河内・烏帽子形城(かわち・えぼしがたじょう)
●所在地 大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園
●指定 国指定史跡
●高さ 182m(80m)
●築城期 南北朝時代(元弘2年/正慶元年・1332年)
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏、畠山氏、甲斐性氏等
●遺構 郭・堀切・土塁・空堀等
●備考 楠木七城・烏帽子形公園
●登城日 2016年10月15日
◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』仁木宏・福島克彦編者吉川弘文館等)
前稿大江時親邸(大阪府河内長野市加賀田) から真北へおよそ4キロ余り下っていくと、加賀田川と石川が合流する地点に烏帽子形公園がある。烏帽子形城はこの公園内に築かれた城郭である。
【写真左】長大な堀と土塁
烏帽子形城の特徴の一つとして挙げられるのは、長大な横堀とそれに付属する土塁である。
写真は東側にある屈曲しながら伸びる横堀と土塁。
現地の説明板より
‟烏帽子形城
この城は残されている記録から一時期使われなかったこともありましたが、室町時代から江戸時代のはじめ、元和年間(1615年)までは確実に使用されていました。
城は北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182mの烏帽子形山に築かれています。
【写真左】烏帽子形公園入口
当城は烏帽子形公園として整備され、南側に入口が設けられている。
左の坂を登って行くと駐車場があり、ここに停めて向かう。
城の築城は、南北朝時代に楠正成によって築かれたと伝えられています。応仁の乱後、河内守護の畠山氏の持ち城であり、安土桃山時代にはキリシタン大名で、この地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。
城は主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には郭が造られています。1988年の調査で、主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。”
【写真左】烏帽子形公園案内図
左方向が北を示す。右側が入口で駐車場の近くにはプールなどが設置されているが、当時は郭などの遺構もあったのかもしれない。
また東側には当城の鎮守とされた烏帽子形八幡神社が祀られている。
右側にある青い色で示してあるのが石川。
畠山氏
烏帽子形城の城主は畠山氏一族といわれている。畠山氏についてはこれまで、船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)の稿などで少し触れているが、同氏が歴史の表舞台に出てくるのは、応永5年(1398)に制定された室町幕府の三管領四職七頭の制のころである。
もっともそれ以前の南北朝時代に尊氏から越中・河内・紀伊の守護に任じられているが、既述したように3代将軍足利義満の信任を得たこのころ(応永5年)が最も華々しい時期でもあった。
【写真左】烏帽子形城の復元予想図
この予想図は本丸付近を描いたものだが、実際には長径(南西~北東)300m余の規模を持つ。
ところで、応仁・文明の乱が勃発するのは応仁元年(1467)ごろだが、そのきっかけの一つとなったのが、この畠山氏の家督相続をめぐる内紛からといわれている。
乱勃発の13年前、すなわち享徳3年(1454)、畠山氏は家督をめぐって対立が起きた。この時の当事者が同国守護職畠山義就(よしなり)と、政長である。
詳細はここでは省くが、この対立の中で登場するのが「押子形城(おしこがたじょう)」で、文正元年(1466)、義就が押子形城に拠った政長を攻め落としたといわれる。この押子形城が烏帽子形城であったと考えられている。
またそれから58年後の大永4年(1524)には政長の流れを汲む稙長(たねなが)が、義就流れを汲む義堯(よしたか)の烏帽子形城を攻めている。
【写真左】横堀
南の駐車場から歩いて北に向かっていくと、さっそく横堀が現れる。
河内キリシタンの拠点
畠山氏の内乱がしばらく続いた後、河内を制圧したのが三好長慶(芥川山城(大阪府高槻市大字原)参照) である。しかし、長慶をはじめとする三好氏一族の支配も信長の入京によって消滅し、河内国も信長によってしばらく平定することになる。このとき、信長は同国(河内国)の諸城を破却する命を下すが、烏帽子形城だけは地域支配の拠点として残した。
【写真左】空堀から上の土塁を見上げる。
この辺りの空堀は南側から東に伸びるもので、並行して土塁が右側に付随する。
ところで、宣教師ルイス=フロイスの書簡に、1575年(天正3年)5月4日付で、烏帽子形のキリシタンを訪ねた記録がある。
