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2022年3月21日月曜日

摂津・山下城(兵庫県川西市山下)

 摂津・山下城(せっつ・やましたじょう)

●所在地 兵庫県川西市山下
●別名 龍尾城・一庫城・塩川城・獅子山城・多田城
●高さ 184m(比高 101m)
●築城期 天禄年間(970~973)、南北朝時代、天正7年(1579)など
●築城者 塩川氏(仲義、仲章、国満のいずれか)
●城主 塩川国満
●遺構 土塁、郭、空堀、井戸
●備考 向山城
●登城日 2017年6月18日

解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』、『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦著、等)

 摂津・山下城は、多田神社が所在する川西市の北部山下に所在する山城で、別称として一庫城、塩川城など5つの名が残る。
 当城の西麓を南北に走るのが、国道173号線で、丹州街道または能勢街道とも呼ばれた。現在は、大阪府池田市から北に向かって京都府綾部市まで繋ぐ路線として整備されている。中世は摂津と丹波を結ぶ重要な街道であった。
【写真左】山下城遠望
 南側の山下本町付近から見たもので、右側が山下(本城)で、谷を隔てて左側には向山(城)が見える。

 写真に見える道路は、国道173号線で、この道を奥に進んでいくと、北隣の能勢町や、以前紹介したデカンショ街道(神尾山城(京都府亀岡市宮前町)参照)と合流し、丹波篠山に繋がる。


 後段で紹介する東方の芥川山城からは平地を徒歩で行くとおよそ30キロほどの距離になる。また、北方の位置に当たる丹波の丹波・八上城からはおよそ32キロほどになる。

塩川氏

 さて、当城については、すでに信貴山城の稿で少し触れているが、築城期・築城者については三説もあり、確定していない。

 この中で、最も古いものとしては、築城期を天禄年間(970~973)とし、築城者は源満仲の婿・塩川仲義が新田城の支城として築いたという説がある。
 源満仲については、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)の稿で紹介したように、満仲の子・頼光が摂津源氏の祖となり、頼国を経て彼の五男・頼綱が現在の川西市にある多田神社を中心とした多田荘を治めている。
【写真左】登城口
 登城口は山下城の南西麓側にある。ただ、明確に登城口と標記されたものはない。写真にある看板の左下に小さな文字で「山下古城山管理員会」と標記された注意書きが目安になる。


 満仲の婿・塩川氏については、詳しい史料はないが、代々多田院御家人筆頭の任にあり、多田荘から北隣の能勢郡にまで支配をしていたという。
 新田城については、多田神社の東隣新田(しんでん)に築かれていた平城で、因みに現在は住宅地や公園となって遺構は消滅している。

 既述した説以外のものについても、いずれも塩川氏が関わっており、戦国期までの500年という長い期間、同氏がこの地を治めていたことになる。
【写真左】登城道
 前半は谷の左側を登って行く。次第に谷が狭くなっていく。








合戦の記録

 山下城における戦いの記録としては、天文10年(1541)のものが特に有名である。このときの城主は、塩川伯耆守国満といわれるが、史料によって国満の父・政年との説もある。

 この年(天文10年)9月、山下城主塩川国満が当城に立て籠った。これはその直前細川晴元(幕府34代管領)が敵対していた細川高国を打ち破り、高国派残党狩りの流からきたものだった。塩川一族が攻められたのは、政年の妻が討死した高国の妹であったことや、摂津国衆が当初から三好一族と対立していたことなどがその背景にある。
【写真左】吉秀大神
 左側の道を進んでいくと、一旦谷の窪みは途切れ、その中央部に御覧の社が祀られている。
 「正一位 吉秀大神」と記されている。



 晴元の命を受け山下城を囲んだのは、三好政長、三好長慶(芥川山城(大阪府高槻市大字原)参照)、波多野秀忠(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)らの軍である。

 これに対し、伊丹城(有岡城)の伊丹親興や、三宅城( 大阪府茨木市蔵垣内)の三宅国村が幕府に対し、山下城攻撃の不当性を直訴、時の将軍義輝も晴元とは反目していたこともあり、その訴えを認めた。

