天正寺城(てんしょうじじょう)
●所在地 兵庫県神戸市北区淡河町淡河
●高さ 232m(比高 85m)
●築城期 戦国期(天正年間)
●築城者 豊臣秀長等
●形態 山城
●遺構 郭・石垣等
●備考 天正廃寺、神社
●登城日 2016年6月18日
◆解説
前稿で紹介したように、淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)攻めを行った織田軍が向かい城として築いたのが天正寺城といわれている。
場所は、淡河城の北方約1キロの位置にあって、現在天正寺城の南麓を山陽自動車道が東西に走っている。
【写真左】天正寺城遠望
南方の淡河城から見たもの。
麓を山陽自動車道が走っている。
中世の淡河
淡河地域における歴史については断片的な記録しかないようだが、数十年前に敷設された淡河を東西に横断する山陽自動車道の建設に伴い、発掘調査が行われ主だった遺跡の報告がなされている。
これによると、集落が形成され始めたのは平安末期から鎌倉時代にかけてとみられ、特に淡河地区の古刹といわれる石峯寺(しゃくぶじ)などは、当地における寺社勢力の代表的な支配者であったものと予想されている。
●所在地 兵庫県神戸市北区淡河町淡河
●高さ 232m(比高 85m)
●築城期 戦国期(天正年間)
●築城者 豊臣秀長等
●形態 山城
●遺構 郭・石垣等
●備考 天正廃寺、神社
●登城日 2016年6月18日
◆解説
前稿で紹介したように、淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)攻めを行った織田軍が向かい城として築いたのが天正寺城といわれている。
場所は、淡河城の北方約1キロの位置にあって、現在天正寺城の南麓を山陽自動車道が東西に走っている。
【写真左】天正寺城遠望
南方の淡河城から見たもの。
麓を山陽自動車道が走っている。
中世の淡河
淡河地域における歴史については断片的な記録しかないようだが、数十年前に敷設された淡河を東西に横断する山陽自動車道の建設に伴い、発掘調査が行われ主だった遺跡の報告がなされている。
これによると、集落が形成され始めたのは平安末期から鎌倉時代にかけてとみられ、特に淡河地区の古刹といわれる石峯寺(しゃくぶじ)などは、当地における寺社勢力の代表的な支配者であったものと予想されている。
【写真左】石峯寺・その1
所在地:神戸市北区淡河町神影110
宗派:高野山真言宗
参拝日:2019年10月23日
白雉2年(651)法道仙人開基と伝わる。孝徳天皇の勅願所として栄え、中世には一里四方を寺領として持ち、多数の僧兵や学侶を抱えた。
所在地:神戸市北区淡河町神影110
宗派:高野山真言宗
参拝日:2019年10月23日
白雉2年(651)法道仙人開基と伝わる。孝徳天皇の勅願所として栄え、中世には一里四方を寺領として持ち、多数の僧兵や学侶を抱えた。
写真:室町時代に建立されたという重要文化財の三重塔
【写真左】石峯寺・その2
康安元年(1362)に播磨最古の木版刷り法華経を刊行し全国に配布したといわれる。また、この寺を含めた後背の山には城郭・石峯寺城を抱え、寺院城郭としても隆盛を極めた。
また、前稿で紹介した淡河氏が集落を形成する上でどの段階から関わっていたかどうかははっきりしないが、承久の乱後には淡河氏がその後の在地領主(地頭)として根付き、連綿と続いてきたことを考慮するならば、前述した石峯寺という寺社勢力と有機的な結合のもとに歩んできたのではないかと想像される。
【写真左】登城口付近
南側の淡河城側から北に向かって農道を進むと、山陽自動車道と並行して走る道に出てくる。この道の途中で山陽自動車道の下をくぐるトンネルがあり、そこを抜けると御覧のような広い空き地がある。
奥に天正寺城に向かう階段が見えるが、後述するように、天正寺城跡に社が祀られていたようで、登城道は当時の参道であったようだ。
天正寺
さて、今稿「天正寺城」の名称である天正寺については、先述した遺構調査報告書に、当城の主郭がある尾根筋の北側に「天正(廃)寺」という場所が記されているので、これから命名されたものと思われる。
ちなみに、この場所からさらに東に進んで天正寺城と同じく南側に突き出した舌状丘陵部に「経塚」の遺構も確認されている。おそらく天正寺に関わるものと思われる。
ところで、天正寺城の尾根をさらに北に進むと、現在ゴルフ場が造成され、往時の姿はほとんど原形をとどめていないが、ゴルフ場内に論破山(H:250m)という小山が残されている。そして、このゴルフ場から東に石峯寺方面に向かうと、「北僧尾」「南僧尾」という字名があり、石峯寺と関わる修験道場のような坊舎が広域的に点在していたのではないかと想像される。
【写真左】小さな祠
登城道の途中には小さな祠が二つ祀られている。
