金山要害山城(かなやまようがいさんじょう)
◆登城日 2008年3月17日
●所在地 島根県松江市宍道町白石 金山
●別名 坂口要害山城跡
●築城期 中世
●築城主 宍道(しんじ)氏
●標高 150メートル
●遺構 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 竪堀 連続竪堀 虎口 櫓台 馬出
◆解説(現地の案内板より)
“金山要害山
金山要害山は北側(宍道湖側)を正面とする山城で、海抜144mの頂上には、詰成(つめなり)と呼ぶ本丸跡が広がっている。
この城は出雲守護・京極高氏の孫・秀益が城を築いて宍道八郎と号した応仁年間(1467~69)から、天正年間(1573~92)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地であったことは間違いないであろう。
詰成(山頂)からは宍道湖、北山が一望でき、眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山が見通せる。また、のちに宍道氏が移り住んだ鳶が巣城は遥か北西に位置している。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があるが、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成が要害山にあるといわれる。
昭和63年3月
宍道町教育委員会”
【写真左】金山要害山城遠望
撮影 2018年2月19日
西麓側からみたもの。
【写真左】金山要害山城縄張図
麓まで再訪した2018年2月19日、登城口付近に設置してあった箱に入っていたもの。
昨年保存会の方々によって整備されたようだ。この日は未だ残雪があったため、登城はしていないが、いずれ機会があればこの縄張図を参考に再登城してみたいものだ。
【写真左】南宍道駅の線路をまたぐとすぐに登山道がある。
緩い付近はここらまでで、このあと急勾配の坂道を登っていく。
【写真左】現地にある案内板
登城口としては、当城の西側にあるJR木次線の南宍道駅から登るのが一番わかりやすい。
標高はさほどないが、要害性のある城であったことから、距離は短いものの傾斜がかなりあるので、途中で何度も休憩しながら登った。
【写真左】郭下から本丸を見上げる
【写真左】詰の丸付近から出張成、金毘羅成と呼ばれる付近を望む
【写真左】二の丸付近にある石垣跡
この付近は数が少ないものの、思った以上に石垣の遺構が残っている。
◆登城日 2008年3月17日
●所在地 島根県松江市宍道町白石 金山
●別名 坂口要害山城跡
●築城期 中世
●築城主 宍道(しんじ)氏
●標高 150メートル
●遺構 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 竪堀 連続竪堀 虎口 櫓台 馬出
◆解説(現地の案内板より)
“金山要害山
金山要害山は北側(宍道湖側)を正面とする山城で、海抜144mの頂上には、詰成(つめなり)と呼ぶ本丸跡が広がっている。
この城は出雲守護・京極高氏の孫・秀益が城を築いて宍道八郎と号した応仁年間(1467~69)から、天正年間(1573~92)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地であったことは間違いないであろう。
詰成(山頂)からは宍道湖、北山が一望でき、眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山が見通せる。また、のちに宍道氏が移り住んだ鳶が巣城は遥か北西に位置している。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があるが、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成が要害山にあるといわれる。
昭和63年3月
宍道町教育委員会”
【写真左】金山要害山城遠望
撮影 2018年2月19日
西麓側からみたもの。
【写真左】金山要害山城縄張図
麓まで再訪した2018年2月19日、登城口付近に設置してあった箱に入っていたもの。
昨年保存会の方々によって整備されたようだ。この日は未だ残雪があったため、登城はしていないが、いずれ機会があればこの縄張図を参考に再登城してみたいものだ。
【写真左】南宍道駅の線路をまたぐとすぐに登山道がある。
緩い付近はここらまでで、このあと急勾配の坂道を登っていく。
【写真左】現地にある案内板
登城口としては、当城の西側にあるJR木次線の南宍道駅から登るのが一番わかりやすい。
標高はさほどないが、要害性のある城であったことから、距離は短いものの傾斜がかなりあるので、途中で何度も休憩しながら登った。
【写真左】郭下から本丸を見上げる
【写真左】詰の丸付近から出張成、金毘羅成と呼ばれる付近を望む
【写真左】二の丸付近にある石垣跡
この付近は数が少ないものの、思った以上に石垣の遺構が残っている。
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