ラベル 河内 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 河内 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年10月4日金曜日

嶽山城(大阪府富田林市龍泉)

嶽山城(だけやまじょう)

●所在地 大阪府富田林市龍泉880
●別名 龍泉寺城
●高さ 278m(比高 10m)
●築城期 元弘2年(1332)
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏・畠山氏
●備考 楠木七城
●遺構 郭等
●廃城年 永正5年(1508)
●登城日 2016年10月12日

解説(参考資料 『益田市誌(上巻)』等)
 嶽山城は下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) で少し触れているが、楠木七城の一つで、千早赤阪村の隣富田林市に所在する城郭である。
【写真左】嶽山城遠望
 下赤阪城から見たもので、本丸跡付近には現在かんぽの宿が建っている。





現地の説明板より

❝嶽山城址(だけやまじょうし)(龍泉寺城址)

 嶽山城は南北朝時代初期、元弘2(1332年)楠正成によって築かれた城である。
 「太平記」巻34(龍泉寺軍の事)によると、楠正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせ守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。
【左図】嶽山城と金胎寺城等及び周辺の城郭配置図
 嶽山城と金胎寺城は下段にも示すように、石川と佐備川の間に囲まれた丘陵地に築かれ、両城の間は極めて近い位置になる。
 嶽山城の南麓には当城の別名となった龍泉寺がある。
 同図の右側には下赤阪城が谷を隔てて東側に所在し、下段でも紹介している寛弘寺城は、千早川の中流域に3か所記録されている。
 下赤阪城の南方には吉年(淀子)があり、金峰神社周辺が高塚山城塞といわれる。


 この時、木の梢などに旗を結わえ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山(つづやま)にいた寄手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒(いたずら)に150日余りを過ごした。

 ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶(とび)や林に帰る烏が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360年)細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされた。

 その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場となり、永正5(1508年)に落城したといわれる。”
【写真左】頂上付近
 現在城域の一角には「かんぽの宿 富田林」という宿泊施設が建っている。
 この施設が建てられる前に、遺構調査などが行われ、遺物としては古墳時代のものから中世にかけての什器などがあったようだが、中腹にある龍泉寺にかかわるものもあったようだ。


楠木七城

 本稿もふくめここまで楠木七城のいくつかをとりあげてきているが、あらためてこれらについて整理しておきたい。
 楠木七城は文字通り楠木正成が後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の呼びかけに応じて築いたもので、河内国に所在する。

 楠木七城
  1. 千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早) 
  2. 下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) 
  3. 小根田城(上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) の一部)
  4. 桐山城(上赤阪城 の一部)
  5. 河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園) 
  6. 嶽山城(龍泉寺城)
  7. 金胎寺城
 このうち、3と4はいずれも上赤阪城の城域内にある城名で、当城のどの箇所を示しているのか具体的には分からない。従って、実際には六城と定義した方がいいのかもしれないが、語り継がれた伝承を変更する必要もないだろう(下段参照)。
【写真左】案内標識
 かんぽの宿の奥にテニスコートといった運動施設があるが、ネットに案内板が掲げてある。草丈は伸びていたが、このまま奥へ進む。
 この先へ40mと書かれている。



 さて、本稿の嶽山城は七城の中でもっとも北方に位置し、物理的には幕府方(六波羅探題)からみて一番近い場所となる。

 嶽山城に最も近い七城の一つが金胎寺城で、嶽山城から南西へおよそ1.4キロの位置となり、反対の東南方向2.4キロの位置に下赤阪城がある。また、これら七城(6か所)を線で結ぶと、六角形の形となり、その面積は18,000㎢余と予想以上に小さい。もっとも、戦いの拠点のみで見たもので、7城(6城)で囲った場所のみが楠木氏らの領内ではなかったと思われる。実際には以前にも述べたように、楠木氏らは後方に金剛山や葛城山といった大和国西部も支配下に治めていたので、活動区域は少なくともその倍以上はあったものと思われる。
【写真左】主郭付近
 嶽山の最高所付近で、主郭があったところ。
 登城道途中は整備されていなかったが、この付近は一部雑草などが刈り取られていた。


