2021年5月13日木曜日

上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)

 上桜城(うえざくらじょう)

●所在地 徳島県吉野川市川島町桑村
●別名 植桜城・川島南城
●高さ H:142m
●築城期 南北朝期か
●築城者 河村小四郎か
●城主 篠原長房
●遺構 郭、空堀等
●指定 徳島県指定史跡
●登城日 2017年3月5日

解説(参考資料 平凡社発行「松永久秀と下剋上」天野忠幸著、その他)
 上桜城は以前紹介した同市内にある川島城(徳島県吉野川市川島町川島)から南へおよそ1.5キロほど向かった桑村の地区に所在する山城である。
【写真左】上桜城本丸
 本丸の一角には祠が祀られ、手前には上桜城の石碑が建立されている。







碑文
”城主 大和守長房右京之進弾正入道紫雲
上桜城址
  昭和46年7月16日 400年祭
  篠原 雅一 建立”
【写真左】上桜城に向かう分岐点
 川島城の南を走る国道192号線から南へ枝分かれする県道43号線(神山川島線)を南下していくと、途中で右側に林道のような道がでてくる。この道に入る。
 写真は県道43号線から枝分かれする部分。



現地の説明板より

❝徳島県指定史跡  上桜城跡
    平成元年12月8日指定

 上桜城は、戦国時代の末、篠原紫雲長房が、その実践の経験を生かし、この天然の要害に築いた。山頂の本丸は、二の丸、三の丸を廻らし、西の丸には北と南に空堀を持つ。
 元亀3年、長房は讒言(ざんげん)によって、主君三好長治の率いる兵7千によって攻められ、7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死をとげ落城した。いわゆる上桜の戦いで、城跡の麓には両軍戦死者の慰霊碑がある。❞
【写真左】登城口
 車を脇に停めてここから向かう。
 登城口付近には説明板や石碑が建ててある。
 






篠原長房と三好一族

 当城の城主といわれているのが三好氏の家臣であった篠原長房である。 彼については、既に讃岐の財田城(香川県三豊市財田町財田中)や、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)で紹介しているが、改めて彼の略歴を辿ってみたい。

 長房の父は篠原長政といわれ、篠原家はもともと近江の野洲郡篠原郷を本拠としていた。長政の父の代に近江から阿波国へ下り、三好氏に仕えたとされている。

 三好長慶(勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)参照)の時代になると、三好家は畿内を活動域とする長慶家臣団と、四国(阿波国・淡路国)を受け持つ長慶の弟実休家臣団(阿波三好家)の二つに構成された。

 そして、篠原長政の嫡男・長房は主として四国、即ち実休の家臣団の構成メンバーとなっていた。そして他国から入った立場であったため、一門衆とは別に譜代衆として次第に頭角を現すことになる。
【写真左】尾根を削平した平坦な箇所
 当時のものか不明だが、しばらくこうした歩きやすい箇所が続く。




 永禄4年~5年に三好長慶の実弟達である三好実休(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)参照)や十河一存(十河城(香川県高松市十川東町)参照)が相次いで亡くなると、実休の嫡男長治が跡を継いだが、幼少であったこともあり、彼(長房)が後見し、事実上の実権を握ることになった。

 なお、後段でも述べるが、長房には木津城(鳴門市撫養町木津)主となる弟の篠原自遁がおり、当初兄長房ともども三好長治を支えていくが、後に実休の妻との間を巡って袂を分かつことになる。
【写真左】旧道か
 上記写真の箇所の左側には北側登ってくる旧道らしきものが確認できる。当時の大手道の一部だったかもしれない。



 さて、三好実休・十河一存が亡くなった2,3年後の永禄7年(1564)5月9日、松永久秀の讒言によって、兄・長慶は残った一人の実弟・安宅冬康(白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)参照)を河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)で誘殺してしまう。

 なお、これより先の永禄6年(1563)、長慶は嫡男・義興も病没している。このように、短期間のうちに子息や、さらには讒言とはいえ自ら実弟を殺害したことに大きなショックを受けたのか、長慶はその2か月後の7月4日、飯盛山城で病死する。
【写真左】主郭が近づいてきた。
 途中の道は整備されていて歩きやすい。









 長慶が亡くなった後、跡を継いだのは長慶に養子として入っていた義継である。義継は、十河一存すなわち、長慶の弟の子であるから、長慶の甥に当たる。

 彼を支えたのがいわゆる「三好三人衆」と松永久秀といわれている。三好三人衆とは、三好長逸・三好宗渭(そうい)、そして岩成友通である。このうち、三好長逸と宗渭は長慶の一門衆で、岩成友通は新参衆とされる。彼らは主として畿内にあって長慶を支えてきた。松永久秀は岩成友通と同じく新参衆の一人で、信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)の稿ですでに紹介している。

【写真左】三好氏略系
 左図は長慶が亡くなった後の流れで、既述したように長慶の跡を継いだのは、十河一存の息子・義継である。

 これは、三好本宗家が天皇家の桐御紋の使用が許される家格を保持していて、それに相応しい跡継ぎを考えた本宗家は、十河一存の妻が前関白九条稙通の養女であることから、彼を本宗家(長慶)の養子として迎え入れた。
 

 長慶が亡くなったあと、三好家では長慶の養子であった義継を当主とし、三好三人衆と松永久通(久秀の嫡男)らが支える体制を整えるように見えた。しかし、その後松永久秀が復帰(嫡男に家督を譲っていた)すると、三人衆らは義継に久秀との断交を迫った。永禄8年(1565)11月のことである。

 永禄9年(1566)6月、長房は足利義栄(平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)参照)を擁立し、長治や細川真之(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)を奉じて四国勢を糾合し畿内に上陸した。

