2021年10月30日土曜日

丹波・八木城・その2(京都府南丹市八木町八木)

 丹波・八木城(たんば・やぎじょう)・その2

●所在地 京都府南丹市八木町本郷内山・小谷
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●城主 内藤国貞、内藤宗勝、内藤ジョアン
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日

◆解説(参考資料 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』㈱吉川弘文館、HP「南丹市八木町観光協会」等)

 前稿につづき八木城をとり上げたい。今稿では本丸からさらに北東方面に残る遺構や、内藤宗勝の息子の一人・ジョアン(如安)などを中心に紹介していく。
【写真左】八木城本丸
  主郭には隅の方に櫓台があり、前稿でも紹介した虎口がその横にある。
 またこれとは別に直線形の土塁があり、そこから北側にかけてもう一つの虎口が配置されている。



内藤ジョアン(如安)

 永禄8年(1565)、内藤宗勝は赤井直正との戦いにおいて討死した。宗勝には下図に示したように、二人の男子(貞勝、如安)と娘(のちのジュリア)がいた。
 宗勝死去により内藤家の家督継承をめぐって、この長男・貞勝と次男・如安の間で内紛が起きた。その結果、形式上は貞勝が家督を継ぎ、如安は執政を取り仕切る立場となった。ただ、残っている文書を見る限り実際には如安が家督を継いだような形跡がある。
【写真左】松永氏略系
 嫡男貞勝については、不明な点が多い。八木城主としては貞勝となっているものの、父・長頼健在中でも彼の動きが記録上残っていないため、事実上ジョアンが長頼(内藤家)の後継者となった可能性が高い。


現地の説明板より

“MISERICORDIAS DOMINI IN AETERNUM CANTABO
戦国キリシタン武将 ジョアン内藤飛騨守忠俊 ゆかり之地

 ジョアン内藤飛騨守忠俊は、八木城主備前守宗勝の子、八木城に生まれ、1565年頃、南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイス神父より洗礼を受ける。将軍足利義昭に仕え、織田信長との戦に際しては、頭に十字架をHISの打物を施した兜を頂き、二千の兵を率いて二条城に出陣した。
【写真左】主郭周辺の配置図
 前稿で全体の配置図を紹介しているが、この図はさらに主郭を中心とした遺構の配置図。下方が北を示す。

 主郭は▲マークの位置に当たり、ここを中心として登ってきた東側をはじめ、南、西(二の丸)、そしてその途中からさらに北に延びる尾根筋(北の丸)にも郭が連続する。
 また、主郭周辺の郭群とは別に、西側にも独立した郭群(烏嶽 内藤法雲)もある。
【写真左】石積
 本丸から北の方へ少し進んだ位置で、大分崩れているが、石積が残る。






 また、八木城落城後は、将軍足利義昭と共に鞆の浦に隠棲した。
 文禄の役に際し、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、朝鮮を経て明国北京に赴き、講和を締結して文禄の役を終結せしめた。
 以後、前田利家に仕えたが、1614年遂に徳川家康の禁教令により、ユスト高山右近と共にルソンに追放された。
 マニラ市サン・ミケルにてますます信仰の道を究め、かたわら医学書、宗教書を翻訳した。1626年(寛永3年)波乱万丈の生涯を終え、異国の地にて帰天。七十余歳。
1982年6月8日 建立。
【写真左】帯郭
 どの箇所を撮ったのか記憶が曖昧だが、帯郭状の箇所。








小西行長、高山右近との出会い

 如安が八木城の城主としてあったのは二条城の戦いの翌年、すなわち天正2年(1574)ごろまでといわれ、その後、それ以前から支援していた足利義昭とともに備後鞆の浦(鞆城(広島県福山市鞆町後地)参照)に移っている。

 ところで、内藤氏の居城であった八木城だが、神尾山城(京都府亀岡市宮前町)の稿でも述べたように、おそらく明智光秀によって天正7年(1579)ごろに落城もしくは閉城したものと思われる。
【写真左】左に行くと妙見宮方面
 堀切の箇所と思われるが、この日は妙見宮まで向かっていない。






