2021年8月30日月曜日

渡川城(山口県山口市阿東生雲東分)

 渡川城(わたりがわじょう)

●所在地 山口県山口市阿東町生雲東分
●高さ 352m(比高120m)
●築城期 不明(文明2年以前)
●築城者 大内氏
●城主 大内氏
●遺構 土塁、郭、堀切
●登城日 2017年3月11日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系』等)
 島根県の津和野から西隣の山口県へ国道9号線を使って西進すると、途中からJR山口線と併せて阿武川が並走していく。
 JR山口線渡川駅付近を過ぎると阿武川は大きく北に向きを変えて、南から伸びてきた山を囲むように蛇行する。この突き出してきた山に築かれたのが地元では要害山、または城山と呼ばれた渡川城である。
【写真左】渡川城遠望
 JR山口線の渡川駅から南西方向に見たもので、東麓を阿武川が大きく左旋回して当城を囲む。




現地の説明板より

‟渡川城址

  阿東町大字生雲東分字築地

  中世大内氏の三大古城の一つで、一夫万夫を防ぐ天然の要害を利用して、石州街道の要衝として築城されたものである。

 峰の頂上から東南に向けて峰尾を下りると堀切の跡とおぼしきところが5ヵ所、東北面67合目の辺りに斜めに広い道跡がある。

 文明2年(1470)大内道頓は、阿東町嘉年に陣して大内家の乗っ取りを計ったが、わずか14歳の陶弘護は、この渡川城に兵を集めてこれを散々に打ち破った。

 また、弘治3年(1557)津和野三本松城主吉見正頼は、毛利元就と相呼応して山口を挟撃し、この渡川城に立て籠った陶軍の将・野上隠岐守を打ち破り遁走させている。その他、大内氏時代の数次にわたる激戦の跡として有名である。

   山口県文化財愛護協会 
   阿東町教育委員会

     設置年月日 昭和63320日❞

【写真左】登城口付近に設置されている案内板
 冒頭でも紹介しているようにJR山口線が麓を走っているため、鉄道ファンの撮影スポットでもあるようだ。特に、SLが走る時期になると、この山城にはかなりの人々が登って行くようだ。
【写真左】渡川城配置図
 これも現地に設置されていたものだが、大分色が劣化していたため、管理人によって修正を加えている。
 当城の本丸は北側の最高所であるが、南側の峰にも主郭と記されているので、二の丸として機能していたのだろう。


大内道頓の乱

 渡川城の築城期については不明な点が多いが、説明板にもあるように文明2年(1470)、渡川城に陣した陶弘護が、大内道頓を打ち破ったとあるので、これより遡った時期と考えられる。

 大内道頓については、すでに周防・若山城(山口県周防市福川)の稿でも紹介しているように、応仁の乱をきっかけに東軍の細川勝元誘いに応じて、大内家の乗っ取りを謀った(「大内道頓の乱」)武将である。

【写真左】渡川城登山道入口
 国道9号線沿いから少し歩くと、御覧の案内看板が設置されている。




 道頓は大内宗家である政弘の伯父に当たり、当時筑前の代官としてその任にあったが、近隣の少弐教朝、大友親繁に誘惑され東軍方細川勝元に通じていった。

 特に大友親繁は大内氏に反目していたこともあり、親繁自身大内氏の嶺邑である周防・長門に触手を伸ばしていた。また、大内政弘が応仁の乱においてしばらく在京していたことがさらに彼らの動きを加速させていった。

 道頓は先ず周防玖珂郡で兵を挙げ、安芸に向かって進発しようとしたが、文明2年(1470)12月22日、留守を預かっていた陶弘護の逆襲に遭い、玖珂郡の鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)に敗れ、一旦安芸の廿日市に逃れた。しかし、その後弘護の追手が厳しく、石見に入り、津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)の吉見信頼のもとに身を寄せた。
【写真左】最初の竪堀
 登城道を登って行くと、途中で墓地に向かう道もあり紛らわしいが、じっくりと周りを見ながら向かうと、本丸方向へ繋がっていく。
 写真は途中で見えた竪堀。


 文明3年2月、長門嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に進軍した吉見信頼は、道頓に西長門の大内氏に属する諸城を攻略させた。これに対し、陶弘護は渡川城に拠って道頓の攻撃を受けながらも果敢に防戦し、道頓は破られてしまった。

 この戦い後道頓は次第に劣勢になり、この年(文明3年)12月26日、豊前に敗走し自害することになる。因みに、このころ道頓を中心とした勢力は、石見では、吉見・三隅・周布・小笠原らが参画し、嘉年城を中心として対峙していたが、その後、益田貞兼が陶弘護に与同し、戦局が大きく変わった。こうした弘護の一連の働きは京にあった大内氏に報告されている。
【写真左】さらに大きな竪堀
 更に進むと、先ほどの竪堀より大きな竪堀が現れた。








