2010年7月28日水曜日

浜田城(島根県浜田市殿町古城山)

浜田城(はまだじょう)

●所在地 島根県浜田市殿町古城山
●別名 亀山城
●登城日 2010年5月29日
●築城期 元和6年(1620)11月
●築城者 古田重治
●標高 68m
●形式 平山城
●遺構 郭、腰郭、石垣、堀切、虎口、櫓台等

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」「図説 島根県の歴史」等)

 浜田城は、中世山城ではなく、近世城郭として江戸初期の元和6年に築城された城郭である。

【写真左】石州浜田之図(1759~69年)本多家時代の浜田城下町絵図
 現地に設置された絵図であるが、当時は当城東麓には堀や、沼があったことが記されている。現在はほとんど埋め立てられている。
【写真左】浜田城復元CGI

【写真左】浜田城遠望(2012年2月28日撮影)
 西側の高尾山から見たもので、写真中央部の高いところに本丸がある。


 おそらく江戸期にはこの中央部から天守閣が見えていたのだろう。



 現在の遺構としては、天守をはじめとする礎石建物はほとんど消滅しているが、近世城郭として一般的に備わった施設は概ね有していた。


現地の説明板より

島根県指定史跡 浜田城跡
  指定 昭和37年6月12日
 浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68mの独立丘陵上に築かれた平山城です。

 元和5年(1619)に伊勢松坂から古田重治が5万4千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(1623)5月には城および城下町が整ったようです。

 本丸の北西隅には、高さ14mの三重櫓の天守があり、二の丸には焔硝(えんしょう)蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、中の門外の三の丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがありました。
 城下町は、城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町家を設けています。


【写真左】城門
 この下にある二の丸の護国神社から少し上がり、本丸に向かう最初の階段部に設置されている。

 この門は、浜田城と関係がなく、元々津和野藩庁にあったものを明治初年、浜田県庁舎を建てた時に県庁の門にするために移した。その後、現在に移したものであるが、まったく違和感がないほど調和している。


 浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本多家(3代・11年)、再び松平周防守家(4代・68年)、そして松平右近将監家(4代・31年)と変わり、慶応2年(1866)7月に第2次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えました。”



 上記の説明板のように、元和5年(1619)2月13日、伊勢国松坂藩(三重県)第二代藩主だった古田重治は、幕府より石見国浜田に禄高5万4000石余を譲渡される。
【写真左】伊勢松坂城
 古田重治が居城とした伊勢の松阪城(三重県松阪市殿町)










 同年8月17日、重治入部し、滝山一学・古市久馬らと当地に築城すべく、領内を巡視、浜田鴨山を城地とすることを決める。このとき鴨山を縁起のいい「亀山」という名称に改称する。

 なお、浜田の地に決める前に当初候補地として挙がったのが、益田の七尾城だったという。七尾城の前の禄高は12万石であったことから、古田重治にとって、とても倍以上の禄を維持することは困難だということからこの浜田城になったともいわれている。
【写真左】三の丸付近の石垣
 この付近は明治34~36年にかけて郭の石垣を撤去して階段を整備しているという。






 翌年(元和6年)2月に浜田城の普請工事が開始され、11月には地普請が完了。城用瓦工棟梁として、大坂より富島吉右衛門を招き、浅井村に住まいを用意させ永住させる。

 元和8年、城下の片庭に並樹松を植え、浜田城の構えとした、とあるので天守を含めた建物の竣工は、説明板にもあるように、この年前後だったのだろう。

築城主・古田重治は、その後元和9年5月に隠居して、兵部少輔・重恒に譲り、本人は江戸に住んだが、寛永2年(1625)11月25日、当地で亡くなった。享年48歳。
【写真左】二の門付近
 手前に二の門があり、枡形虎口を設けている。









 跡を継いだ重恒は慶安元年(1648)6月16日に亡くなり、嗣子がいなかったため、改易となり、3日後の19日に浅野因幡守長治・亀井能登守茲政が在番を命じられる。

 その後、8月には浜田城引き渡しがあり、10月28日、浜田藩が隣の石見銀山と同じく、一時的に天領に編入された。

 翌年の慶安2年(1649)8月24日、播磨国宍粟(しそう)より松平周防守康映(やすてる)が入部し、10月はじめ、引渡書を受取り、知行高は、5万1,291石余りとなった。
【写真左】本丸手前の階段
 二の門から本丸にかけての高低差はあまりなく、この階段も6,7段程度である。