 天正13年(1585)如安は小西行長(近世宇土城(熊本県宇土市古城町)参照)に出会い、秀吉の朝鮮出兵の際にも、行長の家臣として行長を補佐した。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで行長は西軍に属したが、敗れ斬首された。その後如安は肥前の有馬晴信の斡旋で平戸に逃げ、その後加藤清正(熊本城(熊本県熊本市中央区)参照)の客将となる。
【写真左】長い郭
 この写真も妙見宮方面に向かう途中の場所で、尾根筋に長い郭を残す。







 慶長8年(1603)清正の客将から加賀前田家に4千石で迎えられ、当時同じく前田家に入っていた高山右近(宇陀・沢城(奈良県宇陀市榛原区沢)参照)がいたことから二人は熱心に布教活動や教会の建設に励んだ。

 しかし、その後家康による江戸幕府は次第にキリスト教の禁圧を始める。慶長17年(1612)3月21日、本多正純の家臣でキリシタンであった岡本大八は、火刑に処され、翌日前述した肥前のキリシタン大名・有馬晴信は、甲斐国に配流され自害させた(「岡本大八事件」)。
【写真左】二の丸から西に延びる郭
 この日は主だった郭群をすべて踏査していない。すべてを見ようと思えば丸一日かかるだろう。




キリスト教徒海外追放

 そして、慶長19年(1614)3月7日、幕府は高山右近・内藤如安らキリスト教徒百余人の海外追放、並びに残党70余人の陸奥国外ヶ浜流刑を決めた。陸奥国外ヶ浜というのは、現在の青森県津軽半島から夏泊半島までの陸奥湾を望む地である。地名は、陸地が尽きるという由来から来たもので、鎌倉時代から流刑の地としてすでに知られていた。

 その後、如安らの追放先となるフィリピン側との事前協議や、船の準備などもあったのだろう、決定してから7ヶ月後の10月6日、正式に船出となった。100名をこえる海外追放者であるので、おそらく船は2,3艘用意されたのだろう。
 因みに、この翌月(11月15日)、家康・秀忠は大阪城にあった豊臣秀頼攻略のため出陣した。いわゆる「大阪冬の陣」である。
【写真左】内藤ジョアンの石碑
 登城口手前の農道わきに設置されているもので、右下に上段で紹介した説明板の内容が筆耕されている。

 なお、この写真の奥に見える小山は、八木城の支城といわれる鶴首山城で、その麓には後段で紹介する八木城の居館跡とされる東雲寺がある。


 高山右近らがマニラに到着したとき、当時フィリピンはスペイン領であったので、総督ファン・デ・シルバ(第14代総督 任期(1609~1616年))らから大歓迎を受けた。しかし、右近は慣れない気候などもあって翌年死去する。如安には妹・ジュリアも随従した。

 マニラでは日本人キリシタン町サンミゲルを築いたといわれるから、右近・如安らと同船していた日本人キリシタン100余名が協力して町を興したのだろう。如安はその後寛永3年(1626)当地で没した。説明板では享年70余となっているが、資料によっては74歳とするものもある。ジョアンが亡くなったころ、江戸幕府の将軍は、3代目の家光となっていた。

東雲寺

 東雲寺は、前述したように、内藤ジョアンの石碑から北におよそ500m程向かったところにある。八木城主の居館跡に建てられたという寺院である。創建時期ははっきりしないが、上述したように、明智光秀が丹波を平定した天正7年(1579)以降と考えられる。

 残念ながら当院を写した写真が少なく、物足りないが、外周部に残る石垣などは当時のものが再利用されたように見える。
【写真左】東雲寺の脇に残る門。
 現在の通用門はこれとは別の位置にあり、この門のみ独立して置かれている。居館時代のものだろうか。
【写真左】東雲寺の背後
 墓地が見えるが、その後背には鶴首山城が控える。








