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2021年11月22日月曜日

伊予・宇多城(愛媛県越智郡上島町弓削久司浦)

 伊予・宇多城(いよ・うたじょう)

●所在地 愛媛県越智郡上島町弓削久司浦
●高さ 50m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭等
●築城期 不明(鎌倉初期か)
●築城者 宇田源次兵衛明利
●城主 宇多氏
●登城日 2017年4月5日

解説(参考資料 『日本城郭体系』第16巻等)
 伊予・宇多城(以下「宇多城」とする。)は、前稿の備後・長崎城(広島県尾道市因島土生町)がある因島の南東に浮かぶ弓削島に所在する丘城で、同島の最北端部久司浦に築かれた城郭である。
【写真左】宇多城遠望
 西側から見たもの。なお、写真に見える道路は弓削島循環線で、同島の外周部を巡回できるルートとなっている。



現地の説明板より

❝宇多城跡(城山)と火山
 中世の頃、伊予国壬生川(現在の西条市)から来島した宇田源次兵衛源明利という武将が、弓削島北端の久司浦に宇多城(宇田城)を築いたと伝えられています。

 宇多城のあった山は城山といわれ、城を中心に東には駒ヶ鼻、北には馬立ノ鼻、西には後(うしろ)、南には腹城(ふくしろ)と四方に要害を持っていました。
【写真左】弓削島・佐島のガイドマップ
 因島から直接弓削島に向かうフェリーがあるようだが、この日は前稿の長崎城のある因島からフェリーで生名島に渡り、そこからそのまま車で生名橋を渡り佐島に入り、さらに弓削大島を使って弓削島に着いた。

 このガイドマップは弓削島のフェリー乗り場駐車場付近にあったものと記憶しているが、左方向が北を示す。


 江戸時代になると、城山の北に並んだ火山には烽火台がありました。
 鯨池の東、宇多城跡の西南麓には田頭屋敷と呼ばれる場所があり、宇田氏(後の田頭氏)の居館があったと伝えられています。
 そこには、田頭井戸といわれる水場や供養塔である板碑がみられます。
    上島町教育委員会❞
【写真左】宇多城の位置を示す。
 なお、この図には示されていないが、宇多城の位置から下方(西)にある大森神社の後背の丘には久司浦城という砦形態の城郭もあった。




宇田源次兵衛源明利

 宇多城の築城者は宇田源次兵衛源明利といわれる。宇多城の東麓に東泉寺という寺院が建立されているが、この寺院には「東泉寺温知録」という史料が残されている。これにによれば、承元年間(1207~1211)に、河野家武将宇田源次兵衛源明利という武将が当地に来島したといわれる。

 東泉寺温知録では、宇多源ヱ門源ノ明利と記され、持仏薬師如来像を奉持、この地に堂宇を建立し、明利山宗参寺と命名した、とある。
【写真左】鯨池公園
 宇多城方向に歩いていくと、途中で右手に公園が見える。きれいな花をつけた木々が池を囲んでいる。
 宇多城時代からあった池(堤)かもしれない。


 この時代(承元年間)は土御門・順徳天皇の代で、後鳥羽上皇の院政期となり、鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時であったが、このころから次第に不穏な動きが始まる。
 特に地方に在っては、諸国の国衙・守護人の怠慢により群盗が各地で蜂起したため、幕府は守護職補任の下文などを提出させ守護を戒めている。

 おそらくこのことから伊予守護職を与えられなかったものの、同国の御家人を統括する強大な権限を持っていた河野氏などもこの幕府の命に従い、群盗防衛のため、明利を弓削島に差し向けたのだろう。
【写真左】宇多城が見えてきた。
 周辺部にはミカン畑が広がる。
 奥には左手に宇多城の説明板が設置されている。(下の写真参照)



 その後の宇多氏の動きは不明だが、主君であった河野氏(通信)は、承久の乱の際、後鳥羽上皇に与し、敗れたのち奥州に配流され出家している。

 しかし、河野氏のうち幕府方に与した通信の子・通久がかろうじて河野家を継いでいるので、宇多氏も弓削島に宇多一族の命脈を繋いでいったものと思われる。

 このため、江戸期に至ると宇多氏の後裔とされる田頭家の三代目源助の次男慶達が、法身して禅僧となり、臨済宗東福寺派に帰依し東泉寺を創建している。おそらくこの東泉寺の場所は、宇多明利が最初に建立した宗参寺だったと思われる。
写真左】説明板
 以前にも説明板があったようだが、劣化したため新しく取り付けられた。