淡河城攻めの陣城
天正6年から8年にかけて行われた秀吉らによる三木城攻めの際、淡河城も三木城の支城としてその戦禍を受けたが、このとき秀吉方が陣城として使ったのがこの天正寺城である。
当城は淡河城の北に位置しているが、これと反対に南側から向城(陣城)として使われたのが、別所氏から離反した有馬氏の居城三津田城である。
【写真左】登城道・その1
この道が当時の登城道かどうか分からないが、後述するように社が祀られていた当時(江戸期以降か)は、立派な参道だったのだろう。
これら二つの陣城が直接的な淡河城攻めに絡んだものとされているが、淡河城攻め前後には、これらとは別に羽柴秀長が攻略した城郭がさらに南方に所在している。それが、丹生山城である。
丹生山城
丹生山城は淡河町の南に隣接する神戸市北区山田町坂本にあって、淡河城から直線距離で3キロ余りだが、実際には東方を走る国道(428号線)筋を使うとおよそ12キロ前後ある。
【写真左】登城道・その2
段々と道幅は狭くなる。登城道(参道)は南斜面につくられ、数回九十九折りするコースがとられている。
上に行くに従い斜面の傾斜がきつくなっているので、要害性は十分確保できる。
丹生山は六甲山地を形成する丹生山系の一つで、往古呉越より渡来した水銀鉱山を生業とした丹生氏(にうし)の氏神が祀られている。平安時代末期には平清盛が福原京の鎮護として日吉山王権現を勧請し、多くの僧兵らも修行したといわれる。
戦国期の三木城攻めの際、淡河氏と同じく別所氏に味方したため、秀長らによって焼き討ちにあい、数千人の僧・稚児が焼死したといわれる。
なお、丹生山山系エリアには、源平合戦の際、源義経が歩いたという義経道などという道もあり、いずれ機会があれば登城してみたい山城である。
【写真左】最初の段
しばらく登って行くと、やがて南斜面に広い削平地が出てくる。
城郭遺構としては腰郭もしくは出丸の機能を持ったものだが、もとは天正寺時代の寺院遺構だったのかもしれない。
【写真左】天正寺城から淡河城を俯瞰する。
この場所に立つと、秀吉方(秀長)陣城としては理想的な場所であったことが、よくわかる。
【写真左】最初の階段
先ほどの段から北の主郭に繋がる階段がある。階段は上下2段設置されている。
高低差は14~15m前後あり、予想以上に傾斜がついている。
【写真左】次の階段
最初の階段を登りきると小規模な平坦地があり、再び次の階段が設けられている。
おそらくこの平坦地も天正寺城のときは腰郭の機能を有していたのかもしれない。
【写真左】主郭
幅8m×奥行30m前後の規模を持つもので、手前には神社時代の楼門らしきものや、灯篭の跡が残る。
秀長らが在陣したころは城郭というより、天正寺という寺院をそのまま陣所として使った可能性もある。
【写真左】奥から振り返る。
【写真左】祠
主郭奥には本殿の跡地に倉庫のような簡易建物が建っているが、その脇には御覧のような祠が鎮座している。上部の方はよく見えないが、「森神社」と筆耕されている文字が確認できる。
写真でもわかるように、現在では定期的な祭事も行われないような状況なので、廃宮となっているかもしれないが、概ねこうした場合、地元にある他の神社に合祀されていることが多い。
こうしたことから、地元淡河の郷社である淡河神社が、淡河氏や有馬氏の崇敬を受けていたことから、当社に合祀されているのかもしれない。
このあと、さらに奥(北)の藪の中に向かってみる。
【写真左】瓦片
奥に向かうと、当時本殿などで使われていたであろう瓦などが積んであった。
【写真左】北東方向に伸びる尾根
雑木林の姿となっているが、高低差はほとんどなく、フラットに伸びている。
この付近で経塚が発掘されているので、天正寺関連の建物もあったのかもしれない。
【写真左】竪堀か
西側斜面に認められたもので、規模は大きくないが、筋状の谷が出来ている。
康安元年(1362)に播磨最古の木版刷り法華経を刊行し全国に配布したといわれる。また、この寺を含めた後背の山には城郭・石峯寺城を抱え、寺院城郭としても隆盛を極めた。
また、前稿で紹介した淡河氏が集落を形成する上でどの段階から関わっていたかどうかははっきりしないが、承久の乱後には淡河氏がその後の在地領主(地頭)として根付き、連綿と続いてきたことを考慮するならば、前述した石峯寺という寺社勢力と有機的な結合のもとに歩んできたのではないかと想像される。
【写真左】登城口付近
南側の淡河城側から北に向かって農道を進むと、山陽自動車道と並行して走る道に出てくる。この道の途中で山陽自動車道の下をくぐるトンネルがあり、そこを抜けると御覧のような広い空き地がある。
奥に天正寺城に向かう階段が見えるが、後述するように、天正寺城跡に社が祀られていたようで、登城道は当時の参道であったようだ。
天正寺