龍興寺

 東雲寺から西に200mほど向かうと龍興寺がある。享徳元年(1452)細川勝元の香華寺として建立されたとあるので、前記した東雲寺よりも古い寺院となる。
【写真左】龍興寺
 境内には、本堂(方丈)、鐘楼の他、牡丹園、梅園、花奔園などがあり、裏側には写真を撮っていないが、織田信長の弟・信包(のぶかね)の供養塔などもある。


 現地の説明板より

”南丹市指定文化財   昭和61年3月30日

 龍興寺鐘楼

 当寺は、享徳元年(1452)細川勝元公の香華寺(こうげじ)として建立されたと伝わる。このことは元禄15年(1702)に完成した『本朝高僧伝』の玄詔伝に記されている。
 鐘楼は本堂の東側、参道の傍らに建つ。切妻造桟瓦葺で、桁行・梁間各一間である。柱は粽(ちまき)付の円柱で、四方転びに建てられている。軒は一軒で半繁垂木、妻は一重の紅梁蟇(こうりょうかえる)股となっている。
【写真左】龍興寺の鐘楼












 元文5年(1740)園部藩作成の『寺社類集』には、鐘楼の記述はないが、19世紀のはじめに書かれた考えられる『丹波志桑船記』には、鐘楼の記述がある。また戦時中に供出された梵鐘には、延享4年(1747)の銘があったとの伝承もあるので、天明6年(1786)再建の現本堂と同じ頃にこの鐘楼も建造されたものと思われる。
   平成17年3月  南丹市教育委員会”
【写真左】龍興寺から八木城を遠望する。
 龍興寺からほぼ真南に見える。
 写真中央の尖った山が八木城。






 細川勝元は船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)の稿でも紹介したように、応仁の乱における東軍方のリーダーだが、龍興寺を建立したのが享徳元年であるので、まだ乱が勃発する前である。

 龍興寺を建立する2年前の宝徳2年(1450)、勝元は山城国(京都)に龍安寺を創建し、寺領を寄進している。現在、龍安寺は世界遺産の一つとなっており、枯山水の方丈庭園が特に有名で、多くの観光客が訪れる名刹である。

 また、出雲国との関連でいえば、龍興寺を建立した同じ享徳元年(1452)、出雲大社の国造・千家持国が、杵築大社祈祷巻数を細川勝元に贈呈している。16歳で管領に就任し、通算23年間もその任にあったことから、まさに勝元の絶頂期であったと思われる。

2021年10月25日月曜日

丹波・八木城・その1(京都府南丹市八木町八木)

 丹波・八木城(たんば・やぎじょう)・その1

●所在地 京都府南丹市八木町本郷内山・小谷
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●城主 内藤国貞、内藤宗勝、内藤ジョアン
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日

◆解説(参考資料 参考資料 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」㈱吉川弘文館、HP「南丹市八木町観光協会」等)

 丹波・八木城(以下「八木城」とする。)は、前稿神尾山城(京都府亀岡市宮前町)から東へ10キロ余り進んだ現在の亀岡市と南丹市の境にある城山周辺部に築かれた山城である。
【写真左】八木城遠望
 北側にある龍興寺側から見たもので、八木城の北麓には現在京都縦貫自動車道が走っている。





現地の説明板より

❝八木城
 八木城は、八木南西部に位置し、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭のひとつといわれ、中世の山城としては有数の規模を誇る。
【写真左】登城道のコース
「城山自然遊歩道」と名付けられた案内図があり、下方が北を示す。
 下段でも紹介しているように、左図の左側に登城口がある。








 丹波守護代内藤氏の居城として伝えられ、15世紀~16世紀に丹波地方の中心として機能した。戦国時代、キリシタン武将としてルイス・フロイスとも親交のあった内藤如安(じょあん)は有名で、文禄・慶長の役のおり、明側との交渉に当たった。
【写真左】城山登山道入口
 登城口は北東側の京都縦貫自動車道下にあるトンネルに設置されている。
 写真にもあるように、入口は城門を模したような意匠となっている。車はこの隅のスペースに停める。



