上坂氏館(こうさかしやかた)
●所在地 滋賀県長浜市西上坂町
●形態 平城・城館
●築城期 室町期
●築城者 上坂氏
●城主 上坂氏
●遺構 郭・土塁・移築門等
●登城日 2016年6月29日
◆解説(参考資料 『長浜市史』、HP「疎水名鑑」等)
上坂氏については、前稿下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町) でも少し触れているが、同氏の館は、長浜市を流れる姉川の中流域にあって、下坂氏館から北東へおよそ5キロほど向かった位置にある。
【写真左】上坂氏館遠望
南側から見たもの。
上坂氏館から北へおよそ500mほど向かうと、姉川に至る。
現地の説明板より
‟上坂氏館跡(西上坂町)
戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂氏の館跡です。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。
さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。
【上図】左:上坂氏館絵図、右:上坂氏館跡周辺図
文字が小さくて分かりずらいが、赤字で書かれたところが、現在残る館跡。
左図中央上段に、「信濃守屋敷(しなんど)」、下段に「伊賀守屋敷(いがんど)」などと書かれ、左上の隅には、「出雲川此川中井より掛る伊賀信濃両屋敷へ之水口川也依之中井川を俗に殿川と云也」と記してある。
上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました。
館跡は、土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や、土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。”
【写真左】移築された伊賀屋敷門
上坂氏館として残るのは、この「丸之内」という児童公園だが、この箇所に伊賀守屋敷の門が移築されている。
上坂氏
説明板にもあるように、上坂氏は京極氏の有力家臣であったとされる。同氏が京極氏の家臣となったのは室町時代だが、このころ、京極氏の有力家臣として力を持っていたのが多賀氏である。
しかし、応仁・文明の乱が勃発すると、以前にも述べたように、その多賀氏一族の内部でも内訌が起こり、京極氏の足元を揺さぶった。これに対し、上坂氏はほぼ一貫して北近江の守護職である京極氏を支えている。このことから上坂氏は京極における「筆頭家老」の地位を得ている。
ところで、『浅井三代記』という軍記物には、上坂氏を梶原景時の子孫と記し、京極政経の三男で、上坂家を継いだ上坂泰貞(治部大輔)がいたとしている。もっとも傍証となる史料はなく、はっきりしない。
【写真左】石碑・その1
伊賀屋敷門をくぐり奥に進むと、庭園が造られ、石碑が建立されている。
大永3年のクーデター
京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺) の稿でも述べたが、大永3年(1523)、北近江では京極氏の家臣であった浅井亮政は、京極高清の居城苅安尾城(上平寺城)の攻略にかかった。このため、高清は城を脱出し、尾張に逃れた。このあと亮政は高清の子高延を京極氏の主君として担いだ。これが北近江における「大永3年のクーデター」である。
【写真左】石碑・その2
上坂城址の文字は読めるが、あとは判読不能。だいぶ前に建立された石碑のようだ。
因みに、京極氏の弱体化はそれ以前の応仁の乱及び、それに伴う家督相続などで混迷の一途をたどることになるが、高清の代になると、それまで守護職として維持してきた出雲・隠岐・飛騨の三国を失い、地元北近江のみとなっていた。さらには唯一の地元北近江においても不安定な支配となっていく。
【左図】京極氏系図
北近江守護京極氏の弱体化は、逆に国人領主であった浅井氏、浅見氏、そして上坂氏などが京極氏を凌駕していくことになった。いわゆる下剋上の世がこの北近江でも顕れていたわけである。
【写真左】石碑側から北を見る。
唯一残る丸之内跡は、およそ東西20m×南北30mの大きさで、公園化したため遺構はほとんど見られないが、土塁跡らしきものが残っている(下の写真参照)。
天文7年(1538)京極高清が亡くなると、再び家督争いが再燃した。高清の子には長男・高広と、二男・高吉(高慶)がいた。
高広は浅井氏と結び、高吉は六角定頼を頼った。同年3月27日、両軍は佐和山で激突した。戦いは六角方優勢のまま終結、2年後の天文9年(1540)以降、浅井氏は六角氏と和睦する方向へ動いた。
【写真左】土塁
屋敷門手前の一角に残るもので、現状は高さ30㎝程度だが、当時はもっと高くなっていたものと思われる。
このため、高広は孤立するが、天文10年4月、浅見氏を誘い、浅井亮政と戦うことになる。この戦いで、上坂氏は高広方に属して戦い、上坂助八は「当目合戦」において、功をあげ高広から感状を与えられている。この助八は、時期ははっきりしないが、天文10年以前には木沢長政(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照) からの書状をうけとっている。