また1582年(天正10年)2月15日付長崎発パードレ=ガスパル・クエリヨの報告によれば、烏帽子形城には3人の領主がいたと記されている。このうち2人がキリシタンの武士で、一人は畠山氏の遺臣といわれ、堺の裕福な貴族と称されたパウロ(伊地智)文太夫で、もう一人はシメアン(池田丹後守教正)の娘を娶ったことが記録されている。
さらにこの頃城下にはおよそ300人のキリシタンが住んでおり、教会を建てるための木材などが準備されていたという。
【写真左】横堀終点
東から北に延びた横堀はここで終わり、左側から伸びてきた郭と、さらに右(東)に波状に配置された空堀・土塁と合流する。
このあと東側に配置された横堀・土塁方面に向かう。
秀吉の紀州攻め
信長が本能寺で横死したあと、秀吉は天下統一に向けて動き出すが、畿内でもっとも大きな抵抗勢力となったのが、信長時代から続いた根来寺を中心とする紀州勢力である。
烏帽子形城の東麓には高野山へ続く高野街道があり、さらに北側には大和国の五條に続く大沢街道が、さらに西方へは和泉国に繋がる和泉街道などがあり、当城はまさにこれら街道筋が交差する要衝に位置していた。
【写真左】東側の横堀と土塁
東側は次第に下がっていくが、写真のように横堀と土塁をセットにした遺構が続く。
天正12年(1590)、秀吉は当時岸和田城主であった中村一氏(米子城(鳥取県米子市久米町) 参照)に命じて、烏帽子形城を紀州勢対策として改修させるよう命じている。
また、この改修工事にあたっては、益田長秀や本願寺教如からも普請用の鍬などが送られている(『宇野主水日記』)。
そしてこの改修工事が当城における最後のものであったことから、現在残る遺構はこの年(天正12年)のものであろうとされる。
【写真左】この先に本丸
本丸はのちほど踏査することにして、先ずは北東方向の段に向かう。
【写真左】この先に古墳
登城したこの日要所に標柱を設置するための杭が建っていたが、おそらく現在では各遺構の名称等を記したものが設置されているのだろう。
【写真左】谷に降りて行く。
北東方向には左右の尾根と尾根の間にできた谷筋が出来ており、谷底まで降りられる階段が設置されている。
【写真左】土橋か
かなり幅のある谷で、自然地形でもあるが堀としての役目もしていたのだろう。土橋のような形状を残す。
このあと、この土橋を渡り、本丸方面を目指す。
【写真左】谷の反対側の郭段
土橋を渡り西側をみると、不揃いな段が確認できる。
【写真左】本丸の北側
途中で空堀があり、その先を行くと再び右手に空堀が控える。
【写真左】東西に伸びる土塁
さきほど見てきた谷の上端部に当たる箇所で、この箇所で土塁が東西に走っている。
【写真左】空堀
左上が本丸に当たるが、その下にも空堀が控える。
【写真左】帯郭
本丸を囲繞する郭で、奥の方は空堀状となっており、手前方向に行くほど幅が広くなり、平坦地となっているので郭とした。
【写真左】帯郭
別の角度から見たもので、囲繞する郭の奥行がかなりある。
写真左の階段を上がると本丸に至る。
【写真左】本丸
南北に長径50m×短径(5~20m)の長さを持ち、北端部を最高所として南側へ3段の高低差を持たせている。
北端部が解放され見晴らしが効く。
【写真左】石造
本丸の脇には御覧の石像が建立されている。
【写真左】本丸北端部より河内長野市街地を俯瞰する。
【写真左】調査後の郭?
本丸の東側だったと思うが、御覧のような箇所があった。
当城は昭和63年度公園整備のため、平成7年度には史跡指定のための発掘調査がそれぞれ部分的に行われているが、調査終了後の処置としてこのような形をのこしたものだろう。
因みに、昭和63年度のときは礎石建物2棟などが検出されている。
【写真左】西側の横堀と土塁
本丸の西側に降りると、幅は狭いものの南北に70m前後の長さを持つ横堀と土塁が続く。
なお、この写真右下は切岸となって細い尾根が続くが、その途中には中規模な堀切が設置されている(下の写真参照)。
【写真左】堀切
【写真左】烏帽子形八幡神社
当城の東側の麓には冒頭で紹介した烏帽子形八幡神社が鎮座している。
現地の縁起より
‟烏帽子形八幡神社
この神社は、素戔嗚命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇が御祭神で、上田、喜多、小塩、楠ヶ丘、大師町五地区の氏神として崇敬されている。
本殿は、棟札および棟束の墨書により、文明12年(1480年室町時代)の建立が確認され、昭和25年に重要文化財の指定を受けている。なお、昭和40~41年の解体修理によって建立当初の姿に復元された。
また烏帽子形山の山頂には、楠木七城のひとつと伝えられる烏帽子形城跡があり、山城特有の土塁や、空濠が残されている。
山頂から北方へのびる尾根の先端には、古墳時代後期と推定される径20m、高さ3mの円墳一基がある。
昭和62年3月
河内長野市”
