米子城(よなごじょう)
●所在地 鳥取県米子市久米町
●別名 久米城・湊山城
●築城期 文明2年(1470)ごろ、または天正年間(1573~92)
●築城者 山名氏か、または吉川元春
●改修者 吉川広家・中村一忠
●形態 平山城
●遺構 石垣・門等
●高さ 標高90m
●指定 国指定史跡(平成18年:2006年)
●登城日 2006年11月8日、及び2010年5月21日
◆解説(参考資料 「米子市HP」『日本城郭体系第14巻』『尼子物語:妹尾豊三郎編著』等)
米子城については、以前取り上げた同市内にあった尾高城(鳥取県米子市尾高)でも少し紹介しているが、平成18年に国指定史跡を受けた平山城である。
【写真左】米子城遠望・その1
南麓を走る国道9号線の東方から見たもの。
2012年2月撮影のもの。
【写真左】米子城遠望・その2
中海を挟んで、北側から見たもの(2014年2月撮影)。
現地の説明板より
“国指定史跡
米子城跡
指定年月日 平成18年1月26日
米子城は、伯耆国守護山名教之(のりゆき)の配下、山名宗之(むねゆき)によって応仁年間から文明年間(1467~87)に築かれたと伝えられる。その後、天正19年(1591)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。このため、新たに伯耆18万石・米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602)に完成させたとされる。
【写真左】湊山公園案内図
米子城は、湊山公園として整備され、「三の丸」は野球場、「二の丸」は庭球場と示されているが、江戸後期の配置名称だろう。
『日本城郭体系』にあるように、当城の江戸初期は、本丸は湊山に、二の丸は「丸山(別名内膳丸)、三の丸は飯山というように、独立した山城構成だったようだ。
当時の面影を残しているものは、この本丸と「内膳丸」だが、その周囲は散歩コースとして市民に親しまれている。
なお、登山口は5か所設けられている。
この案内図では左側が北を示し、右上に国道9号線が走る。なお、この図には描かれていないが、国道9号線を挟んで南側には既述した「飯山城」がある。
絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)の二つが並ぶ威容を誇っている。一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられている。
中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長15年(1617)に加藤貞泰が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之(よしゆき)・由成り(よしなり)と城主が頻繁に入れ替わる。
【写真左】頂上・内膳丸登城口から向かう。
公園管理事務所側の駐車場に車を止め、そこから向かうと、九十九折の石積み階段があり、数分で鞍部にたどり着く。
池田光仲が寛永9年(1632)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治になって天守閣をはじめとする建物すべてが取り壊された。
米子城は、山上に本丸、内膳丸、山裾に二の丸、三の丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い。
平成19年3月 鳥取県教育委員会”
【写真左】内膳丸と本丸の分岐点
この場所で右に向かうと本丸・二の丸方面へ、左に向かうと内膳丸へつながる。
最初に内膳丸へ向かう。
築城期
近世城郭となった米子城の前身は元々海城といわれている。別名「湊山城」ともいわれているように、「湊」すなわち「港」があった場所とされ、横田山城(島根県松江市美保関町森山)のように、中海湖岸に水軍城としての役割を持たせた城砦と考えられる。
【写真左】内膳丸
丸山とも呼ばれ、二の丸の機能をもっていた。
下段示すように、中村氏時代の家老・横田内膳正村詮が担当し、別名「内膳丸」という。
郭周り1町46間、冠木門1、二十櫓1、二重多門櫓1などがあり、武器庫が設置されていた。
台形状の奥行のある削平地で、先端部から中海が俯瞰できる。
築城期は応永から文明年間、といわれているので、いわゆる「応永の乱」が繰り広げられた時である。当時の伯耆国守護・山名教之の配下・山名宗之が築城者といわれている。
このころ応仁の乱が勃発すると、山陰にも東軍方と西軍方が相入り乱れた様相を呈する。山名教之は、石見国守護であった山名政清と西軍方(山名宗全)に味方し、伯耆国と石見国に挟まれた出雲国・隠岐国の守護・京極持清は、東軍方(細川勝元)に与した。