長州征伐 

 その後、本多家、松平(松井)家、松平(越智)家と度々城主が代わった。

 最後の松平武聡は徳川慶喜の実弟でもあったが、慶応2年(1866)6月、長州征伐(第2次)の戦いで幕軍が大敗すると、武聡は病気療養でもあったため、深夜に密かに浜田城から日本海へ脱出。

 その報が後に城内に残っていた家臣らの耳に入り、このため戦意を喪失させ、同月18日、彼らは自ら浜田城に火をつけて退去した。

 ちなみに、第一次長州征伐の命令が松江藩に届いたのは、元治元年(1864)7月23日であるが、このとき松江藩では藩内の屈強な若者を多数集めている。

【写真左】本丸
 本丸は30間四方とかなり広い。説明板にもあるように、上段の西方に三層の櫓を建て、天守閣を設けていたという。


そして周囲には高い石垣を築き、塀をめぐらせ、丸、三角、四角形の窓(ザマ)を79カ所あけていたという。
【写真左】焔硝蔵から本丸方向を見る。
 三の丸の東側下段には焔硝蔵というかなり広い郭がある。ここからは北西方向に見ると、三の丸・二の丸・本丸方向が控えている。
 撮影 2016年6月10日




【写真左】本丸跡から北方に「外の浦の湊」を見る
 天然の地形を利用した風待港で、1672年以降、瀬戸内海から北陸を結ぶ中継点として、諸国の廻船が多数入港し、浜田藩の産業の拠点ともなった。


 松江藩の中でも出雲部については、おそらく郡奉行の下に募集をかけたと思われるが、管理人の先祖・初代(文右衛門)の息子・善次郎も、口伝によればこの中に従軍し、戦地での負傷が原因で、2年後の慶応2年(1866)9月26日、死去している。享年18歳。

2010年7月26日月曜日

乙見城(島根県大田市仁摩町馬路)

乙見城(おとみじょう)

●所在地 島根県大田市仁摩町馬路
●登城日 2010年4月16日
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●標高 313m
●遺構 郭

◆解説(参考文献「島根県の山(山と渓谷社)」「島根県遺跡データベース」等)

 国道9号線の大田市仁摩町馬路にある城跡だが、乙見城よりもその南麓に聳える「馬路高山(まじたかやま)(499.4m)」の方が有名で、地元登山者に親しまれている山である。
 登城口までに向かうには、国道9号線の馬路バス停近くの狭い道を登っていくが、団体の登山者の場合は、駐車場として国道9号線側に広い駐車スペースがあるので、そちらに停めた方がいい。
 また、現在山陰道の部分設置工事が、ちょうどこの付近で行われている。ダンプカーなどが時々この狭い道を往来するので、前記した駐車場に止めて、あとは歩いた方が無難かもしれない。

 乙見城についての詳細な記録は残っていないが、この場所から南東へ4,5キロ向かうと石見銀山があったことから戦国期、小笠原・尼子・大内・毛利が度々合戦を行ったと伝えられている。
【写真左】乙見城遠望
 国道9号線から狭い道を登っていくと、途中で高山に向かう道と、東部の集落に向かう道の分岐点があり、この位置に車2台分のスペースがある。
 この場所から写真に見える山が乙見城跡である。主郭付近までは歩いて5分程度であるが、近年は誰も登っていないようで、道は荒れ気味である。
【写真左】駐車付近から東方に三瓶山を見る
 この日は少しかすんで見えたが、秋季には眺望を楽しめるだろう。
【写真左】乙見城跡付近から馬路高山を見る
 当城の区域は、以前キャンプ地となっていて、写真にみえる建物は炊事場跡。大分前にキャンプ場は廃止されているようだ。
写真左】郭跡
 キャンプ場を開設した時点で、どの程度遺構が改変されたか、あるいは消滅したのか不明だが、山の規模から考えて大幅な変化はなかったと思われる。
 写真の位置は最高所付近で、おそらくこのあたりが主郭だろう。奥に向かって次第に稜線が下がり、左側には旧道のような痕跡があった。
【写真左】腰郭跡
 当城の中でもっとも明確に残っているところで、郭段は5段程度の構図となっている。また東側は切崖状態で、西側が大手と思われる。