さて、今稿「天正寺城」の名称である天正寺については、先述した遺構調査報告書に、当城の主郭がある尾根筋の北側に「天正(廃)寺」という場所が記されているので、これから命名されたものと思われる。
ちなみに、この場所からさらに東に進んで天正寺城と同じく南側に突き出した舌状丘陵部に「経塚」の遺構も確認されている。おそらく天正寺に関わるものと思われる。
ところで、天正寺城の尾根をさらに北に進むと、現在ゴルフ場が造成され、往時の姿はほとんど原形をとどめていないが、ゴルフ場内に論破山(H:250m)という小山が残されている。そして、このゴルフ場から東に石峯寺方面に向かうと、「北僧尾」「南僧尾」という字名があり、石峯寺と関わる修験道場のような坊舎が広域的に点在していたのではないかと想像される。
【写真左】小さな祠
登城道の途中には小さな祠が二つ祀られている。
淡河城攻めの陣城
天正6年から8年にかけて行われた秀吉らによる三木城攻めの際、淡河城も三木城の支城としてその戦禍を受けたが、このとき秀吉方が陣城として使ったのがこの天正寺城である。
当城は淡河城の北に位置しているが、これと反対に南側から向城(陣城)として使われたのが、別所氏から離反した有馬氏の居城三津田城である。
【写真左】登城道・その1
この道が当時の登城道かどうか分からないが、後述するように社が祀られていた当時(江戸期以降か)は、立派な参道だったのだろう。
これら二つの陣城が直接的な淡河城攻めに絡んだものとされているが、淡河城攻め前後には、これらとは別に羽柴秀長が攻略した城郭がさらに南方に所在している。それが、丹生山城である。
丹生山城
丹生山城は淡河町の南に隣接する神戸市北区山田町坂本にあって、淡河城から直線距離で3キロ余りだが、実際には東方を走る国道(428号線)筋を使うとおよそ12キロ前後ある。
【写真左】登城道・その2
段々と道幅は狭くなる。登城道(参道)は南斜面につくられ、数回九十九折りするコースがとられている。
上に行くに従い斜面の傾斜がきつくなっているので、要害性は十分確保できる。
丹生山は六甲山地を形成する丹生山系の一つで、往古呉越より渡来した水銀鉱山を生業とした丹生氏(にうし)の氏神が祀られている。平安時代末期には平清盛が福原京の鎮護として日吉山王権現を勧請し、多くの僧兵らも修行したといわれる。
戦国期の三木城攻めの際、淡河氏と同じく別所氏に味方したため、秀長らによって焼き討ちにあい、数千人の僧・稚児が焼死したといわれる。
なお、丹生山山系エリアには、源平合戦の際、源義経が歩いたという義経道などという道もあり、いずれ機会があれば登城してみたい山城である。
【写真左】最初の段
しばらく登って行くと、やがて南斜面に広い削平地が出てくる。
城郭遺構としては腰郭もしくは出丸の機能を持ったものだが、もとは天正寺時代の寺院遺構だったのかもしれない。
【写真左】天正寺城から淡河城を俯瞰する。
この場所に立つと、秀吉方(秀長)陣城としては理想的な場所であったことが、よくわかる。
【写真左】最初の階段
先ほどの段から北の主郭に繋がる階段がある。階段は上下2段設置されている。
高低差は14~15m前後あり、予想以上に傾斜がついている。
【写真左】次の階段
最初の階段を登りきると小規模な平坦地があり、再び次の階段が設けられている。
おそらくこの平坦地も天正寺城のときは腰郭の機能を有していたのかもしれない。
幅8m×奥行30m前後の規模を持つもので、手前には神社時代の楼門らしきものや、灯篭の跡が残る。
秀長らが在陣したころは城郭というより、天正寺という寺院をそのまま陣所として使った可能性もある。
【写真左】奥から振り返る。
【写真左】祠
主郭奥には本殿の跡地に倉庫のような簡易建物が建っているが、その脇には御覧のような祠が鎮座している。上部の方はよく見えないが、「森神社」と筆耕されている文字が確認できる。
写真でもわかるように、現在では定期的な祭事も行われないような状況なので、廃宮となっているかもしれないが、概ねこうした場合、地元にある他の神社に合祀されていることが多い。
こうしたことから、地元淡河の郷社である淡河神社が、淡河氏や有馬氏の崇敬を受けていたことから、当社に合祀されているのかもしれない。
このあと、さらに奥(北)の藪の中に向かってみる。
【写真左】瓦片
奥に向かうと、当時本殿などで使われていたであろう瓦などが積んであった。
【写真左】北東方向に伸びる尾根
雑木林の姿となっているが、高低差はほとんどなく、フラットに伸びている。
この付近で経塚が発掘されているので、天正寺関連の建物もあったのかもしれない。
【写真左】竪堀か
西側斜面に認められたもので、規模は大きくないが、筋状の谷が出来ている。
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