 また、木沢長政(笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置)参照)が晴元方から突然離脱し、山下城救援に駆け付けた。長政が反旗を翻した理由としては、三好長政との確執や、長政の弟が伊丹氏の婿に入っていることなどが挙げられる。
【写真左】川西市の市街地を俯瞰する。
 吉秀大神を過ぎると右側の道を進むが、途中で尾根を越え反対側の南斜面に出る。
 その先には御覧の解放された平場があり、川西市の市街地が望める。


 伊丹親興、三宅国村並びに木沢長政らが山下城救援に駆け付けることを知った晴元方は、攻囲を解き同年9月29日に越水城(西宮市桜谷町)に退去した。

 このほかの記録としては、天文18年(1549)に三好長慶が晴元、三好長政らと敵対したときである。離合集散の典型的な流れだが、長慶に味方したのは、摂津衆の三宅・池田・瓦林ら、また山城西岡の鶏冠井(かいで)・物集女(もずめ)、更に丹波からは内藤国貞、和泉からは松浦氏が合力した。

 対する晴元は、政長・政勝父子支援のため、4月26日迂回するように丹波経由で摂津へ入り、塩川氏の持城・山下城へ入った。この時の合戦の詳細な記録は残っていない。
【写真左】愛宕神社
 上記の広場側の奥には愛宕神社が祀られている。
 由来などは不明だが、この付近(境内)はきれいにしてあるので定期的な祭事が行われているのかもしれない。
 また、山下城の郭だった可能性もある。


国満、秀吉の逆鱗に触れ自害
 
 さて、信長の時代になると、天正7年(1579)、山下城主塩川国満は改めて山下城を含む多田領を信長から安堵されている。しかし、その後秀吉時代になると、それまで度々争っていた北隣の能勢郡の能勢氏とさらに関係が悪化する。

 ところで、秀吉による九州征伐は一般的には天正15年(1587)に開始されたといわれているが、件の能勢氏はそれより3年前の天正12年(1584)6月に九州征伐の先鋒として向かっているとされている。

 出典元が明示されていないため、この時期については、信憑性に疑義がもたれる。しいて言えば、これは九州征伐ではなく、翌天正13年(1585)に始まった長曾我部元親軍討伐の四国征伐ではないだろうか。
【写真左】郭段
 愛宕神社の右側を通ってさらに上に進むと、左側に段が見えてきた。
 幅はさほどないが奥行がある。



 どちらにしても、秀吉の命を受けた能勢氏が当地を留守にした隙を狙って、塩川氏が能勢氏の地黄城(じおうじょう)(大阪府能勢町地黄)や、田尻城(大阪府能勢町下田尻)を攻略した。天正12年10月14日のことである。

 このとき、三草山清山砦を守備していた塩川国良も能勢氏の抵抗に遭い討死した。しかし、能勢氏は衆寡敵せず敗北、これを知った当主能勢頼次は急ぎ大阪城に戻り、秀吉に事の次第を報告、その足で地黄城へ戻った。
【写真左】能勢頼次の像
所在地:大阪府豊能郡能勢町野間中661

 日蓮宗霊場能勢妙見山を開基したのが能勢頼次で、当地に建立されている。
2010年7月27日参拝



 こうした塩川氏の動きに対し、秀吉は激怒し、すぐさま池田輝政を始めとした軍を山下城へ向かわせた。塩川国満は城を囲まれ、抵抗する術もなく、もはやこれまでと、山下城を開城し、自らは切腹し果てた。国満の頸は山下城の大手門に葬られ、当城はここに廃城となった。
【写真左】切岸
 先ほどの段を過ぎると、この個所で大きな切岸が出てくる。
【写真左】連続する郭段
 切岸を登りきると果樹園のようなところに出た。
 手前にはネットなどが張られ鳥獣対策をしているようだ。植樹されている樹木名は分からない。
 右側に道がついており、この個所から上に向かって4段ぐらいありそうだ。
【写真左】上から見る。
 左手に連続する郭段を見ながら上に上がって下を見たもので、4段ぐらいの段になっている。
 桜の木なども見えたので、果樹園というより公園に近い状況だ。
 それぞれの段の幅はまちまちだが、奥行は40~50m程度前後ある。
【写真左】連続段の最後の段
 連続する段の最高所の段で、この右側に階段が見えるが、この階段を上がると本丸に向かう。
【写真左】本丸
 最後の段から5m前後の高低差のある切岸を登ると、本丸が控えている。
 なお、この位置における虎口は明瞭でないが、右側の隅に開口部らしきものがあり、その左側から土塁が伸びている。
【写真左】土塁
 尾根筋に向かって右側に土塁が構築されている。
 本丸(主郭)の長径は尾根軸にとられ、およそ50m前後ある。
 土塁に沿って奥に進む。

