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2022年4月21日木曜日

炬口城(兵庫県洲本市炬口97)

 炬口城(たけのくちじょう)

●所在地 兵庫県洲本市炬口97-1外
●高さ 96m(比高80m)
●指定 兵庫県指定史跡
●築城期 永正年間(1504~20)
●築城者 安宅氏か
●城主 安宅秀興、安宅吉安、秀益等
●遺構 郭、土塁等
●備考 万歳山・秋葉山
●登城日 2017年9月9日

解説(参考資料 洲本市HP等)
 炬口城は以前紹介した洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)から北北西に直線距離で2キロ余り隔てた万歳山に築かれた城郭である。
【写真左】炬口城の鳥瞰図
 洲本市教育委員会の資料を元に、管理人が想像して描いたもので、北郭から二の丸にかけてはかなり大きな堀切があり、東斜面の竪堀とは別に西側斜面にも畝状竪堀群が構成されている。

 また、本丸は左図にもあるように、中央部の低くなったところが本郭で、その南及び北にも一段高くなった郭(南郭・北郭)が本郭を囲むようになっている。

 虎口は図では東斜面のみしか描かれていないが、西側にもある。

安宅八家衆

 炬口城についてはこれまで洲本城河内・飯盛山城、並びに丹波・八木城・その1で少し触れてきたように、三好長慶が畿内を支配したころの主だった城郭の一つで、長慶の実弟安宅冬康が淡路島を支配下に治めていた居城の一つである。

 ところで室町後期、それまで淡路国守護であった細川氏が、阿波の三好氏に滅ぼされたのは永正16年(1519)といわれる。
 永正14年の三好之長(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)による淡路侵攻によって一旦和泉に逃れた淡路守護第7代の細川尚春は、その2年後の永正16年阿波国において之長によって殺害され、ここに淡路守護細川家は没落した。
【写真左】炬口八幡神社
 炬口城の南麓に鎮座する社で、境内側から炬口城へ向かうコースが設定されている。

 同社は平安時代中期に石清水八幡宮の分霊を勧請し創建された。宝物庫には新田義貞甲冑が保管されているが、これを奉納したのが炬口城主・安宅駿河守だと伝えられている。


 この後同国内(島内)では各地の国人領主が台頭する状況が出たが、その中でも最強の勢力を誇ったのが安宅氏である。
 安宅氏については、すでに白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)の稿でも紹介したように、阿波水軍を率いた水軍領主で、同氏はその後淡路島内の主だった要所に8か所の城を築いた。これが「安宅八家衆の城」と呼ばれている。
【写真左】案内図
現地に設置された里山防災林整備事業の説明板に炬口城を示す万蔵山を中心とした地図があったので、参考までに添付して置く。



安宅八家衆の城
  1. 洲本城  洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)(参照)
  2. 炬口城      洲本市炬口97
  3. 由良古城     洲本市由良町由良古城山
  4. 猪鼻城      洲本市千種丙字猪鼻
  5. 白巣城  白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)(参照)
  6. 安乎城(城腰城) 洲本市安乎町
  7. 岩屋城      淡路市岩屋
  8. 湊城       南あわじ市湊
【写真左】登城口
 境内を抜けて奥の方に向かうと、左側に階段が見えてくる。手前に標柱が見えているが、これに「万蔵山、炬口城跡登山口」と書かれている。



安宅冬康・信康

 白巣城の稿でも述べたように、天文18年(1549)三好長慶は、実弟の冬康を安宅氏に入れ、淡路水軍をより強固なものとしていった。しかし、のちに長慶がその冬康を殺害するという事態が生じると、次第に三好一族の瓦解が始まることになる。

 冬康が亡くなったあとを引き継いだのが信康といわれる。このころはすでに三好一族の基盤は松永久秀や三好三人衆にとって代わり、三好氏惣領家の力は微力なものとなっていた。
【写真左】東側の虎口に向かう分岐点
 登城したのが9月だったこともあり、登城道の前半は草丈が伸びていたが、途中からしっかりした道になった。