湊山城(米子城)は、伯耆国と出雲国の国境付近に所在し、いわゆる境目の城として非常に重要な城砦であったことが想像される。
【写真左】内膳丸から本丸を見上げる。
2回目の登城が5月だったため、周囲の木立が青々と茂り、本丸の石垣が少ししか見えないが、この位置からの眺めも見ごたえがある。
先端部に人が立っている。
戦国期
尼子氏が滅ぶ元亀2年(1571)の春、伯耆国の尾高城には毛利方の猛将といわれた杉原播磨守盛重が備後から転城し、攻囲を防御せしめていた。そして、その北方の中海に突き出した湊山には吉川元春の家臣・福頼元秀が守備していた。
時期ははっきりしないものの、同年3月ごろと思われるが、尼子方の羽倉孫兵衛(和久羅山城主)が大将となって、目加田采女・同弾右衛門、高尾右馬允等500余騎が小舟を連ねて、米子城を攻めた。
【写真左】御殿御用井戸跡と、二の丸跡
上記の「内膳丸」から本丸に向かう途中で、一旦下に降りると、後の二の丸跡となった現在の庭球場、及び井戸跡がある。
「きれいな清水がわきでるので、御殿の用水に使う車井戸があった」と記されている。
左側が後の二の丸で、庭球場。
その後、安芸にあった杉原盛重が尾高城に戻ると、二度目の尼子方の攻撃で、羽倉孫兵衛は毛利方の将・岩田藤次郎によって討ち取られた。
【写真左】旧小原家長屋門
現地の説明板より
“米子市指定有形文化財
旧小原家長屋門
この長屋門は、市内西町の小原家にあったが、昭和28年米子市に寄贈され現在地に移築し、市立山陰歴史館として昭和59年まで利用してきた。
小原氏は、米子荒尾家の家臣で、禄高120石であった。
建物は、江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84㎡余りであった。大扉の向かって右側に1室、左側に2室あって、その上は一部低い中二階になっている。市内に現存する唯一の武家建築として貴重である。
№16 米子市”
【写真左】枡形(ますがた)
上記の長屋門からそのまま南に下がると、「枡形」がある。
規模 東西25.44m、南北22.72mとほぼ正方形の平坦面で、入口を二重にし、門奥の見通しを遮り、この手前の広場では、城主の行列の共揃い、武士の集合場所として使われたという。
中村一忠と家老横田内膳
関ヶ原の合戦後、伯耆国18万石の領主として駿府から中村一氏の嫡子・一忠が封ぜられ、松平伯耆守一忠と改称した。しかし、当時彼はわずか12歳であったため、米子藩の執政は家老横田内膳が補佐した。
【写真左】9号線側の登山口から登る。
上掲の枡形より南に向かったところにもう一つの登山口があり、この場所から左に向かうと、頭上の本丸側に向かう。
三段の石垣群が見えてくる。
彼は藩政の安定、産業殖産に大いに手腕をふるい、近世米子の城下町としての基礎を築いた。
しかし、このことが却って藩内で反感を抱くものが出始め、一忠の近臣らが内膳を暗殺してしまった。慶長8年(1603)11月14日のことである。
このため、内膳の嫡男・主馬之助は、父の無念を晴らすため、一族とともに本丸から南方に聳える飯山(三の丸)に立て籠もり、蜂起した。
これに驚いた一忠は、父・一氏の盟友であった隣国・出雲の月山富田城に封ぜられていた堀尾吉晴に援軍を頼み、結果主馬之助は敗れ、自刃した。
その後、一忠20歳の慶長14年(1609)、日野川に狩りに出た際、梅を食べたことが災いし、5月12日夭逝した。一忠には嫡男がいなかったため、伯耆中村家は断絶することになる。
以降については、説明板の通り。
【写真左】鉄御門跡
本丸・天守に向かう門跡で、頑丈な鉄製の門が造られていた。
間口12.72m、奥行4.5m、2階建。
【写真左】本丸・天守閣跡・その1
本丸の規模は、東側平均42間、南側平均14間、西側平均69間、北側平均46間。
天守は、五重櫓、四重櫓、などがあった。
櫓総数は18、門数は6箇所あった。
写真は天守閣のあった礎石跡。
【写真左】本丸・天守閣跡・その2
【写真左】本丸側から内膳丸を見る。
この写真は、5月ごろに登城したもので、左側は中海、麓は米子の町並みが見え、その奥には美保関の島根半島が見える。
【写真左】本丸跡から大山(だいせん)を見る。
右側に大山が見える。
近在の城郭の中でもこれだけ眺望がいいところはそれほど多くはない。
ただ、天守があったころはおそらく日本海からの風をまともに受けていたと思われるので、冬の最上階は相当堪えたのだろう。
【写真左】遠見櫓跡
本丸から少し下がった所にあり、7.27m×9.09mの平屋櫓と、3.36m×3.63mの二重櫓があったという。別名着見櫓。
