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2021年4月2日金曜日

万福寺・尼子経久位牌(鳥取県日野郡江府町武庫)

 万福寺(まんぷくじ)
   尼子経久位牌(あまごつねひさ いはい)

●所在地 鳥取県日野郡江府町武庫
●創建期 大永年間(1521~28)
●創建者 尼子経久
●宗派 天台宗・曹洞宗
●備考 熊野堂

解説(参考文献等『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』加賀康之 ハーベスト出版)

指の腱鞘炎

 私事で恐縮だが、昨年の7月を過ぎたころから次第に体調が芳しくなく、消化器系の痛みを覚え、検査していただいたところ、消化器系は問題ないが、心臓や循環器系に少し問題があることが分かった。これまでのところ、薬で体調を維持しているが、その後昨年末から特に右手の指に変調をきたし、主に中指と人差し指が曲がらなくなり、さらにはモノをつかむと痛みが走り、今度は整形外科に通う羽目になった。

 結局指の腱鞘炎ということで、中指の部分を手術して以前よりは動くようになった。このこともあって、一時は文字を書くことも、キーボードを打つこともできなくなった。現在は積極的に指を伸ばしたり曲げたりといったリハビリの効果もあって、何とかキーボードを打つこともできるようになった。

 2008年の暮れから始めたこのブログも14年目に入った。当初は10年も続ければ御の字と思っていたので、これからはこうした体調などによる中断も出てくるだろう。昔で言えば古希の年齢である。古代中国の詩人・杜甫が、70歳を生きのびるのは「である」といったところからできたらしいが、今まで通り無理をせず、マイペースでアップしていきたいと思っている。

 さて、久しぶりの投稿は山城・城郭とは少し趣が違う寺院と、「位牌」についてとり上げたい。

万福寺

 鳥取県の伯耆大山南麓を源流とする俣野川が、西進したあと日野郡日南町の三国山(1,004m)を源流とする日野川と合流する場所が武庫(むこ)といわれる地域である。

【写真左】万福寺

 右側が俣野川と並行に走る県道113号線で、このまま奥に向かうと、国道482号線にの下蚊屋に繋がり、美作の蒜山へと向かう。



 武庫という地名は、摂津国の古名が有名だが、その語源は「武器」を収めた、あるいは埋めたという伝承から生まれたものといわれる。もともと神功皇后の代にその地名が出ていることから、当地(伯耆国)の武庫もおそらくそのころには呼ばれていたのだろう。

 その武庫から少し俣野川を少し登ったところには、大永年間(1521~28)に出雲の尼子経久が西伯耆を攻めて、高谷山を通った際、景勝地だったことから尼子氏の祈願所として、天台宗の寺として創建した万福寺が建っている。

 こうした歴史を持っていることから、当院本堂には「尼子経久の位牌」とされるものが安置されている。

【写真左】万福寺側から武庫の街並みを遠望する。
 右側に日野川が流れ、俣野川と合流している。この写真の奥からおよそ5キロ余り遡っていくと、日野町で備後、備中方面へと道が分かれていく。


尼子経久の位牌

 この日当院に参拝した折、御住職から実物を拝見させていただいた。しかし、そこに記された戒名(法名)の文字を見る限り、尼子氏もしくは経久に関わるものが読みとれず、御住職もご指摘されているように、尼子氏ではなく、「南条氏」を想起させる銘が記されていた。どういう根拠で「尼子経久の位牌」とされたのか、この位牌を見る限り分からない。

【写真左】尼子経久のものとされている位牌

 高さおよそ40㎝前後のもので、文字はだいぶ劣化して鮮明でないが、何とか読み取れる。


 件の位牌を示したのが、左の写真だが、表には「開基慈雲院殿澤翁宗勝大居士〇位」と筆耕され、裏には「天文ニ申十月十三日」が記されている。

 注目されるのは、この裏に記された時期、すなわち天文2年(1533)と書かれていることである。当院に残っている以上、この位牌は「本位牌」と思われるので、当年の10月13日に亡くなったことを表わしている。

 単純に考えれば経久が没したことを示す位牌なのだが、実際には経久が亡くなるのは、天文2年から8年後の天文10年(1541)の11月3日である。また、「宗勝」銘から考えられる南条氏、すなわち南条宗勝(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)が亡くなるのは天正3年(1575)であるから、これは件の時期と合致しない。

【写真左】位牌の裏
 少し黒ずんでいるが、「天文ニ申十月十三日」と銘記されている。


 ところで、先述したように尼子経久が伯耆国に触手を伸ばし始めたのは、大永年間を遡った永正3年(1506)頃といわれている。このころは伯耆守護であった山名尚之と、反守護であった山名澄之(堤城(鳥取県北栄町北条島)参照)との対立が鮮明となり、そこへ尼子経久が介入し始めている。





南条宗勝の位牌か 

 そして、大永4年(1524)には尼子経久が本格的に伯耆に侵攻したという「大永の五月崩れ」があったといわれているが、現在では否定されている。

 天文2年頃になると、東伯耆の南条氏及び小鴨氏らが美作の国人領主とともに、尼子晴久と敵対し始めている。しかし、天文5年(1536)12月には尼子晴久が美作及び備中の一部を制圧しているので、出雲と美作の間に当たる伯耆もほぼ制圧していたのではないかと推察される。因みに、尼子氏に制圧されたあと、宗勝は一時的に尼子氏の臣下となっている。

