2019年5月20日月曜日

備中・忍山城(岡山県岡山市北区上高田)

備中・忍山城(びっちゅう・しのぶやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区上高田
●別名 信夫山城・四畦忍山城・忍ノ城
●高さ H:300m(比高 60m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 伊賀伊賀守
●城主 伊賀氏・浮田信濃守等
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2017年2月27日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
 備中・忍山城(以下「忍山城」とする。)は、岡山市の北方上高田にあって、以前取り上げた備前の虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉) から南へ直線距離で5.5キロの足守川支流の日近川源流部に築かれた城郭である。
【写真左】忍山城遠望
 東麓を走る県道71号線(建部大井線)から見たもの。
 右上を走るのは県道72号線(岡山賀陽線)で、橋脚の先には忍山城のほぼ真下を通ることになりトンネルとなっている。

 夕方になったため、逆光のせいか画面に赤い斑点のようなものが残った。カメラ音痴なのでこうした場合の撮影テクニックがあるかもしれないが、なかなか上達しそうにない。


伊賀氏

 忍山城の築城期・築城者についてははっきりしない点があるが、築城者については伊賀伊賀守とあり、忍山城の東の谷を挟んだ鎌倉山城も伊賀氏の支城ともいわれている。

 「日本城郭体系」でも指摘されているように、この伊賀伊賀守が織田信長の下知によって築城したという伝聞があるようだが、当時の状況を考えると整合しない点が多く、まったく違う伊賀伊賀守であろうとしている。
 従って、この伊賀氏とは、虎倉城の稿でも紹介している伊賀氏が、当城の築城にも拘わったものと考えられる。
【写真左】南城方面を見る。
 登城口を示す案内標識のようなものはないが、西麓にある真言宗御室派の観音院という寺院の左側に山道があるので、そこから向かう。



宇喜多と毛利の戦い

 さて、忍山城でもっとも有名な戦いが、備前・備中・美作三国に跨って行われた毛利・宇喜多両氏の争奪戦である。備前浦上氏の家臣であった宇喜多直家(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)参照) は、戦国の三梟雄の一人といわれているが、西の毛利、東の織田がせめぎあう備前・備中・美作三国の中で、巧みに難局を乗り切ろうとした。
【写真左】登城口
 右側に観音院の本堂がある。
 車は境内脇の駐車場を借りた。







 天正7年(1579)5月、毛利と手を結んでいた直家は、信長に内応したとして三星城(岡山県美作市明見) の城主で、直家の娘を嫁がせていた後藤勝基を攻め滅ぼしたものの、その年の10月、今度は直家自身が毛利と手を切り信長についた。

 因みに、直家は三星城攻めと相前後して、毛利方の手中に入っていた今稿の忍山城を陥れている。さらには美作・高田城(岡山県真庭市勝山)にも兵を差し向けた。そして、美作の拠点として岩屋城(岡山県津山市中北上)も押さえていたが、当城も毛利氏が反撃してくる情勢にあった。
【写真左】削平地
 観音院の裏側から登って行くが、途中から降る坂道となり、御覧の広い場所に出た。
 北城の北端部に当たると思われるが、それにしてもあまりにフラットな削平地なので、この箇所は近年改変されたのかもしれない。
 なお、この写真で言えば右側から北城のエリアになる。


 直家自身、時々刻々と戦況が変わる状勢を常に見定めた上で、毛利よりも織田方が優勢であると踏んだからであろう。もっともこのころ直家自身は身体に腫物ができる難病に苦しんでいて、岡山城の病床から下知を出していた。

 ところで、毛利氏が備中から備前へと進出しようとした際、大きな障害になったのはこの宇喜多直家だけではなかった。伯耆羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の南条元続である。
 
 元続も直家とほぼ同じ時期(天正7年)ごろに、毛利氏から離反し織田方についた。このため、毛利氏は羽衣石城攻めは当初吉川元春が担当していたが、侍大将杉原盛重(神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照) 及び、宍道隆慶(宍道氏・金山要害山城参照) に任せ、元春は輝元、隆景らの本隊に合流、総勢3万の大軍を率いて、忍山城攻略に向かった。
【写真左】竪堀
 さきほどの北城を目指して一気に尾根に登ればいいのだが、急峻なので西側斜面を南に進んでいく。
 さっそく竪堀が現れる。