【写真左】南側
左に土塁が見え、奥には雲にかかる伊吹山が確認できる。
なお、丸之内以外の箇所については、踏査していないが、空き地や民家が建っているようで、おそらく遺構はほとんど消滅していると思われる。
出雲井
ところで、上坂氏館の北方を流れるのが、姉川合戦で有名な一級河川姉川である。この川の中流部に往古から水利確保のために設けられたのが出雲井(いずもゆ)である。
【写真左】出雲井
所在地 米原市伊吹
姉川から引き込まれた井堰で、現在でも満々とした水が流れている。
なぜ当地に遠国である出雲国からやってきたのか不明であるが、以前取り上げた太尾山城・その3 で紹介している湯谷神社もまた「上古出雲国人諸国を巡視して……祠を建て奉斎す…」とあり、このころ出雲と近江湖北地方には何らかのネットワークがあったのかもしれない。
一説には白鳳時代の650年に、出雲国出身の大助という人物が、原野を開拓し、姉川に井堰を設置し、水溝を掘り灌漑したことが始まりで、出身地の名から「出雲井」と命名されたという。
また別説では、宝治2年(1248)佐々木重綱が鎌倉幕府執権北条義時より、大原郷の地頭職を与えられ、当時の伊富貴村(現米原市伊吹)の出雲善兵衛(吉兵衛)が重綱の命によって井堰を造ったことから「出雲井」と名付けられたともいわれている。どちらにしても「出雲」と関わりのあった井堰である。
【写真左】姉川
この写真は2008年3月に探訪したときのもの。
機会があったら、姉川に関わる中世の疎水状況ももう少し見てみたいものだ。
さて、京極氏との強い結びつきをもっていた上坂氏であるが、同氏の中で伊賀守を名乗る上坂氏は、浅井氏とも主従関係を結んでいる。
浅井久政の書状によれば、相撲庭村(すまいにわむら)(浅井町)と上坂の「井公事」「用水相論」を、己牧院が間に立って馳走(奔走)するにようにと記し、上坂八郎兵衛尉景信宛ての書状では、己牧院正瑞と月ヶ瀬忠清の両人に相談するようにと記している。
こうした経緯もあって、上坂氏はこの「出雲井」の堰を落とす権限を有し、長浜市域の多くがこの水を利用していたことから、旱魃の際には大原荘にあったこの「出雲井」を使い、三度にわたって下流の郷里井に流していた。このことから、この取水処置を「三度水」と呼んだ。
●所在地 滋賀県長浜市西上坂町
●形態 平城・城館
●築城期 室町期
●築城者 上坂氏
●城主 上坂氏
●遺構 郭・土塁・移築門等
●登城日 2016年6月29日
◆解説(参考資料 『長浜市史』、HP「疎水名鑑」等)
上坂氏については、前稿下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町) でも少し触れているが、同氏の館は、長浜市を流れる姉川の中流域にあって、下坂氏館から北東へおよそ5キロほど向かった位置にある。
【写真左】上坂氏館遠望
南側から見たもの。
上坂氏館から北へおよそ500mほど向かうと、姉川に至る。
現地の説明板より
‟上坂氏館跡(西上坂町)
戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂氏の館跡です。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。
さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。
【上図】左:上坂氏館絵図、右:上坂氏館跡周辺図
文字が小さくて分かりずらいが、赤字で書かれたところが、現在残る館跡。
左図中央上段に、「信濃守屋敷(しなんど)」、下段に「伊賀守屋敷(いがんど)」などと書かれ、左上の隅には、「出雲川此川中井より掛る伊賀信濃両屋敷へ之水口川也依之中井川を俗に殿川と云也」と記してある。
上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました。
館跡は、土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や、土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。”
【写真左】移築された伊賀屋敷門
上坂氏館として残るのは、この「丸之内」という児童公園だが、この箇所に伊賀守屋敷の門が移築されている。
上坂氏
説明板にもあるように、上坂氏は京極氏の有力家臣であったとされる。同氏が京極氏の家臣となったのは室町時代だが、このころ、京極氏の有力家臣として力を持っていたのが多賀氏である。
しかし、応仁・文明の乱が勃発すると、以前にも述べたように、その多賀氏一族の内部でも内訌が起こり、京極氏の足元を揺さぶった。これに対し、上坂氏はほぼ一貫して北近江の守護職である京極氏を支えている。このことから上坂氏は京極における「筆頭家老」の地位を得ている。