【写真左】拡大したもの。

 南条宗勝という名は、入道した際の号で、「そうしょう」と読む。実名は国清、その後元清と改めていた。


 こうしたことから、件の位牌は南条宗勝が尼子氏に敵対した天文2年の戦の際、宗勝自身が自らの死を覚悟したうえで、あらかじめ位牌を作っておいたか、もしくは別の人物の首級が間違えられて宗勝とされたのかもしれない。

 いずれにしても謎の多い位牌である。

2020年7月8日水曜日

堤城(鳥取県北栄町北条島)

堤城(つつみじょう)

●所在地 鳥取県北栄町北条島
●別名 津々見城
●高さ 標高60m(比高50m)
●形態 平城
●築城期 不明(承平年間 931~38)
●築城者 不明(長田氏、山田氏)
●城主 山田出雲守重直、十六島氏(越振氏)
●登城日 2020年6月16日

◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く【鳥取編】』加賀康之著 ハーベスト出版、HP「山城攻略記」、『鳥取県の歴史 県史31』内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門著 ㈱山川出版等)

 堤城については前稿伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎) でも触れているが、それ以前では八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋) の稿でも取り上げている。
 所在地は、伯耆・松崎城から西へ直線距離で8.2キロの位置に在り、東方を北条川が南北に流れる。また、当城に最も近い戦国期の史跡としては、茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)が 北東1.7キロの位置にある。
【写真左】堤城
 東側を流れる北条川の橋付近から見たもので、前方の家並み全体が当時の堤城とされている。




現地の説明板より

❝堤城跡 ~中世豪族の館~

 ここは蜘ヶ家山(くもがいやま)を中心とした丘陵地の東、半島状の小さい丘にあたり、「伯耆民談記」に北条郷嶋村(現 北条島)にあったと記される「堤城」と考えられる場所です。
 堤城は小字「城之内」を中心に広がると見られ、江戸時代末の天保期に作られた絵図面では小高い丘が描かれていますが、現在は家が建て込んでおり、城郭の構造など詳細はわかっていません。
【写真左】堤城の説明板
 川岸の民家に設置されているもので、奥の民家は後段で紹介している当城の最後の城主越振(十六島氏)の後裔とされる東地氏の家。



 この城に拠ったのは山田氏です。山田氏は北条郷にあった京都石清水八幡宮の所領として知られる「山田別宮」(現 北条八幡宮)周辺の地にあって、管理者として鎌倉時代頃からの記録にその名が見られます。戦国時代に登場する山田出雲守重直は、羽衣石城の南条氏の重臣として活躍しますが、永禄年間(16世紀中頃)に毛利氏に従い、所領を安堵されています。
 関ヶ原の戦いの後、毛利氏一門の吉川氏の家臣となり、周防国(現山口県東南部)岩国の地に移っていきました。

 堤城は大規模な城郭ではありませんが、関係資料も伝わっており、郷土史を語る上で重要な史跡の一つといえるでしょう。
          北栄町教育委員会❞
【写真左】堤城絵図
 説明板の中に添付されている絵図で、天保年間といわれるので、江戸末期のもの。右方向が北を示し、中央が堤城を記す。堤城の下を斜めに流れているのは当時の北条川。
 なお、おそらくこの絵図で囲まれた範囲とほぼ合致すると思われるのが下の図である。
【写真左】堤城位置図
 現在の島集落の配置図で、管理人によってその個所を特定し、着色(黄土色)した箇所が堤城跡と思われる。右側をまっすぐに伸びるのは近代になって整備された北条川と国道313号線。


山田氏

 『鳥取県の歴史 県史31』によれば、城主とされている山田氏は、紀姓で朱雀天皇の承平(931~38)の頃より当国に居住し、連綿として子孫代々この城を居城としていたという。そして、当初長田氏を称し、その後山田氏を名乗ったとされている。

 山田氏の記録が現れるのは、後段で紹介する北条八幡宮(山田別宮)が、平安時代中期、山城国の石清水八幡宮から勧請されているが、その主体者が当時の堤城主山田山城守頼円とされている。
【写真左】北条川に架かる橋から見る。
 奥が北を示し、右側の川が北条川。左側に説明板が設置されている。
 北条川は現在まっすぐに北に延びているが、天保絵図でも示されているように、当時は堤城の北側に大きく蛇行していたと思われる。


 戦国時代の天文年間(1532~55)になると、山田氏の居城堤城は出雲の尼子晴久の東伯耆侵攻で落とされ、山田高直は城を追われた。しかし、その後高直の嫡男重直が永禄3年(1560)当城に返り咲いたとされている。そのきっかけは毛利氏の支援を受けたことからといわれていることもあり、このころ堤城主であった山田氏は、羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)の南条氏の重臣とされていたものの、自らは毛利氏の家臣としての自覚が強かった。
【写真左】北側の道路から東を見る。
 橋を渡って北側の路地のような道路に入り振り返ったもので、右側の民家などが堤城区域となる。
 因みに、絵図や現在の集落状況から考えると、当時の堤城は東西150m×南北60m前後の規模を持つ城館だったと考えられる。

 

 伯耆・松崎城でも触れたように、天正3年(1575)南条宗勝が亡くなると、嫡男元続が家督を引継ぎ、元続は毛利氏から離反し、織田方につく姿勢を示した。これに対し重直は度々元続に翻意を促すよう迫ったが、元続はそれを聞かず、それどころか、ついに元続は重直の居城・堤城を攻撃するに至った。天正7年(1579)9月のことである。因みに、元続はさらに毛利方となっていた河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園) もこの時期攻撃している。
【写真左】南側の道路
 おそらく江戸時代の道(路地)がそのまま残っているのだろう。
 何か所か屈曲した箇所が見られる。