 写真はこの位置から左に登ると炬口城の主郭に繋がり、そのまま奥の道を進むと、炬口二町目、戎神社方面へ繋がる。


 信康は元亀3年(1572)織田信長に降り、信長の臣下となって戦い続けた。中でも天正4年(1576)の第一次木津川河口の戦いを皮切りに、織田VS毛利の戦いに参戦した。
 信康の名はおそらくこの時信長から偏諱を受けたものだろう。しかし、この信康も天正6年(1578)にわずか30歳で死去したとされる。

 もっとも信康以降の安宅氏の動きについては、一次史料で実在そのものを示すものがなく、今のところ詳細は不明である。
【写真左】虎口
 分岐点から登坂を上がっていくと虎口が見えてきた。
 草丈が伸びているため、周辺部は不明瞭だが、右側に向かうと一段高くなった北郭があり、左に向かうと、同じく一段高くなった南郭がある。
 虎口を過ぎると、本郭の中央部に向かう。


縄張り

 炬口城はおよそ南北に伸びる尾根筋に本丸、二の丸、そして北端部に出丸を配置する縄張構成となっている。本丸は方形による区画がなされ、南北約50m×東西約50mの郭を中央に配し、周囲には土塁が囲繞している。この土塁の外側南北尾根筋にはそれぞれ堀切が配置されより効果が高まっている。
【写真左】本郭
 ほぼ四角形の形をした郭で、写真はその中心部に当たる。
 東西の虎口以外は土塁で囲繞されている。



 本丸の中は中央部が低く、南と北にそれぞれ高くなった段(南郭・北郭)で構成されている。また、虎口が東西にそれぞれ1か所づつ設けられ、中央に向かうようになっているが、東側のものは入ってすぐに北郭にアクセスするようにもなっている。

 本丸の北端部はかなり大規模な堀切が配置され、その北側に二の丸が控える。洲本市教育委員会によれば、この堀切は淡路島の中でも最大規模のものとされる。
 なお、本丸・二の丸から少し隔てた北側には東西に延びた削平地を持つ出丸が控えているが、現状はあまり整備されていないようだ。
【写真左】中央部から南方向を見る。 
 奥に土塁が見える。このあとその土塁に上がることにする。
【写真左】土塁に上がる。
 ちょうど手前(虎口の南隅)に階段があったので、ここから土塁に上がる。
【写真左】土塁天端から本郭を見る。
 木々や雑草が繁茂しているため、分かりずらいが、左側が西の方に伸びる土塁で、右下に北郭が見える。
 このあと、土塁の上をぐるっと時計回りに進んでみる。
【写真左】西側付近
 土塁の保存度は木立が生えているものの良好で、この位置からは中がよく見える。
【写真左】切岸
 土塁の外側を見たもので切岸となっている。
【写真左】土塁の角を曲がって北側を見る。
 右側に土塁が手前まで延びてきている。
【写真左】北郭の段
 手前と奥の間に窪みが設けられている。
【写真左】中側から土塁を見る。
 土塁から中の郭に降りてみたもので、この位置から見ると土塁の高さが予想以上にあることが分かる。
【写真左】竪堀の始点
 順番が前後するが、西側の土塁の一角には竪堀の始点と思われる個所が見える。
 ただ、見方によっては馬出しにも見える。
【写真左】この先から空堀
【写真左】竪堀
 空堀の方へ向かう途中に竪堀もある。
【写真左】空堀
 当城の見どころの一つで、この空堀の遺構は見ごたえがある。
【写真左】石碑の残骸?
 花崗岩のような石材で、角型の石造物の一部と思われるが、屋根のような形もあるので灯篭のようなものだったかもしれない。
【写真左】空堀から土塁を見る。
【写真左】二の丸
 空堀を越えてさらに北に登ると二の丸が控える。
 本丸ほどの丁寧な普請は感じられないが、広さはかなりのものだ。
 このあと再び本丸に戻る。
【写真左】北郭
 本丸の北部にある郭で、おそらくこの辺りが最高所だろう。
 このあと本丸周辺を散策した後、一旦登城道の分岐点まで戻り、もう少し奥の方へ向かう。
【写真左】洲本城遠望
 本丸付近からの眺望は今一つだったが、登城道の一角から南方の洲本城が確認できた。 

 安宅氏が支配していた頃、両城間で烽火などを使って連絡し合っていたのだろう。
【写真左】再び空堀
 先ほど本丸と二の丸の間にあった空堀が、北に進むこの登城道まで延びてきていた。
 かなり長い規模の空堀である。

