2009年1月27日火曜日

高取城(奈良県高取町)

大和高取城(やまとたかとりじょう)

●所在地 奈良県高取町
●別名 芙蓉城
●築城期 元弘2年(1332)ごろか
●築城者 不明
●城主 子島・越智・本多氏など
●高さ 583m
●登城日 2007年5月29日

 このブログのタイトル「西国の…」というわりには、島根県と鳥取県がほとんどで、いっそのこと「山陰の…」という看板に変えた方がよさそうな状況になってきたため、今回は唐突であるが、奈良県の高取城を取り上げる。
【写真左】高取城の石垣












 この城は、山城ファンならほとんどの人が知っている「日本三大山城」の一つで、改めて説明するまでもないが、とりあえず概要を記す。

◆日本三大山城

本丸が設置されている高さ(標高)から列記すると

1、岩村城(いわむらじょう)跡・岐阜県恵那市岩村町字城山  標高 721m
2、大和高取城(奈良県高取町)  標高 583.3m
3、備中松山城(岡山県高梁市内山下)  標高 430m

 高さだけでは美濃岩村城だが、天守閣が現存する山城で日本一高いのは、備中松山城となり、大和高取城は、「比高」すなわち、麓と頂上の高低差が一番高く、350mである。
【写真左】説明板と縄張図
 左側が北を示す。
 カメラが古くて鮮明ではないが、右側が本丸になる。






◆高取城の概要については、他の山城サイトなども紹介されているので、この稿では、現地の説明板による。

高取城沿革

 高取城は、別名、芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型としてよく知られ、巽(たつみ)高取雪かと見れば、雪でござらぬ土佐の城とうたわれている。築造年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。
 元弘の頃に一時、子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。

 城の形態としては、永正から天文(1504~54)の頃に、整備されたとみるべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに、越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。


 越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が、筒井順慶によって企図され、天正12年2月、高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。


 この一国的規模での本城=出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀次と秀保の時代であった。


 その後の歴代城主は、本多氏が寛永14年(1637)三代で断絶し、寛永17年10月、植村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。


 城跡は、標高583.3mの山頂部を本丸とし、以下二の丸・三の丸・大手曲輪・吉野口曲輪・壺坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壷坂口、吉 野口の入口があった。


 これら主体部はかつて土塁・柵、空堀等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴しめす構造になっている。


 例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるように、いずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。


 その他、本丸の桝形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また、本丸、鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。


 ところで、廃城後の建造物については、そのほとんどが明治中期に取り壊された。石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊やひずみの激しい箇所の修理を昭和47年以降繰り返し実施している。


    奈良県教育委員会“

【写真左】本丸付近











◆登城したのが、すでに2年近く前にもなるので、このときの記憶がだいぶ薄らいでいる。細かい点までは覚えていない。唯一撮影した写真などから、印象に残ったことをまとめてみたい。

◆出雲から車で向かったが、南阪奈道路から24号線を通り、169号線に入ってしばらく南下すると、壷阪寺口というところから、左の道に入る。するといきなり上り坂になる。途中この壷阪寺という大きな寺院があり、ここに立ち寄った。ここにはびっくるするほどの大きな巨大観音像が建っており、何でも「眼病に効く」とのこと。

◆この寺院には結構観光バスなどで参拝する人が多く、境内には案内所が設けてあり、ここの受付嬢に、高取城へ車でどこまでいけるか尋ねた。

 すると、ここから車で行く道はあるが、場所によっては対向車とギリギリですれ違うところや、カーブが多く、しかも登城口の駐車場も2、3台程度しか停めるところがない、といわれた。それを聞いて、一瞬迷った。しかし、徒歩でどの程度かかるものか全く分からないこともあり、車でさらに上を目指す。幸い上から下ってくる車がほとんどなく、しかも駐車スペースの部分もなんとか確保でき、登城口近くに止めることができた。

◆地図ではこの位置から本丸まで近いと思ったが、これがどうしてなかなか曲者で、最初から七曲状態の道の連続、しかも周囲は時節がら草丈がだいぶ伸び、涼しい風はほとんどなく、これが壷阪寺から歩いていたらどうなる事かと思った。

◆ほとんどの山城がそうであるように、本丸や二の丸付近辺りになると、傾斜はさらにきつくなる。途中でこの山の別の尾根から登ってきた登山者の何組かの団体とすれ違った。登山としてのコースは北西の方向にある高取土佐の町から登っていくのが一般的らしい。この人たちは高取城というより、この周辺の尾根伝いを踏破することが目的のようで、山城にはあまり興味がないようだった。

◆さて、上部の城郭付近の状況は添付の写真の通りだが、このころは山城の写真の取り方というか、コツがまだつかめていないときのもので、あまりい写真は撮れなかった。特に城跡の周囲・地面が雑草が多く、一番いい時期は紅葉の頃だそうだ。


