2018年10月29日月曜日

伊勢・神戸城(三重県鈴鹿市神戸5)

伊勢・神戸城(いせ・かんべじょう)

●所在地 三重県鈴鹿市神戸5
●築城期 不明(天文年間:1550年年代)
●築城者 不明(神戸具盛か)
●城主 神戸具盛、神戸信孝、織田信孝、本多忠統
●形態 輪郭式平城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2016年3月5日

◆解説(参考資料 「週刊ビジュアル 戦国王 056」等)
 伊勢・神戸城(以下「神戸城」とする)は、三重県鈴鹿市に所在した平城で、現在の神戸公園となっている箇所である。
【写真左】神戸城
 本丸天守跡にのこる石垣











 現地の説明板より

“三重県指定・史跡
神戸城跡
  昭和12年12月14日指定

 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。   
 神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1568)その三男・信孝を養子に迎えて和睦した。

 信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。

 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統(ただむね)が入国する。
 本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、明治8年(1875)城は解体される。
 その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
    平成14年3月
       鈴鹿市教育委員会”
【写真左】神戸城配置図
 神戸城の配置図で、右側(東側)は県立神戸高等学校が道路を挟んで隣接しているが、説明板にもあるように当時は当校も神戸城の城域であった。
 なお、当城は神戸公園として整備されている。



神戸氏

 説明板にもあるように、神戸氏は伊勢平氏子孫である関氏の一族とされている。神戸城を築いたのは戦国期だが、その前の南北朝期に築いたのが沢城とされている。場所は神戸城から南西に凡そ900mほど向かった飯野寺家町字城掛である。

 神戸氏は室町期に伊勢国司であった北畠氏の力を借りて勢力を伸ばした。特に、北畠材親(霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の頃には養子縁組があったとされるが、明確な資料は残っていない。
【写真左】本丸跡
 上掲した配置図に対し、現在は堀などが埋められ、大分改変されている。
 当時の二ノ丸・千畳敷といわれた箇所は駐車場や公園公衆トイレなどが設置され、遺構の輪郭を残しているのは主として本丸付近である。


神戸信孝(織田信孝)

 戦国に至って、神戸氏の家督を引き継いだのは織田信長の三男信孝である。永禄11年(1568)2月、信長は上洛に先立ち北伊勢に侵攻、神戸氏第7代具盛は信長に降伏、信孝はこれによって神戸具盛の養嗣子となった。信孝はこのとき11歳で、以後「神戸三七郎」と称した。

 養子となった信孝(三七郎)であったが、次第に養父・具盛と不和になり、元亀2年(1571)正月、信長の命により、具盛は隠居に追いやられ、信孝が神戸氏の当主となった。併せて、それまで関氏も麾下にあったが、関当主盛信も元亀4年(1573)追放され、関氏の領地亀山も信孝が相続することとなった。
【写真左】本丸・天守台・その1













 信孝が本格的に戦に従軍参加するのは、天正2年(1574)の長島一向一揆攻めからである。この後、越前一向攻め、紀伊雑賀攻めと続き、21歳の天正6年(1578)には兄信忠に従って大坂本願寺攻めに従軍している。そして、説明板にもあるように神戸城を修築したのはこの2年後となる天正8年(1580)である。 
【写真左】本丸・天守台・その2
 天守台に登る階段付近から見る。

 







 本丸には石垣から高さ20m、初重7間半×7間(13.5m×12.6m)、三重目いは破風がある五重天守が築かれたという。父信長が築いた安土城は、これより4年前の天正4年(1576)に築かれているが、信孝も父譲りの金箔瓦などを本丸で用いている。
【写真左】本丸・天守台・その3
 天守台から周辺を見る。












信孝自刃

 父・信長が本能寺の変に倒れた天正10年(1582)、信孝は25歳であった。この変において信孝の軍は大半が四散したという。その後、山崎の合戦では秀吉の軍に参戦し、清州会議の結果、信孝は三法師(信秀)の後見役となった。そして美濃(岐阜城)を与えられた。

 しかし、清洲会議のときから信孝は秀吉対し敵意を感じており、このため柴田勝家に接近した。これが次第に顕著となり、この年(天正10年)の12月、秀吉は岐阜城を攻略し、信孝を降伏させた。これによって三法師を秀吉に渡し、信孝は母(坂氏)を人質に指し出すことになる。
【写真左】神戸城の石碑
 明治9年に建立されたもので、この前年城は解体されている。筆耕文字が大分劣化しているため解読は困難だが、神戸信孝(織田信孝)をはじめ、その後長らく城主であった藩祖本多忠統らの名が刻まれている。