遺構

 以前には宇多城の北側に簡単な要図(縄張図)を付した説明板があったらしいが、新しくした説明板にはその図はなく、冒頭の内容を記した説明板しか立っていない。

 『日本城郭体系 第16巻』によれば、「直線連郭式で、その中央部に六角形の半面を持つ本丸があり、最近まで直径1mに及ぶ老松が競い茂っていた。約1キロの海を隔てて、対岸に因島美加崎城を望見する。本丸から少し離れた二の丸らしい所に古い石垣の一部が残っている」
 と書かれている。
【写真左】奥に入った道
 弓削島循環線から途中で左手に分かれる道があり、そこからしばらく進んだ箇所。
【写真左】北側の道
 既に城域に入っていると思われるが、宇多城を示す標柱などはない。
 左手の斜面を上がると本丸にたどり着くと思われるが、それらしき道が見つからない。
【写真左】段になっている。
 おそらくこの辺りが本丸直下と思われ、帯郭状の遺構が確認できる。

 なお、登城前に地元の御婦人に宇多城周りの山には、鳥獣対策として猪捕獲用のワナなどがしかけてあると聞いていたので、安全のためこれ以上踏み込まないことにした。
【写真左】石垣・その1
 宇多城時代のものか、近世のものか判然としないが、全体に竹林など繁茂し藪化しているので、おそらく宇多城時代のものと思われる。
【写真左】石垣・その2
 さらに右方向のもの。
【写真左】海岸部に出た。
 ぐるぐる回っているうちに、北側の海岸部に出た。
【写真左】振り返って見る。
 再び元の道に戻る途中から見たもので、中央からやや左の部分が宇多城。
【写真左】下城途中から久司浦の集落を見る。
 奥に見える海は弓削瀬戸で、対岸には因島が見える。
【写真左】大森神社
 久司浦の北側に祀られているもので、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を主祭神とし、貞享4年に建立された。
 写真の奥に見える小丘が冒頭で紹介した宇多城の支城とされる久司浦城。


 なお、宇多城及び宇多氏と所縁の深い東泉寺は残念ながら探訪していない。


2020年1月26日日曜日

松前城(愛媛県伊予郡松前町筒井1440)

松前城(まさきじょう)

●所在地 愛媛県伊予郡松前町筒井1440
●別名 正木城、真崎城、松崎城
●指定 松前町指定史跡
●形態 海城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 合田氏、河野氏、粟野氏、加藤嘉明等
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年11月26日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第16巻」、HP 『城びと』、HP『城郭放浪記』等)
 伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) から南西方向へおよそ8キロほど進むと、伊予灘に注ぐ重信川河口付近に松前城が所在する。
【写真左】松前城跡に建つ石碑
 現地は都市化によって大幅に改変され、遺構を残すものはほとんどなく、盛土によってその位置を示すものしかない。


現地の説明板より

”松前(まさき)城址

 この辺りは、古くに松前城があったところで、この碑は、松前城の歴史を後世に伝えるため、大正14年(1925)に建立したものです。題額は旧陸軍大将 秋山好古(よしふる)の書で、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)によるものです。

 松前城の歴史は古く、その起源は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、松前城の名が初めて文献にあらわれるのは、大山祇神社文書の「祝安親(ほふりやすちか)軍忠状」による祝氏の軍功報告においてです。それによると、建武三年(1336)、松前城にたてこもる南朝方の合田弥太郎定遠(さだとう)を北朝方の祝氏が攻め落とした旨記されていますので、松前城はすでに南北朝時代には存在していたことになります。
【左図】松前城 想像図
 残された記録から管理人が想像で描いたもので、左側は外堀を介して伊予灘が接し、北側は伊予川(重信川)が西進している。




 松前城に拠った武将も湊川の戦いには北朝側として戦い、楠正成を敗った大森彦七やその大森氏を滅ぼした荏原の平岡氏などが次々に入れ替わりました。

 やがて南北朝時代が終わり、室町時代を経て戦国期になると、松前城は河野氏の居城湯築城の出城として、西方海上防衛の前線基地の役割を果たすこととなり、河野氏家臣の栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻してきたため、松前城では攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
【写真左】西側から遠望
 松前城の西側は県道22号線が南北に走っているが、このあたりはおそらく内堀や外堀があったところだろう。