●所在地 大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園
●指定 国指定史跡
●高さ 182m(80m)
●築城期 南北朝時代(元弘2年/正慶元年・1332年)
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏、畠山氏、甲斐性氏等
●遺構 郭・堀切・土塁・空堀等
●備考 楠木七城・烏帽子形公園
●登城日 2016年10月15日
◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』仁木宏・福島克彦編者吉川弘文館等)
前稿大江時親邸(大阪府河内長野市加賀田) から真北へおよそ4キロ余り下っていくと、加賀田川と石川が合流する地点に烏帽子形公園がある。烏帽子形城はこの公園内に築かれた城郭である。
【写真左】長大な堀と土塁
烏帽子形城の特徴の一つとして挙げられるのは、長大な横堀とそれに付属する土塁である。
写真は東側にある屈曲しながら伸びる横堀と土塁。
現地の説明板より
‟烏帽子形城
この城は残されている記録から一時期使われなかったこともありましたが、室町時代から江戸時代のはじめ、元和年間(1615年)までは確実に使用されていました。
城は北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182mの烏帽子形山に築かれています。
【写真左】烏帽子形公園入口
当城は烏帽子形公園として整備され、南側に入口が設けられている。
左の坂を登って行くと駐車場があり、ここに停めて向かう。
城の築城は、南北朝時代に楠正成によって築かれたと伝えられています。応仁の乱後、河内守護の畠山氏の持ち城であり、安土桃山時代にはキリシタン大名で、この地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。
城は主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には郭が造られています。1988年の調査で、主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。”
【写真左】烏帽子形公園案内図
左方向が北を示す。右側が入口で駐車場の近くにはプールなどが設置されているが、当時は郭などの遺構もあったのかもしれない。
また東側には当城の鎮守とされた烏帽子形八幡神社が祀られている。
右側にある青い色で示してあるのが石川。
畠山氏
烏帽子形城の城主は畠山氏一族といわれている。畠山氏についてはこれまで、船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)の稿などで少し触れているが、同氏が歴史の表舞台に出てくるのは、応永5年(1398)に制定された室町幕府の三管領四職七頭の制のころである。
もっともそれ以前の南北朝時代に尊氏から越中・河内・紀伊の守護に任じられているが、既述したように3代将軍足利義満の信任を得たこのころ(応永5年)が最も華々しい時期でもあった。
【写真左】烏帽子形城の復元予想図
この予想図は本丸付近を描いたものだが、実際には長径(南西~北東)300m余の規模を持つ。
ところで、応仁・文明の乱が勃発するのは応仁元年(1467)ごろだが、そのきっかけの一つとなったのが、この畠山氏の家督相続をめぐる内紛からといわれている。
乱勃発の13年前、すなわち享徳3年(1454)、畠山氏は家督をめぐって対立が起きた。この時の当事者が同国守護職畠山義就(よしなり)と、政長である。
詳細はここでは省くが、この対立の中で登場するのが「押子形城(おしこがたじょう)」で、文正元年(1466)、義就が押子形城に拠った政長を攻め落としたといわれる。この押子形城が烏帽子形城であったと考えられている。
またそれから58年後の大永4年(1524)には政長の流れを汲む稙長(たねなが)が、義就流れを汲む義堯(よしたか)の烏帽子形城を攻めている。
【写真左】横堀
南の駐車場から歩いて北に向かっていくと、さっそく横堀が現れる。
河内キリシタンの拠点
畠山氏の内乱がしばらく続いた後、河内を制圧したのが三好長慶(芥川山城(大阪府高槻市大字原)参照) である。しかし、長慶をはじめとする三好氏一族の支配も信長の入京によって消滅し、河内国も信長によってしばらく平定することになる。このとき、信長は同国(河内国)の諸城を破却する命を下すが、烏帽子形城だけは地域支配の拠点として残した。
【写真左】空堀から上の土塁を見上げる。
この辺りの空堀は南側から東に伸びるもので、並行して土塁が右側に付随する。
ところで、宣教師ルイス=フロイスの書簡に、1575年(天正3年)5月4日付で、烏帽子形のキリシタンを訪ねた記録がある。
