2022年8月3日水曜日

讃岐・天神山城(香川県三豊市仁尾町仁尾)

 讃岐・天神山城(さぬき・てんじんやまじょう)

●所在地 香川県三豊市仁尾町仁尾
●高さ 28m
●形態 海城
●遺構 石垣、土塁、石塁
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 吉田兼近
●登城日 2017年12月24日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 讃岐・天神山城(以下「天神山城」とする。)は、香川県の西岸三豊市仁尾町に築かれた海城である。
【写真左】讃岐・天神山城遠望
 西側の船着き場から見たもの。現在は仁尾の街部と陸続きなっているが、当時はこの天神山城及び、さらに西に浮かぶ大蔦島・小蔦島と併せ、三島が島嶼であり、海城の機能を持っていたと考えられる。


現地の説明板より ①

❝周知の埋蔵文化財包蔵地
 天神山城跡(てんじんやまじろあと)

 天神山には室町時代~安土桃山時代(1394~1603年)にかけ、仁尾浦を守備する城郭があったと伝えられている。
 天正年間の城主は、吉田佐兵衛兼近と考えられている。

   平成17年8月1日建立 仁尾町教育委員会❞
【写真左】西側から北側にかけての絶壁
 島そのものは直系100m余りの円形の島だが、写真で示した個所は天然の要害となっており、攻め込むためには南側辺りからでないと向かうことはできない。



現地の説明板より ②

天正7年3月(1579年)長宗我部の猛攻に遭い落城す。
   平成22年7月吉日
          真鍋 由秋紀
          畠山 修一  建立❞

天正年間の西讃岐

 説明板にもあるように、天正年間の城主は吉田佐兵衛兼近という武将の記録が残る。
 ところで、天神山城から東の方へおよそ1キロほど向かったところには仁尾城という丘城がある。現在は、その跡に覚城寺という寺院が建っているが、天正年間には細川頼弘の居城であったという。

 この頃の詳しい史料は残っていないが、一般的に天正年間における讃岐、特に天神山城などがある西讃地域は三好氏(昼寝城(香川県さぬき市多和)参照)の弱体化に伴い、香川氏(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)参照)が支配していたことが知られる。
【写真左】天神山城と仁尾城の配置図
 現地に観光案内板があったが、かなり色が薄くなって分かりにくいが、に管理人が付記したもの。

 天神山城付近は戦後間もないころに仁尾港の大改修が行われ、天神山城などは陸続きになった。
 左側には大蔦島・小蔦島がある。




吉田佐兵衛兼近と細川氏

 しかし、これとは別に三好氏以前の讃岐守護であった細川氏の庶流と思われる頼弘が、仁尾に居城を構え天正年間まで持ち堪えていたことが推察される。
 これに関してはいずれ取り上げる予定の、仁尾城から南に進んだ観音寺市の江甫草山(つくもやま)城の城主が、やはり細川氏政という武将であったことから、西讃特に海岸部周辺は細川氏が、三好氏の没落にも拘わらず、同氏(細川氏)一族が辛うじて命脈を繋いでいたと考えられる。
【写真左】南側から見たもの。
 手前の舗装された箇所は駐車スペースなどとなっているが、当時は海だったと思われる。



 そのため、今稿の天神山城主・吉田兼近は、この細川氏の家臣であったと考えられる。
 因みに、件の仁尾城(覚城寺)は残念ながら管理人は探訪していないが、現在堂々たる石垣で構成された寺院で近世城郭を思わせる雰囲気を持っている(讃岐 仁尾城-城郭放浪記 参照)。
【写真左】登城開始
 鳥居が見えるが、これは頂上部に天満神社(磯菜天神)が祀られているためで、戦国時代にすでにあったものと思われる。
 参考までに由緒を記す。

現地の説明板より ③

❝磯菜天神
 仁尾町指定名勝  昭和42年6月1日指定
   仁尾町天神山 天満神社

 磯菜天神は通称天神さんといい、現在は陸続きになっているが、往昔は海中にあり磯菜島と呼ばれていた。
 この山の頂上(標高伊28.1m)に天満神社があり、菅原道真公が祀られている。大正年間に、このあたり一帯に塩田ができたため、徐々に埋め立てられ満潮時でも歩いて渡れるようになった。
 昭和28年に仁尾港の完成とともに、陸続きとなり公園化された。北方間近に古江弁天神社付近の奇岩奇石が眺められ、また西には大蔦島・小蔦島が眼前に広がり、興味の尽きない風景である。
   昭和42年6月
    仁尾町教育委員会❞


長宗我部氏の讃岐侵攻

 ところで、長宗我部氏が四国制覇に向けて動き出すのは、天正6年(1578)ごろからだが(白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)参照)、讃岐地方でも特に西讃においては、当時三好方が治めていた藤目城や財田城(香川県三豊市財田町財田中)の攻略が知られる。
【写真左】登城道
 参道でもあるが、コンクリート製の階段が設置されている。







 そして、翌天正7年になると、時期は不明だが、讃岐を治めていた香川氏が已む無く長宗我部氏と同盟を結ぶことになる。
 しかし、既述したように、そのころの香川氏は西讃地域まで支配を確立しておらず、このため海岸部の方はこの細川氏一族が抑えていたものと思われる。そして、香川氏に属せず自立していた細川氏が長宗我部氏の攻撃を受けた可能性が高い。
【写真左】途中でもう一つの鳥居
 右側の柱には享保6年の文字が刻銘されている。
 このまま上に上がって見る。
【写真左】磯菜天満宮
 近くに筆供養塔などが建立されている。
【写真左】石垣
 建物の奥には石垣が見えた。
 このあと、最高所の方へ向かう。
【写真左】展望台
 最高所に設置されたもの。中に入ると、簡単な机と椅子が置かれていた。
【写真左】荘内半島が見える。
 仁尾港から北西方向に延びる荘内半島が見える。
【写真左】大蔦島遠望
 大蔦島の南には小蔦島があるが、この展望台からは見えないようだ。この後移動する。
【写真左】「天神山城城郭遺構」の石碑
 展望台から少し下がったところにあったもので、「石垣・土塁・石塁など散在している」と筆耕されている。
 この石碑の後背や周辺部に石垣が残る。
【写真左】郭段
 小規模ながら郭段が散見される。
【写真左】石垣・その1
 保存状態は良好だ。
【写真左】石垣・その2
【写真左】和浦神社
磯菜天満宮とは別にもう一つの神社・和浦神社も祀られている。
【写真左】石塔?
和浦神社の隣には御覧の石塔もしくは五輪塔のようなものが祀られている。

 説明板のようなものがないため、どういう謂れなのか分からない。