 天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国平定後は河野氏の当主通直(みちなお)は、夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正16年(1588)、淡路国志智城(しちじょう)主1万5千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予四郡6万石の領主として松前城の最後の城主となりました。
 松前城に入城した嘉明は城内にあってこの城の起源と深くかかわってきた性尋寺(しょうじんじ)を金蓮寺(こんれんじ)として、今の西古泉に移したうえ、城郭内外の拡充整備を行いました。同時に松前を乱流していた伊予川とその河口の港の大改修に取り掛かりました。
【写真左】石碑・その1





 慶長2年(1597)には、秀吉の命により、2千4百余の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功で10万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方として戦った関ヶ原の合戦でも戦功をあげ、20万石に加増され、慶長8年(1603)、新たに築城した松山城に移り、松前城は廃城とされました。

 松前城に使われていた石垣や櫓などの資材は、松山城の築城に使われ、廃城後の松前城は、「古城(ふるしろ)」と呼ばれますが、その跡地は次第に農地化され、明治期に行われた耕地整理により地形は一変しました。唯一、二の丸跡に残されていた龍燈の松も、大正11年(1922)に倒壊し、古城跡は消滅しました。

 この松前城は、龍燈の松があったところで、昭和44年(1969)に史跡として松前町文化財に指定しました。
      松前町教育委員会”

【写真左】石碑・その2
 大正14年に建立されたもので、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)氏のもの。









南北朝期

 松前城の築城期及び築城者については上掲した説明板にも史料がなくはっきりしないとしているが、おそらく源平合戦が行われた平安後期頃であろう。記録として残るのは南北朝期で、『集古文書』(『大山祇神社文書』)によれば、南朝方の合田弥四郎定遠が籠城していて、建武3年(1336)北朝方の河野通治の臣・祝彦三郎安親が攻め、合田弥四郎は由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘) へ敗走したといわれる。

 その後応安元年(1368)当城には北朝方の宍草入道出羽守が守城していたが、河野通直(土居構(愛媛県西条市中野日明) 参照)の攻撃によって落城、以後河野氏の支配となり、同氏の将栗上通宗・宗閑の居城となった。その後、戦国期に至るまで目立った記録がないところを見ると、そのまま河野氏の居城として続いたものと思われる。

粟野秀用

 戦国に至ると、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で当城は小早川隆景の前に開城した。その後、文禄年間(1592~)になると粟野秀用が7万石を領して入城した。

 粟野秀用(あわのひでもち)、余り馴染みのない武将だが、もともと奥州伊達政宗の家臣である。しかし、仔細あって当地で罪を犯し死罪を言い渡されると、これを知って逃亡した。京都に出奔したのち、尾張で豊臣秀吉に仕える機会を与えられ、武功を挙げた。これに対し秀吉は知行一万石を与えた。それを知った政宗は、秀吉に秀用を引き渡すように要求したが、秀吉が拒否したため政宗は秀吉の威光に恐れたのだろう、それ以上追及しなかった。

 その後、上述した四国攻めの際は、再び武勲を挙げ、その功に依ってこの松前城10万石を与えられることになった。その後、秀用は秀吉の命により豊臣秀次(近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町) 参照)に仕え、さらなる加増を与えられていくことなる。
 しかし、文禄4年(1595)6月、突如として秀次に謀反の疑いが掛けられ、この秀次事件に連座して京の三条河原にて斬首された(一説には、大雲院に入って秀次の無罪を訴え自害したともいわれている)。

 秀吉による秀次事件の処罰は常軌を逸したもので、誰も諫めることができなくなった独裁者の典型的な末路であるが、それにしても、犠牲となった秀用をはじめ多くの無実の者たちは、実に憐れとしかいいようがない。
【写真左】歩道側から見る。
 車で走っていると見過ごすほどの小規模なものなので、近くに車を停め、じっくりと歩いて向かった方がいいと思われる。




塙団右衛門(ばん だんえもん)