◆あとから思えば、もう少しじっくりと城郭全体を見たかった。ただ、歩ける部分が伸びきった草木で邪魔をしていたため、思うように探索できなかった。城内の面積が10,000㎡、周囲約3km、城郭全域の総面積が60,000㎡というから広大である。

◆うっそうとした樹木に囲まれている「古城」という雰囲気で、広い本丸跡に佇むと、枝木の間から大台ケ原方面の山並みが見える。南北朝期に城の原型ができたというから、ひょっとして吉野の館から後醍醐天皇もやってきたかもしれない。

 実は、それまで私の頭の中には、「大和」ということばのイメージが、武者の時代というレールに端(はな)から乗っていなかった。大和といえば古墳とか、古代とかいった単純な括りで、この地域は別のものという勝手な解釈をしていた。

 ところがよく見てみると、この場所から西に行けば、千早城や葛城山あたりを席捲していた楠木正成もおれば、東の伊勢方面は北畠氏など、太平記のおなじみの面々が居た場所である。そして上段の説明板にもあるように、この地も戦国記から江戸時代幕末まで、他の城下町と同じように時を刻んでいる。

◆「…よくもまあ、こんな高くて深い山の上に城を築いたものだ」と、藪蚊に食われながらも改めて改めて思った。これだけの石垣を当時はすべて人力で行っていたわけである。ユンボやパワーショベルなどない時代である。昔の人の体力と知力には今更ながら脱帽である。

2009年1月26日月曜日

塩冶氏と大廻城・塩冶神社(島根県出雲市塩冶町)

◆歴史の調べ物をする際、いつもの癖でどうしてもスポット的な記録・記事を追ってしまい、全体の流れを体系的に読むというスタンスがいまだにできない。そんなことから、知識はいつも「つまみぐい」の感が拭いきれない。

◆山城を訪ねる際も、そのときいろいろな情報を調べている際に、たまたま目にとまり、気になったものから訪ねて行くので、前後の関係もあまり考慮していない。いわばその時、その時が、「一点主義」で、目指す山城の登城を成就すれば、それで満足してしまう。

★さて、今回はそうしたことを多少は改善すべく、前回登場した山城探訪の続編として、出雲市にある「塩冶氏」関係の史跡について、少し踏み込んで取り上げたい。
 前回、塩冶高貞を中心として、城跡は「半分(はんぶ)城」、塩冶氏館跡などを取り上げたが、今回は塩冶氏初期の居城といわれている「大廻(だいさこ)城」と、塩冶氏を祀る「塩冶神社」などを取り上げる。
(1)大廻城
●所在地 島根県出雲市塩冶町 登城日2009年1月26日


 大廻(迫)城の場所は、同じく塩冶町にあるが、「向山城」の南に隣接する山で、現地の説明板によると、次の通り。
大廻城
 この上の小高い山が大廻城跡です。おもな郭が3か所あって、土塁などが残っています。
 今から約800年前、源平の戦いで宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟・義清が、鎌倉幕府より、出雲国の守護識を命ぜられました。その孫・頼泰が弘安年間(1280~)に築いたのが、大廻城だと伝えられています。
 頼泰は塩冶郷に守護所を移し、地名を氏とし「塩冶頼泰」と名乗りました。
 それから約50年後、南北朝の争乱の時、塩冶判官高貞(頼泰の孫:筆者注)が活躍したことは世に有名です。城跡南麓には高貞を弔った頓覚寺(とんかくじ)跡があり、、上塩冶築山には高貞社跡があります。
 高貞は、江戸時代の劇作家・竹田出雲の作「仮名手本忠臣蔵」の浅野内匠頭のモデルとなった人です。

 平成15年10月 塩冶クラブ”

以上。

【写真左3枚とも】
上の写真は、城郭南の民家が麓にある位置から撮ったもの。
下の2枚は、郭(本丸?)から東南下斜面のもの。



◆ところで、島根県の山城関係のデータを調べる際、いつも活用しているのが「島根県遺跡データベース」だが、どうしたわけか、この大廻城についてはデータに入っておらず、腑に落ちない。単純な記載漏れなのか、それともこの史跡を山城と認めていないのだろうか。
◆確かに、塩冶氏の山城として最も大きい「半分城」よりはその規模において、1/3にも満たない。もしそれが理由だとすれば、同程度の「向山城」も同じことになるが、こちらは取り上げている。
 ただ、藤岡大拙氏によれば、塩冶氏の守護所として大廻城には異説(現:大井谷城=大廻城とする)もある、とのこと。