2018年5月25日金曜日

白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)

白巣城(しらすじょう)

●所在地 兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑
●別名 三野畑城
●指定 洲本市指定史跡
●高さ H:320m(比高200m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(安宅氏か)
●城主 安宅氏他
●遺構 郭・土塁・竪堀等
●備考 安宅八家衆
●登城日 2016年1月10日

◆解説
 先ごろの市町村合併により淡路島は、北から淡路市、洲本市、そして徳島県と接する南端部の南あわじ市の三つの区分となった。このうち、洲本市は同島の中央部に当たるが、今稿で取り上げる白巣城は、同市にあって旧津名郡五色町に築かれた山城である。
【写真左】白巣城
 西の丸に建立された安宅冬秀の石碑










現地の説明板より

史跡 白巣城跡 (しらすじょうあと)

 洲本市五色町鮎原三野畑(あいはらみのばた)所在の白巣城は、標高320mの白巣山山頂に位置する戦国時代の山城で、別名「三野畑城」とも呼ばれています。江戸時代の地誌『味地草(みちくさ)』には「険阻にして要害無双の城なり」と記されています。

 永正16年(1519)に淡路守細川家が滅亡後、淡路島は三好氏の勢力下に入り淡路国人衆が台頭する戦国時代がはじまります。国人衆の中で最大の勢力を誇ったのが淡路水軍を率いていた安宅氏(あたぎし)です。

【写真左】案内図
 現地に設置された「白巣山生き物マップ」という案内図で、下方が北を示す。
 白巣城はこの図では左上に配置されている。






 安宅氏は淡路各地に城を構え、その主な城は「安宅八家衆(あたぎはっかしゅう)」の城と呼ばれ、白巣城も安宅八家衆の一つに数えられています。しかしその安宅氏も三好氏の衰退とともに次第に衰えていきます。そして天正9年(1581)、羽柴秀吉による淡路攻めで国人衆は秀吉軍に降伏、淡路国人衆の時代はここに幕を降ろすこととなります。 
【写真左】登城道途中に設置されているゲート
 城域の真下まで車で行けるようになっているようだが、ご覧の通り狭く、次第に急坂道となったので、安全のためこの日は、手前の空き地に駐車し、そこから歩いて向かった。

 因みにこのゲートから城域までは凡そ30分かかる。



 白巣城についての当時の資料は残っておらず、詳細なことはわかっていません。江戸時代の地誌『淡路国名所図絵』によると「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と記されています。他の地誌にも「安宅冬秀」が白巣城主であったと記されており、安宅冬秀城主説が現在最も有力とされています。 
【写真左】白巣城見取図
 北側から見た見取図になるが、説明板にもあるように、本丸を中心に右に西ノ丸を置き、少し下がって立岩、馬責場があり、東に延びる尾根には馬繋ぎ場、米倉、東の丸などがある。





 白巣城は、自然の地形をうまく利用して築かれており、縄張りの大きさは南北350m、東西約300mで戦国時代の淡路島の城の中でも最大級の規模です。 

 「本丸」「西の丸」「東の丸」「馬繋場(うまつなぎば)」「馬責場(うませめば)」「米倉」と呼ばれる曲輪が堀切により独立しており、土塁や竪堀など当時の遺構が今も良好な形で残っています。
 また東は大阪湾、西は播磨灘を望見でき、瀬戸内海や大阪湾を往来する船を監視するには最適の場所です。 

【写真左】この階段を上がる。
 登城道終点地点で、北側に当たるが、数年前までこの周りが崩落していたようで、この日訪れたときには復旧していた。



 秀吉による淡路攻めで淡路国人衆は悉く降伏し、淡路島は3日間で陥落したといわれています。その中で白巣城主は唯一抵抗し、秀吉軍の火攻めにより炎上し落城したと伝えられています。
 「竹の皮合戦」や「黄金の鶏(にわとり)」など落城時の伝説が今も地元で語り継がれています。

 平成24年3月29日に洲本市の史跡に指定され、大切に守り管理しています。”

【写真左】堀切
 階段を上がって少し進むと、さっそく堀切が現われる。









安宅氏(あたぎし)

