島東町
●指定 国指定史跡
●形態 古代山城
●築城期 天智天皇六(667)年
●築城者 大和朝廷(中大兄皇子)
●高さ 292m(比高290)
●遺構 土塁・石垣、城門等
●備考 屋島寺
●登城日 2016年7月10日

◆解説(参考資料 高松市埋蔵文化センター発行「古代山城 屋嶋城 667)」パンフ等)
 岡山側から瀬戸内大橋を使って香川県に入るたびに、車中左方向の視界に入ってくるのが、頂部が平らで南北に伸びた独特の山容見せる屋島の姿である。
【写真左】屋嶋
西側から北端部を見る。奥には瀬戸内が広がり、女木島、男木島などが見える。






メサ地形

 屋島という名称からもわかるように、もともと四国本土から離れた島嶼の一つで、江戸時代に塩田開発が行われ出したころから陸続きになったという。
【写真左】屋嶋周辺の模型
 現地にある屋嶋の模型で、御覧のように頂部はフラットになったメサ地形を表している。




 横から見ると、かなりの範囲にわたって断崖絶壁の姿が確認できる。こうした独特の景観で最も規模の大きいものとして有名なのは、アメリカ西部劇でジョン・ウェインなどが出演した『駅馬車』などの映画に登場するモニュメント・バレー(ユタ州・アリゾナ州)である。
【写真左】城門・その1
 今回の探訪は2015年6月に大修理によって復元された城門を見ることが主な目的で、本来なら他の遺構も見たいところだったが、この日(2016年7月10日)は大変な猛暑で、この城門探索だけで体力がなくなった。
 
 ちなみに日本でよく似た箇所として有名なのは、豊後の角牟礼城から見た大岩扇山や、その近くにある万年山(はねやま)などである。
 メサ地形のメサとはスペイン語で机又はテーブル、食卓を意味するが、このような形は上部が硬い水平な地層を持ち、下部は浸食されやすい地層となっていることからできたものである。
【写真左】城門・その2
上から見たもので、中央の開口部にはもともと門があり、併せて排水溝があった。





白村江(はくすきのえ)の戦い

 さて、この屋島は『平家物語』の名場面「扇の的」で名を挙げた那須与一(那須与一の墓(岡山県井原市野上町) 参照)らが活躍した源平合戦の戦いの場としても知られる。

 この合戦を遡ること500年余り前の白鳳時代(飛鳥時代)、当時朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が相争っていた。このうち百済は、西暦600年ごろ、新羅と中国の唐による連合軍によって滅ぼされた。百済の支配地は朝鮮半島の西側にあり、新羅は東側にあった。百済の西方には黄海を挟んで唐があり、新羅と唐に挟まれていたことも敗戦の理由の一つだろう。
 敗れた百済は、その後国の復興と新羅に対する防衛のために、日本海を隔てた当時「倭」とよばれた日本に援軍の要請を行った。
【写真左】城壁の頂部
 階段状に構築されている。










 天智2年(663)、白村江(現在の韓国錦江河口付近)において、倭と百済による連合軍と、新羅(唐)との戦いが行われた。戦いの結果、百済・倭連合軍は再び敗れ、倭の軍隊は百済の遺民たちとともに日本に撤退することになる。

 このころ倭国を支配していたのが中大兄皇子で、前天皇斉明天皇は白村江の戦いが始まる2年前に朝倉宮で没し、皇子は称制(即位せず政務を執る)のままであった。倭国そのものが完全に支配されていない状況下で、援軍とはいえ朝鮮半島という日本海を隔てた他国からの要請に応えるべく加担した経緯が今一つ分からないが、どちらにしても敗れたあと新羅・唐の軍が日本に押し寄せる可能性が高まった。

 このため、新羅・唐からの侵攻にたいする防備として西日本各地に古代山城を築いた。
【写真左】横から見る。












現地の説明板より・その1

蘇る屋嶋城(やしまのき)

「日本書紀」にその名が記されていたにも関わらず、長らくその実態が不明で、幻の城でした。1998年1月、屋嶋城を探索していた平岡岩夫氏がこの場所で正面の石積を発見されました。この発見を契機に、高松市教育委員会による発掘調査が開始され、2002年、城門遺構の発見によってついに屋嶋城が実在したことが証明されたのです。発掘調査によって、高さ6メートルにも及ぶ巨大な城壁も築かれていたことが分かりました。
【写真左】排水溝
 門の下に設けられているもので、雨水などを流す。








