2012年4月20日金曜日

尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)

尼子義久の墓(あまごよしひさのはか)

●所在地 山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺
●探訪日 2010年11月5日

◆解説(参考文献『尼子盛衰人物記 妹尾豊三郎編』等)
 長門国の山城が続いたところで、今稿は永禄年間、出雲尼子氏の居城月山富田城が落城したとき、時の城主であった尼子義久が眠る墓を紹介したい。
【写真左】尼子義久の墓
 宝篋印塔の形式を持つものだが、義久が没した慶長年間となると、墓の様式も戦国期と比べると大分変化している。





 場所は山口県の萩市の東隣阿武町奈古にある大覚寺という寺院にある。

現地の説明板より

“尼子氏の奈古(なこ)移住と大覚寺


 山陰の雄 尼子義久は永禄9年(1566)に毛利氏の軍門に降り、安芸長田の円明寺に幽閉。許されて一族が奈古に来たのは、関ヶ原敗戦後、慶長年間に入ってからと思われる。 
 義久は慶長15年(1610)に没し、義久の法号によって、それまでの光応寺は大覚寺と改められた。義久、秀久の墓は、本寺の裏山に建てられている。
   阿武町”
【写真左】大覚寺山門
 大覚寺はJR山陰線奈古駅から北東へ約1キロほど向かった阿武町奈古の町の北方にある旧道沿いに建立されている。





尼子義久

 尼子義久についてはこれまで平田城・その2(島根県出雲市平田町)宇山城(うやまじょう)跡(島根県雲南市木次町寺領宇山)満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2で度々紹介してきているが、尼子晴久の嫡男で、晴久急死のあと跡を継いだ。

 毛利元就が本格的に月山富田城を攻め始めるのは、永禄5年(1562)ごろで、このとき義久は若干22歳と若かった。
【写真左】大覚寺境内
 写真中央にある樹木は、県指定天然記念物となっている「ビャクシン(白杉)巨樹」。
 イブキの変種で、地元の方言では「ビャクタン」ともいわれているという。


 義久の墓は、この写真でいえば左側の方にある。


 永禄9年(1566)11月、義久はじめ富田城に籠る尼子方はついに毛利方に対し、抗戦の停止を申し出ることになった。

 月山富田城が落城した経緯はこれまでも紹介しているので省くが、その際の処置については尼子方も毛利氏に対しいろいろな条件を付帯させている。つまり、尼子方にとっては「和睦」の形を取ろうとしていたわけである。

 そしてその間両者との交渉役に当たったのが、斐川高瀬城主であった米原綱寛である。綱寛は元々尼子方に属し、その後毛利方に鞍替えしていた。ちなみに、この後山中鹿助が尼子再興の旗を挙げたとき、再び尼子方に戻ることになる。
【写真左】灌漑用水池に建つ石塔
 境内の西側には灌漑用水池があるが、その中央にはご覧のような変わった石塔が立っている。
 一瞬この石塔が義久の墓と思ったが、よく見ると周囲に小さな地蔵がぎっしりと取り囲んでいる。


 何かの目的で設置された宝篋印塔形式の供養塔なのだろうが、ご住職不在のため、確認していない。


 尼子方富田城の使者であった立原源太兵衛久綱は、綱寛の斡旋で直接毛利方の吉川元春・小早川隆景と交渉することになった。毛利方(元春・隆景)らは伝聞によれば、尼子方が富田城を明け渡すならば、「石見銀山に五千貫の土地を与える」と伝えたという。この条件を義久は承知し、正式に明け渡しの段取りが整ったといわれる。

 しかし、実際には石見銀山での所領宛行(替地)はなく、尼子一族の決別が待っていた。主だったもの69名は一旦西方の杵築(大社)まで移動し、そこで別れの宴が開かれた。69名の中には義久はじめ、山中鹿助・立原久綱・三刀屋蔵人らがいた。
【写真左】尼子義久の墓・その1
 正面から見たもの。
 なお、大覚寺には末弟・秀久の墓も当地にあると記されていたが、確認できなかった。






 ところで、義久には弟二人がいた。倫久(ともひさ)と秀久である。義久らに随従が許されたのは、以下の通りである。

(1)義久随従者
  家老:大西十兵衛
 卯山(宇山)右京介・立原備前守・本田与次郎・大西新四郎・馬木彦右衛門・力石兵庫介・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾宗五郎・大塚勝五郎・正覚寺等

(2)倫久随従者
  家老:多賀勘兵衛
 長谷川小次郎・山崎宗右衛門・松井勘左衛門等

(3)秀久随従者
  家老:津森四郎次郎
 秀久については家老以外の者の記録がないため不明だが、義久と行動を共にしていることから、義久の他の家臣が兼ねていたのだろう。
【写真左】尼子義久の墓・その2
 墓の前には尼子氏家紋である「平四つ目結」の石造塀が施されている。




 

 なお、義久の正妻については、同行が許されず、後に阿佐の観音寺で黒髪を落とし、「宗玉禅尼」と名乗り義久の現世菩提を弔ったといわれ、当寺(観音寺)に彼女の墓があるといわれている(「尼子盛衰人物記」)。

 しかし、これとは別に現在島根県出雲市にある同名の寺院(観音寺)にも義久正妻の墓が建立されている。
【写真左】尼子義久の妻の墓・その1
 所在地 島根県出雲市観音寺


 伝承では、義久の妻は近江国の京極修理大夫の子息・五郎という人物の姫だったといわれ、杵築で別れたあと、当地出雲の観音寺で出家し余生を送ったともいわれている。

近江・小谷城・その3(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)参照)

【写真左】尼子義久の妻の墓・その2
 現地の説明板より
“円光院 宝篋印塔
 戦国時代の武将・尼子義久公の室・円光院殿の墓で、永禄9年(1566)毛利氏に降り安芸に護送された公と悲しい決別の後、黒髪を落とし仏門に帰依されたが、慶長15年(1610)没せられた。
(四絡まちづくり推進協議会)”




 さて、その後義久三兄弟は最初安芸長田(広島県向原町)の円命寺に幽閉され、それから16年後の天正16年(1588)、義久は尼子家の家宝であった名刀・荒身国行(頼国行)を毛利輝元に献上する。

 その効果があったものか、翌年には幽閉を解かれ、毛利氏の客分として処遇を受け、志路の根の谷(広島県高田郡白木町大字白路)に館を宛がわれ、570石を与えられた。

 慶長元年(1596)、義久は終の棲家となる長門に移され、阿武郡奈古に入った。ここで1292石を給せられる。しかし、このころから病弱の身となったため、同郡嘉年村五穀禅寺に入山、「友林」と号し仏門に入った。そして後には、同郡奈古郷上浴において、しばらくは平穏な余生を送ったが、慶長15年(1610)8月28日、当地において逝去した。享年70歳。

 長門にあった義久は、亀井茲矩(慶長17年没)と同様、尼子氏一族の中で最も長く生きながらえた一人となったわけである。
【写真左】義久の墓から北東方面を見る。
 二度と出雲の地に戻ることのなかった義久にとって、長門のこの地で去来するものは何だっただろうか。

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