2021年4月10日土曜日

徳島城(徳島県徳島市徳島町城内)

徳島城(とくしまじょう)

●所在地 徳島県徳島市徳島町城内
●別名 渭津城、渭山城
●形態 平山城
●高さ 62m(比高60m)
●築城期 至徳2年(1385)
●築城者 細川頼之
●城主 細川頼之、蜂須賀家政、以下蜂須賀家(至鎮、忠英,光隆,綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕、茂韶)
●指定 国指定史跡
●遺構 石垣、郭、堀、井戸等
●登城日 2017年3月5日

◆解説
 徳島城は吉野川河口近くにあった中洲状の小丘に築かれた連郭式山城である。
【写真左】徳島城の石垣
北側の部分で、左に向かうと本丸に繋がる。

 後段でも述べているが、秀吉の命によって、当時伊予にあった小早川隆景、土佐の長宗我部元親、さらには比叡山の僧侶などが築城に協力したという。
 石積には穴太(あのう)衆も関わったとされる。


現地の説明板より

本丸跡
 徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
 本丸は標高61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中では最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。

 櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は、城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
【写真左】徳島城周辺地図
 徳島城を中心とするこの付近は徳島中央公園となっており、城北には助仁川が東西に流れ、そこから城東に水を引き込み、城南の方まで濠が残る。


 本丸の出入口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門(うずめもん)」があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。

 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西二の丸には鉄砲櫓と帳(とばり)櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
 西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。”
【写真左】本丸を囲む石垣
 奥に向かうと冒頭の箇所に至るが、全体に石垣の法面は曲線部はなく直線的な構成となっている。




渭山城・寺島城

 徳島城の前身は南北朝時代後期の至徳2年(1385)、細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が、四国南朝方を滅ぼしたころこの地に城砦を築いたのが始まりといわれている。
 また別説では鎌倉時代当時この地が富田庄と呼ばれたころ、地頭として来住した河野通純が文永9年(1272)築いたともいわれるがはっきりしない。
【写真左】本丸
 説明板にもあるように、御座敷、御留守番所、弓櫓、東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓などといった建物があり、L字型の大きな郭となっている。



 徳島城は別名渭山(猪山)城とも呼ばれた。現在の地図を見ても当城が当時吉野川の三角州の一角に岩塊状の島として存在していたことが想像される。そして、当城には「城山の海蝕痕」が残り、縄文時代には大規模な「海進」があった(下段参照)。

戦国期

 天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の際、臣下の一人であった蜂須賀家政が阿波一国(18万石余)をその勲功により賜り、当国に入り、最初に居城として入ったのが、徳島城から南西10キロ隔てた一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)である。

 入封したものの、家政はすぐに居城を一宮城から紀伊水道に面した現在の位置に平山城を築城計画し、翌天正14年に完成させた。このように、工期が短期で完成したのも、南北朝時代に細川頼之がすでに城郭としての基盤を形成していたからだろう。


清玄坊

 本丸の一角には御覧のような祠が祀られている
【写真左】清玄坊神社(祠)
 神社といわれているが、現在現地には祠のような大きさのものが祀られている。
 おそらく家政寺時代には社が建てられていたものと思われる、


 蜂須賀家が当地に入る前、この場所には三好家と共に阿波に下向し、祈祷所を建てていた清玄坊という修験者が居た。

 蜂須賀家政が阿波に入国し、当城を築城した際付近の全寺社に移転を命じたが、この清玄坊だけはこれをかたくなに拒否した。このため、清玄坊を謀殺した。

 その後蜂須賀家には災いが続出したため、清玄坊の祟りと畏れ、前非を悔いて石碑を建立し末代まで供養することを誓った。この結果変事は収まったという。
【写真左】本丸から眉山を遠望する。
 徳島城から眉山までは直線距離でおよそ2キロとなる。

 この日は時間がなく向かっていないが、当山には家祖・蜂須賀正勝(家政の父)をはじめとする藩主蜂須賀家墓所(万年山墓所)が祀られている。
 なお、正勝は天正14年(1586)5月大阪で没しており、墓石は昭和46年大坂から移されている。
【写真左】弓櫓
 本丸の西端部には弓櫓があり、現在では石垣の一部が残る。


【写真左】弓櫓から西の二の丸へ向かう。
【写真左】西二の丸
【写真左】帳櫓
【写真左】西三の丸・その1
【写真左】西三の丸・その2
【写真左】西三の丸から下に降りて行く。
 なお、下山してから分かったのだが、本丸の東には「東二の丸」が配置されていることをすっかり忘れてしまい。見ることができなかった。
【写真左】8620形式蒸気機関車
 下山した公園内に御覧の蒸気機関車が展示されていた。

 大正12年から昭和44年まで徳島県内を走っていた汽車で、昭和45年に徳島市が国鉄から譲り受けて当地に保存したという。
 因みに徳島城の西隣にはJR四国の徳島駅があり、転車台もある。
【写真左】蜂須賀家政公銅像
 公園内には家政の銅像が建立されている。

 因みに戦前までは父である正勝の銅像が建っていたが、戦時中の金属類回収令に伴い無くなり、昭和40年に改めて今度は息子の家政の銅像が建てられた。
【写真左】数寄屋橋(すきやばし)
 現地の説明板より

❝数寄屋橋
 徳島城の鬼門(北東)に当たる門が、旗櫓の下にあった数寄屋門です。別名「不明門」とも呼ばれたように、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。

 その数寄屋門の東側、堀に架け渡されて橋が数寄屋橋です。
 長さ五間=約9.75m、幅一間=約1.95mの太鼓橋でした。現在は、木製の橋が架けられており、往時をしのばせるものとなっています。”

【写真左】城山の海蝕痕
 岩肌に大小の円形の窪みが海蝕痕(かいしょくこん)といわれるもので、縄文時代前期(6,000~5,000年前ごろ)に海水が内陸まで入り込んだいわゆる「海進」の跡。

【写真左】城山の貝塚
 徳島城を支えるこの岩山には4,000~2,300年前の縄文時代後期・晩期の岩蔭・洞窟遺跡があり、その貝塚が3か所存在している。

 ハマグリ・カキ・ハイガイなどの貝層が見られ、そのほか土器片、さらには完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土している。
 これは大正11年(1922)鳥居龍蔵博士らによる発掘調査で判明している。当時この周辺は豊富な魚介類がたくさんとれたのだろう。
【写真左】中央公園
 徳島城の東麓から南麓にかけて広がる園で、この中には徳島城博物館・御殿庭園・お花見広場などの施設がある。
 写真の奥には東二の丸がある。


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