 さて、粟野秀用が斬首されたその年(文禄4年)、秀用に代わって入部したのが加藤嘉明である。加藤嘉明は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) で紹介したように、七本槍の一人で、のちに伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) を築くことになる。
 その嘉明に仕えていたのが塙団右衛門である。松前城跡には彼の事績を示す石碑が祀られている。

現地の説明板より

 団右衛門
     (1550頃~1615)

 遠江に生まれたと言われ、名は直之。18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。
 その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄を立てて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。文禄の役(1592)では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。
 文禄4年(1595)、嘉明が伊予国松前城に6万石の大名として封ぜられたときには、団右衛門も松前に住んでいたのであろう。
 関ヶ原の戦い(1600年)では、嘉明のとっておきの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。
【写真左】塙団右衛門の鎧
 下の写真にある奥出雲可部屋集成館に展示されているもので、普段は下段に紹介している田儀櫻井家(分家)がある出雲市多伎町の文化伝承館に収蔵されている。
 今回(2021年10月~12月5日)秋の企画展において展示された。






 奮戦したにもかかわらず、嘉明に「生涯、人の将たり得ず」とひどく責められた。
 団右衛門は納得できず、「遂に、江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鷗」と床柱に墨書し、城を去ったといわれている。
 また、「義農之墓」に並んで後年建てられた、平田東助子爵撰文の「義農頌徳碑」に使われた石は、団右衛門が松前を去る時に振り返った橋に使われていた石であるとして名付けられた「団右衛門見返りの石」という。
 大坂冬の陣(1614)では、嘉明が東軍についたのに対し、団右衛門は豊臣方として本町橋(現、大阪市中央区)での夜襲戦を指揮し、快勝するなど活躍した。夏の陣では勇敢に戦い豊臣方大将の最初の戦死者になったという。
     松前町教育委員会”
【写真左】塙団右衛門の説明板
 現地に設置されている。










可部屋集成館

 ところで、説明板にもあるように塙団右衛門は最期は大阪夏の陣で、和泉国において討死するが、彼の嫡男直胤は母方の姓「桜井」を名乗り、広島の福島正則に仕えた。

 福島正則が改易になると、武士を捨て広島城の北方可部郷に移り、製鉄業を開始した。三世直重の代になると、鉄の鉱脈を求めて奥出雲の上阿井に入り、屋号を「可部屋」とし、以後奥出雲櫻井家として「たたら製鉄」の操業を発展させた。
【写真左】可部屋集成館
 所在地:島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655

 可部屋集成館は雪深い地であることから、毎週月曜日とは別に、12月中旬から3月中旬までは休館日となっている。


 現在当地(奥出雲町)には、その資料等を収めた「可部集成館」があり、奥出雲の三大鉄師(田部家・絲原家・櫻井家)の一人として繁栄を誇った桜井氏累代の資料が展示されている。

 因みに、奥出雲桜井家はその後、江戸時代になると、新たな鉱脈を求めて石見国との境になる神門郡奥田儀村(現:出雲市多伎町奥田儀)へ来住し、以後明治23年(1890)までのおよそ250年間タタラ製鉄を中心として栄えた。
 平成18年には「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」として国史跡に指定されている。
【写真左】田儀櫻井家たたら製鉄遺跡
所在地:島根県出雲市多伎町奥田儀
探訪日:2007年1月20日
写真:櫻井家別荘及び山内従事者の住宅跡に残る石垣。
【写真左】管理人の本家御夫婦と当地を訪ねる。
 探訪日:2007年6月13日
 本家(屋号:鍛冶屋)の先祖は、櫻井家に代々仕えた渡辺(渡部)家の系譜に繋がる。

2018年8月10日金曜日

伊予・福岡城(愛媛県西条市丹原町今井)

伊予・福岡城(いよ・ふくおかじょう)

●所在地 愛媛県西条市丹原町今井
●備考 福岡八幡神社
●形態 丘城
●高さ 65m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 今井三郎右衛門信氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 前稿・耳金城(愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)でも少し紹介したように、耳金城から東南方向へ凡そ800m程向かったところに、四尾山(しぶやま)と呼ばれる標高60mほどの独立丘陵がある。
 現在この丘には福岡八幡神社が祀られているが、中世には福岡城と呼ばれる城郭があったといわれる。
【写真左】福岡城遠望
 東南側から見たもので、福岡城(四尾山)は長径(北東方向)240m×短径(北西方向)130mの規模を持つ小規模な独立丘陵である。