毛利氏の忍山城包囲

 そして、この年(天正7年)12月24日、宇喜多勢の立て籠る忍山城を毛利勢が包囲した。この当時忍山城を守城していたのは、浮田信濃守と岡剛介をはじめとするおよそ1千人の城兵である。

 毛利勢の先鋒を務めたのが吉川経言である。すなわち、後の周防・岩国城(山口県岩国市横山3) 主となる吉川広家である。当時18歳の若武者であったが、彼は忍山城に昼夜を分かたず次から次と戦法を駆使して攻め立てた。このため、終始守勢に立たされた信濃守らは、岡山城の直家に援軍を要請した。
【写真左】尾根にたどり着く。
 次第に尾根に向かって登って行き、筋にたどり着いた。
 写真では分かりにくいが、冒頭の写真で見えていた県道72号線の橋脚。
 当然ながら、戦国はこうした道路はなく、深い谷を形成してたままの姿である。



 岡山城に横臥の体を余儀なくされていた直家ではあったが、すぐに岡平内、長船又三郎、片山惣兵衛らに命じ、5千余騎を向かわせ、忍山城東の谷を隔てた鎌倉山城(勝尾山城)に援軍として着陣させた。

 ところが、岡平内らが着陣して態勢を整えようとした矢先、経言は突如この援軍めがけて急襲した。あまりのことに援軍は浮足だし、ひとたまりもなく潰走する羽目になった。おそらく経言は援軍の情報を事前に察知し、前もって待機していたのであろう。
【写真左】北城の郭
 上に登る途中にも小郭があり、さらに上を目指したところやや中規模な郭が現れた。





 忍山城の浮田信濃守らは鎌倉山の援軍と呼応して毛利氏を討つ計画が失敗に終わると、やむなく撃って出た。形勢は不利になっていたが、それでも信濃守や剛勇の岡剛介の奮闘もあり、忍山城での決着は翌天正8年正月まで持ち堪えた。

忍山城落城

 しかし、その月(正月)下旬、城内の陣屋から火が出た。毛利方の内通者によるもの、もしくは夜半外から火を放たれたなど諸説あるが、いずれにしてもこの火は容易に消すことはできず、城内は大混乱となった。この隙をついて毛利方は一気に攻め立てた。
 岡剛介は何とか敵中を突破し、岡山城へ逃げかえったが、浮田信濃守は本丸に追い詰められ自刃、残った城兵530余人が討ちとられたという。

 忍山城における戦いで、勝利を得た毛利氏は当城に桂左衛門大夫、岡宗太衛門を城番として入れ置いた。

 そしてそのあと、毛利氏は余勢をかって忍山城から東方10キロの位置にあった直家の弟・宇喜多春家の居城・金川城(岡山県岡山市北区御津金川) を攻めたが、春家の奮戦もあって落とすことはできなかった。
【写真左】基壇の上に祠が。
 先ほどの郭の南隅には小規模な土塁(基壇)があり、その一角に小さな祠が祀られている。
【写真左】祠の周りに石積
 だいぶ崩れているが、当時はしっかりした基壇の上に祀られていたのだろう。

 このあと、南に向かうが、一旦降りる形となっている。その先には南城が控える。




遺構

 当城の麓には「平城(ひらき)」「土居」などの地名が残り、城域には主だった郭が9か所あり、要所には堀切が数か所認められる。ただ、全体に郭個々の大きさは小規模で、宇喜多氏らが一千余騎当城に拠ったことを考えると、城域以外の周辺部にもかなりの数の陣所を配置していたのではないかと思われる。