 重直は元続の攻撃にかろうじて逃れ、嫡男・信直と共に鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野) へ向かった。そして、重直は改めて毛利氏(吉川元春)の臣下となり、南条氏攻撃の先鋒に立つことになる。天正10年(1582)ついに南条元続の拠る羽衣石城を自らの手で堕とし、武功を挙げた。

 ところが、こうした活躍を挙げたものの、恩賞は久米郡内の28石で、しかもその2年後の天正12年から13年にかけて行われた秀吉と毛利輝元の領土交渉、すなわち「京芸和睦」によって、因幡と伯耆東三郡は豊臣領へ、伯耆西三郡が毛利領となったことから、久米郡は南条領(豊臣領)となったため、重直はこの地を領地できず、西伯耆の会見郡小鷹城に移された。
【写真左】小鷹城
所在地:西伯郡南部町福成
別名・柏尾城とも呼ばれ、山田重直が居城とした。当城についてはいずれ別稿で取り上げたい。




 もっとも、山田氏の庶流であろうか、堤城から北へ300mほど向かった北尾にある山田氏の居館の一つとされる「堤屋敷」跡に残る墓地には、「山田氏累代の墓」が数基建立されているので、一族全員が会見郡へ移ってはいない可能性がある(山田氏庶流の一部が当地に残った可能性もある)。
【写真左】堤屋敷
 堤城から北へ向かうと、隣の集落北尾に繋がるが、その一角には丘状の台地がある。これが堤屋敷があったところとされている。



【写真左】山田家代々の墓・その1
 現在堤屋敷跡は北側に墓地があり、南側は野地となっているが、元は畑地だったようだ。
 この墓地には山田家と刻銘された墓石が3,4基建立されている。
【写真左】山田家代々の墓・その2
 現在は新しい墓石が多いが、写真にあるように五輪塔をはじめ古い墓も残されている。
 登り口に数体の地蔵仏があったので、ひょっとして江戸時代はこの堤屋敷跡に寺院が建てられていた可能性もある。


越振氏十六島氏

 さて、山田氏が堤城から去ったあとは、南条元続の家臣といわれる越振氏が入城したといわれる。越振は「おつふるし」又は「うつぶるいし」もしくは「うっぷるいし」と呼称される。

 越振氏は伯耆国の国人領主で、『伯耆民談記』『羽衣石南条記』には、十六島(うっぷるい)の名で出ている。越振氏は、伯耆国東部河村郡合田(現・湯梨浜町羽合地域)を本拠とし、室町時代中期に在地領主としてあったとされる。それ以前の領主は河村氏であったとされ、実力で越振氏が奪い取ったのか分からないが、いずれにしろ明応元年(1492)秋には、山名尚之被官として「越振飛騨守」の名が残っている。
【写真左】北条八幡宮
 平安時代に当時の堤城主山田山城守頼円が勧請した北条八幡宮(山田別宮)。
 堤城から北西へ直線距離で800mほど向かった標高60m余の山頂部に建立されている。



 山名尚之は、当時の伯耆守護であったが、これに敵対する反守護勢力で尼子経久の支援を受けていた山名澄之と守護職を争い、永正3年(1506)以前に没落している。

 この後、越振氏は紆余曲折した後、南条氏の家臣となっていく。「京芸和睦」の後、越振氏は山田氏の居城であった堤城に入城した。現在当地北条島の集落内にある堤城跡に建つ東地家に「城主・宗太郎」の供養塔があるが、当家記録(過去帳か)に記載されているのが、十六島宗太郎という人物で、彼が堤城の城主であったといわれる。
【写真左】精緻な彫刻
 拝殿から本殿にかけて地垂木や手挟みには見事な彫刻が施されている。






 
 十六島・越振氏については、別稿で取り上げる予定だが、前述したように同氏初代は、もともと伯耆国に在した黒美信基という武将で、南北朝期名和氏及び塩冶氏に仕えた。
 
 康安2年(1362)、出雲十六島の高島城に移り、ここで十六島氏を名乗ったといわれる。その後、永正年間ごろに再び伯耆に戻り南条氏に仕えたといわれる。
【写真左】高島城遠望
 所在地:島根県出雲市十六島町

 別名:十六島城ともいう。
 南側の海岸部(十六島湾)から見たもので、現在主郭跡には発電用の風車が設置されたため、主郭付近の遺構はほとんど消滅していると思われる。

2020年6月25日木曜日

伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎)

伯耆・松崎城(ほうき・まつざきじょう)

●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎
●別名 亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城、松ケ崎城
●高さ 標高21m(比高17m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 小森和泉守方高(まさたか)
●遺構 郭・石垣
●形態 海城か
●登城日 2017年2月24日

◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』加賀康之著等)
 松崎城は鳥取県の中央部にある東郷湖(池)の東岸部に築かれた平城である。近年まで当城址には、地元の小学校(桜小学校)が建っていたが廃校となり、現在は校舎とその周りに校庭の跡が残っている。
【写真左】松崎城遠望
 南側から見たもので、手前が東郷湖で、奥には天正9年(1582)、秀吉が羽衣石城の南条元続を救援するため布陣した御冠山が控える(馬の山砦(鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津)参照。



現地の説明板より

”松ヶ崎城址

 またの名を亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城といい、羽衣石城主南条氏の与力(侍大将)である小森和泉守方高(まさたか)が、天正年代居城していた。この時代は織田信長が羽柴秀吉に毛利氏を攻めさせていた時代で、この二大勢力にはさまれて土地の武士は複雑な戦いに巻き込まれていた。