 白巣城の城主といわれているのが、安宅氏である。安宅氏については以前取り上げた同市小路谷の洲本城でも紹介しているように、紀州熊野水軍の一族・安宅氏の出である。

 淡路に移る前の安宅氏の本拠地は、紀州の日置(ひき)川にあった安宅荘で、紀伊水道の河口周辺には海城を居城としていた安宅本城や、八幡山城などが残っている。
【写真左】西の丸・本丸方面に向かう。
 最初に西側に向かっていく。









 ところで、安宅氏が紀州に下向する前にいたのが、実は阿波国である。鎌倉末期に幕府から熊野海賊制圧の命を受け、阿波から紀州に派遣されたからだといわれているが、阿波国にあった時点で既に水軍領主として一定の勢力を誇っていたのだろう。

 このことから、元々阿波国にあったときは、安宅姓を名乗らず、紀州に下向してから安宅氏を名乗ったことになる。そして後に三好氏(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)から養子を迎えることになるが、同氏(安宅氏)が阿波国を本拠としていた点を考えると、遡れば同国の出である三好氏(阿波守護・小笠原氏庶流)の系譜に繋がっていたかもしれない。
【写真左】本丸と西の丸を連絡する郭
 手前が本丸で後ほど紹介するが、奥に少し高くなった箇所があり、西の丸が控える。
 本丸下の郭で、東側には馬繋場があり、そこから西まで伸びているので、本丸と西の丸を連絡する郭だが、馬繋場の一部としての役割をもったものだろう。


築城期

 当城の築城期についてもはっきりしないが、安宅氏が最初に築城したとされる洲本城とほぼ同じころ、すなわち永正年間(1504~)初頭と思われる。
【写真左】馬せめ場降り口
 さきほどの郭から西に降りていくと、馬せめ場が控えている。

 「馬せめ場」とは「馬攻め」すなわち、調教する場所だが、この日はそこまで向かっていない。見取図を見る限りあまり広くないようなので、実際には上掲の本丸と西の丸を連絡する郭での使用が多かったのかもしれない。


安宅九郎左衛門尉冬秀

 白巣城の城主については、説明板にもあるように「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と書かれている。ただこれは江戸時代の地誌からの引用で、時期についても漠然としておりはっきりしない。

 因みに、三好元長の三男冬康(長慶の実弟)が安宅治興へ養子に入って安宅冬康を名乗っているが、白巣城の城主冬秀は安宅氏嫡流の武将である可能性が高い。
【写真左】西の丸に設置された石碑
 西の丸はさほど大きなものでなく、片隅には「白巣城」と筆耕された石碑が建つ。
【写真左】西の丸から瀬戸内方面を眺望する。
 麓は五色町の街並み
【写真左】立岩
 西の丸から下に降りると馬責場があるが、その途中には郭の隅に縦に長く伸びた岩が見えている。
 このあと、少し下に降りてみる。
【写真左】二条の堀切
 上から見たもので、尾根幅は少し狭くなって、小規模な二条の堀切が確認できる。

 このあと、Uターンして本丸を目指す。
【写真左】本丸途中の段
【写真左】本丸
 本丸はきれいに削平され整備されている。連れ合いが合掌しているのは、左側に祠が祀られているからである。

 このあと、本丸の東南に伸びる郭段に向かう。
【写真左】馬つなぎ場
【写真左】虎口か
 馬つなぎ場の一角には開口部があった。おそらく虎口の一つだろう。
【写真左】土塁
 馬つなぎ場の二辺は土塁が構築されている。そのうち一辺は2m近い幅を持つ。
 また、隅の一角には礎石や列石の一部が残っている。

 このあと東の丸に向かう。
【写真左】米倉
 東の丸に向かう途中には米倉が配置されている。

 この箇所だけ独立した単郭で、周囲より2m前後高くなっている。構造から考えて、米倉と併せ物見櫓的な役割も担っていたのかもしれない。
【写真左】堀切
 米倉の付近にはご覧の堀切がある。
【写真左】東の丸
 この位置から右方向が大阪湾に当たる。
【写真左】東の丸からさらに伸びる尾根
 この尾根先端部からさらに下に降るようになっていたので、降りてみる。
【写真左】竪堀
 見取図には描かれていないが、途中に竪堀が構築されていた。