長禄・寛正の役

 ところで、下赤阪城の稿でも少し触れているが、室町時代の寛正年間、石見の益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照) らがこの嶽山城をはじめとする河内国や、紀伊国に入って戦っている記録がある。

 これは以前にも述べたが、畠山氏の家督騒動に端を発した内紛に、幕府が介入していったもので、長禄・寛正の役といわれる。事の発端は畠山氏惣領・持国の後継者をめぐる争いからで、当事者は、実子である義就と、甥の弥三郎(政長)である。この二人が家督をめぐって争った(河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園)参照) 。
【写真左】石碑と説明板
 石碑には「楠公龍泉寺城跡」と刻銘されている。
 また傍らには石が積まれているが、五輪塔の一部のようなものも見られる。
 このあと、周辺部を踏査してみる。


 

益田兼堯の出征

 石見の益田兼堯は、益田氏15代当主で父は兼理である。父・兼理のときも幕府(足利義教)の命により大内盛見に従って筑前などに出兵しているが、兼堯の代になるとさらにその回数は増えていく。
【写真左】益田兼堯像
所在地 島根県益田市七尾町妙義禅寺前

 益田氏の居城七尾城麓にある妙義禅寺前の道路を挟んだ場所に平成4年に建立された。





 寛正元年(1460)9月16日、当時河内・紀伊・越中の領主となっていた畠山義就が、将軍義政の上意に叛いたので、義就を退け子の基家に継がせようとした。しかし、義就がそれに従わず、同月20日京都の自邸に火を放って出奔、以後河内の若江城(大阪府東大阪市若江北町3(若江公民分館付近))に籠った。

 怒った義政は、23日政長を尾張守に任じ、義就の領地であった河内・紀伊・越中を政長に領邑させた。この処置を受けて政長は義就討伐の部署を定めた。将軍義政はさらに山口の大内氏に対し、出兵を要請した。
【写真左】削平地
 主郭付近には郭・堀切などといった遺構は明確には残っていないようだ。もっとも、かんぽの宿などの施設が建設された段階でこの付近も改変された可能性もあるかもしれない。
 写真のものは郭だったとおもわれる削平地。



 翌寛正2年(1461)10月7日、義政は教書を下し、石見の益田兼堯・貞兼父子に軍役を命じた。また政長自身も直接益田貞兼に対して参軍の要請をしている。

 益田父子が具体的にいつ石見を出立したのか詳細な記録はないが、河内では同月(10月)10日、大和国奈良・瀧田において畠山政長と義就が激突、形勢不利と見た義就は、河内の嶽山城に敗走した。そして、15日には政長が河内の若江に入り、2か月後の12月19日、幕府軍が上弘川伝い(河南町)に進軍し、大挙して嶽山城を攻めるが、義就軍の必死の抵抗もあり、堕とすことができなかった。
【写真左】北東部付近
 主郭付近から少し北東部方向へ向かった位置になるが、ほとんど原野に近い状態で、遺構の確認はできなかった。



 益田父子が河内国清水山へ到着したのはこの年(寛正2年)4月とされる。この前年の10月、兼堯は貞兼に家督を譲った。その後、11月25日には大内政弘(筑前・岡城(福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口)参照) の旗下に入っている。おそらく、兼堯は幕府や大内氏からの出兵要請の前にこうした手続きを済ませたいという想いがあったのかもしれない。

 河内国清水山に入ると、翌5月18日には南河内長野村へ、そして翌6月3日同郡寛弘寺上之山へ着陣した。河内国清水山及び長野村については具体的にどの場所か分からないが、6月3日に着陣した寛弘寺上之山は、現在の南河内郡河南町大字寛弘寺(かんこうじ)にあって、千早川を挟んで東に寛弘寺城、西に寛弘寺西山城、寛弘寺上之山城跡が点在している。嶽山城までは直線距離で南西方向に3キロ余りとなる。
【写真左】東斜面
 竪堀のようなものがないかと斜面に向かったが、雑木・雑草に覆われこの辺りで断念。





