備中・西山城(びっちゅう・にしやまじょう)
●所在地 岡山県新見市哲西町八鳥
●別名 八鳥要害山
●指定 新見市指定史跡
●高さ 510m(110m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 市川行房
●城主 市川氏・宮隆盛
●遺構 郭、堀切、虎口、土塁等
●登城日 2011年8月5日、2017年3月26日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP「城郭放浪記」、HP「哲西の山城」等)
備中・西山城(以下「西山城」とする。)は、備中国北西部に所在した城郭で、西隣の備後国と接する位置にある。
【写真左】西山城遠望
西麓側から見たもので、手前の道を奥に進むと、北房井倉哲西線(県道50号線)に合流し、東進していくと、途中で以前紹介した阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕) に繋がる。
現地の説明板・その1
‟町指定文化財
西山城址(八鳥 要害山)
要害山の頂上には、本丸跡の他に二の丸、三の丸跡が各一つ、出丸跡が七つ、大手、からめ手などがはっきり残っている。
城は文治元年(1185)源頼朝の重臣市川行房により築かれ、その後、天文2年(1533)毛利氏の家来で備後西城の城主であった宮高盛が築城したとあるが、天正年間(1573~)の尼子と毛利の戦さの際に落城したらしい。”
【写真左】西麓に設置されている説明板
西麓には野馳小学校という学校があり、その角には当城及び、町恵比須の由来を示した説明板が設置してある。
後背が西山城。
現地の説明板・その2
‟町指定文化財
町恵比須(八鳥 町)
八鳥町区に上恵比須、下恵比須と二つのほこらがある町恵比須としてまつったものであるといわれている。
鎌倉時代に西山城の城下町として栄え、また江戸時代には宿場の役目を果たしていたところである。
恵比須は福の神で、商売繁昌を祈ったものと思われる。”
【写真左】登城道
西山城へ向かう登城道は野馳小学校脇の道を東に進み、北側から向かう道がある。
ただ、現地には標識らしきものがなかったため、登城口を探し出すのに手間取った。
写真は登城口からだいぶ進んだ位置で、この辺りから小郭が出てくる。
市川行房
『日本城郭体系 第13巻』を見ると、西山城の築城者といわれる市川行房は、「文治2年、鶴岡御参詣随兵20人中の烈士。後久代氏等」と記されている。
市川行房は一般的に市河行房と書かれ、本貫地は甲斐国巨摩郡市河荘(現・山梨県西八代郡市川三郷町)または、甲斐源氏の源義光の子・武田義清の弟である市河別当刑部卿阿闍梨覚義を祖としているが、備中国に赴いたという記録は見えない。
【写真左】堀切
この日登城したコースは北麓から向かい、西側の尾根に到達後、その尾根の南側沿いを辿って主郭に向かうコースをとったが、この尾根筋には3本程度の堀切が要所に設置されている。
写真はそのうちの一つ。
また、築城期が文治元年(1185)とあるが、この年の11月29日、源頼朝は諸国に守護・地頭を置くことになるが、中国地方では備中国をはじめ播磨・備前・美作・備後国の守護職に梶原景時と土肥實平を任命しているので、おそらくこの両者のどちらかの臣従者が当地に下向したと考えられる。
【写真左】要所に地蔵さんが
しばらく歩いていくと、地蔵さんが祀られている。主郭までに数か所こうした地蔵が道端にある。
宮上総守高盛
そして、実際に城郭として本格的に築城されたのは戦国期と考えられる。築城者である宮高盛は、備後西城の城主としている。備後西城とは以前紹介した大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場) のことである。
この大富山城が築城されたのが、西山城と同じ天文2年(1533)といわれているので、宮高盛(宮上総守高盛)は、二つの城郭をほぼ同時並行しながら普請していったことになる。
【写真左】堀切と小郭
まだ主郭までたどり着いていないが、こうした遺構が段々と増えてくる。
因みに、備後国の大富山城から備中国の西山城まではおよそ30キロほど離れている。
築城して間もないころ、出雲の尼子詮久(後の晴久)の命を受けた備中内群集と呼ばれた新見国経や、丹治部・伊達・石蟹(いしが)(石蟹山城(岡山県新見市石蟹)参照)の諸氏が、宮高盛の居城・西山城と、小奴可宮氏居城の亀山城(広島県庄原市東城町小奴可) を攻め占拠したという。
●所在地 岡山県新見市哲西町八鳥
●別名 八鳥要害山
●指定 新見市指定史跡
●高さ 510m(110m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 市川行房