【写真左】三好長慶・実休の家臣団構成図
 ★マークが三好三人衆で、篠原長房は実休の譜代衆の代表格。










 このころ長房は三好三人衆(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)と与同し、松永久秀と敵対していた。そして、摂津及び大和国に転戦し、ついには永禄11年(1568)2月8日、足利義栄を第14代征夷大将軍に押し上げている。また、義栄が征夷大将軍となったこのころ、長房は松永久秀の拠る信貴山城も落としているので、まさに彼にとってはこのころが絶頂期だったといえる。

 しかし、彼らの勢いは長く続かなかった。この年の9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の動きを開始すると、長房及び三人衆らは退却を余儀なくされた。畿内での活動拠点の一つとしていた越水城(西宮市)にあった長房らは本国阿波へ落ち延びた。さらに不運が続いたのは、長房らと阿波国へ奔走していた足利義栄が10月20日、31歳の若さで病死してしまったことである。
【写真左】主郭付近
 定期的に整備されているせいか、左側に基壇を置き、北に向かって広い郭が囲繞している。





 それでも、四国に一旦帰国したあと体制をすぐに整え、翌永禄12年(1569)1月、三好三人衆は和泉に入り、信長から御座所として本圀寺(ほんこくじ)(京都市山科区)に宛がわれていた足利義昭を襲った(本圀寺の変)。しかし、すぐさま細川藤孝や三好義継並びに摂津国衆(荒木村重ら)らの援軍に敗れ四国に再び逃れた。

 この後も度々三好三人衆らは機会あるごとに四国から畿内に入って信長らと交戦していくが、元亀元年(1570)11月に織田方となっていた松永久秀と長房の間で人質交換が行われ和睦が成立した。
【写真左】主郭
 左側が基壇の形式を持った主郭で、その周りが二の丸と思われるが、三の丸と明確な区画があったのか思い出せない。



 ところで、長房が四国にあった元亀元年ごろ、娘を讃岐の雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)の城主・安富盛定に嫁がせている(昼寝城(香川県さぬき市多和)参照)

 これはそれまでの領主であった寒川氏から安富氏に大内4郡を譲渡させ、讃岐東部までの地盤を拡大強化する狙いがあったためである。さらにこのころ毛利氏の圧迫を受けていた備前の浦上宗景(天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)の求めに応じ、瀬戸内を渡海し備前児島に上陸、小早川隆景配下の粟屋就方を打ち破っている。
【写真左】石碑 その1
 郭の一角には下記の内容の碑文が刻まれている。



❝上桜城跡 展望
 白砂碧水鳴海に注ぐ 大麻紀雲霞に宿る
 阿北穀倉一望に治む 風静也上桜城跡

  昭和五十年 篠原 雅一❞


三好長治による上桜城攻め

 さて、冒頭で紹介している説明板には、「元亀3年、長房は讒言によって、主君三好長治の率いる兵7千によって攻められ、7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死をとげ落城した。」とあるが、この戦いは史料によっては、元亀3年ではなく、元亀4年(天正元年・1573年)とされているものもある。
【写真左】石碑 その2
 別の箇所にも石碑が祀られている。

❝紫雲は細川藩政戦国乱世の時代に総侍大将として活躍し、新加制式目を制定して争い、事を治め詩人でもあり、文武兼備正義誠忠の武将であった。
 ◇◇謹書❞



 このころ篠原長房はしばらく畿内方面に出張していたが、その留守を預かっていたのが実弟の自遁である。彼はあろうことか、実休の妻、すなわち長治・十河存保の母・小少将と不倫の関係を持つようになった。このため、兄長房がそれを諫めたため、自遁は長房を疎んじるようになった。このため、長房は意欲が失せ上桜城に引きこもった。

 長房のこの行動に対し、三好長治は讒言によって、彼が裏切りもしくは、反撃に出ると思ったのか、上桜城の長房討伐へと動いた。その讒言の首謀者は弟の自遁であろうとしている。
 戦いは、5月に始まりその2か月後の7月に上桜城は落城し、城主・篠原長房が自害することなるが、討伐側である三好長治側には、阿波三好氏の元の主君・守護であった細川真之(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)がいた。
【写真左】上桜城から川島城を遠望する。
 上桜城から北におよそ1.5キロの位置に川島城が見える。その奥を流れるのが吉野川。

 長房が討死したあと上桜城は廃城となり、替わって吉野川沿いにこの川島城が築かれた。

 川島城の稿でも述べているように、築いたのは川島兵衛之進(惟忠)で、この後天正7年の長宗我部氏の阿波攻めで川島一族は備中(上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)に逃れた。



 真之の母は、前述した小少将である。彼女は実休に嫁ぐ前は、細川阿波守護家9代持隆の側室で、このころから彼女は実休と相通じていたという。真之は公式には持隆の子としているが、こうした経緯もあったため、実父は実休であった可能性が高い。因みに、持隆の正室は山口の大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)の娘である。
【写真左】北側から見る。
 外周部はさほど険峻なところはないが、主郭を取り巻く郭はかなり広々としている。





 さて、上桜城の篠原長房が自害したあと、4年後の天正5年、今度は三好長治はこの細川真之を那賀の茨ヶ岡城に攻めた。ところが、逆に真之を支援した地元国人領主一宮成祐(一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)参照)らによって敗れ自害した(白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)参照)。
【写真左】上桜城から西麓を遠望する。
 中央を横断しているのが吉野川で、この付近の中洲(国有地)は同川の中でも最大級の規模を誇る。
【写真左】上桜城を遠望する。
 北西麓から見たもので、南から伸びてきた尾根の先端部に築城されているため、独立峰のような景観でなく分かりにくいが、写真の鉄塔付近と思われる。

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