切山(桐山)・淀子・嶽山の合戦

 そして、6月12日益田兼堯はついに畠山義就討伐の合戦に及んだ。最初の合戦は同日の「切山合戦」といわれている。この切山とは、現在の千早赤阪村桐山と思われ、上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) の別名が「桐山城」であったことから、おそらく当城及びその周辺で繰り広げられた戦いと思われる。

 ところで、この戦いで、幕府方の総指揮をとったのは細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町) 参照)だが、一族の細川成之・成春・常有・持久をその任に当たらせ、実戦部隊のリーダーとして山名是豊が主に指揮をとっていた。
【写真左】龍泉寺山門
 龍泉寺は嶽山城の南東側中腹に建立されている古刹で、推古天皇2年(594年)仏教興隆のため、蘇我馬子が創建したと伝えられる。

 南北朝期に楠木正成が嶽山城を築城した際、兵火に罹りほとんど焼失したとわれる。
 写真は重要文化財の仁王門といわれる山門。


 河内国における合戦で出征したのは石見国では益田兼堯だけではなかった。同国からはこのほか、三隅豊信(三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)参照)、周布和兼 (周布城(浜田市周布町) 参照)、出羽祐房( 別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)参照)及び、都野次郎左衛門(神主城(島根県江津市二宮町神主)参照) らも遅れて参戦している。
 また、石見国の諸将とは別に安芸国からは、毛利豊元(吉田郡山城・(広島県安芸高田市吉田町吉田) 参照)・吉川経基(小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)参照)も来ていた。

 兼堯の奮戦は将軍義政の耳にも入り、6月14日兼尭の軍功を称し、正恒の太刀に添えて感状を与えた。同月21日、義就の部将須屋正興らは大和国弘川に陣を張っていた畠山政長を急襲した。しかし、政長はこれを退け、正興らを敗死させたので、義就らは再び嶽山城及び金胎寺両城に退いた。
【写真左】龍泉寺案内図
 後背には金剛山や葛城山が描かれている。
 嶽山城はこの図では描かれていないが、左側にあたる。


 7月16日には淀子で義就と交戦し、兼堯も当地で軍功を立てた。この淀子の地名は消滅しているが、現在の千早赤阪村大字吉年(よどし)のことで、淀子も当時から「よどし」と呼ばれていたと思われる。

 吉年地区の最高所には金峰神社が祀られているが、この付近も元々楠木氏諸城塞の一つ高塚山塞であり、ここから東へ千早川を挟んで1キロ先に上赤阪城があり、さらにこの位置から北西方向へ3キロほど隔てた嶽山城がくっきりと見える(上段の配置図参照)。

 この戦いでは勝敗はつかなかったものの、山名是豊の推薦で兼堯は8月12日の条で、義政から次のような軍忠状が下されている。

”去月十六日於河州淀子合戦之時、被官人数輩致疵之旨、是豊注進到来、弥々可抽軍忠也。
(寛正二年)八月十二日   (義政公方)御判
益田佐馬助(兼堯)殿    『益田家什書』

 この後、7月16日兼堯は嶽山城麓において戦っているが、8月28日には二本松の戦いに参戦、この時初めて疵を負い、家人の中にも死者・負傷者を出した。なお、二本松は嶽山城の一角とみられるが具体的にはどの場所か分からない。兼堯一族から多数の死者・負傷者を出したことにより、畠山政長は兼尭に対し、見舞いの意味を込めた軍忠状を出している。

‟去廿八日於嶽山搦手口合戦之砌、自身数か所被疵、並同名被官人以下、数多成手負討之由候。誠忠勤之至候。則令注進候之条、一段可有御感候哉。於此方又祝着、異千他候。子細尚使者可申候。恐々謹言。

(寛正二年)八月三十日   (畠山)政長判
   益田佐馬助(兼堯)殿  『萩閥益田家文書』”

 そのあと、将軍義政は、山名是豊から兼堯の軍忠を知り、友成の太刀一振りと、青毛の馬一頭を与えるよう通知している。
【写真左】本堂
 本堂の左側には国指定名勝の龍泉寺庭園がある(下の写真参照)。
【写真左】龍泉寺庭園
 庭園の中に龍池という池があり、この池が古代からのものといわれている。