 小森和泉守は、南条方を離れようとして、進ノ下総免之に攻められ、討ち取られたのが天正8年9月(1580)であったと伝えられている。
【写真左】松崎城の西端部
 写真の左側が松崎城に当たる。
 現在松崎城(旧桜小学校)の北西側を下ったところには、東郷湖羽合臨海公園カヌーセンターという建物が建っているが、当時はこの付近も湖だったと思われる。



 その後進ノ下総が城主となったが、南条氏が関ヶ原合戦で参加して敗れ、その後は羽衣石城とともに壊されてしまった。

 当時の石垣に使われた石が、桜小学校の建設の時、沢山出てきたのでその石によって築いてある石垣が、この説明板後方の石垣で、割れ口の一部に、くさびのあとが残っている。

  昭和61年7月1日
   創立30周年記念事業推進委員会“

【写真左】北側から見上げる。
 さきほどの位置から松崎城を見上げたもので、桜小学校の校舎の一部が見える。
 この位置からの比高は18m前後だが、法面などの改修工事などを見ると、当時はかなり急傾斜の崖だったと思われる。

 何れにしても松崎城の周辺部は戦国期には東郷湖に突き出したような形の海城であった可能性が高い。



 小森方高(こもり まさたか)

 松崎城の築城期や築城者は不明だが、戦国期における当城の城主は小森和泉守方高といわれている。彼は松崎城から南におよそ5キロほどむかった羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の城主南条元続の家臣であった。
【写真左】旧桜小学校の校舎
 松崎城跡に建てられた校舎。建設当初はおそらく郭や土塁といった遺構もあったのかもしれないが、校庭や校舎を建てる際殆ど改変されたと思われる。

 ただ、校舎裏の北東部の一角には石垣に使われたとおもわれる石が現在も残してある(下の写真参照)。


 南条元続の父は宗勝(国清)である。宗勝は一時期尼子氏の傘下に入るが、その後伯耆を離れ各地を転々したあと、毛利氏の支援を受け永禄5年(1562)、羽衣石城を20年ぶりに奪回、所領地を回復している。このとき周辺部である東伯耆の国人衆を家臣団に組み込んでいるので、この段階で松崎城主の小森方高も南条氏の傘下に入ったのだろう。
【写真左】石垣用の石・その1
 説明板にもあるように、小学校建設当時でてきた石で、石垣に使われたと思われるもの。



 南条元続が家督を相続したのは宗勝が死去した天正3年(1575)である。備中・忍山城(岡山県岡山市北区上高田) でも述べたように、毛利氏が中国地方を支配下に治めようとしたとき、秀吉をはじめとする織田軍が次第に西進し、播磨・但馬を拠点に毛利方と全面対決の様相を呈すると、羽衣石城の南条元続も宇喜多直家と同じく、毛利氏から離反した。

 南条氏が毛利氏から離反することとなったきっかけが、直家の動きと関連するように見えるが、むしろこの年(天正3年)の6月、尼子再興軍が因幡・若桜鬼ヶ城(鳥取県若桜町) を攻略しているので、このとき元続は尼子再興軍からの勧誘があったのかもしれない。
【写真左】石垣用の石・その2

 御覧のようにクサビの跡がくっきりと残っている。






 このため、毛利氏は天正8年(1580)、羽衣石城に猛攻撃を開始、このとき、南条方にあった松崎城主・小森方高も当城(羽衣石城)に籠城している。

 しかし、方高はこのころ、親交のあった堤城(北条町島)の山田出雲守重直が、南条氏との不和から討たれて以来、主君(南条氏)に全幅の信頼を寄せていなかった。これを知った尾高城(鳥取県米子市尾高) の城主・杉原元盛(大林寺(島根県出雲市平田町)参照) は、小森氏に使者を送り、毛利方につくよう勧めた。
【写真左】石垣用石から校舎方面を見る。
 この石がどのあたりで使われたのかはっきりしないが、松崎城が冒頭でも述べたように東郷湖に突き出すような丘陵部に築かれたことを考えると、湖岸周囲で使われていたのかもしれない。


 これにより方高は、やがて南条氏から離反、毛利方につくこととなった。その手始めとして羽衣石城の北方にある小鹿谷の上山を固め、進(しん)下総守の陣所に夜討ちをかけようとした。

 因みに、進氏は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下) でも述べたように、もともと寛正5年(1464)、山名教之の代に西伯耆の守護代として活躍していたが、このころ(天正年間)同氏は去就をはっきりさせていなかったものの、南条氏に与する状況となっていたようだ。

 ところが、小森氏の配下に進氏と繫りを持つものがいて、この密計が同氏に注進された。このことはやがて羽衣石城の南条氏にも伝わり、南条氏も進氏に加勢することになった。
【写真左】松崎城から羽衣石城方面を遠望する。
 松崎城から羽衣石城までは直線距離でおよそ4.5キロある。
 この写真では右側の山塊の奥にあると思われる。


 方高の謀が両氏に漏れていることを知らず、同年9月20日の夜、200余騎を率いて下総の陣所を攻めようとしたところ、果せるかな進下総が逆に急襲してきたため、寄手はさんざんに討たれ、百余名が討死、方高も小鹿谷から東郷川を2キロ余り上った別所村に敗走した。しかし、その後敵に見つかり討ち取られた。頸はその後羽衣石城に送られた。

 現在この別所には「小森さんの墓」といわれる小森方高和泉守の塚が祀られているが、別所村(現 湯梨浜町別所)は、当時小森氏の領地であったことから、地元の住民がその後遺体を請い葬ったといわれている。
【写真左】松崎城から東郷湖を見る。
 松崎城の北麓部で、最初に紹介した東郷湖羽合臨海公園カヌーセンターの埋め立て部分が見えている。