【写真左】馬路高山遠望
 乙見城の麓から見たもので、当日は高山登城道入口に鎖で進入禁止の看板が設置されていた。
 なお、高山の西麓に「城上山(411m)」が連立しているが、呼称から山城を連想するが、どうやら関係ないようだ。
【写真左】五輪原といわれた個所
 乙見城から馬路高山の北東麓に道があり、その道から北側の平坦地が数百メートルにわたって続く。この場所が「五輪原」と呼ばれ、戦国期の尼子・毛利等の合戦の舞台となったという。

【写真左】「五輪塔」と呼ばれた墓石
 写真に見えるように、これは形式からいっても「五輪塔」ではなく、「宝篋印塔」である。しかし、すでに地名が「五輪原」などとされているので、今さら「宝篋印塔原」と訂正することもできない。
 道路わきにあるが、周辺の雑草を除草しないと、覆われて見えなくなる恐れがある。
 なお、この宝篋印塔は一基しかなく、しかもその規模は思った以上に大きい。名のある武将のものだろう
【写真左】旧道
この道も石見銀山街道の一つのようで、銀山から馬路方面に繋がる道だったのだろう。

2010年7月25日日曜日

亀山城(島根県江津市江津町本町)

亀山城(かめやまじょう)

●所在地 島根県江津市江津町本町
●探訪日 2010年7月21日
●築城期 弘治3年(1557)
●築城者 都野隆安
●城主 都野三左衛門家頼
●高さ 30m

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」その他)

 亀山城は、前稿「神主城」で取り上げた都野氏の居城とされ、主に戦国期に活躍した都野三左衛門家頼の記録が残る城跡である。

 断片的な記録としては、戦国期、都野氏はそれまで大内氏(小笠原氏)の配下として活躍していたが、弘治3年(1557)4月、大内義長が毛利元就に攻撃され自害したため、同年7月都野隆安(刑部少輔と思われる)、毛利元就に服属したという。
 隆安はそれまでの居城であった前稿「神主城」から、江の川水運を確保するため、亀山城を築いたとされる。

 所在地は、江の川河口の西岸にあり、現在のJR三江線「江津本町駅」の北方の小丘である。ちょうど亀山城の真下を三江線のトンネルが走っている。
 亀山城の登城口付近を捜したが、明確な登城路は消滅しているようだ。今稿では遠望写真程度の報告しかできないが、その代り、都野氏に関わる寺院が現存しているので、併せて紹介したい。
【写真左】亀山城遠望

 都野氏菩提寺である観音寺(下段写真参照)から見る。
 小丘陵なので、冬季になれば、よじ登ることができるかもしれないが、東斜面は垂直に近い切崖で、足を踏み外せばそのまま江の川へ落下しそうな地形だ。

 なお、明治30年頃、地元飯田家が亀山城跡付近に別邸「二楽閣(じらっかく)」という建物を建てたという。残念ながらその個所は確認していない。
【写真左】観音寺
 臨済宗東福寺派 月航山 観音寺

 江津本町の西側高台に設置されている寺院で、都野氏の菩提寺とされている。
【写真左】都野三左衛門家頼の墓
 観音寺境内に祀られているが、もともと当山の裏山の中腹に建立されていたものを近年になって移設したという。

 家頼は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元の家臣として、当地蔚山(うるさん)での籠城戦に活躍したものの、討死している。

 家頼の墓は写真の左から2番目の宝篋印塔とされている。
【写真左】境内にある「朝鮮の石」と呼ばれる石
 写真手前の四角柱型の石である。

 この日、当院の御住職に少しお話を聞くことができたが、この石は昔から代々「朝鮮の石」といわれ、家頼公の亡骸と一緒に持ち帰ったものと伝えられている。

 ただ、この石がどういう意味を持つものかははっきりしないという。
【写真左】普済寺

 観音寺の北の峰を越えると当院がある。現在はその中間部の山の下を江津バイパス(R9号線)のトンネルが走っている。


 興国4年(1343)開創というから、前稿「神主城」で記したように、石見の南北朝合戦の真っ最中である。


 この普済寺から観音寺までの山中には、「三十三ヶ所観世音菩薩案内図」というコースが設置されているが、そもそも江の川に面する東斜面は険峻な地形で、しかもテレビ塔が建つ最高所までの道のりも険しく、普済寺の初期は事実上城砦の役割があったのではないかと思える。
【写真左】普済寺にある都野家頼夫妻の墓
参拝日 2021年4月11日
 観音寺にある墓も都野家頼のものとしているが、どうやら普済寺にあるこの墓が家頼のもののようだ。
 普済寺は11年ぶりに再訪し、その墓を探していたが分からず、たまたまおられた御住職に家頼の墓を案内していただいた。改めてお礼申し上げます。