  忍山城の縄張図としては、最近登城されたHP『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されておられるので、ご覧いただきたい。基本的に北側から南に伸びた尾根筋に北城と南城の二つで構成されている。
【写真左】緩やかな堀切
 尾根筋に浅い堀切が出てきた。
【写真左】明確な堀切
 しばらくするとしっかりとした堀切が配置されている。
【写真左】長い郭
 北城と南城を連絡する渡りだが、郭もしくは兵站地としての役目もあったのだろう。
【写真左】大堀切・その1
 当城の中では最大級のもの。
【写真左】大堀切・その2
 西側から見たもので、南城の北端部にあたるが、その手前にも浅い堀切がある。

 この堀切は南城の防御の意味もあるかもしれないが、南城が落とされた際、次の北城への攻撃をできるだけここで踏み止めるための狙いもあったのかもしれない。
 このあとさらに南城頂部を目指して上に登る。
【写真左】郭段
 大堀切から南城頂部へ直登していくと予想以上の傾斜がついている。
 しばらく進むと郭段が出てくる。
【写真左】南城の主郭を見上げる。
 尾根幅は狭いものの、登って行くと結構息が上がる。
 ここで直接主郭へは行かず西、一旦回り込む。
【写真左】西の郭
 腰郭だが西方を俯瞰する物見櫓的な役目をもったものだろう。
【写真左】南城の主郭
 西の郭から上に向かって登ると、南城の主郭に至る。
【写真左】土塁
 南城の一角には小規模な土塁が残る。
なお、この周辺部にはこのほか東西に中小の竪堀も散見される。
【写真左】勝尾山城を遠望する。
 主郭からさらに南に進むと、県道72号線のトンネルが下を横断している。

 そこからしばらく進むと、前段で紹介している勝尾山城が見える。
 なお、勝尾山城は別名鎌倉山城ともいう。
 このあと尾根筋を南に行けるところまで向かうことにする。


【写真左】郭
 この付近から小規模な郭が連続して現れる。
【写真左】石積
 枯葉に覆われていて明瞭でないが、石積の痕跡が認められる。
【写真左】さらに奥に進む。
 南に行くに従って視界がよくなり、先端部近くに来たことが分かる。この辺りの郭は広い。
【写真左】腰郭
 南城の最南端に当たる郭で、西側付近まで回り込んでいる。
【写真左】東方を俯瞰
 毛利方がどの方向から攻めてきたのか詳しいことは分からないが、この当時毛利氏は備中をほぼ制圧していたので、西側から南の谷筋を通って北上したのだろう。

2019年5月10日金曜日

備中・西山城(岡山県新見市哲西町八鳥)

備中・西山城(びっちゅう・にしやまじょう)

●所在地 岡山県新見市哲西町八鳥
●別名 八鳥要害山
●指定 新見市指定史跡
●高さ 510m(110m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 市川行房
●城主 市川氏・宮隆盛
●遺構 郭、堀切、虎口、土塁等
●登城日 2011年8月5日、2017年3月26日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP「城郭放浪記」、HP「哲西の山城」等)
 備中・西山城(以下「西山城」とする。)は、備中国北西部に所在した城郭で、西隣の備後国と接する位置にある。
写真左】西山城遠望
 西麓側から見たもので、手前の道を奥に進むと、北房井倉哲西線(県道50号線)に合流し、東進していくと、途中で以前紹介した阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕) に繋がる。


現地の説明板・その1

‟町指定文化財
 西山城址(八鳥 要害山)

 要害山の頂上には、本丸跡の他に二の丸、三の丸跡が各一つ、出丸跡が七つ、大手、からめ手などがはっきり残っている。
 城は文治元年(1185)源頼朝の重臣市川行房により築かれ、その後、天文2年(1533)毛利氏の家来で備後西城の城主であった宮高盛が築城したとあるが、天正年間(1573~)の尼子と毛利の戦さの際に落城したらしい。”



【写真左】西麓に設置されている説明板
 西麓には野馳小学校という学校があり、その角には当城及び、町恵比須の由来を示した説明板が設置してある。
 後背が西山城。




現地の説明板・その2

‟町指定文化財
 町恵比須(八鳥 町)
 八鳥町区に上恵比須、下恵比須と二つのほこらがある町恵比須としてまつったものであるといわれている。
 鎌倉時代に西山城の城下町として栄え、また江戸時代には宿場の役目を果たしていたところである。
 恵比須は福の神で、商売繁昌を祈ったものと思われる。”
【写真左】登城道
 西山城へ向かう登城道は野馳小学校脇の道を東に進み、北側から向かう道がある。