松崎神社

 ところで、松崎城から南に倉吉青谷線(県道22号線)を超えると松崎神社が建立されている。

 詳しい縁起は分からないが、現地の説明板には「往古城下町松崎大明神ト称シ鎮座セラル 当時松崎城主山名氏 羽衣石南条氏崇敬セシト伝フ ……」とある。
【写真左】松崎神社鳥居
 県道22号線の途中から並行して東に南北に伸びる道路があり、やや南側に参道入口がある。



 小森氏の名が記されていないが、当社は小森氏の領地として最も近接した場所であるので、おそらく松崎城主であったころは、小森氏が最大の同社庇護者であったと思われる。
【写真左】本殿
 この日参拝したときは、2016年10月の鳥取県中部地震で本殿が被災したまたの姿だった。おそらく現在は復興していると思われる。


 さて、現在は上述したように松崎城と松崎神社の間は県道22号線が走り、間を隔てた低地が介在するが、もともと松崎城は松崎神社側から伸びてきた舌状丘陵の尾根先端部に当たり、当時はこの県道部分も尾根筋としてあったものではないかと推測される。
 このためか、松崎神社の境内北西端には郭状らしき遺構も確認できる(写真参照)。
【写真左】郭状の段
 境内奥の北側部分で、雑木などがあるため分かりづらいが、小郭が認められる。
【写真左】東側
 この個所にも段が認められる。
【写真左】神木とされる椎の木
 当社の境内には椎の木を中心とする常緑広葉樹が多く、特に40数本ある椎の木のうち、写真に見えるものは、目通り6m、樹齢350年以上といわれる古木。

2018年8月17日金曜日

山名寺・山名時氏の墓・その2(鳥取県倉吉市厳城)

山名寺・山名時氏墓・その2

●所在地 鳥取県倉吉市磐城
●山名寺創建 延文4年(1359)光孝報恩禅寺、戦国末期衰退し、慶長10年(1605)再興。
●創建者 山名時氏(光孝報恩禅寺)、倉吉城主中村伊豆守再興(山名寺)
●参拝日 2009年8月26日、及び2018年8月10日

◆解説
 山名寺・山名時氏の墓については、既に山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城)で紹介しているが、今回9年ぶりに再訪したので、前稿で紹介していなかった事柄などを中心に述べたいと思う。
【写真左】山名時氏の墓
 墓石の前には、「六分ノ一殿 山名家始祖 山名伊豆守時氏公之墓」と刻銘された石碑が建つ。
 左奥の墓が時氏の墓。




 先ず、縁起等については、前稿で触れていなかったので、当院境内に設置されている梵鐘の説明板を参考に触れておきたい。

“梵鐘再鋳の記

 当寺の淵源は、延文4年(1359)山名時氏公により創建されし、光孝報恩禅寺にあり。戦国末期、山名氏の滅亡により衰退、慶長10年(1605)倉吉城主中村伊豆守再興して、清淨山山名寺としょうせらる。
【写真左】山門
 山名寺は東方を流れる天神川と合流する支流小鴨川の北岸に所在し、それと並行する三明寺用樋門から流れてくる北条用水を渡り、厳城の山の斜面に建立されている。


 嘉永年間、伽藍焼失し明治維新を迎え、廃寺とされしも天瑞龍雲大和尚は、檀徒を糾合して明治12年(1879)大本山總持寺独住第一世旃崖奕堂(せんがいえきどう)禅師を拝請開山となして再興して現在に至る。
 明治16年に梵鐘を鋳造、その妙音は近郷に響けり、然るに大東亜戦争末期供出を命ぜられ雄途につき遂に再び妙音を聞く能わず。
 戦後幾度か再鋳の議起こるも機未だ熟さず、今漸く機縁熟し、檀信挙って喜捨し、再鋳の運びとなる。
【写真左】新しく設置された梵鐘
 平成の世になってやっと再鋳となった梵鐘。
右側には「ご自由にお撞きください」とかかれた標示がある。




銘白
一撞梵音  為海潮音  撞者聴者  

浄心一現  心身平安  種智円満

銘ニ曰く
ヒト撞キノ梵音ハ  海潮音トナリ  撞ク者モ聴ク者モ
浄心ハ一現シ  身モ心モ平安ニシテ  種智円満ナランコトヲ

平成15年夏

   幻住  黙山俊堂   誌”

【写真左】山名寺本堂
 山号:清淨山(しょうじょうさん)
 落ち着いた境内である。










光孝寺と山名寺

 この説明板によれば、現在の山名寺が創建されたのは、倉吉城主であった中村伊豆守が慶長10年(1605)に再興したとされる。倉吉城とは打吹山城(鳥取県倉吉市)のことだが、中村伊豆守は、関ヶ原後伯耆米子城(鳥取県米子市久米町)に入封した中村一忠の一族である。

 これに対し、山名寺が再興される前にあったのが、脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)でも述べたように、光孝報恩禅寺(光孝寺)である。
 これは、山名時氏が延文4年(1359)、上野国(群馬県)から臨済宗の時の名僧・南海宝州を招いて建てたもので、南海宝州は、上野国世良田の長楽寺単寮より法を受けたのち、正中2年(1325)、小倉村(現桐生市川内町)に摂化伝道に努め瑞雲山東禅寺を開創した。
【写真左】時氏の墓に向かう。
 本堂の手前にある道を西に向かう。左側に案内板があるが、これには「ハイキングコース 三明寺古墳上り口」と書かれ、時氏の墓の案内は出ていない。


