2011年2月7日月曜日

大林寺(島根県出雲市平田町496-2)

大林寺(だいりんじ)

●所在地 島根県出雲市平田町496-2
●宗旨 臨済宗(妙心寺派)
●本尊 阿弥陀如来 境内宇(鎮守木野山大明神・木野山堂は明治17年建立)
●寺宝 兆殿司筆仏画 一山国師跡 松平直政公拝領物
●探訪日 2008年8月30日、2010年3月13日

◆解説
 平田城の南麓にある寺院で、南北朝期に創建され、戦国時代にはこの付近で、伯耆・八橋城主であった杉原景盛父子が毛利氏の怒りに触れ自害した。また、その墓石が建立されている。
【写真左】大林禅寺
 左側に見えるのが平田城の南麓部になる。








 現地の説明板より

当寺略伝

 当山は応永5年(1398)、後醍醐天皇の皇孫・重興(しげおき)親王を開基とし、京都南禅寺の鷹室禅師を開山に、高松山栄崇寺として開創された重興親王(字名は文之)は、乱をこの地に避け、当山後峰に草庵を結んで、日夜修禅の日々を過ごされた。

 この間、在位28年にして我が亡き後は此所に仏寺を建立し、国泰民安を祈念せよと遺して此の地にて薨死された。後に正三品の位階が追贈された。

 往時の当山は、南北8丁(872m)、東西7丁半(712m余)の広大なる寺域に、仏殿・方丈等の七堂伽藍を構え、七景の観堂を擁して盛大を極めたという。永享7年(1435)には、室町幕府により十刹に準じた寺格に列せられた。
【写真左】山門

 その後、永禄3年(1560)及び、享保14年(1729)の二度、堂宇悉く炎上し、寛延元年(1748)に至って、現地に移転建立され、宝暦元年(1751)に寺号を大林寺と改めた。

 開山鷹室禅師より13世までは、南禅寺派に属し、14世中興龍関禅師より妙心寺派になった。
 龍関禅師は、松江藩主松平直政公の帰依厚く、松江萬壽寺の開基にして、寛文8年(1668)6月、当山に転住し諸山の経営に努められ、延宝6年(1678)10月、当山にて弟子単髄和尚に住持を譲り、閑居す。此所をその塔所とされた。
 師は当山中興の祖と称す。また松平公より数点に及ぶ寄進がある。
【写真左】杉原景盛父子墓所
 当院の東奥にあり、境内から少し外れた場所に建立されている。









追記

 寺域内に開基高松院殿並びに、鳥取八橋城主・杉原又次郎景盛公父子墓所がある。
 景盛公は、毛利氏の家臣であったが、その怒りに触れ逃れて幸い、遺書諸具一切を寄進して自害して果てた。

右 平成20年7月吉日
  謹白”


 上記説明板の中で、「永享7年(1435)には、室町幕府により十刹に準じた寺格に列せられた。」とあるが、この頃の大林寺は、「崇禅寺(そうぜんじ)」と呼ばれていた。同年11月16日付として、
“足利義教、出雲国崇禅寺を十刹に準じる”(大林寺文書)
とある。
【写真左】杉原景盛父子墓その1
 現地には3基据えられている。父子のものとすれば、2基は景盛の子供二人となるが、1基については、景盛の正室とも考えられる。



  ところで、永禄3年に炎上したとあるが、この火災も当時の状況から考えて、戦のために焼失した可能性が高い。

杉原景盛

 さて、説明板の追記事項として、八橋城主・杉原又次郎景盛公父子の墓所が紹介されている。
 杉原氏は、備後国(広島県尾道市)の鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)でも紹介したように、建武年間、足利尊氏に従って、戦功を挙げた杉原信平・為平兄弟を祖とする。
【写真左】 杉原景盛父子墓その2











 戦国期で有名なのは、盛重のときであるが、その勇猛ぶりが吉川元春に認められ、後に備後国の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)の城主となる。
 
 その後、伯耆国の八橋城城番としてその任を担った(永禄7年:1564)が、天正9年の秀吉による鳥取城攻め(鳥取城・その1(鳥取県鳥取市東町2)参照)から2カ月後、病死した。

 盛重の子には、嫡男元盛、二男景盛がいた。景盛は嫡男元盛が家督を継いだことに異を唱え、兄元盛を殺害、それに対し毛利氏は杉原氏の相続を認めず、所領は吉川元春によって取り上げられた。

 嫡男が相続するということは、常識的な処置と思われるが、それでも異を唱えたということは、よほど弟・景盛にとって承知しがたい理由があったのだろう。

 そして、景盛の最後の抵抗が当地平田城下・大林寺付近で行われ、無念の自害となったと思われる。景盛が果てたのは、天正10年(1582)9月1日とある。この年の3カ月前の6月2日、京都では明智光秀が本能寺を急襲、織田信長が亡くなっている。

 なお、この大林寺の前を流れる平田船川付近には、「横撫城」という沼城があったようだが、現在は消滅している。おそらくこれは杉原景盛と関わりのあったものだろう。
 戦国期まで平田城のある愛宕山や、大林寺のある丘陵地の前(南岸)は宍道湖の入江が迫っていたようで、元亀年間の斐川高瀬城攻略の際は、多くの軍船が停泊していたと思われる。

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