 どちらにせよ、大廻城が、「城跡・山城」であることは、間違いないので、今後改定の際、データに入れて欲しいものである
大廻城の現状は写真のように、周辺には杉の木が植えられ、上部方向の傾斜部は雑木が生えている。下の道のわきにりっぱな説明看板があったので、当然要所ごとに矢印などがあるかと期待していたが、周辺をウロウロするものの、そのようなものが全くない。
◆仕方がないので、藪状の隙間から入っていくと、急傾斜の部分のみで、上の郭に上れるようなものが見当たらない。しかも、このときももう一人?の相棒(四足のトミー)が、このあたりから盛んに登るのを拒否し出す。こういうときは大体、ほかの獣(タヌキか、野犬)がいる場合が多く、その上雨が降り出してきたので、残念ながらここで断念した。
◆今回は案内板のある坂道(南側)から歩いて行ったが、案外北側に登り口があるかもしれないので、次回は天気のいい日にじっくりと挑戦してみたい。
(2)塩冶神社
●所在地 島根県 出雲市 上塩冶町 167  ●探訪日 2009年1月26日

塩冶神社は、大廻城から南南西に直線距離で約500mほど行った小高い山に祀られている。

【写真左】塩冶神社本殿




境内に立派な石碑があったので、これを記す。
“出雲隠岐守護
塩冶判官高貞公
顕彰の碑
 塩冶判官高貞公は鎌倉末期から南北朝の激動する世相の中を、出雲の守護として「天長、地久、国土安泰」を念じ懸命に生きようとした我が郷土の誇るべき武将である。
 世に言う元弘の乱(1331年)以来、後醍醐天皇の親政を救け、京都還幸のの先達を務め建武の中興を支えるにない手となった。その後室町幕府の要職にあったが、いわれなき讒訴(ざんそ)にあい、京都を出奔、最愛の妻西台の局をも失い、自らも馬上で妻子の後を追った。
人間味豊かな武将である。
 後世、高貞公夫妻の名は歌舞伎の名作「仮名手本忠臣蔵」によって脚色され、民衆の人気の的となった。
 本年高貞公没後650年に当たり、全国各地の塩冶氏、高貞公の末裔、南條氏、地名を氏とした塩冶郷の人達と語らい古墓を整備し御霊を慰め子孫の繁栄を願い、その生き方をしのび、ここに後世に伝えるものである。
祭霊
  塩冶頼泰、貞清、高貞公夫妻及び一族
事業内容
  神門寺境内の高貞公の墓の整備、祭典及び法要
  塩冶神社境内に顕彰碑の建立 歌舞伎の主催
寄付者ご芳名
  塩冶一族
   (以下省略)
  南條一族
   (以下省略)
高貞公所縁の寺社
 出雲市 塩冶神社
 姫路市 円通禅寺
 倉吉市 定光禅寺
 出雲市 神門寺 、観音寺 浄音寺
平成3年9月吉日
  塩冶判官高貞公650年祭実行委員会”
以上
★この石碑に、南條氏が出ているが、これは伯耆にある「羽衣石城」城主・南條氏の祖が、高貞の子・貞宗であるということらしいが、一説によると、南條氏そのものは塩冶氏とは関係なく、最初から伯耆に南條氏の祖が居たというのもある。
【写真左】塩冶神社から向山城及び大廻城を見る

2009年1月25日日曜日

因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)

因幡・若狭鬼ヶ城(わかさおにがじょう)
●所在地 鳥取県若桜町
●築城期 南北朝
●築城者 矢部氏
●標高   452m
★登城日 2007年11月17日

◆解説(山陰の城館跡 山陰史跡ガイドブック第1巻)より
“難攻不落の巨大山城 鬼ヶ城は若桜の町を眼下に望む標高452mの鶴尾山の山頂部から丘陵尾根上に郭群を配しています。築城は南北朝期にさかのぼるとされ、のちに木下氏の手で大規模に整備された織豊期城郭の姿をよく残しています。
 鬼ヶ城は矢部氏によって築かれ、16代にわたる若狭統治の拠点であったといわれていますが、因幡から但馬・播磨に抜ける主要交通路を押さえる要衝の地であるため、戦国時代の天正3年(1575)尼子氏の支配下となります。のちには羽柴秀吉の配下である木下備中守が、若狭2万石の城主となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れるまで22年間若狭を統治しました。
 関ヶ原の戦い後には、山崎家盛が入城しましたが、元和3年(1617)の池田光政の鳥取移封に関連して、山崎氏は備中に転封となり、鬼ヶ城は池田氏の統治下に入りましたが、一国一城令に基づき鬼ヶ城は廃城となりました。

【主郭部】
本丸、二の丸、三の丸、ホウヅキ段、六角石垣などすべてが高石垣で築かれています。
また、発掘調査によって全国的にも珍しい廊下橋虎口や、全国で唯一確認された行き止まり虎口と呼ばれる特殊な虎口が見つかりました。
◆この城には、2007年11月17日に向かっている。登城するきっかけとなったのは、ちょうどこの年の11月に、当城が「国指定史跡」に認定されたという記事を地元の山陰中央新報で見つけたからである。