 因みに、時氏は幕府成立直後から尊氏に属していたが、観応の擾乱の際には直義側に加わり、尊氏派と激しい戦いを繰り広げていた。また一時は直冬派にも加勢していたが、最終的には貞治2年(1363)幕府の軍門に降ることになる。

 従って、光孝寺を創建したころは不安定な時機であったが、この前年(延文3年・1358)足利尊氏が京都二条萬里小路で没したことや、時氏と同じ新田一族で興国3年(1342)に亡くなった脇屋義助の菩提を供養する思いもあり、わざわざ自らの出身地・上野国から南海宝州を呼び、光孝寺を建てたものと推測される。
【写真左】墓石群・その1
 途中には歴代住職の墓などが点在している。
 写真の右側には五輪塔群などもある。

【写真左】歴代住職の墓
 上の墓石群とは別に、住職の墓が整然と並んでいるが、これらは山名寺時代のものだろう。このため、上の写真のものは光孝寺時代の住職のものかもしれない。


 因みに、時氏は応安4年(1371)に亡くなることになるが、「光孝寺殿鎮国道静大禅定門」の戒名はこの光孝寺、及び貞治5年(1366)に出家したときの法名「道静」から来ている。

 ところで、光孝寺の所在地についてははっきりしないが、現在の山名寺とほぼ同じ場所とされている。ただ、山名寺の裏に建立されている時氏の墓がもともと、山名寺の所在する厳城から東麓を流れる天神川を北へ凡そ2.5キロほど下った小田のJR山陰線沿いにあったことから、光孝寺もその近くにあったという可能性もある。
【写真左】山名氏関係の墓石群
 歴代住職の墓石群の近くには「山名氏関係の墓石群」が置いてある。
 墓石部位が散在したような状況だが、現地には次のような説明文が掲示してある。


“山名氏関係の墓石群
 境内のあちこちにあったのを集めたもの。室町時代の特徴を表す一石五輪塔や宝篋印塔がある。
 また生前に造った逆修塔には「慶長」の年号が入っている。
 奥に宝篋印塔の笠の部分だけたくさん残っているが、四角い塔身や台座は他に使用したようだ。
 前列の頭の丸い石塔は、卵塔とよび歴代住職の墓石である。
    平成23年4月”


 なお、明治12年、現在の山名寺を再興したときの拝請開山である独住第一世旃崖奕堂禅師の大本山總持寺とは、曹洞宗大本山總持寺のことで、所在地は神奈川県横浜市鶴見区鶴見にあり、曹洞宗の二大本山の一つである(もう一つは福井県の永平寺)。
【写真左】更に上に向かう。
 この坂を登ると時氏の墓に到る。
【写真左】山名時氏の墓・その1
 以前訪れたときとほとんど変わらないが、中央部の塔身がさらに細くなった印象がある。
 おそらく上部の相輪と下部の基礎・返花座の石質とは違って、劣化・摩耗しやすい石材が使われているのだろう。
【写真左】山名時氏の墓・その2
 横から見たもので、塔身部がさらに細く見える。
 ところで、山名寺・山名時氏墓・その1では触れていなかったが、時氏が亡くなった場所は当地(伯耆国)ではなく、京都であったといわれる。

 現地の石碑横にも、戒名と併せ、「応安4年4月28日 京に於て歿す」と記されている。そして当時守護国の一つであった丹波で荼毘に付され、遺骨がこの光孝寺に運ばれ埋葬されたわけである。

 なお、時氏の墓の傍らには左右に小さな五輪塔が寄り添っているが、おそらく時氏の身の回りの世話をしていた家臣(小姓か)のものだろう。時氏亡きあと、殉死したのだろう。


花かつみ由来

 ところで、山名寺境内には伯耆国からもたらされたアヤメ科の一種・花かつみの由来が記されている。
説明板より

“山名寺 花かつみ由来
       倉吉市教育委員会

 古歌に詠う「花かつみ」は諸説あるが、愛知県阿久比町ではアヤメ科のノハナショウブを「花かつみ」と呼んでいる。
 この花は、室町時代に伯耆国からもたらされたと伝わっており、伯耆国守護山名教之の娘、鶴姫が慕い続けた武将一色詮徳(あきのり)に手渡し息絶えたという伝説がある。
【写真左】花かつみの説明板
 境内周辺部をざっと見渡したが、この日は花かつみを確認できなかった。



 今のところ市内での自生は確認できないが、この由来を知った東海鳥取県人会のお力により、平成22年6月13日同町から倉吉市に贈呈され、ここ山名寺に移植した。
 この寺は山名氏の始祖で伯耆守護でもあった山名時氏が創建した光孝寺に由来し山名氏ゆかりの寺である。
 ここ500年の時を経て「花かつみ」は故郷に里帰りした。
    平成23年3月25日設置”

 山名教之は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)で紹介したように、山名時氏の子・師義から数えて4代目の伯耆守護職で、応仁の乱で活躍した。
【写真左】打吹山城遠望
 山名寺の梵鐘付近から南に打吹山城が見える。

2015年9月19日土曜日

瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

瑞応寺(ずいおうじ)

●所在地 鳥取県西伯郡伯耆町吉定304
●開創 大永6年(1526)3月
●開基 別所就治
●備考 護身仏十一面観音像
●参拝 2015年8月15日 

瑞仙寺(ずいせんじ)