 城は、明智光秀の丹波侵攻により没落したが、江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は、四方に野づら積みの石組が描かれている。
 また、本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは、天守閣の祖形(そけい)と考えられる。現在は、石垣の一部や尾根づたいに曲輪跡が残るのみであるが、当時の雄大な様子を伝えている。
     八木町・八木町教育委員会”
【写真左】八木城 城跡図
 左図は本丸に設置されているもので、中央が本丸になるが、周辺に配置された各郭群には「古絵図による城の配置と内藤家の武将配置」も示されている。

 現物はモノトーンで書かれているため、管理人によって郭群等を彩色している。
  参考までにこの図に載っている内藤家武将の名前を下に示す。


主な内藤家武将名
 ●大八木但馬(対面所・御茶屋) ●内藤備前守(本丸・金の間、馬屋) ●内藤和泉 ●内藤五郎 ●並河重郎(北の丸) ●八木玄蕃 ●内藤法雲(烏嶽) ●内藤土佐。
 因みに登城口からすぐ登った付近が武家屋敷となっている。

【写真左】登城開始
 前半のルートは谷筋を登って行くコースがとられている。
 
【写真左】屋敷群・その1
 右側に「一合目」と書かれた看板があるが、登城口から歩きだすとすぐに屋敷群が現れる。

 現況は荒れ果てた光景だが、道を挟んで左右に段が連なり、屋敷があったといわれている。


内藤氏

 八木城の築城期については今のところ具体的な時期は確定していないが、南北朝期に足利尊氏から内藤氏が戦功により八木の地を賜り、この地に城砦(砦)を築城したと伝えられている。
 このことからおそらく正平10年(文和4年)(1355)、尊氏が義詮とともに京都において南朝軍を破り義詮が入京しているので、この時期と考えられる。
【写真左】屋敷群・その2
 登城道の2合目付近だが、屋敷群の北端部で、足元には五輪塔の部位がまとめられている。



 内藤氏が丹波守護代として正式に任命されるのは、永享3年(1431)頃だが、それ以前の同氏の系譜をたどると、尊氏が室町幕府を開いた延元元年(建武3年)(1336)の段階で内藤道勝の名が記録されている。従って、前述した八木の地に城砦を築城したのはこの道勝と考えられる。
 その後の内藤氏の系譜として主だった人物を時系列で挙げると、
  1. 之貞  嘉吉3年(1443)~宝徳元年(1449)
  2. 元貞  享徳元年(1452)~文明14年(1482)
  3. 貞正  永正2年(1505)~大永元年(1521)
  4. 国貞  永正17年(1520)~天文22年(1553)
 となっている。なお、尊氏から八木の地を賜った際、当時室町幕府の管領で丹波守護も兼ねていた細川頼元(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)の家臣であったと思われ、以後道勝から貞正に至るまで主君を細川氏とし、丹波守護代の任にあったものと思われる。
【写真左】対面所
 大八木但馬(対面所・御茶屋)といわれているところで、6合目付近に当たる。
 堀切が残る。




内藤宗勝(松永長頼)

 国貞の代になると、細川氏は「両細川の乱」などにより分裂、国貞の父・貞正の代から細川高国に従っていた内藤氏は、その後嫡男国貞も高国に従っていたが、前稿神尾山城(京都府亀岡市宮前町)の稿でも述べたように、大永6年(1526)細川高国が細川尹賢の讒言を信じ香西元盛を殺害したため、これに激怒した波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波に帰参し高国らと敵対したとき、国貞は尹賢らの追討軍から離脱した。
【写真左】7合目
 6合目の対面所を過ぎると、一転して傾斜のある登坂道になる。







 その後、天文2年(1533)細川晴元に属し、丹波守護代に復帰している。このころの国貞の動きを見ると、細川氏の凋落にともない、三好長慶や松永久秀らの急激な台頭があり、彼らの動きを見定め、安易な主従関係を求めない自立した姿勢が窺える。