●城主 市川氏・宮隆盛
●遺構 郭、堀切、虎口、土塁等
●登城日 2011年8月5日、2017年3月26日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP「城郭放浪記」、HP「哲西の山城」等)
備中・西山城(以下「西山城」とする。)は、備中国北西部に所在した城郭で、西隣の備後国と接する位置にある。
【写真左】西山城遠望
西麓側から見たもので、手前の道を奥に進むと、北房井倉哲西線(県道50号線)に合流し、東進していくと、途中で以前紹介した阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕) に繋がる。
現地の説明板・その1
‟町指定文化財
西山城址(八鳥 要害山)
要害山の頂上には、本丸跡の他に二の丸、三の丸跡が各一つ、出丸跡が七つ、大手、からめ手などがはっきり残っている。
城は文治元年(1185)源頼朝の重臣市川行房により築かれ、その後、天文2年(1533)毛利氏の家来で備後西城の城主であった宮高盛が築城したとあるが、天正年間(1573~)の尼子と毛利の戦さの際に落城したらしい。”
【写真左】西麓に設置されている説明板
西麓には野馳小学校という学校があり、その角には当城及び、町恵比須の由来を示した説明板が設置してある。
後背が西山城。
現地の説明板・その2
‟町指定文化財
町恵比須(八鳥 町)
八鳥町区に上恵比須、下恵比須と二つのほこらがある町恵比須としてまつったものであるといわれている。
鎌倉時代に西山城の城下町として栄え、また江戸時代には宿場の役目を果たしていたところである。
恵比須は福の神で、商売繁昌を祈ったものと思われる。”
【写真左】登城道
西山城へ向かう登城道は野馳小学校脇の道を東に進み、北側から向かう道がある。
ただ、現地には標識らしきものがなかったため、登城口を探し出すのに手間取った。
写真は登城口からだいぶ進んだ位置で、この辺りから小郭が出てくる。
市川行房
『日本城郭体系 第13巻』を見ると、西山城の築城者といわれる市川行房は、「文治2年、鶴岡御参詣随兵20人中の烈士。後久代氏等」と記されている。
市川行房は一般的に市河行房と書かれ、本貫地は甲斐国巨摩郡市河荘(現・山梨県西八代郡市川三郷町)または、甲斐源氏の源義光の子・武田義清の弟である市河別当刑部卿阿闍梨覚義を祖としているが、備中国に赴いたという記録は見えない。
【写真左】堀切
この日登城したコースは北麓から向かい、西側の尾根に到達後、その尾根の南側沿いを辿って主郭に向かうコースをとったが、この尾根筋には3本程度の堀切が要所に設置されている。
写真はそのうちの一つ。
また、築城期が文治元年(1185)とあるが、この年の11月29日、源頼朝は諸国に守護・地頭を置くことになるが、中国地方では備中国をはじめ播磨・備前・美作・備後国の守護職に梶原景時と土肥實平を任命しているので、おそらくこの両者のどちらかの臣従者が当地に下向したと考えられる。
【写真左】要所に地蔵さんが
しばらく歩いていくと、地蔵さんが祀られている。主郭までに数か所こうした地蔵が道端にある。
宮上総守高盛
そして、実際に城郭として本格的に築城されたのは戦国期と考えられる。築城者である宮高盛は、備後西城の城主としている。備後西城とは以前紹介した大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場) のことである。
この大富山城が築城されたのが、西山城と同じ天文2年(1533)といわれているので、宮高盛(宮上総守高盛)は、二つの城郭をほぼ同時並行しながら普請していったことになる。
【写真左】堀切と小郭
まだ主郭までたどり着いていないが、こうした遺構が段々と増えてくる。
因みに、備後国の大富山城から備中国の西山城まではおよそ30キロほど離れている。
築城して間もないころ、出雲の尼子詮久(後の晴久)の命を受けた備中内群集と呼ばれた新見国経や、丹治部・伊達・石蟹(いしが)(石蟹山城(岡山県新見市石蟹)参照)の諸氏が、宮高盛の居城・西山城と、小奴可宮氏居城の亀山城(広島県庄原市東城町小奴可) を攻め占拠したという。
その後、天文12年(1543)から翌13年ごろには大内方となっていた高盛は、当時尼子方となっていた三村家親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原) 参照)・楢崎(楢崎城(広島県府中市久佐町字城山) 参照)・草刈(美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)参照)諸氏に再び攻め込まれ、当地八鳥・二本松合戦の舞台となったといわれている。