幕府軍の凱旋

 細川勝元・畠山政長らをはじめとする幕府軍の攻勢は常に優勢を保っていたものの、義就の抵抗はしぶとく、ついに寛正4年まで続いた。その間、嶽山城と金胎寺両城を死守していた義就は、金胎寺城を落とされたが、嶽山城を根城としながらなおも赤阪の要害を使って抵抗していた。しかし、長引いてきた河内国における戦いも同年(寛正4年)4月14日、畠山政長が嶽山城を攻略、義就は高野山に敗走した。
『蔭凉軒日録』16日の条に、

「嶽山没落注進有之。赤松次郎法師弟侍伊勢守、於遊宴之中間、有嶽山没落之注進。仍伊勢守参干殿中而披露之。時宜不亦幸乎。」
 とあり、その喜びが伝えられている。

 しかし、嶽山城を落とされた義就は高野山の僧徒に入山を断られたものの、紀伊岡城を皮切りに粉河寺に奔り、さらには大和の吉野山に逃れた。結局、この戦いで幕府軍は、義就の首級をとることができず、のちの応仁・文明の乱の際、義就が山名持豊(宗全)と合力するきっかけを作ることになる(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照) 。
 寛正5年1月14日、畠山政長は配下の一部を紀伊に留め、自らは京へ凱旋の途に着いた。
【写真左】龍泉寺庭園から嶽山城方面を見る。
 嶽山城は龍泉寺から北西の方向に位置するが、奥の山を越えると嶽山城に至る。

 因みに、長禄・寛正の役の頃は、当院を含めたこの辺りも戦場と化したと思われる。



役後の益田兼堯

 畠山政長らが京へ凱旋したとき、おそらく益田兼堯も随従していたと思われるが、役後兼堯は、その活躍が認められ、幕府引付衆の一員に列し、評定衆の分掌を補助した。その後、石見に帰国し七尾城(島根県益田市七尾)の大手口に大雄庵を営み、信仰の生活に入った。
【写真左】益田兼堯の墓
 七尾城の北端部に大雄庵があったようだが、現在その跡地に兼堯の墓が祀られている。

 嶽山城の戦い(長禄・寛正の役)後は、応仁の乱にも参戦し、大内政弘の西軍に属し、大内道頓の乱では娘婿陶弘護を助けた。
 晩年には山口より画聖・雪舟を招き、自画像を残す。
 文明17年(1485)、菩提寺万歳山妙義寺塔頭のこの大雄庵で没す。法名:大雄院殿全国瑞兼。享年は不明だが、63,4歳といわれる。
 
 

◎関連投稿
 鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)
 陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)

2019年9月10日火曜日

千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)

千早城(ちはやじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
●別名 楠木詰城・金剛山城・千早の隠れ城
●高さ 673m(比高 175m)
●指定 国指定史跡
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏
●遺構 郭、空堀
●登城日 2016年10月12日

◆解説(参考資料 『千早赤阪の文化遺産』㈳千早赤阪楠公史跡保存会編等)
  前稿上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) から西麓を流れる千早川を遡っていくと、千早川渓谷とその支流で抉られた谷との間に屹立した山塊が現れる。実際にはその尾根後背は金剛山から延びる尾根と繋がっており、三方のみが谷を介している。別名「千早のかくれ城」ともいわれた楠木正成築城の千早城である。
【写真左】千早城の石碑
 現地に建立されている「史蹟 千早城址」の石碑。昭和14年に建立されている。






 現地の説明板より

‟史跡 千早城跡  
     所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
     所有者 千早神社 他
     管理者 千早赤阪村長

 元弘2年(1332年)楠木正成が構築し翌年5月まで100日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。

 標高約660mで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷(ふろんたに))、西(大手口=現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は150m。東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。
 五百数十段の石段を登ると、四の丸があり、それより本丸までの奥行が約300m、その比高は約30mである。

