2019年1月7日月曜日

但馬・亀ヶ城(兵庫県豊岡市但東町太田字城山)

但馬・亀ヶ城(たじま・かめがじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市但東町太田字城山
●指定 豊岡市指定史跡
●高さ 172m(比高150m)
●築城期 承久3年(1221)
●築城者 太田昌明
●城主 太田氏
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・畝上竪堀等
●登城日 2016年6月8日

◆解説(参考資料 「亀ヶ城保存会編パンフレット」、HP「城郭放浪記」等)
 但馬・亀ヶ城(以下「亀ヶ城」とする)は、以前取り上げた豊岡市出石町にある有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町) の南麓を流れる出石川を東にさかのぼり、同川の支流太田川の北岸に所在する低山に築かれた城郭である。
【写真左】亀ヶ城遠望
出石町側から太田川と並行して走る国道482号線を進んでいくと、左手に「但東町指定文化財 史跡 亀ヶ城」と書かれた標柱が建っている。
 亀ヶ城はこの写真後背の山である。


現地の説明板・その1

❝史跡 亀ヶ城跡

 亀ヶ城は、鎌倉時代但馬守護であった太田氏の築城と伝承されている。
城域は東西約300m・南北約300mを測る大規模城郭で、中央部の堀切を挟んで「東城」と「西城」からなる。
【写真左】亀ヶ城縄張図
現地に設置されているもので、精緻な縄張図が描かれている。
 承久2年の築城以来、かなり手が加えられているようで、説明板にもあるように織豊期の特徴も残されていることから、およそ400年間存続していたものと思われる。


 「東城」は、土塁をもつ広い主郭部(Ⅱ)を、南側の曲輪群や竪堀、北側の広い帯曲輪で防御している。「西城」の主郭部(Ⅰ)は、北側の帯曲輪だけでなく、西側に構築した深い二重の堀切と、畝状竪堀で堅固に守備されている。
 亀ヶ城は土塁を利用した「二折れの虎口」や、畝状竪堀に特徴があり、戦国期から織豊期の傑出した縄張となっている。位置的にも、出石~宮津の街道を押さえるための、重要な拠点的城郭となっている。❞
【写真左】登城口付近
 近年はあまり整備されていないせいか、麓には竹林が覆い、枯れた竹が道を遮る。





太田昌明平時定

 亀ヶ城を築いた太田昌明は、もとは比叡山延暦寺の僧で、常陸坊を称し西塔側に住んでいた。源平合戦が終わった後、源頼朝と義経は不和となったが、このとき頼朝の叔父にあたる行家は、義経に与同した。このため、頼朝は義経・行家追討の院宣を賜り、その任を受けた平時定の配下・太田昌明が捕らえ、行家を討ち取った。

 この平時定の出自についてははっきりしない点があるが、その名前から考えて父はあの有名な言「平家にあらずんば人にあらず」を発した平時忠ではないかと思われる。もっともこの時忠は、壇ノ浦でほとんどの平氏が滅亡したのにもかかわらず捕虜となり、神鏡を守った功績により減刑を求め、義経に接近していく。その後、紆余曲折のあと時忠は配流地の能登で没した。
【写真左】最初の段
 登城コースは西側から登って行ったが、倒竹は少なくなったものの、全体に竹の繁茂が著しい。
 写真の郭は、縄張図でいえば、Ⅶの箇所。


 ところで、この時忠の子には、第一子時実をはじめ8人の子がいたとされ、時定は第六子といわれる。もっとも時定は時実とは異母兄弟であったことも影響しているのか、時実が父と同じく終始義経に随行していったのとは対照的に、時定は頼朝に属していった。

 さて、この時定に常陸坊(後の太田昌明)がどのような経緯で出会ったのかわからないが、武蔵坊弁慶が常陸坊と同じ西塔にいた僧兵であったことから、常陸坊も武士と対等に渡り合う法師武者であったのだろう。

 昌明が行家の首を鎌倉の頼朝のもとへ送ったところ、当初頼朝は「下郎の実を以て良将を殺害した」として恩賞を与えず、逆に罪として流罪の刑を下した。家来たちも頼朝の真意を計りかねていたが、のちに頼朝は昌明を許し、2か所の食邑(しょくゆう)(知行地)を与えた。
【写真左】Ⅶの郭から東側の谷を見る。
Ⅶの郭を構成する尾根とは反対に、東側にも尾根があり、その先端部にⅥの郭が配されている。

 この後、直接「東城」に向かうためには、直登できないため、一旦東側にコースをとり、そこから向かう。


 その一つが但馬の「太田荘」で、もう一つが摂津の「葉室荘」である。これら二つの荘は、おそらく没官領(平家)だったと思われる。昌明はこのうち但馬の太田荘を選与えられ、常陸坊から太田昌明と名を変えた。

 承久の乱の際には、度々後鳥羽上皇側から再三の誘いを受けたが、院宣を持ってきた使者を5人も殺害、但馬の状況をつぶさに幕府方に報告していたこともあり、恩賞として但馬守護に任ぜられた。
【写真左】東の尾根に向かう。
Ⅶ郭とⅥ郭それぞれの尾根を繋ぐ幅の細いU字の郭で、この位置に立てば、両尾根下の動きが一番よくわかる箇所となる。



