口羽氏・その3 二つの軍原
◆解説
前稿までで、口羽通良について、その出自や主だった戦歴を述べたが、改めて彼が毛利氏の中でどのような位置を占めていたか整理してみたい。
志道氏
口羽通良は、永正10年(1513)に生まれ、天正10年(1582)7月28日に、69歳で亡くなっている。本姓はその家系である大江氏系毛利氏の庶子・坂氏一門の志道氏の傍流にあたる。父は志道元良で長男は、志道広良、その弟(二男)が通良である。
前記したように、享禄2年(1529)ごろ、石見国の有力国人・高橋氏を滅ぼし、翌年若干17歳の若き志道通良が入部する。元就の判断によるものだろうが、まだこのころは元就が最終決定の権限はなく、知行・領有の最終承認の権限は大内義隆にあった。
それにしても、この若さで当時最重要地域であった石見阿須那方面の領主を任されたことから、よほど元就は、通良に全幅の信頼を置いていたと思われる。
口羽通良
その後、通良は、所領した口羽の地名をとって、志道氏から口羽氏の姓を名乗る。
元就の右腕として特に、吉川元春と石見・出雲など山陰方面を任され、戦のあとの戦後処理に卓越した能力を発揮している。
元就が亡くなった後は、輝元を補佐し、後年、元春、隆景、福原貞俊とともに、「四人衆」と称された。いわゆる名家老で、天正4年の石山合戦の際、顕如上人に深く帰依し、息子を出家させ、西蓮寺を創建するなど、信心深い武将である。
【写真左】石見・軍原その1
所在地:島根県邑南町阿須那
右に見える川は、出羽川でその奥は、江の川へ合流する。左側は「軍原キャンプ場」入口
軍原
ところで、高橋氏が滅亡したときの経緯の中で、取り上げる地名に「軍原(いくさばら)」というところがある。
現地にはその時の様子を記した説明板があるので示す(軍記物独特の文体なので読みづらいが、原文のまま載せる)。
〝伝承 軍原(いくさばら)のこと
大永・享禄(1527~28)のころ、毛利元就は当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え、虎視眈眈として高橋氏の動静を窺っていた。
これを知ってか、高橋興光は山陰の雄・尼子氏に秘かに意を通ぜんとす。これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主・高橋弾正盛光(興光と従兄弟又は甥と伝えられている)に「高橋興光をよい手立てによって、その首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め、末長く協力することを誓う」との密書を送った。
受取った盛光は、元就の謀略とは気付かず、興光謀殺を決意してその機を窺っていた。時は享禄3年(1530)12月4日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路に着き、口羽から出羽川沿いに三々五々我が城・藤掛城を仰ぎつつ、軍原にさしかかった。
盛光は今こそ好機到来とばかり、腕利きの部下たちを軍原の森陰に伏せておいて、息を殺して興光の到来を待つほどに、神ならぬ身・興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。
不意を突かれて驚きながらも興光は、疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡敵せず、全身創痍、興光はもはやこれまでと、鎧兜を脱いでそばの松の枝に掛け(後に、鎧掛けの松と呼んだ)、大岩に登り悠然と腹かき切って果てた。
これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で
「御約束の興光の首を持参しました。この上は御約束の遺領安堵の誓約書を賜わりますよう」
と、内心お誉めもと期待していたが、思いのほか
「汝高橋本家相続人であり、元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと、かかる犬武士は生かしておけぬ。直ちに誅せよ」
と言って、誅し首を切られ、後犬伏山に葬られたという。
現在も犬伏山の麓に盛光の墓といわれる墓石が苔むしている。
邑南町教育委員会“
【写真左】石見・軍原その2