 ただ、現地には標識らしきものがなかったため、登城口を探し出すのに手間取った。
 写真は登城口からだいぶ進んだ位置で、この辺りから小郭が出てくる。




市川行房

 『日本城郭体系 第13巻』を見ると、西山城の築城者といわれる市川行房は、「文治2年、鶴岡御参詣随兵20人中の烈士。後久代氏等」と記されている。

 市川行房は一般的に市河行房と書かれ、本貫地は甲斐国巨摩郡市河荘(現・山梨県西八代郡市川三郷町)または、甲斐源氏の源義光の子・武田義清の弟である市河別当刑部卿阿闍梨覚義を祖としているが、備中国に赴いたという記録は見えない。
【写真左】堀切
 この日登城したコースは北麓から向かい、西側の尾根に到達後、その尾根の南側沿いを辿って主郭に向かうコースをとったが、この尾根筋には3本程度の堀切が要所に設置されている。
 写真はそのうちの一つ。


 また、築城期が文治元年(1185)とあるが、この年の11月29日、源頼朝は諸国に守護・地頭を置くことになるが、中国地方では備中国をはじめ播磨・備前・美作・備後国の守護職に梶原景時と土肥實平を任命しているので、おそらくこの両者のどちらかの臣従者が当地に下向したと考えられる。
【写真左】要所に地蔵さんが
 しばらく歩いていくと、地蔵さんが祀られている。主郭までに数か所こうした地蔵が道端にある。



宮上総守高盛

 そして、実際に城郭として本格的に築城されたのは戦国期と考えられる。築城者である宮高盛は、備後西城の城主としている。備後西城とは以前紹介した大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場) のことである。

 この大富山城が築城されたのが、西山城と同じ天文2年(1533)といわれているので、宮高盛(宮上総守高盛)は、二つの城郭をほぼ同時並行しながら普請していったことになる。
【写真左】堀切と小郭
 まだ主郭までたどり着いていないが、こうした遺構が段々と増えてくる。






 因みに、備後国の大富山城から備中国の西山城まではおよそ30キロほど離れている。
 築城して間もないころ、出雲の尼子詮久(後の晴久)の命を受けた備中内群集と呼ばれた新見国経や、丹治部・伊達・石蟹(いしが)(石蟹山城(岡山県新見市石蟹)参照)の諸氏が、宮高盛の居城・西山城と、小奴可宮氏居城の亀山城(広島県庄原市東城町小奴可) を攻め占拠したという。

 その後、天文12年(1543)から翌13年ごろには大内方となっていた高盛は、当時尼子方となっていた三村家親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原) 参照)・楢崎(楢崎城(広島県府中市久佐町字城山) 参照)・草刈(美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)参照)諸氏に再び攻め込まれ、当地八鳥・二本松合戦の舞台となったといわれている。
【写真左】整備された郭が見えてきた。
 先ほどの段からさらに登って行くと、もう1か所郭があり、そのあと熊笹で道を遮られそうな箇所を潜り抜けるとやっと頂上部に至る。
 写真は南北に伸びる郭群の中央部にあるもので、下から見上げたもの。



 こうしたことから、宮氏の本居城であった大富山城が高盛以後5代にわたって継承したのに比べ、備中の西山城の場合は、同氏の思惑通りにいかなかった状況が見えてくる。
 これは、当時の備中国には絶対的な領主が存在しておらず、このことから出雲の尼子氏などが当地に触手を伸ばしてきた背景があるからである。
【写真左】南側の郭に向かう。
 手前の道は北側の郭の脇にも繋がっており犬走りとなっている。