 太平記に、敵は百万騎、味方は僅かに千人足らずにて「誰ヲ憑(たの)ミ何(いつ)ヲ待共ナキニ城中二コラヘテ防ギ戦イケル楠木が心の程コソ不敵ナレ」とある。

    昭和9年3月13日 史跡指定
        文化庁
        大阪府教育委員会
        千早赤阪村教育委員会”
【写真上】案内図・その1
   金剛山に向かう「千早森屋狭山線(富田林五條線(705号線)」を南下していくと、「日本名城(千早城)」の登り口の標識があり、近くには専用の駐車場も設置されている。


護良親王の令旨

 後醍醐天皇が笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) で幕府軍の猛攻の前に敗れると、天皇は隠岐に、宗良親王(尊澄)は讃岐へ、尊良(たかよし)親王は土佐にそれぞれ流罪された。元弘2年・正慶元年(1332)のことである。
【写真左】登城口付近
中央部が登城口になる。手前の広場は駐車場、右に行けば金剛山ロープウェイの千早駅に繋がる。




 しかし、帝の長子・護良親王(もりよししんのう)(尊雲)は、ひそかに十津川周辺からしきりに令旨を発し、挙兵を呼び掛けた。これに対し、大和・河内・和泉の土豪・悪党が動き出すことになる。

 特に、楠木正成は上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) などが落城したあと、一旦落ち延び、紀伊・和泉あたりで活動を開始、幕府側の御家人たちを次々と打ち破り、天王寺周辺を支配下に収めつつあった。これに対し、幕府はこうした正成を中心とする畿内の動きを抑えるべく、軍を三方に振り分けた。
【写真左】登城開始
 初っ端から階段で始まる。登城道はほとんどこうした階段になっている。







 正面から打って出る河内道の大将には阿曽治時、護良親王が活動する大和には大仏家時、そして紀伊街道筋には名越元心をそれぞれ配置した。
 因みに、幕府軍の一員として参戦した者の中には、阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕) の高橋貞春がいる。
【写真左】延々と続く階段
 四の丸までこうした階段が途切れなく続く。しかも途中では蹴上高がかなり高くなったりするので、何度も休憩をとった。
 体力的な負担を軽くするために階段が設置されているのだが、結構膝に堪える。




千早城の籠城

 正成がこのとき一旦落城した上赤阪城にいつ頃戻っていたのかはっきりしないが、千早城における戦いの前、吉野にあった護良親王は元弘2年11月、ついに挙兵の旗を挙げた。
 そして正成自身はそれに合わせるかのように千早城に拠った。この段階では上赤阪城でも正成方の与軍は幕府方と交戦している。しかし、翌元弘3年2月、上赤阪城はついに落城、ついに詰の城である千早城にて最後の決戦が繰り広げられることになる。
【写真左】千早城案内図・その2
 上段の案内図と重複するが、この図には「四の丸」「三の丸」「二の丸」及び「本丸」と表記されている。
 縄張図ではないため、詳細な遺構は書かれていないが、およその位置関係が把握できる。


 一方、吉野(城)に立て籠った護良親王は元弘3年閏2月1日落城し、親王は高野山に奔った。千早城に籠った軍勢は『太平記』によれば、吉野・宇陀・内(宇智)の野武士ども7千余騎だったという。

 吉野・宇陀・内(内智)は千早城のある南河内郡から金剛山系の一つ久留野峠を越えた大和国の現在の五條市や、吉野郡大淀町に当たり、おそらく千早城に籠った大半は、もともと護良親王と吉野で戦った者たちだったのだろう。 
【写真左】四の丸
 五百数十段の階段を上がりきると、四の丸が出てくる。
 奥行30m前後とかなり広い。茶屋とかトイレが併設されている。
 ここからさらに三の丸へ向かう。


 さて、千早城は籠城してから3か月余り持ち堪えた。この間、四国でも倒幕の火の手が上がり、畿内・四国の混乱は幕府方にとって更なる脅威となった。

 千早城での籠城戦は正成が当初から予定していた作戦だったのだろう。冒頭でも述べたように当城は三方は囲まれているが、東南方向に伸びる尾根は金剛山系に繋がり、その先は大和国である。金剛山・葛城山を含めたこの山岳地帯は正成たちにとっては普段から往来していた場所で、不利になると、すぐに金剛山や葛城山などへ逃れることができた。まさに地の利を生かした戦略が功を奏したといえるだろう。
【写真左】なだらかな参道
 三の丸までは緩やかな坂道となっており歩きやすい。