 その後、国貞は晴元や氏綱(父・尹賢)などと手を結んだりするが、天文17年(1548)細川晴元と三好長慶が対立するや、国貞は晴元を見限り長慶に与した。そして、長慶の下には松永久秀がいた。
 長慶に属してから4,5年経った天文20年から21年ごろと思われる、国貞は娘を久秀の弟松永長頼に嫁がせた。のちの内藤家の家督を握る内藤宗勝である。
【写真左】いよいよ本丸が見えてきた。
 左側の切岸の上は本丸に当たる。









 天文22年(1553)3月、三好長慶は前年和睦したばかりの将軍足利義藤(義輝)と再び断交、8月には義輝を近江に追放した。そして翌9月3日、長慶は松永久秀・長頼兄弟に丹波出陣の命を発した。

 久秀らが最初に攻め入ったのが、波多野秀親らが籠る数掛山城である。因みに、当城は前稿神尾山城から南へ2キロほどの位置になり、八木城は直線距離で北東方向におよそ8キロの位置に当たる。
【写真左】本丸虎口付近
左に行くと本丸、右に行くと妙見宮。








 数掛山城の戦いでは、松永方が当城を囲んだが、その後香西元成、三好宗渭などが後巻きを行い、このため松永軍にあった内藤国貞が討死した。こうした劣勢は八木城にも及び、落城の危機を迎えたが、国貞の娘婿であった松永長頼が直ちに八木城救援に向かい、城を守り抜いた。

【左図】松永氏略系
 松永久秀の兄弟には長頼(宗勝)とは別にもう一人の弟がいたが、記録が残っていないので不詳とし、その子に八上城主となった松永孫六などがいた。

 内藤ジョアンの下にはジュリアという妹がおり、彼女も洗礼を受けている。


 この後長頼は国貞娘との間にできた嫡男・千勝(後の貞勝)を正式な内藤家当主とし、自らはその後見人となり、内藤宗勝と名を改めた。

 これにより松永久秀及び内藤宗勝兄弟は、三好長慶の畿内制圧の一つとして、八木城を本拠とし丹波平定への大きな足掛かりを作った。
 参考までにこのころの三好長慶が支配した地域は以前にも紹介したように下記の通りである。
  • 山城国 淀城       ―  細川氏綱
  • 摂津国 芥川山城     ―  三好義興
  • 大和国 多聞城・信貴山城 ―  松永久秀
  • 和泉国 岸和田城     ―  十河一存
  • 丹波国 八木城      ―  内藤宗勝。八上城―松永孫六            
  • 淡路国 炬口城      ―  安宅冬康
  • 阿波国 勝瑞城      ―  篠原長房
  • 讃岐国 十河城      ―  十河一存
  • 河内国(北部) 飯盛山城 ―  三好長慶
【写真左】右側の妙見宮方面を見る。
 妙見宮は麓にあるが、そこにいくまでに多くの遺構がある。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸・その3,土塁
【写真左】空堀
【写真左】空堀と先端部
 猪が大分崩している。
【写真左】本丸・その4
【写真左】土塁
【写真左】虎口か
【写真左】本丸から北東に八木の街並みを見る。
 写真の左側に少し見えているのが大堰川(おおいがわ)で、右側が亀岡市。
 八木城から大堰川沿いに南におよそ10キロほど降ると、明智光秀が築いた亀岡の丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)がある。

 因みに大堰川は、亀岡市辺りで名前をかえて川下り観光で有名な保津川となり、京都市内に入ると、今度は嵐山付近では、桂川と名乗り、最終的には淀川に合流する。


◎次稿に続く
 
 とりあえず本稿ではここまでとし、次稿では本丸からさらに北東方面に向かった遺構並びに、内藤宗勝の息子・ジョアン(如安)や、麓にある内藤氏所縁の寺院などを紹介したいと思う。