縄張概要

 当城の主だった遺構概要は次の通り。
  1. 郭1 長径40m×短径29m 北東側に幅2m×高さ1mの土塁、東側に12m、南側に8mのL字状の土塁
  2. 郭2 長径47m×短径20m
  3. 郭3 南北18m×東西14m
  4. 郭4 南北14m×東西18m
  5. 郭5 郭3と4の下段に全長140m、南端部に虎口
  6. 郭6 郭2の南と西側に2m低く東西43m×幅7mのコの字型
 なお、縄張図としてはHP 『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】南端部の郭
 西山城は全体に南北に長軸をとっているが、南側で西(左)に少し折れる。

 写真はその折れ部分にある郭と下の郭。
【写真左】東側先端部
【写真左】中央の郭から南の郭を見る。
 
【写真左】南側の郭・その1
 北側を最高所として南側に3つの郭群が連続しているが、そのうち南側の郭
【写真左】南側の郭・その2

 この郭が最も長い規模を持つもので、南端部の下には腰郭が西側まで囲繞する形で補完している。

【写真左】南側から北方向を見る。
 これも上記の郭で、奥に祠が見える。
【写真左】祠
 おそらくこの祠があるところが主郭とおもわれる。
【写真左】北隣の郭
 先ほどの郭の北側に隣接するもの。
【写真左】虎口か
 上記の郭の右側(東側)には下から伸びてくる道がある。
 おそらく当時はこの位置に虎口を設けていたと思われる。
 このあとさらに北に向かう。
【写真左】北側の郭
 ここにも地蔵が二体祀ってある。
 ただ、ここから先は御覧のように熊笹に覆われ、遺構の確認が困難になってくる。
【写真左】直径2m前後の穴
 笹をかき分けて進むと、突然大きな穴に遭遇。
 狼煙台もしくは井戸跡と思われるが、だいぶ埋まっている。
【写真左】土塁
 写真では分かりづらいが、この郭の北東隅に高さ50㎝程度の土塁が確認できる。

 なお、この位置から下に向かうと、小郭があり、その下には二条の堀切が配置されている。
【写真左】もう一度振り返って見る。
【写真左】屋敷跡か
 登城途中に気になった箇所で、下山した折、再度注視してみると、2,3段で構成された平坦地が確認できる。

 場所は北麓側に位置する。

2019年5月2日木曜日

安芸・中山城(広島県廿日市市河津原)

安芸・中山城(あき・なかやまじょう)

●所在地 広島県廿日市市河津原
●別名 中山河津城・中山荻原城
●指定 廿日市市指定史跡
●高さ 327m(比高50m)
●築城期 不明(鎌倉期か)
●築城者 河津氏
●城主 河津氏・相良氏
●遺構 郭・堀切・土塁等
●登城日 2016年8月30日、2019年4月26日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
 安芸・中山城(以下「中山城」とする。)は、広島県の旧佐伯郡佐伯町にあった城郭である。
【写真左】中山城遠望
 南麓を走る津和野街道(県道30号線)から見たもの。









津和野街道

 中山城の南麓には江戸時代、石見津和野藩の参勤交代として使われた街道・津和野街道が東西を走る。石見から険しい峠を何度も越えて周防国を経由し、安芸国へつなげる街道であった。
【写真左】中山城要図
 右方向が北を示す。中央部に主郭を置き、北側と東側に腰郭を配置し、南側の下がった位置にも郭を配している。



 現在の県道30号線がその一部になるが、起点は安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園) から広島湾沿いを南西に下がった佐伯郡宮内村御手洗川出合(現廿日市市宮内)で、ここから御手洗川沿いに遡っていくと、分水嶺となる明石峠に至る。そして西進すると小瀬川の支流・玖島川水系で構成された河津原や友田の盆地が広がる。中山城は、その河津原の中山に築かれた丘城である。
【写真左】登城開始
 麓や斜面などは公園化を図ったような状況なので割と歩きやすい。
 斜面には花木などが植栽されているようだが、この日(6月)はほとんど新緑に覆われた景観となっていた。


現地の説明板より

‟中世の山城 中山城跡
 中山城は標高327m、比高50mの中山に築かれた城で、もと在地土豪の詰めの城と考えられる。江戸時代の地誌『芸藩通誌』は、城主として相良遠江守の名をあげるが、築城者・時期についても史料がなく判然としない。