◆以前から、この城については興味をもっていたが、我が家から向かうアクセスとしては相当遠くなり、しかも一般道になるため渋っていたが、この記事で踏ん切りがつき向かった次第。
◆掲載した解説にもあるように、遺構もダイナミックなものがあり、しかも頂上部からの眺望もすばらしく、山陰の山城の中でもトップクラスに入ると思われる。



【写真左】本丸跡から、若桜街道(播州街道)の兵庫県方面を見る。
 この若桜街道は古代からの街道として使われてきており、因幡から播州を経て畿内に行く重要な道である。






【写真左】

本丸跡から氷ノ山方向を見る
 なお、この氷ノ山に行く482号線の途中に、長砂城という城があり、その城主・長砂伊賀守の子・長砂与五郎の墓とされている五輪塔があるとのこと。まだ私はその「長砂城」や五輪塔など探訪していないが、元々この地域は安芸の毛利氏の出自と同じで因幡毛利氏も矢部氏と同じくかかわっていた。
 その規模は塔高185cmで同町内では最大とのこと。


【写真左】麓にある若桜神社
現地の説明板によると、創立時は不明だが、古くから「松上大明神」と呼ばれ、元弘3年(1333)後醍醐天皇が、京都に還幸の際、名和長年が参拝して鉾を奉納したと伝えられている。
 当社は元は、八兵衛谷というところにあったものを、正治2年(1200)前記した当時の領主・矢部氏が赴任したあとの築城の際、松上山の宮ノ元にうつされた。その後天正9年(1581)羽柴秀吉の因幡攻めの時に兵火にあい、社殿や宝物を焼失した。そのあと、前記したとおり秀吉の配下木下重堅、山崎父子により社殿を再建立したという。

◆上段の青字による当城の説明の中で、「天正3年、尼子氏の支配下」となった状況には、山中鹿之助が絡んでいる。

 この前年(天正2年・1574)、鹿之助は同じ若桜街道を下ったところにある私部(きさいち)城(八東町)をまず陥れ、ここを拠点として鳥取城の山名豊国と対峙する(豊国は戦国の世の常とはいえ、余りにも頻繁に敵味方を変えるため、誰からも信用されなくなっていく)。

 翌天正3年6月、鹿之助は若桜城主・矢部氏を攻略。今度はこの城を拠点として、私部城には鹿之助の娘婿・亀井茲矩(これのり)を置いた。9月、吉川元春・小早川隆景が因幡に向い、私部城を10月頃落とし、そのあと当城・若桜城を攻め寄せた。このころ周辺の動きがさらに激しくなり、毛利方はいったん安芸へ帰らざるを得なくなった。

 鹿之助らも翌年(天正4年)5月頃、若桜鬼ヶ城から退散せざるをえなくった。両者のこうした動きの背景には、浦上宗景織田信長の支援を得て、具体的に動き出したからである。

槻下豪族居館跡及び槻下神社(鳥取県琴浦町)

槻下豪族居館跡(つきのしたごうぞくきょかんあと)、
                       及び槻下神社


●所在地 鳥取県琴浦町槻下
●指定  町指定史跡
●登城日 2008年2月3日

◆解説
現地の説明板より
“町指定史跡
 槻下豪族館跡
     (昭和49年5月1日指定)

 鎌倉時代の豪族(武士)の館跡で、二つの方形の屋敷跡が残っている。東側は、南北約40m、東西約30m、西側は、四方約40mで周囲に高さ約3mの土塁が築いてある。
 当時はこのような居館を館(たち)と呼び、周囲に土塁をめぐらし、堀を為すことを常としたので、堀の内・土居ともいった。
 土地の人は、今でも「おおぼれ」と呼び、周辺に「陣場野」「垣の内」「門田」などの地名も残っている。
  平成16年9月
    琴平町教育委員会”

【写真左】左が道路をはさんで南にある槻下神社、右の写真が槻下豪族居館跡
【写真左】豪族居館の左側半分
【写真左】豪族居館の右側半分

【写真左】豪族居館跡の内部・その1
 堀底が見える。
【写真左】豪族居館跡の内部・その2
 右側に土塁
【写真左】豪族居館跡の内部・その3













 居館跡すべてが孟宗竹のような竹が密集しているため、外からは中の状況が分からない。写真のように堀、土塁、虎口など遺構が良い状態で保たれている。

現地の説明板より
“町指定天然記念物
 槻下神社社叢
   (昭和60年1月1日指定)

 この社叢は、スダジイ・ヒメユズリハを高層に優先させる典型的な照葉樹林である。山地系樹種と海岸性樹種が混合、林緑を中心に先駆植物もあり、種類もたいへん豊富で、里部に残る貴重な自然林である。
〈特徴〉
1、山地系と海岸性の混合林
  山地系樹種 ウリハダカエデ・コマユミ・ヤマボウシなど
  海岸性樹種 イヌビワ・マサキヒメユズリハなど