2021年10月15日金曜日

神尾山城(京都府亀岡市宮前町)

 神尾山城(かんのおさんじょう)

●所在地 京都府亀岡市宮前町
●別名 本目城
●高さ 450m(比高240m)
●築城期 戦国時代後期
●築城者 不明
●城主 柳本賢治、細川晴元、明智光秀
●遺構 土塁・曲輪・堀切
●備考 金輪寺
●登城日 2017年3月20日

◆解説(参考資料 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」㈱吉川弘文館等)

デカンショ街道 

 丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の北麓を東西に走るのが国道372号線である。「たんば三街道」の一つで、通称「デカンショ街道」と呼ばれる。これは京都府の亀岡市を起点とし、丹波篠山市を経由し兵庫県姫路市を終点とするルートである。

 「♪ デカンショー、デカンショで半年暮らす… ♪」という歌を初めて知ったたのは管理人が高校生のときであるから50年以上も前のことである。学園祭などがあると、応援歌としてよく歌わされた。当初この「デカンショ」の意味も分からず、とにかく大声で歌えと応援団長から命令されていたのを覚えている。因みに、この歌は明治から大正期にかけて学生にはやったもので、花柳界にも流行した。
 「デカンショ」そのものの意味は、哲学者「カルト」「カント」「ショーペンハウエル」から来たという説と、「出稼ぎしよう」という語彙から来たものなど諸説ある。
【写真左】神尾山城の石垣
 当城は下段でも述べているように尾根に沿って南北500mの長さを持つ。最高所と先端部との比高差はおよそ50mあり、城域に入るとさほどの傾斜は感じられない。
 写真は途中で見えた石積(石垣)。


 さて、このデカンショ街道は、既述したように国道372号線がほぼトレースしているが、途中で南丹市の園部町埴生付近で372号線から離れ、南側の山裾に沿っておよそ5キロほど東進しながら南下し、亀岡市の宮前(みやざき)町宮川の辺りで再び372号線と合流する。

 この合流する手前の宮前から西方に聳えているのが神尾山城で、八上城からはおよそ30キロほどの距離になる。そして、神尾山城の南先端の尾根には古刹金輪寺が建立されている。
【写真左】金輪寺
 麓から金輪寺に向かう道は急坂となっているが、整備されているので車で行ける。駐車場は金輪寺の参道(階段)下に設置されている。


金輪寺明恵上人

 そこで、最初にこの金輪寺と当寺を再興した明恵について触れておきたい。

 現地の説明板より

“神尾山金輪寺

 本山修験宗に属する金輪寺は、元天台宗として延暦2年(783)西願上人により創建されました。その後一時衰微しましたが、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明惠上人により再興され、宝蔵坊、極楽坊、一切経堂などの堂宇が建ち並び、隆盛を極めました。南北両谷の各所に残る坊舎の礎石などが、往時をしのばせます。
 本尊の薬師如来像は、奈良時代の作といわれ、日本最初の医学書である『医心方』を著した丹波康頼の念持仏といわれています。本堂背後の山道を少し登ったところに、康頼の供養塔があります。
【写真左】金輪寺側から神尾山城を遠望・その1
 写真の右奥にみえる山が神尾山城の城域となる。





 当寺には、南北朝時代の絹本著色仏涅槃図や、正応5年(1292)に建造された石造五重塔などの国の重要文化財のほか、正安3年(1301)に仏師定有らによって造像された金剛力士立像や、永徳2年(1382)の鰐口、天文3年(1534)の梵鐘など京都府や亀岡市指定の文化財が数多くあります。
(中略)
 幕末に至り、同寺の住職であった大橋黙仙は、勤皇僧であり、当寺の庫裡に勤皇志士が集まり、密議を交わしたといわれます。そのような中、安政の大獄で処刑された頼山陽の三男頼三樹三郎と桜井新三郎頼直の遺髪を、黙仙和尚が持ち帰り、供養のために建てた碑が本堂裏に残されています。“
【写真左】本堂
 本堂はさほど大きなものではないが、落ち着いた雰囲気がある。