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●築城者 山名氏か、または吉川元春
●改修者 吉川広家・中村一忠
●形態 平山城
●遺構 石垣・門等
●高さ 標高90m
●指定 国指定史跡(平成18年:2006年)
●登城日 2006年11月8日、及び2010年5月21日
◆解説(参考資料 「米子市HP」『日本城郭体系第14巻』『尼子物語:妹尾豊三郎編著』等)
米子城については、以前取り上げた同市内にあった尾高城(鳥取県米子市尾高)でも少し紹介しているが、平成18年に国指定史跡を受けた平山城である。
【写真左】米子城遠望・その1
南麓を走る国道9号線の東方から見たもの。
2012年2月撮影のもの。
【写真左】米子城遠望・その2
中海を挟んで、北側から見たもの(2014年2月撮影)。
現地の説明板より
“国指定史跡
米子城跡
指定年月日 平成18年1月26日
米子城は、伯耆国守護山名教之(のりゆき)の配下、山名宗之(むねゆき)によって応仁年間から文明年間(1467~87)に築かれたと伝えられる。その後、天正19年(1591)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。このため、新たに伯耆18万石・米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602)に完成させたとされる。
【写真左】湊山公園案内図
米子城は、湊山公園として整備され、「三の丸」は野球場、「二の丸」は庭球場と示されているが、江戸後期の配置名称だろう。
『日本城郭体系』にあるように、当城の江戸初期は、本丸は湊山に、二の丸は「丸山(別名内膳丸)、三の丸は飯山というように、独立した山城構成だったようだ。
当時の面影を残しているものは、この本丸と「内膳丸」だが、その周囲は散歩コースとして市民に親しまれている。
なお、登山口は5か所設けられている。
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絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)の二つが並ぶ威容を誇っている。一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられている。
中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長15年(1617)に加藤貞泰が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之(よしゆき)・由成り(よしなり)と城主が頻繁に入れ替わる。
【写真左】頂上・内膳丸登城口から向かう。
公園管理事務所側の駐車場に車を止め、そこから向かうと、九十九折の石積み階段があり、数分で鞍部にたどり着く。
池田光仲が寛永9年(1632)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治になって天守閣をはじめとする建物すべてが取り壊された。
米子城は、山上に本丸、内膳丸、山裾に二の丸、三の丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い。
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この場所で右に向かうと本丸・二の丸方面へ、左に向かうと内膳丸へつながる。
最初に内膳丸へ向かう。
築城期
近世城郭となった米子城の前身は元々海城といわれている。別名「湊山城」ともいわれているように、「湊」すなわち「港」があった場所とされ、横田山城(島根県松江市美保関町森山)のように、中海湖岸に水軍城としての役割を持たせた城砦と考えられる。
【写真左】内膳丸
丸山とも呼ばれ、二の丸の機能をもっていた。
下段示すように、中村氏時代の家老・横田内膳正村詮が担当し、別名「内膳丸」という。
郭周り1町46間、冠木門1、二十櫓1、二重多門櫓1などがあり、武器庫が設置されていた。
台形状の奥行のある削平地で、先端部から中海が俯瞰できる。
築城期は応永から文明年間、といわれているので、いわゆる「応永の乱」が繰り広げられた時である。当時の伯耆国守護・山名教之の配下・山名宗之が築城者といわれている。
このころ応仁の乱が勃発すると、山陰にも東軍方と西軍方が相入り乱れた様相を呈する。山名教之は、石見国守護であった山名政清と西軍方(山名宗全)に味方し、伯耆国と石見国に挟まれた出雲国・隠岐国の守護・京極持清は、東軍方(細川勝元)に与した。