 天正11年(1583)正月、ついに秀吉に敢然と反旗を掲げたものが出た。滝川一益である。滝川一益はこのころ北伊勢を本拠としており、信孝と普段から誼を通じていたのだろう。3月に至ると、柴田勝家が挙兵、信孝もほぼ同時期に続いた。
 4月20日、秀吉は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) に柴田勝家を敗走させ、24日は北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目) に勝家を滅ぼした。あくる25日、秀吉に与していた信孝の兄・信雄は再び岐阜城を包囲、信雄の勧めによって信孝は開城し、尾張に堕ちていった。その後信雄は秀吉の命によって、野間の大御堂寺にあった信孝を安養寺(愛知県知多郡美浜町大字布土大池)に幽閉、自刃させた。

信孝辞世の句

“昔より  主(あるじ) 内海(討つ身)
     野間なれば  むくいを待てや  羽柴ちくぜん”

 信孝は切腹の際、無念のあまりかききった腸(はらわた)を目の前の掛け軸に投げつけて果てたといわれ、同院には今でもそのときの掛け軸と、使われた短刀が残されている。享年26歳。
 因みに、当院には信孝の墓とは別に、源頼朝及び義経の父である義朝もこの地で謀殺され、眠っている。
【写真左】本丸・天守台・その3
 横から見たもの
【写真左】石垣
天守台のもので、野面積み形式。全体に丸い石が多く、ところどころにこのような大きな石が使われている。
【写真左】土塁・その1
内側から見たもの

【写真左】土塁・その2
本丸の周りを囲む土塁。
なお、土塁の一角には隅櫓などもあったという。
【写真左】堀
本丸の外側にあるもので、奥に本丸が見える。
【写真左】西側の堀付近
 旧西大手付近で、公園化されているため当時とはだいぶ違うかもしれないが、堀の配置は現在のような状況だったと思われる。
 また、この写真の右側には武家屋敷群があった。
【写真左】南側の堀付近
 こちらのほうはだいぶ狭められている。

2018年10月21日日曜日

大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

大谷吉継墓・陣跡(おおたによしつぐのはか・じんあと)

●所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町山中32
●指定 国指定史跡
●参拝・登城日 2016年3月5日


◆解説
 徳川家康と石田三成による天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いについては、以前関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)で紹介したが、本稿ではその三成に与し、現地で壮絶な戦いの末自害した大谷吉継の陣跡及び、墓を紹介したい。
【写真左】大谷吉継の墓
 吉継の墓は後段で紹介している陣跡から凡そ5分のところに建立されている。
 この日参拝したときも、一人の若い女性が花を持って上がってきたが、しばらくするとまた別の女性2,3人が同じく花を抱えて登ってきた。
 噂には聞いていたが、本当に彼の墓には花が絶えることがないようだ。


現地の説明板より その1

“国史跡(昭6・3・30指定)

大谷吉隆(吉継)墓

 吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
 旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。
 壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
 これは敵方藤堂家が建てたものです。

     関ヶ原町”
【写真左】藤川台ふじかわだい
 この辺りには藤古川(関の藤川)という川が流れているが、その右岸に位置している箇所で、その名が示すように、地形が平で、やや高いところにある。

 この場所で、吉継、戸田重政、平塚為広らが対陣し、小早川秀秋隊と壮絶な死闘を展開した。
 ここから右へ600mほど向かったところには、宇喜多秀家隊(18,000)があり、左に100m向かうと、平塚隊(吉継麾下)があったというから、平塚隊は、ほぼこの写真の場所である。

 吉継が最初に構えた陣はここから500mほど奥の森に入った場所にある。このあとそちらに向かう。


【写真左】大谷吉継の墓・その1
  途中で吉継陣跡と吉継墓に向かう分岐点があるが、先にこちらに向かった。
 周辺部は木立があるものの、整備されている。

 墓地の入口両側には吉継が使っていた二つの家紋のうち、「鷹の羽」の幟が建てられている。


大谷吉継

 大谷吉継については以前敦賀城(福井県敦賀市結城町)の稿でも述べたように、秀吉が関白になったとき、同時に刑部少輔に任じられ、天正17年(1589)9月に越前・敦賀城主として5万7千石を与えられている。
 吉継の出自については諸説あり確定していない。一説では近江伊香郡余呉町小谷の出で、父は九州豊後の大友宗麟の家臣・大谷盛治という。また別説では、六角義賢(よしかた)の家臣・大谷吉房の子ともいわれているが、いずれも裏付けがなく、定かでない。
【写真左】大谷吉継の墓・その2
 中央のものが吉継の墓で、その左奥にあるのは、湯浅五助隆貞。