【写真左】普済寺北側の墓所から江の川河口・日本海を見る
 普済寺本堂はこの写真の右下にあるが、この個所からは日本海や江の川河口がよく見える。
 戦略的に考えると、見張り台などがあったことが十分に考えられる。
【写真左】山辺神宮
 観音寺と同じ東側斜面に立つ社で、大和国山辺郡石上より、白雉3年(652)勧請されたという。
 祭事としては祇園大祭が7月に行われる。参拝したこの日はすでに終わっていた。
 特殊神事としては、松江市にもある「ホーランエンヤ」という水上渡御が有名だ。



◆追記
 上記投稿後、2011年1月に再び亀山城麓まで行き、登城口を発見し登城したので追加報告しておきたい。
【写真左】亀山城遠望
 写真に見える鉄道は、三江線で、本丸がほぼトンネルの真上にある。

 手前の駅は、「江津本町駅」という小さな駅である。
【写真左】江津本町駅
 写真左に見える川が中国地方最大の河川といわれる江の川。

 三江線はこの江の川と平行に走り、終着駅は広島県の三次駅になる。

 管理人は鉄道ファンではないが、島根県下を走る鉄道の中でも特に気に入った路線である。
 こうしたローカルな駅などを訪れると、なんとなく癒される。
【写真左】駅から亀山城に向かう途中の道
 駐車は駅と道路の間の狭い空地にとめ、そこから町の方に歩いて戻ることになる。
 この写真では奥に駅があり、亀山城は左側の斜面に当たる。

 道の上には大きな水道管のようなものが付設されている。

 近世になってから造られた道かもしれないが、なんとなく堀切跡にも見える。
【写真左】本光寺
 上記の写真にある道路を少し歩くと、亀山城の西麓にこの寺が建っている。

 小規模な寺院で、どうやら無住のようだ。亀山城はこの写真の右側の崖を登ったところにある。
【写真左】欠損した宝篋印塔
 亀山城登城路(といっても藪こぎに近いが)途中に、墓地がある。
 全体にほとんどの墓が管理されていないようで、この宝篋印塔も上部が欠損している。

 都野氏に関係する武将のものだろうか。
【写真左】墓地から江津本町を見る
 この景色をみると、ここに墓地や寺を建立した理由がなんとなくわかる。

 現在、江津の町の中心部は北の日本海側に移っているが、中世・江戸期までは、この場所が江津の商工業の中心部であった。

 近世城郭の城下町と違って、中世城下町はまた別の趣や風情がある。

【写真左】本丸跡付近
 墓地から本丸跡までは、高圧電線の鉄塔管理をするため歩いた踏み跡があり、これをたどって向かう。

 本丸付近は全く管理されていないので、このあたりは全面ブッシュである。
 目測では本丸規模は10m四方か。全体に南北に長い構造の城砦で、北端部で江の川側には、郭跡が残っているが、この場所だけ畑地となっていた。

【写真左】祠跡か
 本丸跡には、上記の建立物とは別に、小規模な石垣で組まれた積石が残る。
 おそらくこの上に石碑が建っていたのであろう。

 なお、上記写真の石碑には「明和4年」という文字がみえる。1767年となるので、江戸中期に建立されたことが分かる。

【写真左】本丸跡から北方に江の川河口を見る
 現在はほぼ全域が野放図にされているが、伐採・除草をすれば、この位置から江の川の上下流を見渡すことができるだろう。

 本丸跡に立つと、亀山城が山城としてではなく、むしろ海城としての機能の方が大きかったのではないかと思える。

2010年7月14日水曜日

神主城(島根県江津市二宮町神主)

神主城(かんぬしじょう)