湊山城(米子城)は、伯耆国と出雲国の国境付近に所在し、いわゆる境目の城として非常に重要な城砦であったことが想像される。
【写真左】内膳丸から本丸を見上げる。
2回目の登城が5月だったため、周囲の木立が青々と茂り、本丸の石垣が少ししか見えないが、この位置からの眺めも見ごたえがある。
先端部に人が立っている。
戦国期
尼子氏が滅ぶ元亀2年(1571)の春、伯耆国の尾高城には毛利方の猛将といわれた杉原播磨守盛重が備後から転城し、攻囲を防御せしめていた。そして、その北方の中海に突き出した湊山には吉川元春の家臣・福頼元秀が守備していた。
時期ははっきりしないものの、同年3月ごろと思われるが、尼子方の羽倉孫兵衛(和久羅山城主)が大将となって、目加田采女・同弾右衛門、高尾右馬允等500余騎が小舟を連ねて、米子城を攻めた。
【写真左】御殿御用井戸跡と、二の丸跡
上記の「内膳丸」から本丸に向かう途中で、一旦下に降りると、後の二の丸跡となった現在の庭球場、及び井戸跡がある。
「きれいな清水がわきでるので、御殿の用水に使う車井戸があった」と記されている。
左側が後の二の丸で、庭球場。
その後、安芸にあった杉原盛重が尾高城に戻ると、二度目の尼子方の攻撃で、羽倉孫兵衛は毛利方の将・岩田藤次郎によって討ち取られた。
【写真左】旧小原家長屋門
現地の説明板より
“米子市指定有形文化財
旧小原家長屋門
この長屋門は、市内西町の小原家にあったが、昭和28年米子市に寄贈され現在地に移築し、市立山陰歴史館として昭和59年まで利用してきた。
小原氏は、米子荒尾家の家臣で、禄高120石であった。
建物は、江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84㎡余りであった。大扉の向かって右側に1室、左側に2室あって、その上は一部低い中二階になっている。市内に現存する唯一の武家建築として貴重である。
№16 米子市”
【写真左】枡形(ますがた)
上記の長屋門からそのまま南に下がると、「枡形」がある。
規模 東西25.44m、南北22.72mとほぼ正方形の平坦面で、入口を二重にし、門奥の見通しを遮り、この手前の広場では、城主の行列の共揃い、武士の集合場所として使われたという。
中村一忠と家老横田内膳
関ヶ原の合戦後、伯耆国18万石の領主として駿府から中村一氏の嫡子・一忠が封ぜられ、松平伯耆守一忠と改称した。しかし、当時彼はわずか12歳であったため、米子藩の執政は家老横田内膳が補佐した。
【写真左】9号線側の登山口から登る。
上掲の枡形より南に向かったところにもう一つの登山口があり、この場所から左に向かうと、頭上の本丸側に向かう。
三段の石垣群が見えてくる。
彼は藩政の安定、産業殖産に大いに手腕をふるい、近世米子の城下町としての基礎を築いた。
しかし、このことが却って藩内で反感を抱くものが出始め、一忠の近臣らが内膳を暗殺してしまった。慶長8年(1603)11月14日のことである。
このため、内膳の嫡男・主馬之助は、父の無念を晴らすため、一族とともに本丸から南方に聳える飯山(三の丸)に立て籠もり、蜂起した。
これに驚いた一忠は、父・一氏の盟友であった隣国・出雲の月山富田城に封ぜられていた堀尾吉晴に援軍を頼み、結果主馬之助は敗れ、自刃した。
その後、一忠20歳の慶長14年(1609)、日野川に狩りに出た際、梅を食べたことが災いし、5月12日夭逝した。一忠には嫡男がいなかったため、伯耆中村家は断絶することになる。
以降については、説明板の通り。
【写真左】鉄御門跡
本丸・天守に向かう門跡で、頑丈な鉄製の門が造られていた。
間口12.72m、奥行4.5m、2階建。
【写真左】本丸・天守閣跡・その1
本丸の規模は、東側平均42間、南側平均14間、西側平均69間、北側平均46間。
天守は、五重櫓、四重櫓、などがあった。
櫓総数は18、門数は6箇所あった。
写真は天守閣のあった礎石跡。
【写真左】本丸・天守閣跡・その2
【写真左】本丸側から内膳丸を見る。
この写真は、5月ごろに登城したもので、左側は中海、麓は米子の町並みが見え、その奥には美保関の島根半島が見える。
【写真左】本丸跡から大山(だいせん)を見る。
右側に大山が見える。
近在の城郭の中でもこれだけ眺望がいいところはそれほど多くはない。
ただ、天守があったころはおそらく日本海からの風をまともに受けていたと思われるので、冬の最上階は相当堪えたのだろう。
【写真左】遠見櫓跡
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