 本城には石垣こそ用いられていないが、地面を加工して人工の急斜面(「切岸」)と削平地(「曲輪」)を造り出しており、その周囲には三重の堀切や竪堀群、さらに横堀など、発達した空堀が確認できる。
【写真左】祠
 階段状の坂道を登って行くと最初の踊り場には祠が祀られている。以前は麓の方にあったようだが、こちらに移設したようだ。



 厳島合戦は弘治元年(1555)陶・毛利両軍の間で行われたが、その前哨戦となった山里合戦において、毛利元就が城番を配置した「山里要害」とは、この中山城のことと考えられる。

【写真左】中山城の看板
 九十九折れの登城道を過ぎると、平坦となった箇所に「史跡 中山城跡公園」と書かれた看板が設置されている。




 本城は安芸国西部の城郭の中では、際立って厳重な防御施設を備えた城であって、現状のような空堀を多彩に駆使した縄張が完成したのは、このときの改修によるものであろう。

 戦いの舞台となった地域だけに、本城の周囲にも陶方の陣城であった勝成山城、毛利方の築いた狼倉山城など、双方の拠点となった城が点在している。

    平成22年3月(友和地区コミュニティ推進協議会)”

【写真左】前方に土塁と堀切
 本丸方向に進んでいくと、やがて2m前後の高さを持つ土塁があり、それを過ぎると堀切が出てくる。
【写真左】ここから少し高くなる。
 手前には土塁がある。
【写真左】土塁
 上がる位置の近くには土塁と堀切があり、その堀切はそのまま下まで竪堀となって続く。
【写真左】本丸
 ほぼ方形の郭で、一角にはベンチが設置してある。
【写真左】本丸から北側の郭を見る。
腰郭の形態で、登ってきた東側の郭と繋がっている。
【写真左】本丸からいったん下がり周囲に回り込む。
 この辺りも帯郭状の遺構が残る。
【写真左】二条の堀切
 本丸の西側下にあったものだが、少し浅くなっている。
【写真左】南側の郭
 当城の最南端部にある郭で、割と細長い形状。










河津氏

 中山城の築城者及び築城期などについては、説明板にあるように史料がなく判然としないと記している。
【写真左】河津八幡神社
 河津左近が創建したと伝わる河津八幡神社
 中山城から北へおよそ500mほど向かったところにある。




 ただ、中山城から北に500mほど向かった八幡神社が、文永元年(1264)に当時の地頭河津左近が創建したとあり、その後子孫の河津長左衛門が弘和年間(1381~84)に戦死し、嫡流は滅んだとされている。

 このことから、築城期はおそらく件の八幡神社を創建した河津氏(左近)が、同社と併せこのころ(文永元年以前)中山城を築城したと考えられる。
【写真左】八幡神社の石碑
 境内には御覧の石碑が建立されている。









碑文より

‟河津原八幡神社
 祭神
  帯中津日子命
  品陀和気命
  息長帯比売命
 由緒
  大永元年(1264)9月21日鎌倉より勧請し、地頭河津左近神主として奉仕すとの伝えあり。
  宝暦9年(1759)より大歳神社への神輿渡御始まり今日までこれを相伝う。”


相良氏

 下って戦国期に至ると、大内氏の有力家臣であった相良遠江守が当城を再構築したといわれている。
 相良氏は元々筑前僧家の出で、相良正任(ただとう)のとき、大内政弘に仕え、側近祐筆となり、政弘死後は義興を補佐している。中山城を再構築した相良遠江守は、正任の息子で武任(たけとう)と称し、才智に長けていたことから、義興の跡を継いだ義隆は彼を重用した。
【写真左】相良家墓所
 中山城の南側先端部に同家の墓所が建立されている。
 入口の門には「相良遠江守 藤原春忠の墓 相良家の墓所」と書かれた表示板が設置されている。
 ここから中に入って上に向かう。