●所在地 島根県江津市二宮町神主
●登城日 2010年1月26日
●築城期 鎌倉期(縄文、弥生、中世等)
●築城主 神主(都野氏)内蔵助
●城主 都野氏、宇津巻氏
●備考 高田城

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系第13巻」等)

 神主城跡は、江津市を走る山陰道・江津道路の南麓にあり、「島根県遺跡データベース」(以下「データベース」とする)では、中世山城跡とは別に、縄文・弥生・中世・近世と幅広い時代に使用された遺跡としても扱っている。
【写真上】現地・江津市二宮町に設置された史跡案内図

 この案内図は大分前に作成されたようで、文字も薄れ読み難いため、管理人によって加工修正している。
 神主城は同図の中央の№26「高田城跡」にあたる。

 なお、この図では他の山城として、中央の川を上ったところに、№9「神村城跡」、№38「羽代城跡」、№39「飯田城跡」が記載されている。

 また、おそらく武将の墓地と思われるものとしては、№7「神村下野守長武公墓所」、№8「山藤美濃守玄英公墓所」、№10「山藤美濃守奥方墓所」、№14「神主兵庫重武之墓所」などが図示されている。



 その理由は、現在国道9号線と並行して走る山陰道の建設当時、この付近を調査したところ各所に古墳が発見され、神主城跡付近も含め各年代が重層する遺跡群であったことからである。(「データベース」のサイトには、調査時の現地写真が数枚紹介されている。)

 また、当城に関しては、「日本城郭大系第13巻」(以下「13巻」とする)では、「神主城」とは別に、同じ所在地ながら「高田城」という城砦が挙げられているものの、場所は図示されていない。
 ただ、この城に関しては、「都野氏の一族大崎民部少輔氏隆の築城で、要害山(標高96m)にあった。」と記している。
 ところが、「データベース」では、「高田城」をこの神主城と同一のものとし、標高は75mとなっている。
【写真左】多鳩神社鳥居
 神主城の南東麓にある神社で、石見国二宮 元県社という。祭神は積羽八重事代主命(通称エビスさん)で、文安年中(1444~48)に現地に奉還したとある。





 標高が違うことを考慮すると、やはり「神主城」と「高田城」は別のものと思われるが、主郭位置は違うものの、同じ稜線上に築かれたと推測される。

 なお、当ブログの標題の項目には、築城者として、「神主(都野氏)内蔵助の築城、のち宇津巻氏の居城」としているが、これは「13巻」からの記載である。
【写真左】神主兵庫重武之墓所
 上記写真(多鳩神社鳥居)の位置にから東に少し歩いた高台に建立されている。

 神主兵庫重武がいつの時代の武将なのか資料がないため判断がつかないが、都野氏と神主氏の関係を考えると、神主氏は都野氏から分家し、主にこの多鳩神社宮司としての職を主とし、戦の際は神主城主たる都野氏に合力していたと考えられる。
【写真左】同上兵庫重武墓石跡
 御覧のように墓石がほとんど破損しているため、何基建立されていたのか不明だが、土台を見る限り宝篋印塔形式のようだ。

 なお、この墓地からさらに上に上っていくと、郭段らしき平坦地が数段確認できたので、神主城の支城跡でもあったかもしれない。



 さて、築城者はどちらにしても都野氏であることは間違いないが、築城期については上記2件の参考資料には記載されていない。そこで、以前取り上げた同じ江津市内にある松山城(島根県江津市)の中で、末尾にこの都野氏を少し紹介しているが、今稿で改めて同氏について整理しておきたい。

 松山城は、江の川河口より6キロ余り上った同川の北岸部に築かれているが、神主城はこの位置から大分離れた江の川の南岸より北西へ5キロ余り入った丘陵地にある。
【写真左】多鳩神社
 規模はさほど大きなものではないが、非常に丁寧に管理されている。
 入口付近には、「石見王と太宰姫」の像が建立されている。

 説明板より

“天平元年(729)左大臣長屋王(天武天皇の孫)は、皇位継承をめぐり藤原氏の策謀によって無実の罪で一族と生涯をとじた。「二宮村史」によれば、孫の石見王は生母太宰姫とこの地に逃れた。