【写真左】土塁側から中を見る。
 本丸北側の土塁側から中を見たもので、現況に残る土塁の天端幅から考えると、当時はもっと大きく、高さは3m以上あったと考えられる。
【写真左】本丸の中央部
【写真左】井戸跡か
 本丸の一角には4m四方の窪みが残る。おそらく井戸跡と思われる。
 なお、本丸から左方向(西側)に伸びる尾根筋にも郭段があるようだが、この日は向かっていない。
 
【写真左】竪堀
 一旦本丸の虎口まで戻り、上に向かうべく右側の斜面に続く道を進む。
 右手に竪堀が見えてくる。
【写真左】一条目の堀切
 先ほどの竪堀が上まで伸び、この堀切と繋がる。
【写真左】一条目の堀底から本丸を見上げる。
【写真左】土塁
一条目から次の二条目の堀切との間にあるもので、特徴的なのは尾根幅に対しそれ以上に左右に盛り土を伸ばし、幅を長くとっていることである。
 しかも中央部で屈曲した虎口のような道が残っている。
【写真左】二条目の堀切
 長大な規模なので、この写真では左側半分の箇所しか撮れない。
【写真左】二条目の堀切
 反対の右側から見たもの。
【写真左】土橋
 二条目の堀切に残るもの。
【写真左】平野神社
山下城の南麓に建立されているもので、塩川氏所縁の神社。
【写真左】多田神社
 山下城が所在する川西市には冒頭で紹介した多田神社がある。
 主祭神は、清和源氏の祖ともいえる源満仲から始まり、その曾孫・源義家までの5人を祀る。

 山下城主・塩川氏の名が具体的に現れるのは鎌倉末期で、この時期同氏の他、既述した能勢氏や渡辺氏の名が出てくる。いずれも多田院(神社)の御家人となっている。

2017年3月17日金曜日

芥川山城(大阪府高槻市大字原)

芥川山城(あくたがわさんじょう)

●所在地 大阪府高槻市大字原城山(三好山) 
●高さ 180m(比高70m)
●築城期 永正12年(1515)
●築城者 能勢頼則(細川高国)
●城主 能勢氏、細川晴元、三好長慶、和田惟政、高山友照等
●廃城年 元亀4年(1573)
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●備考 三好山
●登城日 2015年6月7日

◆解説(参考文献 『日本の山城 100名城』洋泉社発行、HP『城郭放浪記』、高槻市HP等)

 芥川山城は旧摂津国にあって、淀川に注ぐ支流芥川の河口から凡そ9キロほど遡った三好山に築かれた山城である。
 三好山の西から北にかけて芥川が囲むように流れ、特に西側は摂津峡という切り立つ溪谷があり、天然の要害を持つ場所である。
【写真左】芥川山城遠望
 登城途中に東麓から見たもの。
当方から見ると、なだらかな山にみえるが、西側には摂津峡があり、急峻となっている。



当城については、地元高槻市のHPに次のように紹介されている。

“芥川山城
 夫婦岩・八丈畳などと称される奇岩や断崖が続く摂津峡は、摂津の耶馬溪ともいわれ、大阪府の名勝にも指定されている景勝地。そのすぐ東側の三好山に天然の要害をもつ芥川山城跡があります。三方を芥川に囲まれ、残る一方は断崖となっており、山そのものが難攻不落の砦となっています。

