2009年3月21日土曜日

土佐・和田城(高知県土佐町和田)

土佐・和田城(とさ・わだじょう)

 瀬戸内大橋から坂出に入り、讃岐平野を西に走らせ、川之江から徳島・高知方面に入るたびに感じるのは、この付近から見える特徴ある山並みに魅せられることである。

 四国の山並は、海抜からいきなり急峻な傾きをもった山へと変貌する、そんなダイナミックな景色と相まって、奥深い谷間に点在する集落も、高速道路から見ると、岩の塊のような傾斜地にへばりつくような恰好で点在し、家々を結ぶ道は細く、しかも七曲り状態である。

 そうした景色の代表的な渓流部として吉野川流域がある。吉野川は高知県と徳島県を流れる長さ約195㎞一級河川で、四国三郎といわれる日本三大暴れ川である。

 源流は愛媛と高知県の境にある標高約1900mの瓶が森山から流れ、高知県吾川から東方の大豊町へと続くが、途中に毎年のように渇水状況をテレビで報じる「早明浦ダム」がある。このダムの南側の頂に今回とりあげる「土佐・和田城」がある。

【写真左】和田城遠望












◆概要

●名称 土佐・和田城
●登城日  2009年3月18日
所在地  高知県土佐町和田字古城谷
標高    732m

解説
 和田城の築城期や築城主などについては、手元に具体的な資料がないため、詳細は不明だ。ただ、この土佐にある和田城と関係があると思われるのが、西隣の伊予(愛媛)重信川流域に勢力をふるった「伊予・和田氏」である。

 伊予・和田氏は河野氏の一族であるが、その元は、鎌倉期にさかのぼって相模の出と思われる。この一族と土佐・和田氏の接点時期は不明だが、土佐・和田氏については、鎌倉期初期の御家人・和田義盛(1147~1213)の子孫が、この地に入部し、和田越前守義清の代に長曽我部氏に仕えたとある。義清の子・勝右衛門は、長曽我部元親の四国統一の際戦功があり、元親より感状されている。
【写真左】和田城(西城)・子守神社・和田本城(東城)配置図




 実は登城したこの日の本来の目的地は、和田城ではなく、この東隣にある本山城(高知県長岡郡本山町本山)だったが、途中から道が分からず、たまたま道路マップや、カーナビにこの「和田城」が載っていたこともあって、急きょ変更して向かった。

 大豊ICから439号線に入って、道の駅「土佐さめうら」で休憩と地図の確認をし、土佐町を過ぎたころに右に分かれる「南越トンネル」経由の17号線(県道か)がある。この道をそのまま行くと、上吉野川橋に差し掛かる。

 この橋を渡らず、手前左の曲がりくねった265号線を通っていくと、途中から小さな標識「和田方面」というのが見える。

【写真左】子守神社(和田西八幡社)・その1









 ここから一気に上る小さな道がある。このあたりから人家が見えなかったため、とんでもなく寂しいところにきたものだと思った。ところがしばらく登っていくと何軒かの集落が点在し始める。これだけでも驚きだが、気がつくとダム湖が真下に見え始める。
【写真左】子守神社(和田西八幡社)・その2







 相当上に登ったころ、畑に地元のおばあさんがおられ、和田城の場所を再度確認する。
 とてもしっかりとした口調で「和田の御宮までは車でいけますよ」とのこと。それを聞いて安心する。

 いつも知らぬ山城探訪の際、少し道に不安になったとき、地元の方にあって確認すると何とも言えない安ど感を感じる。

【写真左】子守神社(和田西八幡社)・その3









 途中にある神社で、由緒は手前にあった道案内標識より転載する。

“もと延喜式内官幣大社で、奈良吉野水分神社、またの名を御子守あるいは、子守の神と讃え、当地和田義盛公の末裔・和田城址あとに和田一族のみでなく、当地の守護神として祀り旧村社として現在に至り、吉野にちなんで吉野川水域の源の神の神社です。

 説明
本城址跡子守神社 東出城跡に東八幡、西出城跡に西八幡が祀られています。
  子守神社氏子会”

【写真下】西八幡から本城(子守神社)までの間に見えた小さい祠







 以上のことから、この神社は西八幡で、和田城の「西出城跡」ということになる。標高は695m。

 なお、東八幡の方は時間がなく残念ながら登城していない。


 この付近は、かなり平たん部をもった尾根伝いだが、道の右側(北)に郭もしくは屋敷跡らしき形状の地形が見え、その前方には5,6m程度の小山がある。その中央部に杉の木の伐採により視界が開けていて、祠を確認することができた。

【写真左】本丸(子守神社)下の開墾された牧草地付近から見えた早明浦ダム湖







 地層は岩盤が多く、この地区に最初に入った和田一族などは当初からこうした困難な開墾作業に追われていたのだろう。

【写真左】本丸途中に見えた3,4段の郭跡
 ほとんどがこうした杉の植林による山だが、城郭跡付近は地元の人たちによって、下草刈りなどがされているようだ。


【写真左】本丸手前から見た北側の岩石
 下にある牧草地のようなところから、本丸までは15分程度かかるが、傾斜がかなりあるので、雨天時は足元が滑ることを覚悟しなければならない。

【写真左】本丸跡1(子守神社)
 この位置が「土佐・和田本城」(子守神社)で、標高は732m。

 資料によっては、前記した西八幡社を「本丸」としているものもあるようだが、一般的には、標高が高く、しかも要害性の高いこの場所が本丸と思われる。

 本丸の形状は、南北に細長く、長径14,5m、短径3~5m程度と思われる。北西側はかなりの切崖で、油断していると真下に落ちそうになる。
 この北側下に先ほどの何段かの郭状の遺構が見える。
【写真左】本丸跡2
 この本丸跡にある神社本殿の右に、平成元年に和田氏の末裔で、現在札幌市に住んでおられるという和田氏らによる前記した「西八幡宮立替」の銘記を刻んだ石碑が建立されている。



下山した後、再び車で下る途中、先ほどのおばあさんがおられたので、お礼を言ったことろ、自家製の「こんにゃく」を頂いた。

 また、驚いたことに、このおばあさんの名前も「和田」氏で、しかも自分の弟さんが、八幡の宮司を行っていたが、亡くなってしまったとのこと。このため、この春には毎年、和田城(八幡)で祭礼を行う予定だが、宮司がいなくなったので、どうなるか分からないのこと。

●前記した西八幡社の立派さにも驚いたが、それほど地元では崇敬の高いものとして祀られているのだろう。しかも、これだけ山奥であるにもかかわらず、和田城・和田氏一族という先祖を護り受け継いできた地元の人々の労苦を思うと、改めて敬服の念を抱かざるを得ない。

●こうした山城はマイナーなものかもしれないが、観光地化された史跡以上に価値があるものと私には思える。いつまでも受け継がれていってほしいものだ。


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