2014年6月24日火曜日

志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)

志方城(しかたじょう)

●所在地 兵庫県加古川市志方町志方町720
●別名 市易城・観音寺城
●備考 観音寺
●築城期 明応元年(1492)
●築城者 櫛橋左京亮則伊
●城主 櫛橋氏
●形態 平城
●遺構 土塁等
●登城日 2014年3月14日

◆解説
 黒田官兵衛は他の戦国武将のように正妻とは別に側室などを置かなかった。相思相愛の夫婦であったわけである。

 官兵衛の妻は「光(てる)」と呼ばれ、官兵衛と同じく詩等を詠む文化人でもあったようで、後年「幸圓(こうえん)」と雅号した。
 この光の実家が本稿で取り上げる櫛橋家の居城・志方城である。
【写真左】志方城遠望
 志方城の北東1キロにある志方八幡宮からみたもので、典型的な平城・城館だったと考えられる。
 後段で紹介するように、現在は跡地に観音寺や小学校などが建っている。



現地の説明板より

“官兵衛の妻 光(てる)のふるさと
観音寺(志方城跡)

 曹洞宗の寺院で本尊は観世音菩薩です。観音寺の付近一帯は志方城跡です。現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)、西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であったようです。
【写真左】観音寺山門
 城下町特有の狭い通りで、志方城跡に建つ観音寺が見える。
 その両脇には光の幟が建ててある。
 探訪した折、この界隈には光・官兵衛関係の幟が設置してあった(下の写真参照)。

 なお、ご覧の通り大変に狭い道なので、この辺りに駐車場は確保できない(当院駐車場もあるが、地元の人でないと分からない場所)ので、西側大通り脇にあるスーパーの駐車場に停めて、そこからじっくりと散策気分で向かった方がいいだろう。


【写真左】官兵衛と光姫が描かれた幟
 「黒田官兵衛が生涯愛した「光」のふるさと 加古川」と書かれ、光は 「てるひめちゃん」というかわいらしい名前で紹介されている。



 この城の城主・櫛橋家は伊朝を祖とし、代々赤松氏の家臣でした。伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役をつとめ、文明13年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築きました。

 以来、伊家・伊定・政伊と父子四代続き、天正6年(1578)羽柴秀吉の攻略にあって落城しました。伊定の娘・光/てる(幸圓/こうえん)は、秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年に嫡男が生まれました。後の福岡藩主・黒田長政です。
【写真左】「志方城(観音寺城)」の標柱
 入口付近に建てられている。

 現在の観音寺は、志方城落城の後、天正15年(1587)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。
 加古川市”
【写真左】西側駐車場付近
 南西端の入り口付近には当院の駐車場が確保されているが、当時この辺りには濠が巡らされていた。

 右側の駐車場と境内(左側)の高低差は、現在でも約3m前後あるので、濠があったころは、さらに高さを保持していたのだろう。

 写真左奥は本堂で、改修工事が行われていた。


櫛橋家

 説明板にもあるように、櫛橋家の始祖は伊朝(ただとも・これとも)といわれている。そして櫛橋氏は南北朝期に活躍した糟谷氏(加古川城・称名寺糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城参照)の庶流ともいわれているが定かでない。
【写真左】櫛橋家 累代墓所・その1
 櫛橋家の墓所は本堂の西側から北に向かって進み、小学校の校舎と相対する位置に祀られている。



 官兵衛の妻・光の父は、伊定(これさだ・たださだ)といわれている。大河ドラマ「軍師 官兵衛」でも紹介されたように、光の姉・妙寿尼(みょうじゅに)は、当時赤松氏の一族であった上月城主・上月十郎景貞に嫁いでいる。

 そして、伊定の嫡男・政伊も後に毛利方に属して織田軍と戦ったが、敗れ、政伊を以て志方城の櫛橋氏はここに没落した。
【写真左】櫛橋家 累代墓所・その2
 「志方城主娘黒田官兵衛正室 櫛橋幸圓」とかかれた幟が建てられている。
【写真左】土塁跡か・その1
 櫛橋家累代の墓所をはじめ、境内北側全体が墓地となっているが、右側(北側)の志方小学校との間には土塁跡がのこる。

 観音寺が本丸跡で、小学校が二ノ丸とされているので、この間に土塁が設けられ、二ノ丸は一段低く(3~3mの比高差)配置されていたと考えられる。
【写真左】土塁跡か・その2
 墓地の東側で、右側奥に観音寺本堂が見える。
 東側まで土塁が廻り込み、さらにその東には薮化した小丘が繋がる。
【写真左】櫛橋家墓より本堂を見る。
 北側から南を見たものだが、全体に北から南にかけて下り勾配になっている。
【写真左】志方八幡神社・その1
 天永2年(1111)宮谷に創祀され、明応元年(1492)、志方城主・棚橋左京亮伊則が現地に奉還して八幡神を勧請。

 播磨三社八幡の一つ。祭神は応仁天皇・神功皇后・玉依比売命。
【写真左】志方八幡神社・その2
 参道にも光姫の幟が設置されていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