 ここは、三島平野、遠くは生駒山系を臨み、眼下には、西国街道や芥川宿を見通すことができる位置にあり、かつ、亀岡へと続く間道がありました。また、芥川を下ると水上交通の要、淀川に至る立地など、政治上・戦略上において重要な場所でもありました。
芥川山城の遺構は主郭・副郭・土塁・堀切という中世山城の要素を備えており、その様子が今も残っています。
【写真左】登城口
 この辺りは道が狭く、駐車スペースもほとんどないため苦労した。確実なのは南麓にある摂津峡公園の駐車場に停めていくのがいいだろう。
 因みにここから「三好山へ40分 (三好長慶 1553年入城) 三好芥川城の会」という看板が設置されている。



   芥川山城は、永正13年(1516)連歌師柴屋軒宗長が芥川の能勢因幡守頼則の築いた新城に祝いの気持ちを込めてつくった冒頭の句から、この時期に完成したものと考えられています。

 天文2年(1533)には、細川晴元が入城し、京に移った後、芥川氏が入り、幾度かの城主の入れ替わりののち、天文16年(1547)三好長慶(ながよし)が城を支配。家臣、芥川孫十郎が城主となります。
 天文22年(1553)長慶は入京を果たしました。しかし、孫十郎が謀反したため、三好山に隣接する帯仕山に陣を構え、開城させて、孫十郎を阿波へ追放して長慶が入りました。
【写真左】本丸まで25分の位置
 芥川山城は①東方曲輪群、②出丸曲輪群、③主郭曲輪群で構成されている。
 写真はそのうち、最初に見えてくる①東方曲輪群で、このあたりから中小の郭群が確認できる。


 以後、7年間、長慶は山城に在城し、その間、真上・郡家の水争いや、芥川流域の灌漑用水を整備するなど、領地支配にも力を注いだほか、著名な歌人らを招いて連歌の宴を催すなど、文芸を愛した様子もうかがえます。この頃がこの山城の最も華やかで生き生きとした時代であったといえるでしょう。
 永禄3年(1560)長慶は、飯盛城(四條畷市)に移り、息子義興が城主となりますが、永禄6年(1563)22歳の若さで没します。讃岐石の墓石が建つその墓は、霊松寺(天神町二丁目)にあって「三好のカンカン石」とよばれています。
【写真左】石垣・その1
 これも①の東曲輪群で、孟宗竹が繁茂しているが、石垣が残る。







 その後、永禄11年(1568)織田信長の側近、和田惟政(これまさ)が入城、翌年惟政は高槻城も与えられ、2城の主となりました。惟政自身は高槻城へ入り、家臣の高山飛騨守が城主として芥川山城に入ります。以後、政治の拠点はしだいに高槻城へと移っていきます。

 多くの武将が入城し、単に北摂の一山城であるということに留まらず、時に最高権力者の拠るところとなり、一時は近畿一円を勢力下とした芥川山城。 やがて、高槻城の発展とともに、歴史の表舞台から姿を消していきました。” 
【写真左】石垣・その2
 前記のものと同じく石積が施されている。おそらくこの郭にも建物があったのだろう。


 




 
三好長慶

 芥川山城の城主は上掲したように、目まぐるしく変わっていくが、その中でも三好長慶が深くかかわっている。彼については、これまで勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)の稿などで述べてきているが、長慶も含めた三好一族がもっとも活躍していった地域は芥川山城を含めた畿内であった。
【写真左】上ノ口と三好山方面との分岐点
 東方曲輪群の西端部だったと記憶しているが、この位置で北に向かう道(上ノ口)と分岐する。

 なお、写真の平坦部も郭と思われる。



 因みに、長慶が畿内で活躍した際、関わった城砦としては、時系列で列記すると次のようになる。
勝瑞館の稿でも少し述べているが、長慶が畿内をほぼ手中に収めていた時期は、この芥川山城時代である。彼はこの時期、本来ならば在京して、将軍を補佐するいわゆる管領職になってもおかしくないが、このころ京都は極めて不安定な政情であったため、あえて主君であった細川氏のような在京志向を持たず、なおかつ自ら管領職を望まず、むしろ京から少し距離をおいた摂津の山中に居城を営み、いわば政庁機能を当城に置き、政務を執り行ったとされている。
【写真左】土塁
 ①の東曲輪群を過ぎて少し西進すると②の出丸曲輪群に至る。

 このエリアは、①東曲輪群と③主郭曲輪群の間に介在するところで、中心部に出丸を設け、そこから南に凡そ50m程降った尾根筋に曲輪群を配置している。
 当時はこの出丸側の西方に大手道が設けられていた。