 義隆が和歌や連歌、芸能といった公家文化に傾倒していったことはよく知られるが、武任も文治政治を基本としながら義隆の公家的趣味に賛同していった人物である。
【写真左】墓石群
 階段を上がっていくと、御覧の墓石が並んでいる。手前は近世のものだが奥には五輪塔などが建立されている。




 そして、武任は義隆の信任を楯にますます権勢をふるい、このためもう一人の大内家重臣陶晴賢と対立していくことになる。

 天文20年(1551)に大内義隆が陶晴賢の謀反によって大寧寺(山口県長門市深川湯本)に自刃することになるが、このとき武任はそれまで度々出奔していたが、ついに義隆自刃のあと、晴賢の命を受けた野上房忠によって、杉興運とともに花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾) で殺害された。享年54歳。
【写真左】五輪塔
 最上段にある五輪塔群で7,8基残る。なおこれとは別に中央部には自然石で加工された墓碑があり、筆耕文字は劣化して解読は困難だが、わずかに「相良」の文字と「定光院…」という文字が確認できる。


 中山城の南麓には相良遠江守の墓が建立されているが、これは供養塔として祀られたものだろう。ただ、その子孫らしい同氏の墓もあるので、武任が当城を離れた後、同氏の一部が残ったのかもしれない。

山里合戦

 毛利元就が陶晴賢を厳島に破ったのは弘治元年(1555)の10月1日である(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)。
 この前哨戦となったのが説明板にもあるように「山里合戦」といわれる戦いである。広義的には「折敷畑の合戦」の一部とも解釈されるが、「山里合戦」は「折敷畑の合戦」で陶方の大将であった宮川房長の討死後、陶方に加勢していた地元の山里一揆を毛利方が掃討していった戦いといえる。
【写真左】宮川甲斐守腹切岩
所在地 廿日市市宮内字辻堂原

 天文23年(1554)、陶晴賢の命を受けた宮川甲斐守房長は、山代(周防)及び山里(安芸)の土豪・農民を動かし、折敷畠(おしきばた)山付近や明石口に陣を敷き、南下してきた毛利軍に対峙した。

 6月5日、毛利軍の急襲により宮川軍(陶軍)は総崩れとなり、大将宮川甲斐守はこの岩で腹を切って自刃した。


 山里は、須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)で述べた周防の山代と同じく、地元の郷村を基盤とした佐伯郡(安芸西南部)の百姓集団であるが、村単位でそれぞれが強固に自立していた。こうした一揆を構成していたのが、玖島村・白砂・大田・吉和・津田・友田等の村々である。

 天文23年(1554)6月5日、桜尾城での籠城戦を不利と見た元就は、陶方大将・宮川房長の拠る折敷畑攻略に向かった。そして、正面と左右両面の三隊に分ける巧みな戦術で宮川房長軍をせん滅した元就は、次に一揆掃討作戦を敢行することになる。
【写真左】中山城から東を俯瞰する。
 中山城側は河津原地区だが、盆地として広がるエリアはほとんど友田地区になる。




 同年6月8日、元就は熊谷・阿曽沼氏に山里一揆の玖島村・白砂村を攻撃させ、7月には吉川元春は奥の大田(安芸大田町)や吉和(廿日市市)を攻撃した。

 しかし、山里一揆は地元の利もあって、思いのほか毛利勢は手間取った。このため、毛利方は調略を謀り白砂村の百姓たちを味方につけ、山里一揆の分断を図った。これに激怒した津田・友田村の面々は白砂村に攻め入ったが、毛利勢が加勢し友田村の砦が陥落、ほどなくして玖島村も降伏した。
【写真左】高立城方面を遠望する。
 高立山城は中山城の北東1.3キロほど向かった丘陵地にある。
 おそらくこの写真の中央部と思われる。



 この中の友田村の砦というのは、中山城の東麓を流れる玖島川の支流友田川の対岸にあった高立城と思われ、中山城とともに友田村の拠点であった可能性が高い。
 なお、陶方の陣城といわれている勝成山城は、中山城から西南へおよそ2キロほど向かった上勝成山(H:684m)に築かれた城郭である。