 なお、その後の太田氏や亀ヶ城に関する記録はあまり残っていないようだが、当地が但馬国の東端部に当たり、隣接する丹後・丹波との国境に所在していることや、縄張図に残る遺構などから見ても、戦国期や織豊期にも境目の城として、山名氏・一色氏などが関わり、終盤には細川氏などが統治するなど、重要な役割を果たしていたことは論を待たないだろう。
【写真左】Ⅵ郭・その1
 東側の尾根先端部に伸びる郭で、長径40m×幅7~8mの規模。
 尾根の自然地形に対し、先端部はかなり人工的に盛土などで伸ばしたような跡が見られる。


亀ヶ城支城等

 それを裏付けるものとして、当城のおよそ3キロ以内には、それぞれ3か所の城郭・館・砦が配置されている。特に、亀ヶ城の南麓を流れる太田川をおよそ1キロほど下ったところには、岩吹城(H:203m)があり、逆に2キロ余り遡ったところには仏清城などが配置されている(HP『城郭放浪記』参照)。

【写真左】Ⅵ郭・その2
 先端部から振り返る。この辺りからは竹は少なく、植林された檜のおかげで施工精度がよくわかる。
【写真左】東城の主郭(Ⅱ)に向かう。
 当城の標高は170m余なので、さほど堅固な城だとは思っていなかったが、このあたりから「足ごたえ」のある様相を呈してきた。
【写真左】竪堀
 堀切の延長として構築されたもので、斜面の傾斜もある上に、竪堀を駆使しているので効果は絶大だろう。
【写真左】東城の主郭(Ⅱ)・その1
 当城最大の郭で、東西40m×南北55mの規模。
【写真左】土塁
 主郭(Ⅱ)下の段にあるもので、L字に組まれている。
【写真左】東城の主郭(Ⅱ)・その2
 長手方向の反対側から見たもの。
【写真左】主郭(Ⅱ)から西城に向かう途中の腰郭
 Ⅱ郭から北西端には二折れ虎口(下の写真参照が介在し、一旦腰郭のような段ががある。

 写真の右下は険しく長大な切岸が周囲を囲み、その下には東尾根を包むような大規模な帯曲輪(Ⅴ)が取り巻いている。
【写真左】二折れ虎口
 Ⅱ郭から下の腰郭並びに、その下に繋がる堀切までの犬走に通じる箇所で、特に上段部分で二折れを構成している。
【写真左】堀切A・その1
 先ほどの腰郭から見下ろしたもので、上から見てもよくわかる。
【写真左】堀切A・その2

 横からみたもの。

【写真左】堀切Aの底部から北側を見下ろす。
 写真では分かりづらいが、左斜面に竪堀、その奥に後ほど紹介する西城の主郭(Ⅰ)の腰郭から落とした竪堀がある。
 そして、その位置からは北側を囲繞する帯曲輪(Ⅳ)が配されている。
【写真左】堀切Aから北に回り込む。
堀切Aは東城と西城の中間点になるが、写真でもわかるように、西城側の切岸はかなりの高低差を持たせている。
 このあと、西城に向かう。
【写真左】西城主郭(Ⅰ)東の段
 先ほどの堀切を登り西城に向かうと、最初の段がある。長径7m×短径5mほどの規模。
 奥に主郭(Ⅰ)が見える。
【写真左】西城の主郭(Ⅰ)
 こちらの規模は東城の主郭(Ⅱ)に比べ、およそ1/2の規模で、L字の形状。
 西端部は御覧のように1m程度高くなっている。
【写真左】西城の腰郭
西城主郭(Ⅰ)の北側には5,6m程度下がった位置に腰郭が設けられている。
【写真左】畝状竪堀・№11
当城の見どころの一つである畝状竪堀。

 写真のものは、図面番号で言えば№11のもので、北西端に構築されている。
【写真左】西側の畝状竪堀
 上掲の畝状竪堀より南側にあるもので、こちらも見ごたえがある。
【写真左】深い堀切
 畝状竪堀や堀切が集中している箇所はこの西城の西側に当たる。

(Ⅰ)郭からこの堀底部まで降りようと試みたが、どの斜面も70度前後はあろうかという急峻な切岸のため断念した。確実に降りるためには、頑丈なロープを使わないとまず無理だろう。

 このような経験は久しぶりで、亀ヶ城はまさに手つかずの遺構を残している見ごたえ十分な山城である。


遺構概要

 参考までに、当城における主だった遺構の概要が説明板に記されていたので、紹介しておきたい。

現地の説明板・その2

❝主な史跡等の規模(一部省略)
  • 項目  規模等              図面表示
  • 標高 東城 165m、西城 172m
  • 城域 東西約300m、南北約300m
  • 東城(主郭) 東西約40m、南北約55m     Ⅱ
  • 西城(主郭) 東西約40m、南北約26m     Ⅰ
  • 曲輪   大規模 7か所          Ⅰ~Ⅶ
  • 竪堀       6か所          1~6
  • 畝状竪堀     3か所
  • 堀切       4か所          A~D
  • 土塁       6か所 ❞

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