 室町幕府の体制が次第に瓦解し、代わって専制体制をとりつつあった細川氏の下にあって、幕政を支えていく立場であった長慶である。しかし、管領職の細川氏自体が将軍家と同じく一族内において対立が深まっていった。
 こうしたことから、在京することはむしろリスクが高まると予想したのだろう。芥川山城にこだわった長慶の思惑がみてとれる。
【写真左】虎口
 出丸の西隣にある土塁上に設けられているもので、ここを下りると先ほどの大手道に繋がる。




【写真左】主郭曲輪群に向かう。
 出丸曲輪群を過ぎると、5m前後の切崖を構えて低くなるが、そこから西に向かう道が付けられている。また、途中には土橋が介在している。

 この写真では左側(南)に大手道があったものと思われる。
【写真左】堀切
 しばらく歩いていくと堀切が見える。
 写真では高低差が感じられないが、出丸曲輪群と主郭曲輪群の境にあたることから設けられたものと思われる。
【写真左】石碑
 このあたりから主郭曲輪群の区域に入っているが、中小の細長い郭が繋がり、両端部の切崖も傾斜が険しくなっていく。

 写真は「史蹟 城山城跡」と筆耕された石碑。
【写真左】主郭曲輪群を見上げる。
 このあたりから中心部に当たる主郭を取り巻く郭段が西側上方に見え始める。
【写真左】主郭曲輪群
 次第に登り坂となり、左右に郭段が見え始める。右側の坂を進む。
【写真左】高槻市街地を望む。
 登城途中は殆ど孟宗竹などに覆われ、城下の町並みは見ることは出来ないが、主郭南側のこの位置に来ると、木立の間から南に高槻の市街地が視界に入る。
【写真左】主郭南直下の郭付近
 登城したこの日、この付近だけは伐採作業されていたため、明るくなっていた。

 写真中央の坂を上ると主郭に繋がる。
【写真左】主郭に向かう。
 主郭の手前には南北に長い2段の郭が控え、その入り口には虎口のような遺構が見える。
【写真左】やっと主郭が見えてきた。
 手前の郭段の右側に道があり、この道を北に向かうと主郭に繋がる。
【写真左】主郭へ向かう。
 南端部に登り口があり、そこから向かう。
【写真左】主郭南端部
 登りきると、予想以上の広さの郭となっている。
 写真は南側を見たもの。
【写真左】主郭・その1
 主郭の手前の郭から凡そ1m程度高くなった段が中央部の郭で、幅20m×奥行50m前後の規模。
【写真左】帯郭
 主郭の西側下には南側から回り込んで帯郭が付随している。現在その箇所には果樹が植えてある。
 右奥の山には摂津峡公園がある。
【写真左】祠「水の神」
 長慶は芥川山城にあったとき、地元芥川にかかわる水利権問題を適切に処理していた(「裁許状」)ことから、後に彼を「水の神」として祀ったとしている。

 戦国時代といえば、武士による戦さのみが強調されがちだが、室町期から戦国初期にかけて、地元の領主たちは食糧確保のため、積極的に水の管理をしていた。特に、新たに堰を設ける際、どの位置に設定し、どのように配水していくか、地元名主たちの意見を聞き入れながら、管理運営していた。
【写真左】本丸中央部の石碑
 現在は草木で埋もれているが、近年発掘調査が行われた際、多くの礎石建物跡が発見されている。

 往時、京都の公家や僧侶が度々当城に赴き、歓待を受け宿泊もしたというから、主だった郭には相当数の建物があったと思われる。
 特に初期の細川高国のころは、彼の趣味であった庭園なども造成されていたのかもしれない。
【写真左】主郭北東部の郭
 主郭の東面から北西に伸びる尾根筋上にもかなり大きな郭が配置されているが、これらの郭は主郭から5~10m程度の高低差を持つ。
【写真左】芥川山城から南方を俯瞰する。
 本丸跡から南を見ると、生駒山系から北東に延びる稜線が見える。

 手前の雑木などがないと、長慶が後に移ることになる河内・飯盛山城が見えると思われる。