 左手に見える階段を設置している箇所が城門で、2.5mの段差を設けて敵の侵入を阻む構造となっています。当時は、梯子などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられます。城門の石積の真ん中ほどに開いた穴(水口)からは雨が降ると水が流れ出ます。

 2007年から開始した整備工事により往時の姿を取り戻した屋嶋城は、国防の危機に瀕し、城づくりに携わった人々、防衛を担った人々の往時の思いを我々に語りかけてくれるでしょう。❞
【写真左】門
 開口部となっているところで、当時はこの場所の四隅に柱を立て、物見櫓のようなものが建っていたと思われる。


古代朝鮮式山城

 これまでも古代山城については、いくつか紹介してきているが、鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)の稿でも示したように、古代山城としては概ね次の3種類に分けられる。
  1. 朝鮮式山城
  2. 神籠石式山城
  3. 奈良時代山城
 そして、鬼ノ城(岡山県総社市奥坂鬼城山)の稿では、特に1.の朝鮮式山城を挙げているが、特筆されるのは文字通り、白村江で敗れた百済の遺民が日本に入国し、新羅・唐の軍勢に対処すべく、倭国の人々と共に築城に携わった可能性が極めて高いことである。
 このことからこれらを古代朝鮮式山城と呼称している。
【写真左】石積
 改修前は崩落しそうな状況だったようで、解体時石積みの石一つ一つにナンバリングし、それぞれカルテを作成。

 そのあと修復に当たっては試行錯誤の繰り返しを行いながら積んでいったという。まさに気の遠くなるような作業だったと思われる。

【写真左】横から見る。
城門付近の斜面はかなり傾斜があり、これけでも要害性があるが、さらにこうした防御施設をこの位置に設けたのは当時この付近が重要な場所だったということだろう。

 なお、この城門を含め、北水門・南水門・北斜面土塁といった遺構などはすべて屋嶋の西側に配置されており、新羅・唐の軍団が関門海峡から瀬戸内に入り、東進してくることを予想していたからであると思われる。
【写真左】浦生方面に向かう入口
 浦生(うろ)というのは本稿の城門地区とは反対の北側にある場所で、通称「浦生の石塁」という50mほどの城壁が残っている。
 「屋島古道へ がんじんの道」と書かれた手作り看板がある。
 残念ながら、この日はこちらに向かっていない。
【写真左】屋嶋から西に八栗寺を遠望する。
 中央の尖った山が五剣山(通称八栗山:H:366m)で、そのすぐ下に85番札所八栗寺がある。
 なお、源平合戦の主戦場となったところが、この写真の右下付近になる(下の写真参照)。
【写真左】源平合戦古戦場
 戦いは主として屋嶋の東側で行われた。
また、古戦場から東へおよそ2キロほど向かったところには安徳天皇が仮行宮所とした六万寺がある。
 ちなみに、安徳天皇はその後屋嶋側に正式な行宮所に移る。その場所が現在の安徳天皇社である(下の写真参照)。
【写真左】安徳天皇社
 上の写真の左側(北方)延長部にあたる箇所で、船が点在している箇所が立石漁港。
 ちなみに、天皇社(行在所)のすぐ東側には、源義経の身代わりになって亡くなった佐藤継信の墓がある。

 いずれ機会があったら、屋島における源平合戦の主だった史跡も探訪したいものだ。
【写真左】屋島寺・その1
 屋島には四国88ヶ所霊場の84番札所 南面山 千光院 屋島寺が建立されている。
 天平勝宝6年(754)、鑑真和上によって開創されたといわれているので、屋嶋城が築城されてからおよそ90年後に創建されたことになる。
【写真左】屋島寺・その2
 本堂付近。

 屋島寺と命名されたのは、鑑真の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂舎を建立し精舎を構えた時といわれる。

 ちなみに、屋島寺が所在する場所は、屋嶋城が廃城となった場所でもあり、屋嶋城時代にはこの付近が平時の住まいとして使われていたと考えられる。


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