 なお、この写真の左側奥に前稿で紹介した耳金城が控える。



現地の説明板より

“稲荷神社由緒・沿革

 四尾山稲荷神社は、享保年中(西暦1725年頃)松山藩主松平定英の命令により、丹原の村おこし、町おこしのため福岡八幡神社宮司越智備後守が、京都伏見の稲荷大社より、周布桑村、両郡鎮守の別宮として分霊をお迎えしました。
 当時松山藩は、丹原を道前地方の商業地として指定、地租税を免除大発展を望み、そのため商業神、農業神である稲荷大神をお迎えしたのでしょう。

 下って弘化4年8月、神殿を再建しましたが、この地方の鎮守であったことを裏付けるように、建立費用は、松平定殻藩主命令の下に、両郡が負担しています。
 昭和27年1月修理。昭和62年8月26日、鳥居倒壊。同年12月吉日、福岡八幡神社氏子の奉賽によって、神殿、鳥居お再建しました。”
【写真左】参道入口
 本宮は頂上(主郭)にあるため、参道となる鳥居を潜り上に向かう。









城主・今井三郎右衛門信氏

 上掲したように、現地にある説明板には江戸時代に建立された稲荷神社の由来などしか書かれていない。

 当城の城主として記録が残るのは、今井三郎右衛門信氏という武将である。ただ、築城期・築城者をはじめとしてこれ以外に残る史料がなく、従って今井三郎右衛門信氏もいつの時代の武将なのか分からない。

 ただ、名字は、所在地である今井を名乗っているので、地元の国人領主であったと考えられる。また、前稿の耳金城とは指呼の間にあり、南北朝期当城も何らかの関わりを持ったものと推察される。
【写真左】長い階段が続く参道
【写真左】最初の段
 数分で階段を登りきると、中規模な平坦地が出てくる。

 城郭として使われていたときはおそらく後段の主郭を補完する腰郭の役目を担っていたものと思われる。
【写真左】本殿(主郭)側に向かう。
 上記した郭は北東部にあり、そこから南西方向にむかった通路がある。
 簡易舗装され、途中で斜めに曲がった形となっている。
【写真左】福岡八幡神社拝殿
 主郭の位置に相当するところで、上掲した通路より凡そ3m前後高くなった位置に鎮座している。
【写真左】境内北側
 写真の燈籠の下に昭和14年に奉献した方の芳名が三名記されている。そのうち代表者として「今井丹二」の名が見える。
 当城の城主であった今井氏の末裔かもしれない。

 なお、玉垣の外側は殆ど切崖状の斜面となっている。
【写真左】拝殿内部
【写真左】本殿裏側
 本殿境内(主郭)の規模は奥行20m×幅15m前後と思われる。
【写真左】本殿裏側の南西に伸びる尾根
 このさきには殆ど郭らしきものはない。
【写真左】主郭(境内)から燧灘を遠望する。
 写真中央にみえる小さな島は、平市島・小平市島で、右側に樹木があって見えないが、燧灘に向かっていくと、以前紹介した鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)が控える。
【写真左】稲荷神社
 冒頭で紹介した松山藩主松平定英の命によって分霊された稲荷神社。
 本殿の隣に鎮座している。
【写真左】生木山 生木地蔵
 ところで、福岡八幡宮の入口(鳥居付近)の右側(東)には、生木山 生木地蔵(いききじぞう)と呼ばれる地蔵があった。

 奥に見えるのは樹齢1200年以上といわれる楠木で、弘法大師がこの生きた木に地蔵菩薩を刻んだとされている。
 昭和29年の台風によってこの古木は倒れたが、地蔵菩薩は無傷で、現在は本堂に安置してあるという。
【写真左】耳金城を遠望する。
 下山後、前稿の耳金城を再び遠望する。

2018年8月7日火曜日

耳金城(愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)

耳金城(みみかねじょう)

●所在地 愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)
●別名 耳金砦
●高さ 85m(比高50m)
●築城期 南北朝期か
●築城者 河野氏
●城主 河野氏、田中通澄
●遺構 ほとんど消滅
●備考 丹原総合公園
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、『日本城郭体系 第16巻』等)
 耳金城は別名耳金砦ともいわれ、河野氏によって築かれたといわれている。築城期ははっきりしないが、康永2年・興国4年(1343)に細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)が当時南朝方であった河野氏を攻めたとき、この耳金城が落城したといわれているので、南北朝時代初期と考えられる。
【写真左】耳金城遠望
 麓から見たもの。
城を模した白壁の塀がみえるが、これは丹原公園の壁で、中には遊戯施設などが設置されている。