また1582年(天正10年)2月15日付長崎発パードレ=ガスパル・クエリヨの報告によれば、烏帽子形城には3人の領主がいたと記されている。このうち2人がキリシタンの武士で、一人は畠山氏の遺臣といわれ、堺の裕福な貴族と称されたパウロ(伊地智)文太夫で、もう一人はシメアン(池田丹後守教正)の娘を娶ったことが記録されている。
さらにこの頃城下にはおよそ300人のキリシタンが住んでおり、教会を建てるための木材などが準備されていたという。
【写真左】横堀終点
東から北に延びた横堀はここで終わり、左側から伸びてきた郭と、さらに右(東)に波状に配置された空堀・土塁と合流する。
このあと東側に配置された横堀・土塁方面に向かう。
秀吉の紀州攻め
信長が本能寺で横死したあと、秀吉は天下統一に向けて動き出すが、畿内でもっとも大きな抵抗勢力となったのが、信長時代から続いた根来寺を中心とする紀州勢力である。
烏帽子形城の東麓には高野山へ続く高野街道があり、さらに北側には大和国の五條に続く大沢街道が、さらに西方へは和泉国に繋がる和泉街道などがあり、当城はまさにこれら街道筋が交差する要衝に位置していた。
【写真左】東側の横堀と土塁
東側は次第に下がっていくが、写真のように横堀と土塁をセットにした遺構が続く。
天正12年(1590)、秀吉は当時岸和田城主であった中村一氏(米子城(鳥取県米子市久米町) 参照)に命じて、烏帽子形城を紀州勢対策として改修させるよう命じている。
また、この改修工事にあたっては、益田長秀や本願寺教如からも普請用の鍬などが送られている(『宇野主水日記』)。
そしてこの改修工事が当城における最後のものであったことから、現在残る遺構はこの年(天正12年)のものであろうとされる。
【写真左】この先に本丸
本丸はのちほど踏査することにして、先ずは北東方向の段に向かう。
【写真左】この先に古墳
登城したこの日要所に標柱を設置するための杭が建っていたが、おそらく現在では各遺構の名称等を記したものが設置されているのだろう。
【写真左】谷に降りて行く。
北東方向には左右の尾根と尾根の間にできた谷筋が出来ており、谷底まで降りられる階段が設置されている。
【写真左】土橋か
かなり幅のある谷で、自然地形でもあるが堀としての役目もしていたのだろう。土橋のような形状を残す。
このあと、この土橋を渡り、本丸方面を目指す。
【写真左】谷の反対側の郭段
土橋を渡り西側をみると、不揃いな段が確認できる。
【写真左】本丸の北側
途中で空堀があり、その先を行くと再び右手に空堀が控える。
【写真左】東西に伸びる土塁
さきほど見てきた谷の上端部に当たる箇所で、この箇所で土塁が東西に走っている。
【写真左】空堀
左上が本丸に当たるが、その下にも空堀が控える。
【写真左】帯郭
本丸を囲繞する郭で、奥の方は空堀状となっており、手前方向に行くほど幅が広くなり、平坦地となっているので郭とした。
【写真左】帯郭
別の角度から見たもので、囲繞する郭の奥行がかなりある。
写真左の階段を上がると本丸に至る。
【写真左】本丸
南北に長径50m×短径(5~20m)の長さを持ち、北端部を最高所として南側へ3段の高低差を持たせている。
北端部が解放され見晴らしが効く。
【写真左】石造
本丸の脇には御覧の石像が建立されている。
【写真左】本丸北端部より河内長野市街地を俯瞰する。
【写真左】調査後の郭?
本丸の東側だったと思うが、御覧のような箇所があった。
当城は昭和63年度公園整備のため、平成7年度には史跡指定のための発掘調査がそれぞれ部分的に行われているが、調査終了後の処置としてこのような形をのこしたものだろう。
因みに、昭和63年度のときは礎石建物2棟などが検出されている。
【写真左】西側の横堀と土塁
本丸の西側に降りると、幅は狭いものの南北に70m前後の長さを持つ横堀と土塁が続く。
なお、この写真右下は切岸となって細い尾根が続くが、その途中には中規模な堀切が設置されている(下の写真参照)。
【写真左】堀切
【写真左】烏帽子形八幡神社
当城の東側の麓には冒頭で紹介した烏帽子形八幡神社が鎮座している。
現地の縁起より
‟烏帽子形八幡神社
この神社は、素戔嗚命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇が御祭神で、上田、喜多、小塩、楠ヶ丘、大師町五地区の氏神として崇敬されている。
本殿は、棟札および棟束の墨書により、文明12年(1480年室町時代)の建立が確認され、昭和25年に重要文化財の指定を受けている。なお、昭和40~41年の解体修理によって建立当初の姿に復元された。
また烏帽子形山の山頂には、楠木七城のひとつと伝えられる烏帽子形城跡があり、山城特有の土塁や、空濠が残されている。
山頂から北方へのびる尾根の先端には、古墳時代後期と推定される径20m、高さ3mの円墳一基がある。
昭和62年3月
河内長野市”
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