軍原キャンプ場内。左に見える案内板に、上記の「伝承 軍原のこと」が記されている。
もうひとつの軍原
さて、この石見・軍原での元就謀略による誅殺事件から約40年後の元亀2年(1571)3月、出雲斐川の高瀬城主・米原綱寛が、山中鹿助ら尼子再興軍の一軍として踏ん張るも、ついに力尽き、高瀬城北麓の丘陵地・軍原(いくさばら)にて米原勢約500が敗死する。
城将綱寛は松江法吉の鹿助の拠る新山城へ敗走する。伝聞では、このとき軍原丘陵地から宍道湖面にかけて夥しい屍が残ったという。
このあと、この地の戦後処理を行ったのが、くだんの名家老口羽通良である(当時58歳前後である) 。
斐川の「軍原」の命名者
そこで、私には、特に斐川の軍原という地名は、この口羽通良が命名したのではないかと以前から思っている。
というのも、「軍原」という地名のある石見口羽(羽須美村)の武将が、出雲・斐川にある同名の「軍原」という地に赴いて戦ったという偶然性にはあまりにも無理がありそうなのである。
むしろ、戦後処理の一環として、信仰厚い口羽通良が、慰霊も兼ねてあえて、この斐川の戦場だった地に「いくさばら(軍原)」という地名を残したというのが、自然なのではないだろうか。
【写真左】斐川・軍原その1
高瀬城本丸跡より、北東方面に軍原を見る。
【写真左】斐川・軍原その2
高瀬城北東山麓の湯の川温泉から、左側に軍原地区を見る。後方の山は、高瀬山城の東隣に立つ大黒山。
当時は、敗走する米原勢は、この谷を下って、軍原に向かったものと思われる。
【写真左】斐川・軍原その3
軍原北端部(旅館・湖静荘付近)
国道9号線の沿いで、写真中央部の白い建物のある高台が、当時の丘陵北端・先端部になる。
手前は入江状になって、この付近に米原勢の兵糧運搬用船が置かれ、その動きがあるたびに、北の鳶ヶ巣城や、手崎城(平田)に陣取る毛利方(吉川元春・児玉水軍など)が船で攻めよせていたものと思われる。
なお、米原勢は、元亀元年秋には毛利方の「稲なぎ」攻めにあい、食糧が確保できず、松江新山城(山中鹿助ら)へ、夜間に船でその調達に向かっていた。
◆解説
前稿までで、口羽通良について、その出自や主だった戦歴を述べたが、改めて彼が毛利氏の中でどのような位置を占めていたか整理してみたい。
志道氏
口羽通良は、永正10年(1513)に生まれ、天正10年(1582)7月28日に、69歳で亡くなっている。本姓はその家系である大江氏系毛利氏の庶子・坂氏一門の志道氏の傍流にあたる。父は志道元良で長男は、志道広良、その弟(二男)が通良である。
前記したように、享禄2年(1529)ごろ、石見国の有力国人・高橋氏を滅ぼし、翌年若干17歳の若き志道通良が入部する。元就の判断によるものだろうが、まだこのころは元就が最終決定の権限はなく、知行・領有の最終承認の権限は大内義隆にあった。
それにしても、この若さで当時最重要地域であった石見阿須那方面の領主を任されたことから、よほど元就は、通良に全幅の信頼を置いていたと思われる。
口羽通良
その後、通良は、所領した口羽の地名をとって、志道氏から口羽氏の姓を名乗る。
元就の右腕として特に、吉川元春と石見・出雲など山陰方面を任され、戦のあとの戦後処理に卓越した能力を発揮している。
元就が亡くなった後は、輝元を補佐し、後年、元春、隆景、福原貞俊とともに、「四人衆」と称された。いわゆる名家老で、天正4年の石山合戦の際、顕如上人に深く帰依し、息子を出家させ、西蓮寺を創建するなど、信心深い武将である。
【写真左】石見・軍原その1
所在地:島根県邑南町阿須那
右に見える川は、出羽川でその奥は、江の川へ合流する。左側は「軍原キャンプ場」入口
軍原
ところで、高橋氏が滅亡したときの経緯の中で、取り上げる地名に「軍原(いくさばら)」というところがある。
現地にはその時の様子を記した説明板があるので示す(軍記物独特の文体なので読みづらいが、原文のまま載せる)。
〝伝承 軍原(いくさばら)のこと
大永・享禄(1527~28)のころ、毛利元就は当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え、虎視眈眈として高橋氏の動静を窺っていた。