2、先駆植物(林が古くなると消滅する)
  カラスサンショウ・アカメガシワヌルデ・ヤマハゼ

 暖地海岸性ヒメユズリハは、植物分布上北限と考えられる。ウリハダカエデなどの山地系樹種は、洪水時に流入したことが想像される。
 
  平成16年9月
      琴浦町教育委員会”
【写真左】槻下神社遠望
 境内は周囲の高さに比べて低い。
【写真左】槻下神社鳥居付近
【写真左】拝殿と本殿
 この日はかなり激しい雨が降っていた。
【写真左】小詞
 境内には本殿の他に、廻りが小濠で囲まれた小祠が祀られている。












◆この付近は写真でもわかるように、多少の起伏はあるものの、なだらかな平地が広がっていて、一般的な山城が存在する付近の景色とはだいぶ異なる。

 こうした平たん部に居館を設け、その周囲に丁寧な遺構(土塁、堀など)を残している形式のものは全国的にも例がないと思われる。ただ、居館周辺のこうした防御施設が、実際にどれほど効果があったものか疑問も残る。

◆相伝では、鎌倉時代に岩野弾正という武将の居城であったとされているが、築城期などは不明。

 この居館から南に約150m程度行ったところにあるのが、写真で示した「槻下神社」である。資料がないため、この神社の由来・縁起も不明だが、これだけ接近して建っていることから、二つの施設は何らかの関係があったのではないかと思われる。

◆なお、この付近にはこの場所から約1キロほど南に、山陰唯一の特別史跡「斉尾廃寺(さいのおはいじ)」がある。この寺は白鳳時代に建てられた法隆寺形式の寺院。

◆鎌倉時代ということになっているものの、この豪族館・岩野某が歴史上記録にほとんど出てこないのも不思議で、もちろん戦国期にも登場していない。

どちらにしても、なぞの多い城館跡である。

2009年1月24日土曜日

南北朝から室町・戦国時代へ

 これまで、時系列的に南北朝を中心とした城郭を取り上げてきました。
◆「西国」というタイトルからすれば山陰地方に偏重し、他県のものが少ない取り上げ方になりました。
 前半部では、名和長年や塩冶高貞が絡んだ城を中心としてきましたが、今後は、南北朝期も含め、他の時代も含めた形で取り上げたいと思います。

◆ただ、投稿の前後があまり関連のない史跡でつなぐのも、どうかと思いますので、できるだけ共通項を見出しつつ取り上げたいと思います。

◆とはいうものの、多くの城跡を探訪しているわけではありませんので、ご期待に応えられるか心もとないのですが……

2009年1月20日火曜日

小松城(鳥取県南部町)



伯耆・小松城

●所在地 鳥取県南部町
●南部町指定文化財
●比高差 30m
●遺構  主郭の北・東・西を土塁及び空堀、さらに二重の土塁
●登城日 2008年5月3日 
概要(現地の説明板より)

“ 小松城は、出雲千家家(せんげけ)の南北朝時代の文書に載る由緒ある城である。その文書によると、塩冶高貞の軍忠状に「出雲国造の舎弟・貞(さだ)教(のり)の軍勢が建武三年(1336)6月19日、伯州の長田城に馳せ向い、続いてその月の30日、小松城を攻め、城の門前で華々しく戦った。そのとき、若党の高木又次郎が右足を射られたので、このことを軍奉行は御承知の上、後々の恩賞の証となるよう御判をいただきたい。」とされている。
 以降戦国時代に及ぶ二百十数年間、小松城は在地の豪族のよりどころとなった。地元では、小松氏の住む城という説が有力である。
 城跡には、数段の郭、二重の空掘り、土塁などの跡が残り、また出丸、侍屋敷、馬場、弓場などと考えられる遺構もあって、中世における相当の規模の城郭であったと想像される。”

【写真上】小松城遠望 規模はさほど大きくはないが、外から見る以上に、遺構の残存度が多い。写真で見える左から右に少しのぼる道が登城のコース。
【写真上から2枚目】小松城の入口にある案内板(上記のもの)
 この写真でいえば、右から左に向かって5,6分程度で現地にたどりつく。
 なお、この地区は「ほたる」の名所でもあるとのこと。
【写真上から3枚目】登城途中にある五輪塔
 この城は、南北朝から戦国期まで使用されたことから、いつの時代の五輪塔か分からないが、小さなものが5,6基残っていた。