◎関連投稿

2010年1月17日日曜日

洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)

洲本城(すもとじょう)

●所在地 兵庫県洲本市小路谷・三熊山
●探訪日 2008年8月22日
●高さ 125m
●築城期 永正年間(1500年代初頭)
●築城者 紀州熊野水軍安宅氏
【写真左】模擬天守付近
 写真中央奥の建物は、模擬天守のもので、展望台となっている。当城の見ものとしては写真にある保存状態がいい石垣群である。




◆解説
 現地の説明板に詳細な記録が記載されているので、下段に示す。

史跡 洲本城について

 境城  三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面および北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で、広さは278,459.9㎡。
洲本城は、約500年の歴史があり、城に関連した史実を年代順に見ると次のようになる。

  • 永正年間(1500年代初頭   由良、炬口に進出してきた、紀州熊野水軍の安宅一族が、大坂湾制御の要として洲本城を築城し始める。

  • 天文5年(1536)  阿波国守護三好元長の三男冬康、淡路安宅氏の養子となる。三好氏、上京作戦への布石。

  • 天文23年(1554)  三好四兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)洲本会談

  • 永禄3年(1560)  三好兄弟、第2回洲本会談、天下制圧の打ち合わせ。

  • 永禄7年(1564)  安宅冬康、河内飯盛城で兄・長慶に暗殺される。安宅信康・清康、洲本由良城を守る。

  • 天正9年(1581)11月  織田信長の命により、羽柴秀吉淡路を征討。安宅清康開城して、信長を安土に訪れ帰国後、病死。 淡路安宅氏滅亡。 安宅氏時代の洲本城は、土塁を空堀により砦を守る中世山城なので、織田軍の鉄砲隊には対抗できなかった。

  • 天正10年(1582)  四国の長宗我部氏畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将・菅平右衛門に洲本城を占領させる。  6月、山崎の合戦に向かう秀吉は、部将の仙石権兵衛、石井与次兵衛を洲本に差し向け、洲本城を奪還させる。  8月、仙石権兵衛秀久洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始める。
【写真左】石垣の間から巨木が育っていた












  • 天正13年(1585)  秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮。  6月18日、洲本城より出陣、福良渡海。  仙石秀久は讃岐で奮戦、戦後高松城主となる。  11月、脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。  洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構はほとんどが脇坂氏在城中に修築したものである。  その間、安治は水軍の将として、左のとおり従軍している。

  • 天正15年(1587)  九州攻め

  • 天正18年(1590)  小田原攻め
【写真左】模擬天守前


















  • 文禄元年(1592)  朝鮮の役(壬申の倭乱)

  • 慶長5年(1600)  関ヶ原戦では、東軍へ寝返り家康方で参戦。

  • 慶長14年(1609)  伊予大洲五万三千で移封。  仙石、脇坂時代の洲本城は、大阪城を衛り、秀吉が西南方へ進出する拠点の城として、また水軍の戦闘指揮処としての本格的築城整備の行われた時代である。  関ヶ原戦後の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。むしろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を永年腹心の藤堂高虎に預け、普請を中断放置せしめた。

  • 慶長16年(1610)  姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、輝政は三男・忠雄の抨知をした。忠雄は由良成山城を修築し、洲本城を廃城とした。
【写真左】洲本城から洲本の町並みを見る
 前稿「一宮城」でも示したように、天正13年(1585)秀長らが6月16日この港に約3万の軍を集めた。







  • 元和元年(1615)  大阪陣の功により、阿波国主蜂須賀至鎮に淡路一国を加増したが、蜂須賀氏は池田氏の跡を継ぎ、由良成山城を拠点とした。  由良は淡路の東南隅にあり、土地も狭小で城下の経営も出来ないことを理由に、前年幕府に申請して承認され、洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永12年まで山上の城郭は使用せず、山麓には居館、石垣を設けて、城砦をしたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に計画都市をして造成されている。  この状態が、明治5年(1872)の廃藩置県まで続いた。  山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化史料館用地等になっている。
     以上”

 同説明板にある由良成山城というのは、洲本南方にある島に建っていたものだが、現在城跡としての遺構はほとんどなく、明治時代に砲台が築かれた跡が残っているという。
【写真左】本丸跡から紀伊水道、和歌山県方面を見る