 そして戦いを長引かせることによって、この間、畿内はもとより西国の反幕府勢力(三石城(岡山県備前市三石)参照) が蜂起する時間を与えた。この動きは隠岐に配流されていた後醍醐天皇にも知らされ、播磨の赤松一族は千早城での籠城戦の最中の3月、摂津尼崎で六波羅探題を破り、京へ進軍していくことになる。
【写真左】三の丸へ上る階段
 三の丸へは再び傾斜のついた階段を上がることになる。
【写真左】同上の階段
 御覧の傾斜角度で、階段がなかったら厳しい切岸を登らなければならない。
【写真左】三の丸
 先ほどの階段を登ると三の丸に至る。
 現在社務所などが設置されている。
 奥に再び階段があり、その階段を上がると二の丸に繋がる。
【写真左】二の丸
 やっと二の丸にたどり着く。
奥には千早神社が祀られている。
【写真左】境内側から千早神社を見る。
 前段で紹介した案内図(配置図)では、千早神社は二の丸に含まれているが、本殿などは本丸のエリアと重なっているように思われる。
【写真左】千早神社
 本丸跡に祀られている神社で、縁起は次の通り。








❝千早神社
 千早城本丸跡にもと八幡大菩薩を祀って千早城の鎮守として創建する。
 のちに楠木正成卿・正行朝臣・久子刀自を合祀して楠社と称する。
明治7年再建、同12年には更に祠を建て、社名を千早神社とする。
昭和7年現在の社殿・社務所を新築する。


 御祭神
本殿  楠木正成卿
    楠木正行朝臣
    久子刀自(正成御夫人)
 相殿 大市媛命(坂本神社)
    天太王命(下中津神社)
末社  椋木神社「大物主命」
    廣内神社「金山彦命」
    平 神社「応神天皇」❞
【写真左】本殿右奥
 このさきは神域とされ、立ち入ることはできない。
 千早城の最高所である本丸の中心部が神域と思われる。
【写真左】本殿左奥
 同じく左側から見たもので、本殿部分は切岸となって本丸へ向かう道があったものと思われる。
【写真左】本丸左側の切岸
 登城道から本丸に至るまでの尾根左右の斜面は険しい箇所が続くが、本丸部分のこの位置はさらに切り立つ斜面になっている。
【写真左】茶宴台経由金剛山登山道
 本丸(千早神社)の右側には金剛山へ向かう道が繋がっている。

 ただ、あとでわかったが、途中で左に分岐して、本丸の後背を回り込み、北の谷へ降りると、「楠木首塚」及び「楠木正儀墓」に行けたようだ。

 このあと、三の丸まで戻り、裏参道といわれる北側の谷に向かう。
【写真左】裏参道
 三の丸側に接続されている道で、急斜面に九十九折りの道となっている。
【写真左】天険の要害・その1
 この北側斜面の険峻さを目の当たりにすると、『太平記』に描かれている描写があながち大げさでないことがよく分かる。
【写真左】天険の要害・その2
【写真左】天険の要害・その3
 写真の上段部が三の丸に当たる。
【写真左】林道を使って下山
 左側が千早城になる。











◎関連投稿
河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) 

2019年8月29日木曜日

上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪)

上赤阪城(かみあかさかじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪
●別名 楠木城・小根田城・桐山城
●指定 国指定史跡
●築城者 楠木正成
●城主 楠木正成、平野将監入道、楠木正季
●備考 楠木七城
●高さ 349.7m(比高150m)
●築城期 鎌倉時代末期、元弘2年又は3年
●廃城年 延文5年/正平5年(1360)
●遺構 郭・横堀等
●登城日 2016年10月12日