 吉継の最期を見届けたのは、湯浅五助をふくめ僅か4名だったといわれる。
 吉継は彼らに、自分の頸を敵に晒したくない、敵に分からぬよう地中深く埋めるようにと命じていた。
 吉継自刃のあと、五助らは吉継にいわれた通り陣羽織に包んだまま埋めたという。その後五助以外の者は敵中に飛び込み討死したという(五助については後段参照)

 なお、吉継の墓は五輪塔形式だが、湯浅五助のものは近世に建立されたもののようだ。因みに、墓そのものが設置されたのは明治39年8月と記されている。


 ところで、白い頭巾で顔を隠した姿が紹介されているが、それがハンセン病であったというのも記録になく、断定できない。もっとも関ヶ原の戦いの頃は殆ど目も見えない状態であったらしく、進行性の高い病気であったことは確かのようだ。

 関ヶ原の戦い前、再三再四三成に翻意を促そうとしたが、意志を曲げない愚直な三成に吉継も根負けし、勝ち目のない戦と知りながら三成との友情を選んだ。
 三成とは秀吉に仕官して以来およそ20年の付き合いである。因みに、吉継の娘は真田幸村の妻となっていることはよく知られているが、幸村の妹(姉とも)は、宇田頼次に嫁ぎ、頼次の妹は石田三成の妻である。つまり、真田昌幸を介して親戚関係でもあった。

 昨今の歴女ブームなどでも大谷吉継の人気が高くなっているが、男性からみても「義に生きた武将」として心を打たれるものがある。

藤堂高虎
 
 吉継の墓の脇には吉継の石碑が建立されている。これらは下段にもあるように、藤堂高虎の子孫で、第21代当主高紹の書になるものである。
【写真左】「大谷刑部少輔吉隆碑」と筆耕された石碑
 表には
昭和15年9月15日
東京帝国大学教授文学博士 宮地直一 撰文
関ヶ原古蹟保存會長 升田憲元 建立

 とあり、裏には
伯爵 藤堂高紹 書
 と刻まれている。

 藤堂高紹(たかつぐ)は、藤堂高虎に繋がる藤堂宗家第21当主。関ヶ原の戦いで高虎は東軍方として戦い、京極高知(たかとも)らと吉継を相手に戦った。

 伝承では、湯浅五助が吉継の頸を埋めていた現場を藤堂高利(高虎の甥)に見られ、このことを口外しないとの約束で、五助は高利の介錯により頸をうたれた。そして、五助の頸は家康による頸実検の場に出され、高利は吉継の頸のありかを問われたが、五助との約束を堅く守り答えなかった。家康もそれ以上問い詰めることもなく、むしろ褒め称えたといわれる。
 頸実検の際、おそらく高虎も同席していたと思われ、事前に高利は高虎に相談し、家康に問われても拒否する旨を伝えていたものと思われる。

 関ヶ原合戦後、藤堂高虎はこの地に吉継の墓と五助の墓を建立したとされ、上掲したように明治になって再築されたものと思われる。

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宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)

大谷吉継陣跡

 吉継の墓から南に少し向かうと、吉継の陣跡がある。この場所は南麓を東西に走る旧中仙道を挟んで、南に小早川秀秋が陣した松尾山を望む位置になる。

現地の説明板より その2
 
“大谷吉隆(吉継)陣跡

 親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
 松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。
 9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、15日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。
     関ヶ原町”

【写真左】吉継陣跡・その1
 吉継の周りにはこの陣下に平塚為広、木下頼継、戸田重政らが陣取り、吉継前線部隊の形をとっていた。
 写真でいえば、右側の斜面付近に当たる。
【写真左】吉継陣跡・その2
宮上 大谷吉隆陣所古址」と刻まれた石碑が建立されている。
 このあと、さらに東にある松尾山眺望地に向かう。
【写真左】松尾山眺望地
 陣跡から少し歩くと松尾山眺望地がある。

現地の説明板より

“松尾山眺望地

 正面1.5キロ先に望む標高293mの山が松尾山である。関ヶ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍旗が翻っているのが確認できる。

 吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約2千の兵を率い下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵1万3千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。遂に総崩れとなり吉継は自刃した。
 こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の雄姿が偲ばれる。
    関ヶ原町”
【写真左】眺望地から松尾山を見る。
【写真左】吉継の顔出し看板
 どういう目的で設置されいるのか分からないが、吉継公に憚りながら………。
【写真左】関ヶ原古戦場 決戦地
 関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)の稿でも述べたが、大谷勢が小早川勢の攻撃を受け西軍方右翼が崩壊すると、東軍の攻撃が左翼にあった笹尾山の石田勢に一気にシフトする。

 笹尾山の南では激戦が繰り広げられた。この場所を決戦地としている。
 なお、この場所から石田勢の笹尾山が見える。