●所在地 鳥取県米子市日下
●開創 天仁元年(1108)
●開基 源義親家来
●備考 土豪真野氏、山名氏、尼子氏、毛利氏
●参拝 2015年8月15日

◆解説(参考文献『岸本町史』、『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県立公文書館 県史編さん室編)等)

 三木城(兵庫県三木市上の丸)の稿でも少し触れたが、伯耆国(鳥取県)の日野川沿いには三木城主であった別所氏一族に関わりのある場所がある。このことについてはすでに、同国にあった岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)でもとりあげているが、今稿ではこれとは別に、別所氏が直接もしくは間接的に関わったと考えられる二つの寺院を取り上げておきたい。
【写真左】瑞応寺
 境内入口には「諾量山 瑞應寺」と刻銘された石碑が建つ。








瑞応寺

 瑞応寺は鳥取県西部を流れる日野川の右岸にある現在の伯耆町吉定という場所にあって、その北には日野川の支流・別所川が流れている。
 当寺の縁起によれば、大永6年(1526)3月、別所就治(なるはる)、すなわち長治の祖父が開いたとされる。そして、当院に収蔵されている護身仏十一面観音像は、長治が終生肌身離さず所持していたものといわれ、三木城落城の際、長治の従兄弟・別所左近忠治が長治から受け取り、密かに当地瑞応寺に持ってきたものといわれている。
【写真左】本堂
 本堂は近年改修されたらしく新しい佇まいを見せている。









 なお、近くにある岸本要害の築城については、北方にあった尾高城(鳥取県米子市尾高)の砦として築城されたという説のほかに、三木城落城後、別所一族が当地に逃れたあと築城したという説も残っている。
【写真左】赤松氏の家紋
 本堂の峰瓦には左右に別々の家紋を模ったものが見える。

 写真は左側にある「二引両に左三つ巴 五七桐」で赤松氏の家紋。
 また、右側に別の家紋も見えたが、こちらは源氏系の竜胆車(りんどうぐるま)のようだ。


別所氏の出自

 ところで、前稿別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)でも少し述べているが、通説では別所氏は赤松氏の庶流といわれているが定かでない。
 同稿でも別所氏の簡単な系譜を紹介しているが、改めてこのことについて考察してみたい。

                   《 別所氏系譜 》
 別所祐則 ? ~ ? 
    ⇓
   則治 ?~1513年
           赤松政則の重臣として唐突に現れ、東播磨の守護代となる。
    ⇓
   則定 ? ~ ?   
    ⇓
   就治 1502~63年
            別名・村治又は重治とも呼ばれ、則治の孫又は子とされる。
    ⇓      就治の子 : 安治(長勝)・重宗(重棟)・吉親(賀相)

   安治 1532~70年
    ⇓
   長治 1558(異説あり)~80年
 
 この中で、最初に注目されるのは、長治の祖父・就治(なるはる)である。就治は『鳥取藩史社寺調』によれば、大永6年(1526)3月に、この瑞応寺を建立していることが知られる。ただ、その後の記録がなく、6年後の天文2年(1532)再び当院にあったとされている。
 就治についての詳細な記録はないため、その動静を推測する方法としては、上掲した彼の「別名」を一つの手がかりとすることができる。

 就治は時期は不明だが、途中で「村治」とも名乗っている。この「村」というのは主君であった赤松義村から偏諱を受けたものだろう。置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べたように、浦上則宗の孫・村宗が、主君であった赤松義村と不和になり、義村は永正16年(1519)浦上氏の居城三石城を攻めたが撃退され、その後義村は弑逆され、浦上氏は東備前と西播磨を領有することになる。
【写真左】境内から西方を俯瞰する。
 瑞応寺の西麓には日野川が流れ、その手前にはJR伯備線が走っている。

 なお、写真の右側には日野川の支流別所川が東方にある大山(だいせん)の谷間から流れてきており、その地区は「口別所」といわれている。


 就治が大永6年(1526)3月に瑞応寺を建立しているが、このことから主君赤松義村が浦上氏に敗れた7年後、当地伯耆に赴いたということになる。

 では、なぜ別所氏が当地(伯耆国)と関わっていたのだろうか。それを確かめるためには、就治以前の代までさかのぼる必要があるだろう。

 しかし、そもそも伯耆国には、中世文書は極めて少ない。そこでその一助となるのか分からないが、瑞応寺に近接する現在の米子市日下にある瑞仙寺の文書を一つの手がかりとして推考してみたい。


瑞仙寺

 瑞仙寺は、最初に紹介した伯耆町の瑞応寺から北へ約4キロほど向かった米子市日下に所在する古刹である。
【写真左】瑞仙寺
 米子市から岡山方面に向かう際、管理人は度々米子道を利用するが、そのとき車中から左側に常に見えていた寺院で、それまではまったく気にも留めていなかった。

 今回、別所氏について調べていたらこの寺院が関係してたことに少なからず驚いた。


 先ず、当院の現地の説明板より『瑞仙寺文書』のあらましを紹介しておきたい。

"米子市指定有形文化財
 瑞仙寺文書

 曹洞宗久坂山瑞仙寺は、天仁元年(1108)平正盛に討ち取られた源義親の菩提をとむらうため、二人の家来が出家して建立したのがはじまりであると伝えられるが、土豪真野氏らによって守られ、15世紀半ばごろ山名氏が現在地に移した。

 ここに保存されている永享11年(1439)の山名教之書下(かきさげ)ほか30通の中世文書は、この地方を支配した山名氏・尼子氏・毛利氏等による寺領寄進や寺領保証関係のものである。
 中世文書のはなはだ少ない鳥取県内では、15世紀から17世紀にかけての西伯耆政治史研究上貴重な資料である。