 日夜多鳩神社に帰参を祈り、後子孫大いに栄えたという。この伝説を後世に伝え顕彰する。
 平成14年3月吉日建立 宮の谷自治会”



 松山城については、嘉元元年(1303)、川上(河上)孫二郎が築城されたとしているが、始祖は近江国(滋賀県)から、弘安の役(1281)ののち、当地・川上荘の地頭としてやってきた藤原氏後裔の中原氏とされている

 中原氏には兄弟がおり、兄・房隆、後に名を中原房隆から、当地名をとって件の川上孫二郎房隆と改め、松山城を築く。

 弟の中原三左衛門正隆は、江の川の対岸である都野郷に入って、都野(三左衛門)正隆と名乗り、都野氏の始祖となった。
【写真左】神主城の近くにある「万葉(恵良媛)の里」の歌碑と絵図

 当地も含め、石見は柿本人麻呂に関する史跡が大変に多い。この絵図が設置されているところは、恵良(えら)という地区で、柿本人麻呂が慶雲2年(705)、石見国初代の国守として赴任した際、地元の豪族の娘・恵良媛(ひめ)をみそめ、妻とした。

 上段に見える歌碑はほとんど、恵良媛の歌である。また、この絵図が設置されているところ(同図右側)が、恵良媛生誕の地といわれている。


 神主城は、左側の山で、「高田城・要害山」と記されている。



 今稿で取り上げる神主城は、都野正隆もしくはその子らが築城していると思われるが、当城の前に築きあげたと思われるのが、兄が築いた松山城から江の川沿いを少し下った対岸の月出城と考えられる。

 月出城については、データベースなどには付記されていないが、おそらく別名「都野城」と呼ばれた城跡と考えられ、都野氏の始祖である弟・正隆が築城した可能性が高い。築城期については、したがって兄の松山城築城期と同じ嘉元元年(1303)前後と推測される。

 中原兄弟がそれぞれの領地を治めて間もない興国2年(1341)8月22日に、「都野保通大和田城で北朝党・武田氏俊に降伏する(吉川家文書)。」という記録が見える。
【写真左】神主城遠望
 多鳩神社から戻る際の東南麓から撮ったもので、左側には高圧電線の鉄塔が建っている。





 大和田城とは、前記した松山城より江の川を下った河口付近北側にある山城である。大和田城はおそらく松山城の支城だったと思われる。

 この記録からすれば、このときは北朝方に降伏しているので、直前までは南朝方ということになる。そして武田氏に降伏し、北朝方になったわけである。

 大和田城に拠った都野保通とは、おそらく都野氏始祖・正隆の子、もしくは孫になるのだろう。

 その後、興国4年(1343)3月には、「内田致景都野孫三郎の拠る都野城を3日から18日まで攻囲したことを報ずる(内田)。」とある。

 都野城は、前記したように「月出城」のことと思われるが、おそらく都野氏の当時の本拠城は、この城であった可能性が高いが、確証はない。
【写真左】神主城の中腹付近
 上記写真にみえた鉄塔と思われるが、写真に見える平坦地は鉄塔用に造成されたもので、郭跡ではない。





 さて、上記の大和田城の戦いから2年後のことであるが、内田致景は、高津城(島根県益田市高津町上市)でも記したように、南朝方の武将で二本松城(益田市豊田郷地頭)主である。

 この記録は、北朝方に降った都野氏に対し、南朝方の内田致景が、益田からやって攻撃したという内容である。そしてこの合戦の結果は、下段の記録でもわかるように、南朝方(内田致景)が敗北しているようだ。

 「興国4年、8月21日、 益田兼見、2月2日都野城攻め、翌日縿巻での戦い、7月29日岡見在陣、8月13日同所での軍忠を書き、上野頼兼の証判を求める(益田家文書)。」

 益田兼見は、益田七尾城主で、石見北朝方のリーダーである。上野頼兼は、北朝・足利尊氏方から派遣された将軍である。兼見は各所で戦功を挙げた武将の記録を作成し、派遣将軍・上野頼兼に逐次戦果の報告を行っていた。
【写真左】堀切のような窪み
 現地には神主城という看板もなく、したがって登城路のようなルートは皆無である。
 冒頭で記した縄文・弥生時代の遺跡については、山陰道(江津道路)建設時露出していたかもしれないが、その後は全く手が加えられていないので、荒れ山状態となっている。