解説(参考文献 『国史跡 楠木城跡 千早赤阪村埋蔵文化財調査報告書 第5輯』 2008.3 千早赤阪村教育委員会編 等)

 上赤阪城は、別名楠木城・小根田城・桐山城などといわれる。
 所在地は、同村上赤阪にあり、前稿の下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) から東南方向へ直線距離で2キロほどの位置になる。
【写真左】上赤阪城
 本丸に建つ「楠木城址(上赤阪城)」の石碑
 眼下には富田林の市街地が眺望できる。





 ルートは、下赤阪城東麓を走る富田林五條線(705号線)を1.5キロほど南下すると、南河内グリーンロードという林道が左側に接続しているので、この道を東に1.4キロほど進む。金剛山から北西に伸びる尾根を横断するコースとなるが、しばらくすると千早赤阪村学校給食センターという施設があり、そこから南に枝分かれする農道があるので、そこを進む。数分で上赤阪城の看板などが設置された駐車場があるので、ここに車を停めて向かう。
【写真左】赤阪城塞群の配置図・その1
 上赤阪城は中央部に示されているが、前稿の下赤阪城をはじめとする赤阪城塞群はナンバリングで示している。
 それぞれの城名は下段のリストで示す。
【写真左】赤阪城塞・城名リスト
 ここでは、上赤阪城・下赤阪城・二河原辺城をはじめ、そのほか16の城名が記載されている。
 なお、千早城はこの図は示されていないが、上図に示したように城塞群からは距離はだいぶ離れ、金剛山に近い位置に所在している(千早城については、次稿で取り上げる予定)。










現地の説明板より

”国史跡 楠木城跡(上赤阪城跡)

 標高349.7m。比高150m。自然の険しい地形を利用した中世山城です。小根田城(おねだじょう)・桐山城・楠木本城とも呼ばれています。鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。

 元弘3年(1333)、平野将監(しょうげん)と楠木正季(まさすえ)は、多勢の鎌倉幕府軍相手に奮戦しましたが、水路を断たれ陥落しました。糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷(くそんだ)」という地名になって残っています。合戦の様子は『太平記』からもうかがえます。
【写真左】上赤阪城案内図
 上方が北を示す。現在地というところが駐車場で、2,3台程度のスペースが確保されている。







 城の遺構は、曲輪・堀切・竪堀・横堀で構成されています。とくに、大手前と搦手にある堀切群は堀を二重にしたおおがかりなもので、大手前の「そろばん橋」は特徴的です。遺構からみると戦国時代に改修されていますが、それ以前と考えられる遺構も残っています。この場所には「一の木戸」がありました。
 昭和9年3月に国史跡に指定されました。
    千早赤阪村”
【写真左】登城開始
 左に見える道は林道だが、上赤阪城へ向かう道ではない。
 なお、この位置に「本丸まで20分」と書かれていたが、管理人の足では30分以上かかった。



平野将監と楠木正季

 上赤阪城の築城期については明確な史料は残っていないが、当時の状況から考えて、前稿の下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) の後に築かれた可能性が高い。

 当城の城主とされているのが、平野将監と楠木正季である。城将が将監で、正季は副将だったという。これは正成の命によるものだろう。正季は正成の実弟であるが、平野将監は別名重吉ともいわれている。
【写真左】一の木戸付近
 登城口から少し進むと、一の木戸が出てくる。

 看板を確認できなかったが、木戸とは城門のことだが、いかにも両側から敵を監視できそうな状況である。



 将監が正成と接触を持った時期ははっきりしないが、もともと持明院統に仕える西園寺公宗(黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)参照) の家人といわれ、さらには大覚寺統に縁のある僧ともつながりを持っていた。

 西園寺家は代々朝廷側の窓口として、鎌倉幕府との調停役、すなわち関東申次(もうしつぎ)を行っていた家柄である。
【写真左】二の木戸
 一の木戸からおよそ50mほど登ったところにある。当城では本丸までに4か所の木戸があったとされる。

 上段でしめした城塞群配置でもわかるように、このあたりでは東側に足谷川を挟んで「二河原辺城」、西側には「一番のきり城」及び「首切り場」を望むことができるようだが、どの方向かよくわからなかった。