【写真左及び下の二枚】二重の空堀部分など
 現在の深さは4,5m程度しかないが、当時はもっと深かったと思われる。
 二重の空堀でこれだけはっきりと残っているところは、この付近では、この城以外にそんなにないのではないかと思われる。
 なお、登城したのは、5月だったこともあり、郭部分は雑草に覆われ、あまりよく確認できなかった。山城というより平城形式に近いかもしれない。そのため、郭跡付近には館跡があったのではないかと思われた。











【写真左】小松城郭付近より南西の方向を見る

 この方向には、金龍山・運光寺という寺がある。創建等は不明だが、古いようだ。境内に「佛足跡由来の石」という変わった石造がある。石造も興味をもったが、むしろこの寺の門が、いかにも小松城あたりから移築したかのような古い門で、確認はできなかったが、どちらにしても当城と当寺はなんらかの関係があったものと思われる。
◆さて、この小松城については上段の「説明板」にもあるように、1336年6月19日に出雲の国造(杵築大社の領主)が、この城を攻めている、とある。
 ちょうどこのころは、いったん京を追われた足利尊氏が、九州から再び京へ東上し、5月に楠木正成を湊川で破り、光源上皇を伴い入京したころで、伯耆の名和長年は、後醍醐天皇を支えつも、ついに6月30日戦死している。
 そういう状況もあって、山陰地方を含め九州から、中国四国地方の多くの武士が尊氏に次から次となびいていく。その流れの中で、出雲国造舎弟貞教も、名和長年派(後醍醐派)だったであろう小松城主(小松氏か)を攻めたものと思われる。直接的には塩冶高貞が、在京の形で出雲国造に命を下したものと思われる。
◆なお、現地の説明板にある「伯州の長田城」という場所だが、おそらく現在の大山町長田地区にあった城と思われる。資料を持ち合わせていないので、なんともいえないが、船上山から名和長年らが淀江町(米子市)の小波城に立てこもる佐々木清高を攻める際に通った道(現在の長田神社近辺で、310号線と並行していたか)の近くにあったものと思われる。

★参考文献
(1)山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡 
       史跡整備ネットワーク会議事務局(島根県教育庁文化財課・鳥取県教育委員会事務局文化課)
(2)集英社版 日本の歴史⑧南北朝の動乱 伊藤喜良
(3)日本の歴史11 太平記の時代 新田一郎
(4)島根県歴史大年表 郷土出版社

2009年1月19日月曜日

田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)

田内城(たうちじょう)

●登城日 2008年2月3日
●所在地 鳥取県倉吉市 巌城
●築城期 建武4年(1337)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 山名時氏
●標高 40m前後か
●遺跡の現状 本丸跡 郭等

◆解説
 場所は、倉吉市市街を流れる天神川と、小鴨川が合流する地点で、小鴨川西岸にそそり立つ大岩(巌城・いわき)の上部に建っている。
 この城の概要については、現地本丸跡に設置された説明板によると、下記のとおり。

“ 田内城は、今を去ること六百五十年、山名時氏公(1299-1371)約二十年間の居城であった。
 公は、清和源氏の名流で、上野国多胡郡山名(群馬県高崎市山名町)の出身で、全国六十六か国のうち十二ヶ国を領し六分一殿と称せられる程の隆盛を見た南北朝時代の知勇兼備の武将で、侍所長官として幕政にも重きをなした。


 建武四年(1337)伯耆守護に任ぜられ、その治所としたのが、この仙石山頂に築いた田内城である。急峻な岩山で、東の山裾には国府小鴨の両川が流れて自然の堀となり、また水運にも利用されて城下町が発達し「見日千軒」といわれる程に繁栄した。


 時氏公の嫡子師義公は打吹城を築いて、ここに治所を移したので、当城は廃城となった。
 この遺跡は簡素で、小規模な山城の元の形を今によく残しているが、当時の建物の姿は明らかでないので、後世の諸城を参考にして櫓風に造ったものである。 ”(以上)

【写真左】田内城登山口
登山口は西側と北側(東側)の二つあり、写真は西側付近で、すぐ左には「オムロン」の工場がある。








【写真左】本丸跡地南側の巨石に掘られた南無阿弥陀仏の大文字。 江戸時代に倉吉の町民が天文13年の大洪水による死者を供養するために刻んだものと伝えられている。
 この山を含めた後ろに控える山も、こうした巨石が多く、切り立ったものが不揃いに並んでいる。 特にこの岩などは、地震が起きたらひっくり返るのではないかと思われるような様相を見せている。


【写真左】本丸跡にある模擬天守
 本丸跡そのものの大きさはコンパクトで、地形上からもこれ以上大きくはできない。現在はどちらかといえば、公園のような用途になっているが、あまり使用されているとは言い難い状況だ。
【写真左】本丸付近から北方向へ下りる途中にあった二の丸の標識。
 規模はさほど大きくはないが、遺構の保存度は割といい状態で、草木を整理すれば相当はっきりと形状が見て取れると思う。