 その後、康暦元年・天授5年(1379)になると、細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)が大軍を率いて伊予に進攻し、再び当城を攻め落とすが、翌年河野氏が奪い返している。

 その後の詳細は不明だが、戦国期になると田中通澄の居城となり、秀吉の四国攻めで落城したあと通澄は帰農したといわれる。
 現在は遺構はほぼ消滅し、丹原総合公園として改変されている。
【写真左】丹原総合公園案内図
 現地に案内図が設置してあるが、下方を北にとった図であったため、管理人によって上を北方向に修正したもの。

 この中で、右下位置に「耳金砦遊戯広場」と記されている箇所が城跡付近と思われる。
【写真左】海抜28mの標示
 耳金城(耳金砦遊戯広場)の東麓には丹原町体育館があるが、その入口にはご覧の様に「津波避難は高台へ」と表示された看板が設置してある。

 この位置で海抜28mとなっている。因みに、ここから瀬戸内(燧灘)までは直線距離でおよそ6キロほどである。

 現在は耳金城から東北方面に向かって広大な道前平野が広がっているが、中世にはこの麓付近まで入江の地勢だったと考えられる。
【写真左】南側から入る。
 直接耳金城(遊技広場)に向かうコースもあったが、先ずは南側から入り、その後西の方向を目指すことにした。
【写真左】下の広場
 正面奥に耳金遊戯広場の白壁が見える。

 下の段も大分広く、公園の一部として改変されているため往時の状況は分からないが、郭段などもあったと考えられる。
【写真左】分岐点
 右に行くと耳金砦となっているが、先ずは左側の散策路と書かれたコースに向かう。
【写真左】福岡城を遠望する。
 福岡城は次稿に予定しているが、耳金城の東南東方向に700m程向かった田圃の中にある丘城である。

 おそらく、耳金城の前線基地的な役割を担い、物見櫓などがあったものだろう。
【写真左】さらに西へ
 散策路コースは予想以上に奥まで設置されている。

 途中で、写真にあるように鞍部となった箇所があるが、堀切のようなものがあったのかもしれない。
【写真左】展望台から南東方向を俯瞰する。
 このさきにも散策路があるようだが、最初のピークとなる展望台までとした。
 耳金城は正面の森の裏側にある。
【写真左】石鎚山を遠望する。
 この日は視界が良かったのか、雪を被った伊予の名峰・石鎚山が見えた。

 このあと、Uターンして耳金城跡となる遊戯広場に向かう。
【写真左】耳金城(耳金砦遊戯広場)・その1
 この名称を冠した広場が城跡の中心地と思われるが、ここから西に伸びる「さえずる森」といわれる付近も城域だったと考えられる。

 写真正面奥に燧灘(瀬戸内海)が遠望できる。
【写真左】耳金城(耳金砦遊戯広場)・その2
 完全に遺構は消滅している。
【写真左】お筆山古墳
 総合公園が設置される前、グランドの中ほどまで突き出ていたのが標高42mの通称お筆山といわれていた山である。

 その頂部にこの古墳があり、公園化に伴い現在地に移転復原している。



 この古墳は円墳の1号墳と、方墳の2号墳の二つがあり、1号墳は、楕円形でA・B二の石室を持つ。2号墳は復原されていないが、方形の墳丘に横穴式石室を持つ古墳だったという。

 このように、耳金城周辺は、古墳時代からこの場所に人々が生活をしていた場所である。なお、この耳金城を北東端に置く山塊は、北東方向に3キロの軸をとり、愛ノ山という山を頂点とした独立峰であり、中世にはこの山全体が戦略的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】東側から見上げる。
 下山後、東麓を走る町道・今井久妙寺線から見上げる。
 この位置から耳金砦までの比高は凡そ30m前後である。

 なお、当城の所在する地名ともなった久妙寺はこの場所から北西に800m程向かったところにある。

山号 梵音山、真言宗御室派。
行基開基、中興は弘法大師といわれる古刹である。