 写真に見える部分も明確な形状を残したものでないので、断定はできない。



 正平4年(1349)ごろになると、中央では南北朝の対立に加えて、足利直冬が九州から蜂起し、天下は三つ巴の戦いとなった。

  直冬の下に馳せ参じたのは、以前取り上げた生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)高橋氏のほか、石見で主だった一族としては、三隅兼連・兼繁父子、佐波顕連などがいる。この動きを知った足利尊氏は、その鎮圧のため、高師泰を石見に送った。

 翌正平5年2月、佐波顕連は、三隅・福屋・吉見の諸族と連合し、高師泰側と対峙することになる。このあたりからの動きは戦況が度々変化するため、詳細は省くが、節目となったのは、同年8月25日の夜、佐波方の拠った鼓ヶ﨑(つつみがさき)城を、大場孫三郎(日和の大場氏:小笠原氏麾下で師泰方)らが攻め入り、佐波顕連が討死したことである。

 当時、佐波氏は矢飼城を本拠とし、江の川の周辺部(現在の美郷町区域)から、出雲国赤名・来島まで、また日本海側の邇摩地域までも領有するという広大な勢力を持っていた。

 鼓ヶ﨑城、矢飼城とも、現美郷町の江の川が大きく曲がった位置にあり、矢飼城(矢飼ヶ城)は正治元年(1199)三善氏が築城した山城である。なお、佐波氏のもうひとつの本拠城として知られているのは、鼓ヶ﨑城の1キロ東隣に築かれた「青杉ヶ城」で、この周辺にはこのほか、丸屋城などもあり、戦略的にこの位置からは、江の川沿いの上下流の動きをもっともよく視界にとらえられる場所である。
【写真左】 飯田八幡宮
 神主城の北を走る江津道路を挟んで北西麓にある神社だが、当社が祀られている丘陵は神主城の出丸のような形をしている。

 特に東~北面にかけての傾斜はかなり険峻なもので、位置的に考えると、東西に走っている江津道路付近に堀切などがあった可能性が高い。



 佐波顕連の討死は直冬方にとっては大きなショックであったが、顕連死の翌年・正平6年(1351)2月、石見国から摂津国に帰っていた高師直・師泰兄弟は、上杉頼憲に殺された。

 さて、正平7年(1352)10月30日付で、「足利直冬、内兼成の都野城の軍忠を賞する(萩閥)。」という記録がある。
【写真左】飯田神社から神主城を遠望する。

 江津道路が建設されたため、北側斜面は大幅に改変されている。
 当時飯田神社付近から、神主城本丸方面に向かう登城路や郭段が数カ所設けられていたと考えられるが、痕跡はほとんどないだろう。




 この年は、南北朝期の大きな節目でもある。すなわち、2月26日、足利尊氏は、実弟である直義を鎌倉において毒殺してしまう。

 直冬にとって、実父は尊氏だが、彼には疎んじられ、それをみかねた直義が養子として引き取ったわけである。育ての親であった直義の死は、直冬にとっては大きなショックだったに違いない。

 同年11月12日、西国にやってきた尊氏軍によって、直冬は長門国豊田城(一般的には、長門国豊田城となっているが、実際には長門国ではなく、石見国・益田の豊田郷にあった豊田城と思われる)で敗れ、南朝方に降った。

 以降石見国を中心とした南北朝期の動きについては、いずれ他の山城を取り上げる際に記すことがあると思うので、今稿ではこのくらいにして、神主城そのものについての記録を取り上げたい。とはいっても、当城が具体的に記録された文献資料は、残念ながら手元に持ち合わせていない。

 標題の築城主として記している「都野(神主)内蔵助」なる人物が、どのような時期と経緯で登場しているのかよくわからない。ただ、前段で示した都野氏の初期のころの武将・神主であったことは想像できる。

 さて、記録では神主城が所在する二宮町神主という地において、確実に都野氏が領知したものとしては、
 「寛正元年(1460)9月26日、幕府、都野保重に石見国二宮神主を管理させる(萩閥43)。」というのがある。

 同じ年の11月には、「幕府、石見国有福内生越分を周布元兼に安堵する(萩閥7)。」という記録も見える。幕府とは、室町幕府8代将軍・義政の時代である。義政は知られているように、政治については、本人の資質もあってほとんど興味がなく、遊興におぼれていった。