 №44 米子市”
【写真左】山名教之書下
 瑞仙寺には説明板にもあるように中世文書が30通以上もあるという。
 このうち山名氏関係文書がどの程度あるのか管理人は分からないが、写真の教之以外には、永正18年1月24日付の山名澄之寄進状もある。
 以下、尼子氏・毛利氏(杉原氏)のものも紹介しておく。
【写真左】尼子勝久安堵状
【写真左】杉原盛重寄進状
 








 
伯耆守護山名氏

 南北朝期から室町期にかけて伯耆国を名目上支配していたのは守護職であった山名氏である。最初に当地を支配したのが以前にも紹介したように山名時氏の子・師義である。

 上掲した瑞泉寺文書に記録されている山名教之は、師義から数えて4代目となるが、このころ伯耆国内では地域ごとに守護代をおいて支配を強めていた。主だった守護代としては、南条氏・小鴨氏・進氏などである。
【写真左】入口付近に建つ「瑞仙寺文書」の標柱
 側面には
寺領寄進状、安堵状、諸役免許状など中世文書31通。山名、尼子、毛利等支配者の移り変わりを知ることができる。
 と書かれている。



 応仁元年(1467)5月、細川勝元率いる東軍と、山名宗全(持豊)らの西軍が京の都で激突した。応仁の乱の始まりである。教之もこの戦いで、小鴨氏ら伯耆国人を従えて京に上り、宗全側の西軍として参戦した。

 この大乱はその後地方にも拡大し、翌応仁2年出雲と伯耆の国境を巡って激しい戦いが繰り広げられた。当初出雲国側では月山富田城を本拠とする尼子清貞と、中海沿岸部を支配していた十神山城主・松田氏との戦いであったが、その後伯耆国側から山名六郎が松田氏を支援し、尼子軍と戦火を交えた。この六郎は山名教之の孫・政之とされている。
【写真左】奉納幕
 瑞応寺と同じく、ここにも赤松氏の家紋と、竜胆車の家紋が掲げられている。






 これらの戦いは、いずれも尼子氏の勝利となり、この結果、松田氏が所有していた特に中海・美保関の海上権益を尼子氏がこのとき手中に収め、以後尼子氏の飛躍の一因ともなっていく。

 ところで、尼子氏との戦いごろから教之は、次期守護職を長男・豊之に譲っている。教之の子には、豊之をはじめ、次男・豊氏、三男・之弘、そして四男には元之がいた。このころ、その中の四男・元之は密かに尼子氏と手を結ぶなど伯耆山名氏の結束力は足元から揺らぎ始めていた。

 そうした中、文明3年(1471)9月、新守護職となったばかりの豊之は、伯耆由良嶋(現北栄町)で殺害された。豊之の死因は「賊臣」の手によるもの、すなわち山名家の内訌によるものといわれている。このため、こうした伯耆国内における山名家中の騒動を鎮圧すべく、翌4年(1472)、京にあった前守護山名教之が伯耆へ下向した。しかし、すでに高齢であった教之は翌5年(1473)2月13日、家中を収拾できないまま没した。
【写真左】本堂
 山号は「久坂山」という。
 現在は禅宗系の寺院のようだ。








 その後、伯耆守護は豊之の子・政之が跡を継いだが、依然として叔父の元之との対立が続き、元之はその後尼子氏や、伯耆守護代であった東部に本拠を持つ南条氏とも手を結び、さらには当時播磨・美作の守護であった赤松政則置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)の支援も受けていた。
 これに対し政之は、山名氏惣領であった但馬の守護山名政豊及びその家臣・垣屋氏などが与同していた。

 文明12年(1480)8月12日、守護方の垣屋軍は元之が籠る丸山城(円山城)(伯耆町丸山)を攻撃、その2日後には和田山(倉吉市和田附近か)を攻めた立てた。この結果守護軍はいずれも勝利し、元之らは美作国境に近い竹田(東伯郡三朝町上・下西谷付近)に逃れた。

 さらに1ヶ月後には西伯耆の法勝寺城(鳥取県西伯郡南部町法勝寺)や久坂城(瑞仙寺付近と思われる)も攻めたて、いずれも守護軍(政之)らが勝利を収めている。このように、反守護軍は殆どの戦いで敗れたものの、一旦国外に逃れたのち、再び尼子氏と与同して同国は動乱を迎えることになる。
【写真左】古墓
 当院墓所の片隅には古墓がまとめられた箇所があるが、そこに五輪塔と宝篋印塔が混在したような古墓が見えた。






反守護勢力山名元之別所氏

 さて、大分前置きが長くなったが、前段で紹介したように、《別所氏系譜》の中で別所則治が「赤松政則の重臣として唐突に現れ、東播磨の守護代となる」と記している。
 そこで、これまで述べたような記録を辿っていくと、伯耆にあった別所氏は、同国の反守護勢力であった元之が、当時の播磨・美作の守護であった赤松政則との接点をもったことから、姿を現したのではないかと推察される。

 そして、当時の伯耆国の状況を考えると、別所氏(則治)は、元々反守護勢力であった山名元之の家臣ではなかったのかとも思えてくる。因みに、則治の孫又は子とされる村治(就治)は、前述したように、主君・赤松義村から偏諱を受けているが、この義村の養父が赤松政則である。

源義親

 ところで、瑞仙寺の縁起の中で、当院を建立した人物が源義親の家臣であったとされている。義親については、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)及び、鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)でも紹介しているが、主君亡き後、二人の家臣は出雲から隣国・伯耆へ逃れてきたということなのだろう。