【写真左】整備された郭が見えてきた。
先ほどの段からさらに登って行くと、もう1か所郭があり、そのあと熊笹で道を遮られそうな箇所を潜り抜けるとやっと頂上部に至る。
写真は南北に伸びる郭群の中央部にあるもので、下から見上げたもの。
こうしたことから、宮氏の本居城であった大富山城が高盛以後5代にわたって継承したのに比べ、備中の西山城の場合は、同氏の思惑通りにいかなかった状況が見えてくる。
これは、当時の備中国には絶対的な領主が存在しておらず、このことから出雲の尼子氏などが当地に触手を伸ばしてきた背景があるからである。
【写真左】南側の郭に向かう。
手前の道は北側の郭の脇にも繋がっており犬走りとなっている。
縄張概要
当城の主だった遺構概要は次の通り。
- 郭1 長径40m×短径29m 北東側に幅2m×高さ1mの土塁、東側に12m、南側に8mのL字状の土塁
- 郭2 長径47m×短径20m
- 郭3 南北18m×東西14m
- 郭4 南北14m×東西18m
- 郭5 郭3と4の下段に全長140m、南端部に虎口
- 郭6 郭2の南と西側に2m低く東西43m×幅7mのコの字型
なお、縄張図としてはHP 『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】南端部の郭
西山城は全体に南北に長軸をとっているが、南側で西(左)に少し折れる。
写真はその折れ部分にある郭と下の郭。
【写真左】東側先端部
【写真左】中央の郭から南の郭を見る。
【写真左】南側の郭・その1
北側を最高所として南側に3つの郭群が連続しているが、そのうち南側の郭
【写真左】南側の郭・その2
この郭が最も長い規模を持つもので、南端部の下には腰郭が西側まで囲繞する形で補完している。
【写真左】南側から北方向を見る。
これも上記の郭で、奥に祠が見える。
【写真左】祠
おそらくこの祠があるところが主郭とおもわれる。
【写真左】北隣の郭
先ほどの郭の北側に隣接するもの。
【写真左】虎口か
上記の郭の右側(東側)には下から伸びてくる道がある。
おそらく当時はこの位置に虎口を設けていたと思われる。
このあとさらに北に向かう。
【写真左】北側の郭
ここにも地蔵が二体祀ってある。
ただ、ここから先は御覧のように熊笹に覆われ、遺構の確認が困難になってくる。
【写真左】直径2m前後の穴
笹をかき分けて進むと、突然大きな穴に遭遇。
狼煙台もしくは井戸跡と思われるが、だいぶ埋まっている。
【写真左】土塁
写真では分かりづらいが、この郭の北東隅に高さ50㎝程度の土塁が確認できる。
なお、この位置から下に向かうと、小郭があり、その下には二条の堀切が配置されている。
【写真左】もう一度振り返って見る。
【写真左】屋敷跡か
登城途中に気になった箇所で、下山した折、再度注視してみると、2,3段で構成された平坦地が確認できる。
場所は北麓側に位置する。
【写真左】南端部の郭
西山城は全体に南北に長軸をとっているが、南側で西(左)に少し折れる。
写真はその折れ部分にある郭と下の郭。
【写真左】東側先端部
【写真左】中央の郭から南の郭を見る。
【写真左】南側の郭・その1
北側を最高所として南側に3つの郭群が連続しているが、そのうち南側の郭
【写真左】南側の郭・その2
この郭が最も長い規模を持つもので、南端部の下には腰郭が西側まで囲繞する形で補完している。
【写真左】南側から北方向を見る。
これも上記の郭で、奥に祠が見える。
【写真左】祠
おそらくこの祠があるところが主郭とおもわれる。
【写真左】北隣の郭
先ほどの郭の北側に隣接するもの。
【写真左】虎口か
上記の郭の右側(東側)には下から伸びてくる道がある。
おそらく当時はこの位置に虎口を設けていたと思われる。
このあとさらに北に向かう。
【写真左】北側の郭
ここにも地蔵が二体祀ってある。
ただ、ここから先は御覧のように熊笹に覆われ、遺構の確認が困難になってくる。
【写真左】直径2m前後の穴
笹をかき分けて進むと、突然大きな穴に遭遇。
狼煙台もしくは井戸跡と思われるが、だいぶ埋まっている。
【写真左】土塁
写真では分かりづらいが、この郭の北東隅に高さ50㎝程度の土塁が確認できる。
なお、この位置から下に向かうと、小郭があり、その下には二条の堀切が配置されている。
【写真左】もう一度振り返って見る。
【写真左】屋敷跡か
登城途中に気になった箇所で、下山した折、再度注視してみると、2,3段で構成された平坦地が確認できる。
場所は北麓側に位置する。
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