 しかも日野富子といった将軍の側近や女性たちが政治に介入し、管領細川勝元と四職家の一人山名持豊(宗全)の対立もあり、やがてその権力闘争は応仁の乱へと発展していく。

 前掲の二つの文書は、いずれも幕府(義政)からのものだが、実際には管領細川勝元派(畠山持富・政長)から出されたものだろう。というのも、同年(寛正元年)10月、義政は、益田兼堯に対し「畠山政長に従って河内へ行き、畠山義就を討つよう」度々命じている(萩閥7)。

2010年7月13日火曜日

福田城(島根県江津市有福温泉町本明福田)

福田城(ふくだじょう)

●所在地 島根県江津市有福温泉町本明福田
●登城日 2010年1月26日
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 福屋右衛門太夫隆平
●高さ 137m
●遺構 郭、土塁、堀切

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系第13巻」等)

 福田城は、昨年(2009年)2月5日投稿の「本明城」の北東麓に築かれた山城である。築城期は不明なものの、本明城の支城として使われたという。
 記録にはいつの時代かわからないが、城主として、福屋右衛門太夫隆平の名が残る。本拠城であった本明城は、永禄5年(1562)2月6日、福屋隆兼が毛利元就に攻められ、出雲へ逃れ最後は阿波(徳島)の蜂須賀氏を頼っているので、福田城も同時期に陥落したものと思われる。

 福田城は本明城の稜線延長線上に伸びた北東麓に築かれ、ちょうどその部分で本明川が大きく蛇行していることから、同川は水堀の役目をしていたものと思われる。
【写真左】登城口付近
 登城口といっても、写真に見える坂道を20m程度行けば、城跡区域になる。写真に見える右側の道は田所国府線(50号線:県道か)で、この場所から幅員が狭くなり、1キロほど過ぎると浜田市に入るが、あまりに狭い道であるため、対向車とすれ違う時は注意が必要だ。

 中世はこの道はなく、おそらくこの福田城の東に流れる本明川沿いに造られていたと思われ、特にこの福田地区では川向に旧道らしき道が残っている。
 なお、この写真の右の道路からさらに右には本明城方面に向かう坂道があり、当時はこの付近も福田城の城域だった可能性が高い。
【写真左】福田城遠望
 北側から見たもので、稜線状に郭が点在しているが、切崖や郭段が多いのはこの写真の反対側、すなわち南面に多く造られている。

【写真左】「福田八幡宮のイチイガシ及び自然林」と書かれた看板
 写真にはないが、「イチイガシ」と呼ばれる天然記念物がある。
 なお、この看板の後段に「…城主福屋氏が居住していた…」とも書かれている。確かに山城としては標高・比高とも大分低く、また後段にある社殿敷地の形状を考えると、館跡があった可能性が高い。
写真左】城跡に立つ「福田八幡宮」社殿
 現地に由来や縁起がないため、分からないが、おそらく福屋氏を祀った社と思われる。
 なお、このあたりの幅が最大で約30mあり、写真奥に行くに従って細くなっている。この位置で右側の斜面は連続して切崖状態である。
【写真左】切崖と腰郭
 写真では分かりにくいが、切崖の角度はほぼ垂直で、険峻な造りである。この場所は虎口の形状に酷似していたので、もっとも重要な個所だったと思われる。
【写真左】主郭と思われる個所
 八幡宮から尾根伝いに進むと、途中で数カ所の郭段を確認できる。その後、写真に見える一旦高くなった郭がある。おそらくこれが主郭と思われる。
【写真左】主郭付近
 この規模は10m四方のもので、隅に写真に見える祠が鎮座する。
 なお、この場所からさらに下がっていく道があるが、このあたりからの傾斜はさらにきつくなっている。
 現地を確認していないが、おそらく一番下には鳥居があり、江戸期にはこの位置から登って宮に行くコースとなっていたのだろう。

【写真左】主郭付近から南西方向に「本明城」を遠望する
 本明城の登城路としては以前の投稿でも紹介したように、北側から登るコースがよく利用されている。中世に福屋氏が利用した道は、この福田城(館)からのコースだったと思われるが、距離的にはこのコースが大分長いように思える。