 このほかに、さらに下に行くと三の丸などがあり、現在は郭跡に不揃いな墓地が点在している。なお、このときは訪れていないが、田内城から小鴨川の川土手を上って600m程度行き、特養ホームから山に向かっていくと、「山名寺」という寺がある。

 南海宝州を開山として、延文4年(1359)伯耆守護山名時氏が自分の菩提寺として建立した大雄山光孝寺の跡とのこと。機会があったら訪れてみたい。

【写真左】本丸跡から小鴨川上流部を見る。
確認はしていないが、この写真に見えるどちらかが、吹城のある打吹山(右の山か)と思われる。








◆まとめ
 説明板によると、山名時氏は建武4年に当地に守護として現在の群馬高崎から下向している。
 参考のため、山名氏の動きを記しておく。

◆この山名氏は、太平記特有のめまぐるしい動きの流れの中で、多くの武将の中でも時流にうまく乗った方といえる。
 とくにこのころは、時氏(ときうじ)がその真っ只中にあり、彼の時代に山名氏の基礎がある程度できたといってもいい。

 山名氏の詳細な動きについては、太平記等関係資料をご覧いただいて、山陰で関係する部分として取り上げたいことは、出雲の守護・塩冶高貞を自害に追い込んだ人物が、この時氏であることである。

◆建武4年(1337年)7月、これまでの軍功に対して時氏は、伯耆守護に補任された。この時点で、山名氏がいわば、メジャーな武将として認知されたことになる。

 続いて室町幕府創立の功労者であり、出雲・隠岐両国の守護職塩冶高貞が、幕府執事高師直と対立し、暦応4年(1341年)に尊氏に討伐を受けた。 その際に出雲に戻り立て篭もろうとした高貞を、時氏とその子師義が追って出雲白石で自害させた。この功によって時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されたが、出雲・隠岐の守護は3年ほどで佐々木高氏(導誉)に交代した。 この交代は康永2年(1343年)8月のことであったが、それに代わって同年12月には仁木頼章の後の丹波守護となっている。
 
 その後の動きについては、他の文献資料に書かれているので、この稿では省略する。


◆ということで、この城を築城した山名時氏が、出雲の塩冶高貞を追って自刃させた張本人であることを思うと、何とも感慨深いものがある。

 ちなみに、山名時氏、師氏父子が300騎を引きつれ、現在の島根県安来市まで追ってきたが、ここでいったん、出雲国中にフレを出して、「彼の首を持ってきた者には、官職・身分を問わず、恩賞をとらせる」という作戦に出た。これを聞いた地元の武将や、高貞の縁者までもがそれに乗せられ、彼はいよいよ孤立無援の状態になった。

◆壮絶な自害の理由は、愛妻の自刃もあるが、むしろ地元の武将たちが、上記のように恩義を忘れ、懸賞金に目がくらみ、信頼していた人たちまでが、刃(やいば)を抜いて自分を待ち伏せているということに、大きなショックを受けたこと、これが最大の理由かもしれない。

2009年1月18日日曜日

小波城・三輪神社(米子市淀江町)

小波城・三輪神社

 糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城(1月13日投稿)の際にも触れたが、船上山での戦勝に勢いをつけて、さらに3月3日に、幕府方の陣取る小波城へ名和長年らが攻めている。

 この小波城の場所については、最近まで比定できていなかったらしいが、周辺の古墳調査時に、当城跡らしき遺構が発見されたことから、下記の場所とされた。

 ★所在地 鳥取県米子市淀江町小波字下原田周辺

 
 さっそく、1月17日の名和氏館跡探訪と併せ、現地に向かった。上記の所在地の最後が「周辺」ということもあるが、その前の「字下原田」という地名も、道路マップや、ネットの地図情報ではそこまで表記されていないため、カーナビにセットする際も、「おそらくこの辺だろう」というような「勘」で目的地を決めた。

 山陰道から米子のICで降り、カーナビの言うとおりに向かっていくと、なだらかな丘陵地ではあるが、道幅はどんどん狭くなり、対向車が来たらアウトというような集落に入ってしまった。
 おまけにここ数日来の雪が出雲部よりも多く残っており、道と溝の境が分からないような状況である。

 下手をすると脱輪というトラブルに陥りそうになり、途中から、神経は目的地に着くことより、いかにしてこの狭小な道から脱出するか、という方に向いてきた。

 そうこうするうちに、前方に神社のような門が見えたので、この脇に車を止めた。その神社が写真にある「三輪神社」である。

 境内にある記念碑の下段に縁起や遷宮のことなどを刻印したものが見えたので、参考になることがあるかと期待していたが、中世の関係事項は載っておらず、少し気落ちしたところ、境内北側の少し下がったところに、小さなお堂があり、そのわきに五輪塔のようなものが見えた(写真参照)。
【写真上】三輪神社社殿