ところで、『浅井三代記』という軍記物には、上坂氏を梶原景時の子孫と記し、京極政経の三男で、上坂家を継いだ上坂泰貞(治部大輔)がいたとしている。もっとも傍証となる史料はなく、はっきりしない。
【写真左】石碑・その1
伊賀屋敷門をくぐり奥に進むと、庭園が造られ、石碑が建立されている。
大永3年のクーデター
京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺) の稿でも述べたが、大永3年(1523)、北近江では京極氏の家臣であった浅井亮政は、京極高清の居城苅安尾城(上平寺城)の攻略にかかった。このため、高清は城を脱出し、尾張に逃れた。このあと亮政は高清の子高延を京極氏の主君として担いだ。これが北近江における「大永3年のクーデター」である。
【写真左】石碑・その2
上坂城址の文字は読めるが、あとは判読不能。だいぶ前に建立された石碑のようだ。
因みに、京極氏の弱体化はそれ以前の応仁の乱及び、それに伴う家督相続などで混迷の一途をたどることになるが、高清の代になると、それまで守護職として維持してきた出雲・隠岐・飛騨の三国を失い、地元北近江のみとなっていた。さらには唯一の地元北近江においても不安定な支配となっていく。
【左図】京極氏系図
北近江守護京極氏の弱体化は、逆に国人領主であった浅井氏、浅見氏、そして上坂氏などが京極氏を凌駕していくことになった。いわゆる下剋上の世がこの北近江でも顕れていたわけである。
【写真左】石碑側から北を見る。
唯一残る丸之内跡は、およそ東西20m×南北30mの大きさで、公園化したため遺構はほとんど見られないが、土塁跡らしきものが残っている(下の写真参照)。
天文7年(1538)京極高清が亡くなると、再び家督争いが再燃した。高清の子には長男・高広と、二男・高吉(高慶)がいた。
高広は浅井氏と結び、高吉は六角定頼を頼った。同年3月27日、両軍は佐和山で激突した。戦いは六角方優勢のまま終結、2年後の天文9年(1540)以降、浅井氏は六角氏と和睦する方向へ動いた。
【写真左】土塁
屋敷門手前の一角に残るもので、現状は高さ30㎝程度だが、当時はもっと高くなっていたものと思われる。
このため、高広は孤立するが、天文10年4月、浅見氏を誘い、浅井亮政と戦うことになる。この戦いで、上坂氏は高広方に属して戦い、上坂助八は「当目合戦」において、功をあげ高広から感状を与えられている。この助八は、時期ははっきりしないが、天文10年以前には木沢長政(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照) からの書状をうけとっている。
【写真左】南側
左に土塁が見え、奥には雲にかかる伊吹山が確認できる。
なお、丸之内以外の箇所については、踏査していないが、空き地や民家が建っているようで、おそらく遺構はほとんど消滅していると思われる。
出雲井
ところで、上坂氏館の北方を流れるのが、姉川合戦で有名な一級河川姉川である。この川の中流部に往古から水利確保のために設けられたのが出雲井(いずもゆ)である。
【写真左】出雲井
所在地 米原市伊吹
姉川から引き込まれた井堰で、現在でも満々とした水が流れている。
なぜ当地に遠国である出雲国からやってきたのか不明であるが、以前取り上げた太尾山城・その3 で紹介している湯谷神社もまた「上古出雲国人諸国を巡視して……祠を建て奉斎す…」とあり、このころ出雲と近江湖北地方には何らかのネットワークがあったのかもしれない。
一説には白鳳時代の650年に、出雲国出身の大助という人物が、原野を開拓し、姉川に井堰を設置し、水溝を掘り灌漑したことが始まりで、出身地の名から「出雲井」と命名されたという。
また別説では、宝治2年(1248)佐々木重綱が鎌倉幕府執権北条義時より、大原郷の地頭職を与えられ、当時の伊富貴村(現米原市伊吹)の出雲善兵衛(吉兵衛)が重綱の命によって井堰を造ったことから「出雲井」と名付けられたともいわれている。どちらにしても「出雲」と関わりのあった井堰である。
【写真左】姉川
この写真は2008年3月に探訪したときのもの。
機会があったら、姉川に関わる中世の疎水状況ももう少し見てみたいものだ。
さて、京極氏との強い結びつきをもっていた上坂氏であるが、同氏の中で伊賀守を名乗る上坂氏は、浅井氏とも主従関係を結んでいる。
浅井久政の書状によれば、相撲庭村(すまいにわむら)(浅井町)と上坂の「井公事」「用水相論」を、己牧院が間に立って馳走(奔走)するにようにと記し、上坂八郎兵衛尉景信宛ての書状では、己牧院正瑞と月ヶ瀬忠清の両人に相談するようにと記している。
こうした経緯もあって、上坂氏はこの「出雲井」の堰を落とす権限を有し、長浜市域の多くがこの水を利用していたことから、旱魃の際には大原荘にあったこの「出雲井」を使い、三度にわたって下流の郷里井に流していた。このことから、この取水処置を「三度水」と呼んだ。
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