吉見信頼による陶弘護殺害事件

 陶弘護の活躍により陶氏の大内氏による信頼度は高まったかに思えたが、道頓の乱から12年後の文明14年(1482)5月27日、大内政弘邸において、弘護は吉見信頼の刃によって殺害されることになる(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)。

 大内氏のこの頃の当主は第14代の政弘である。この事件は前述したように、弘護が道頓(教幸)の乱を鎮圧したあと、弘護が次第に領国を掌握し、主君大内氏を凌ぐ権力を有するようになったことから、政弘が吉見信頼に仕掛けたともいわれているが定かでない。


【写真左】吉見氏と陶氏の関係

 文明14年の両者の刃傷事件をきっかけに、吉見氏と陶氏の対立は決定的になり、正頼、晴賢の代になっても不仲は収まらなかった。


 因みに、弘護を殺害した信頼自身もその直後大内氏によって殺害されている。
 このことからも分かるように、大内政弘が当初から弘護共々信頼も抹殺することによって、両氏双方の怨恨をかわす狙いが読み取れ、当初から政弘が計画していたようにも思える。
【写真左】北城と南城との分岐点
 最初に示した北側の主郭側を便宜上「北城」とし、南側を「南城」とする。

 写真はちょうど両城の分岐点となる鞍部で、右に行くと「北城」へ、左に行くと「南城」に繋がる。
 「南城」のほうはほとんど整備されていなかったので、「北城」を目指す。


毛利元就の防長征服

 渡川城については、以前取り上げた御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)でも少し触れているが、改めて当城に関わる部分を中心に見てみたい。

 渡川城における記録としては、上記した陶晴賢並びに大内義長が天文22年(1553)ごろから津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主である吉見正頼と対峙した戦いのころがもっとも顕著である。

 同年(天文22年)11月、正頼は最初に津和野・三本松城から西に進んで嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に拠った。ここで常に絡んでくるのが、吉見氏に対立する益田氏であり、陶氏に対しては毛利氏がそれぞれ対立し始めていた。
【写真左】北城へ登る階段。
 北城に向かうと御覧の階段が設置されている。すべての箇所には設置されていないが、傾斜のある要所には設置されている。



 先ず毛利氏はこの頃、備後・旗返山城(広島県三次市三若町)を攻略したばかりで、吉見から支援の要請を受け、二宮元経・伊藤元種に兵をつけ三本松城に向かった。

 これに対し、陶晴賢は、11月12日、町野掃部介に嘉年城を攻略させた。当時嘉年城に拠っていたのは波多野孫右衛門秀信らで、阿武郡高佐原を要撃し、更に同郡池田峠に戦った。13日、陶軍が野坂峠(現在の国道9号線が使われる前の旧道で、9号線より西側を走り、長門と石見の境に当たる)を越えようとしたので、三本松から吉見氏が阻止した。
【写真左】堀切
 しばらく登って行くと御覧の堀切が現れる。この写真の堀切とは別に手前にも構築されている。




 これに対し、陶晴賢は翌天文23年3月、嘉年城を攻略し、これに伴い大内義長は山口を発し、渡川城に陣を構えた。因みに、嘉年城から渡川城までの距離はおよそ22キロ余りで、晴賢は嘉年城を攻略したあと、南下して徳佐に陣を構えた。

 毛利元就が陶晴賢を厳島に破り、晴賢が自刃したのは弘治元年(1555)である(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)。その後、晴賢に担がれ大内氏の名跡を継いだのは大内義長であったが、晴賢が自刃したあと義長は劣勢に陥り、弘治3年(1557)4月、長府・勝山城(山口県下関市田倉)にて自害し、元就はここに防長征服を遂げ、安芸・吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に凱旋することなる。
【写真左】もう一つの堀切
 先ほどの堀切からさらに上に向かった位置にあるもので、当城最大の堀切。
【写真左】郭が現れる。
 途中から小規模な郭状の場所も見えたが、この郭が最も明瞭な規模のもので、奥行もある。
【写真左】本丸が見えてきた。
【写真左】本丸
 登城したこの日、現場は伐採して間もないような光景だった。
【写真左】土塁
 本丸の一角には土塁が残る。
【写真左】本丸に設置された標柱から東方を俯瞰する。
 奥の方へ向かうと、徳佐や嘉年城、及び石見(津和野)に繋がる。
【写真左】本丸から東方のJR渡川駅を見る。
 JR山口線と並行して走っているのが、阿武川と国道9号線である。
 阿武川は渡川城の東麓から大きく北に向かって旋回し、当城を囲むように流れる。
【写真左】西方を見る。
 本丸から少し下った位置から見たもので、西方の長門峡方面(山口市方面)を見る。
【写真左】南城の郭
 北城を終えて、南城の方へも向かったが、道が整備されていないため途中で断念した。
 しかし、途中の中腹部に御覧のような郭が残っていた。
【写真左】北西麓から遠望する。
 下山後、渡川城を囲む阿武川沿いの県道篠目徳佐下線(311号線)側に回り込んで遠望する。