【写真中央】五輪塔 大型のもの(幅が4,50センチ程度)が1基、中小のもの併せて6,7基が堂の北側に鎮座している。

 帰宅後、この社について調べてみると、次のようなことがわかった。

三輪神社
鳥取県 郷社
鎮座地 西伯郡大和村大字小波字東岡畑

現在地 鳥取県米子市淀江町小波631

祭神

 大物主命、速須佐之男、少名毘古那命

由緒
 当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧 請せるものなりと云ふ、蓋し崇神天皇七年諸国病流行盗賊蜂起の際、 国家鎮護の神として大物主命幸魂奇魂を諸国に遷し祀り、
 大田田根 子命をして大神を祭ら給ひしこと旧史に見ゆ、当社は則ち其の一なりと 云ふ、昔時今の社地を距る七町余東南の三輪山に鎮座ありて、其境 内東西八町南北六町三峰に分れ、東を宮広峰と云日、中を鳥居峰 と云ひ、西を堂の峰と云ふ、
 その他神主屋敷、神宮寺跡及び馬場的場等の遺址を存す、麓の下に宮井筒と称する清泉あり、流れて鹽川とな る、
 三代実録に貞観十五年十二月二十日辛亥授伯耆国正六位上三 輪神従五位下とをと、中古は東阿弥陀より西日野川に至るも五十一村 の総氏神なり死といふ、

 彼の鹽川に於て往昔より毎年六月の祓式の祭儀あり、旧藩主池 田より社領の寄進あり、中間庄大社と称して崇敬厚く、明治維新に 至りても春秋の神祭には政庁より供物を頒たれ、明治五年四月村社 に列す、明治四十年四月二十七日に神饌幣帛料供進神社に指定せら る、大正五年十二月大高村大字泉字駄道ノ上鎮座無格社下和泉神社 (祭神 素盞鳴命)を合併す。大正十四年十月郷社に列せらる。

境内神社
 鹽川神社、祭神  大日?貴命
 八幡神社  祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと)

例祭日 10月19日
建造物  本殿、向殿、弊殿、拝殿、神楽殿、神饌所、社務所、随神門
境内坪数 1045坪
氏子数  203戸 


  
元徳の頃小波城主大石橋氏の所領たりしと、 元弘三年佐々木清高小波城に據り官軍の為めに焼夷せられ、此の時 兵燹に罹り当社の社殿及び神宮寺等焼失し、宝物古文書等失ふ之よ り衰運に属し、往時の規模を保ち難く、正保二年三月今の地に奉遷 す、
◆赤字で示した部分すなわち、「元徳の頃小波城主大石橋氏の所領たりしと、元弘三年佐々木清高小波城に據り官軍の為めに焼夷せられ、此の時兵燹に罹り当社の社殿及び神宮寺等焼失し、宝物古文書等失ふ」ということから、元徳すなわち船上山合戦の直前(~1330年)まで、この城主は、「大石橋氏(五郎左衛門)」という武将が拠っていた。
 そこへ元弘3年、佐々木清高らが攻め込み、奪取し、ここを幕府方の陣城とした。その際、周辺を焼き尽くし、当社・三輪神社も焼かれ、宝物古文書なども失った、ということなのだろう。
 そして、当城を奪取し、船上山合戦に向かったものの、負け戦になり、敗走し当城に逃げ込む。そのあと追手の長年軍が逆に、ここへ攻め込み、再び清高は負け戦になり、この地から船でいったん隠岐に逃れるものの、心変わりした地元の武士に反撃を受け、越前へ向かい、さらには最後の死に場所である近江にたどりつく。

◆そうしたことから、前記した三輪神社脇に鎮座する五輪塔は、小波城の最初の城主・大石橋氏及び家臣のものかもしれない。
◆調査(下段資料:残念ながら入手していない)の結果、構造については下記のとおり。

●土塁に囲まれた先端の郭は径約80m
●後背部は舌状丘陵を分断するように、先端から約250m付近で堀が確認されている。堀は最大幅4.5m、深さ1.4m
【資料】
『小波原畑遺跡(淀江町埋文調査報告書第26集)』1992 淀江町教育委員会
『小波城跡(淀江町埋文調査報告書第45集)』1997 淀江町教育委員会

【写真上】小波上付近

 写真左側に三輪神社があり、小波の舌状丘陵の北端部になる。当時はこの低い部分(現在田圃)までが入江となっていたようで、地名からも小波程度の遠浅の浜だったと思われる。

 したがって、小波城も「海城」の形式だったと思われる。
 この城を奪った佐々木清高は、もともと隠岐に在住していることから、不慣れな山城より、こうしたいつでも日本海に出られる位置にあった小波城をほしがったのではないかと考えられる。

 いずれにしても、再度現地の場所を確認したいと思っている。