これを知ってか、高橋興光は山陰の雄・尼子氏に秘かに意を通ぜんとす。これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主・高橋弾正盛光(興光と従兄弟又は甥と伝えられている)に「高橋興光をよい手立てによって、その首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め、末長く協力することを誓う」との密書を送った。
受取った盛光は、元就の謀略とは気付かず、興光謀殺を決意してその機を窺っていた。時は享禄3年(1530)12月4日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路に着き、口羽から出羽川沿いに三々五々我が城・藤掛城を仰ぎつつ、軍原にさしかかった。
盛光は今こそ好機到来とばかり、腕利きの部下たちを軍原の森陰に伏せておいて、息を殺して興光の到来を待つほどに、神ならぬ身・興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。
不意を突かれて驚きながらも興光は、疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡敵せず、全身創痍、興光はもはやこれまでと、鎧兜を脱いでそばの松の枝に掛け(後に、鎧掛けの松と呼んだ)、大岩に登り悠然と腹かき切って果てた。
これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で
「御約束の興光の首を持参しました。この上は御約束の遺領安堵の誓約書を賜わりますよう」
と、内心お誉めもと期待していたが、思いのほか
「汝高橋本家相続人であり、元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと、かかる犬武士は生かしておけぬ。直ちに誅せよ」
と言って、誅し首を切られ、後犬伏山に葬られたという。
現在も犬伏山の麓に盛光の墓といわれる墓石が苔むしている。
邑南町教育委員会“
【写真左】石見・軍原その2
軍原キャンプ場内。左に見える案内板に、上記の「伝承 軍原のこと」が記されている。
もうひとつの軍原
さて、この石見・軍原での元就謀略による誅殺事件から約40年後の元亀2年(1571)3月、出雲斐川の高瀬城主・米原綱寛が、山中鹿助ら尼子再興軍の一軍として踏ん張るも、ついに力尽き、高瀬城北麓の丘陵地・軍原(いくさばら)にて米原勢約500が敗死する。
城将綱寛は松江法吉の鹿助の拠る新山城へ敗走する。伝聞では、このとき軍原丘陵地から宍道湖面にかけて夥しい屍が残ったという。
このあと、この地の戦後処理を行ったのが、くだんの名家老口羽通良である(当時58歳前後である) 。
斐川の「軍原」の命名者
そこで、私には、特に斐川の軍原という地名は、この口羽通良が命名したのではないかと以前から思っている。
というのも、「軍原」という地名のある石見口羽(羽須美村)の武将が、出雲・斐川にある同名の「軍原」という地に赴いて戦ったという偶然性にはあまりにも無理がありそうなのである。
むしろ、戦後処理の一環として、信仰厚い口羽通良が、慰霊も兼ねてあえて、この斐川の戦場だった地に「いくさばら(軍原)」という地名を残したというのが、自然なのではないだろうか。
【写真左】斐川・軍原その1
高瀬城本丸跡より、北東方面に軍原を見る。
【写真左】斐川・軍原その2
高瀬城北東山麓の湯の川温泉から、左側に軍原地区を見る。後方の山は、高瀬山城の東隣に立つ大黒山。
当時は、敗走する米原勢は、この谷を下って、軍原に向かったものと思われる。
【写真左】斐川・軍原その3
軍原北端部(旅館・湖静荘付近)
国道9号線の沿いで、写真中央部の白い建物のある高台が、当時の丘陵北端・先端部になる。
手前は入江状になって、この付近に米原勢の兵糧運搬用船が置かれ、その動きがあるたびに、北の鳶ヶ巣城や、手崎城(平田)に陣取る毛利方(吉川元春・児玉水軍など)が船で攻めよせていたものと思われる。
なお、米原勢は、元亀元年秋には毛利方の「稲なぎ」攻めにあい、食糧が確保できず、松江新山城(山中鹿助ら)へ、夜間に船でその調達に向かっていた。
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