 説明板にもあるように、金輪寺(こんりんじ)は延暦2年(783)西願上人の創建後、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明惠(みょうえ)上人により再興されたとある。ただ、明恵上人は承安3年(1173)に生まれ、寛喜4年(貞永元年)(1232)に遷化しているので時期が合わない。

 明恵の父は平重国で、治承4年(1180)平氏打倒を謀った源頼朝を討つべく東国に出陣したが、上総国で討死。孤児になった明恵は、京都高尾の神護寺に入り16歳で出家、その後仁和寺、東大寺などで真言密教や華厳宗などを学び、厳しい観行を経たのち、建永元年(1206)後鳥羽上皇から京都の栂尾を与えられ、神護寺の北方に高山寺を開山している。
 従って、金輪寺の再建は高山寺創建後と思われる。
【写真左】金輪寺側から神尾山城を遠望・その2
 西側から見たもので、庫裡の後背からほぼ城域となっている。






 明恵は栄西(土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)参照)などからも教えを受けたが、華厳宗を信仰し、建暦2年(1212)法然没後、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、法然の『選択本願念仏集』を激しく非難している。

 因みに、その翌年5月、和田義盛が挙兵して北条泰時を攻めるが討死(和田合戦)し、和田氏に替わって北條義時が侍所別当を兼ねた。こうした流れの後、承久の乱(1221)が勃発するが、このとき明恵は上皇の恩義を重んじたのだろう、上皇方の兵を匿ったり、上皇を支援した公卿中御門宗行が惨殺された際、その妻のために山城に善妙寺という尼寺を建てたりしている。
【写真左】登城口
 金輪寺の右側奥から御覧のような道がついている。








神尾山城

 さて、冒頭でも述べたように神尾山城はこの金輪寺の背後にある尾根筋上に南北約500m、東西約200mの規模で築かれている。
 
現地の説明板より
 
 ”…戦国時代には寺の山続きに神尾山城(別名 本目城)があり、丹波平定を行った明智光秀の山城の一つとして数えられていました。

 光秀の丹波平定に最も抵抗したのが波多野秀治兄弟でしたが、居城であった八上城(現 兵庫県篠山市)を兵糧攻めの末、人質(光秀の母)を差し出すことで和睦が成立し、波多野兄弟が連れてこられたのがここ本目城であったと伝えられています。”
【写真左】歴代住職の墓と五輪塔
 登城口を登るとすぐに御覧のような墓石群が見える。
 左側に8基の住職の墓があり、その右に2基の五輪塔がある。
 この場所も削平された箇所で城域の最南端の一部だったかもしれない。


 著書『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』㈱吉川弘文館)に縄張図が紹介されているが、これを見ると、南北に延びる尾根筋を無駄なく利用し、郭は大・中・小の規模でおよそ10か所配置され、階段状に連なっている。
 このうち大型の郭は北側最高所の位置にある主郭と、中段の郭及び南端部のもので、長さはいずれ50m前後を測る。幅は尾根幅に制限があるので、最大で30m前後である。
【写真左】堀切
 最初におよそ50m程の長さを持つ郭があり、そこを過ぎると3段ほどの小郭が階段状に連なるが、この写真はその小郭手前の堀切。


柳本賢治と細川高国

 大永6年(1526)10月、管領に復帰した細川吉兆家当主・細川高国は、従弟の細川尹賢(ただかた)の讒言を信じ、香西元盛を殺害した。これは阿波を本拠とした細川澄元・晴元及びそれを支援していた三好元長らが政権の奪取を図っており、これに香西元盛が内通したという噂を尹賢が高国に伝えたためであった。
【写真左】さらに右の道から上がる。
 左側に郭群が配置されている。