 元徳2年(1330)9月、尼崎住人教念・江三入道教性を首謀者とした摂津・河内・大和に及ぶ数千人の悪党が、東大寺領摂津国長洲荘(兵庫県尼崎市)に乱入、六波羅の軍勢と合戦に及ぶという事件が起こった(『宝珠院文書』)。

 平野将監入道は、教念・教性に与同した約40人の悪党の首領の一人であったという。将監に限らず、このころ後醍醐天皇の倒幕に向けた動きがあり、これらの動きと連動するものは他にもあったようで、将監が後醍醐天皇、大覚寺統、公家衆らと持っていたネットワークがここにきて具体的に一気に動き出したものと思われる。

 なお、上赤阪城は落城し、将監をはじめとする城兵は幕府軍に投降することになるが、その後京都の六条河原で処刑された。その数は将監をはじめ282人だったという。
【写真左】三の木戸
 一の木戸から250mほど進むと、三の木戸がある。そしてここを過ぎると「そろばん橋」「四の木戸」などが控える。
【写真左】そろばん橋付近
 標記されたものはなかったが、おそらくここがそろばん橋だろう。

 「そろばん」という俗名がつけられているが、実際には東側斜面に構築された畝状竪堀群と土橋が併設されたものと思われる。
 もっとも現地は草木に覆われて確認することはできなかった。
【写真左】四の木戸付近
 上の「そろばん橋」正面にみえる切岸状斜面から少し奥に向かった位置で、標記はなかったが、この辺りが四の木戸付近と思われる。
【写真左】郭段
 四の木戸付近から東側尾根には郭段が見え始める。
 二の丸側から伸びてきたものだが、この日はついうっかりして、二の丸側を踏査することを忘れてしまった。
【写真左】西側の谷
 登城途中の右側(西側)を見たもので、雑草が生い茂った景色だが、何となく近年まで棚田だったような段差が確認できる。
【写真左】ここで右折
 この標識が見えたので、素直に曲がったが、実は左側に進むと二の丸にむかうことができた。
【写真左】茶碗原
 上の標識部分からこの辺りは削平された平坦地で、「茶碗原」という郭。
 おそらく屋敷などがあった場所なのだろう。

 西の本丸側に向かっておよそ70mほど続く。
【写真左】本丸の案内標識が見えてきた。
 茶碗原は3段程度の高低差を持たせているが、緩い傾斜なのでこの付近でだいぶ呼吸が楽になる。
【写真左】本丸方面と金剛山ルートの分岐点。
 茶碗原の西端部から本丸に向けて直登しようと思えばできそうだが、南側にしっかりとした道があるのでこれを使う。

 途中で左側に金剛山に向かう道が分岐している。
 もっとも金剛山までは相当な距離があり、途中で猫路山城・坊領山城を経由することなる。
【写真左】井戸跡か?
 本丸に向かう途中で見つけたもので、かなり深い窪み。似たようなものがもう一か所あった。

 位置的にはこの辺りに設置されていると理想的だろう。
【写真左】本丸南端部
 本丸は南北におよそ80mの長さをもつ。手前は千畳敷といわれる個所で、ここから北に向かう。
【写真左】本丸に建つ石碑
北端部には、冒頭で紹介した「楠木城跡」と刻銘された石碑とは別に「上赤阪城址」の石碑も建つ。
【写真左】本丸から北西方向を俯瞰する。
 この位置からは地元の千早赤阪村より、石川を挟んだ対岸の富田林市の方がよく見える。

 このあと本丸を囲む帯郭側に降りる。
【写真左】帯郭
 本丸の南端部には腰郭が付随しているが、そこからは独立して西側から帯郭が本丸を囲む。

 西側から本丸北側を通り、東側の1/3まで連続する帯郭で、総延長は100mを超ええるだろう。
 写真の右側が本丸の切岸。
【写真左】堀切
 下山途中に見えたもので、茶碗原の南東に伸びる尾根に築かれたもので、立木で分かりずらいが、かなり大きな規模のもの。





◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)