 当時、両細川の乱という幕府管領職を巡って、高国と澄元との対立抗争が勃発していたが、高国を支えていたのが香西元盛の兄である波多野元清や、弟の柳本賢治(かたはる)である。
【写真左】細川氏略系
 細川氏が不安定な継嗣となったのは、政元の代からといわれる。
 修験道に凝ったり天狗の業に熱中し、「所詮京兆若衆好み」といわれ、男色だった。
 当然実子がいなかったため、左図にもあるように無謀にも3人の養子をとった。これがのちの細川氏の内紛へと繋がる。


 因みに彼ら三兄弟の父親は八上城であった波多野清秀で、彼はもともと石見国の吉見氏一族(黒谷横山城(島根県益田市柏原)参照)といわれ、18歳のとき上洛し細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に仕えたとされている。
【写真左】切岸
 小郭段を右手に見たもので、ここを直登。
 史料によっては、手前までが第1郭群で、ここから先が当城の第2郭群としている。



 元盛殺害をきっかけに、波多野元清・柳本賢治兄弟は高国と対立、京を離れ、本貫地丹波へ戻った。そして、この年(大永6年)11月、元清は八上城へ、賢治は当城・神尾山城にそれぞれ籠城した。これに対し、高国は尹賢をはじめとし、内藤・長塩・奈良・薬師寺・波々伯部(ははかべ)・荒木の諸氏に神尾山城へ向けて進発させた。
 尹賢らは激しく神尾山城を攻め立てたが、賢治はこれをよく持ちこたえ、逆に敵の陣所に反撃を加えたりした。
【写真左】第2群の最大の郭
 長径は30mほどだが、東西幅は20m前後あり、この郭の南端部には東に突き出した小郭が付随している。


 またこの戦いでは丹波勢とは別に阿波からも援軍を差し向けている。それはのちの細川晴元となる細川六郎からも感状がこのとき発給されていることからもわかる。この戦いのあと柳本賢治ら丹波勢は阿波方と連合し京都進撃の体制を図ることになる。

 この後の詳細な動きについては省略するが、享禄3年(1530)6月29日、柳本賢治は細川高国・浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)らによって、播磨東条で暗殺される。

 しかしその高国も翌4年6月4日、三好元長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)、赤松政村(鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)参照)らによって天王寺で敗れ、4日後の8日、今度は村宗の裏切りに遭い高国は窮地に追い込まれ、大物(尼崎)の広徳寺で拘束され切腹した。
【写真左】第1群の郭
 さきほどの郭を過ぎると、尾根幅が狭くなり、細長く北に延びていく。








明智光秀の丹波平定

 柳本賢治、細川高国死去からおよそ40年後の天正7年(1579)、明智光秀は丹波・八上城を攻略、城主・波多野秀治・秀尚兄弟を捉え、信長の安土城へ送還した。同年6月8日、信長は二人を磔刑に処した。

 光秀が信長から丹波攻略を命ぜられたのは天正3年(1575)といわれる。当時足利義昭が信長と対立し丹波には義昭に与する者が多くなっていた。丹波国では八上城主・波多野秀治が光秀に従っていたが、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の赤井直正攻めを行うと、突然秀治は光秀を裏切った。この突然の出来事に光秀は奔走を余儀なくされた。その後光秀は信長の命を受け各地に転戦するが、過労で一旦治療を続ける。
【写真左】第1群の最高所に向かう。
 このあたりから木立に遮られ、日差しが途切れる。






 天正6年(1578)3月、赤井直正が病死すると再び丹波平定に向かった。その後も丹波勢との一進一退の戦いが繰り広げられたが、最終的には天正7年(1579)8月9日、黒井城攻略を以て丹波を平定している。おそらく神尾山城も金山城などと同じく、このころすでに光秀の拠城となっていたものと思われる。
【写真左】最高所の郭
 主郭と思われる個所だが、木立に囲まれて明瞭でない。
【写真左】帯郭
 最高所側の郭には西に小規模な竪堀、北東部には2段の小規模な帯郭などがある。
【写真左】大岩
 東側に突き出した岩で、自然地形のものだが、切岸の役目をしている。