2022年12月24日土曜日

山手銀山城(広島県福山市山手町字杢原)

 山手銀山城(やまてぎんざんじょう)

●所在地 広島県福山市山手町字杢原
●別名 要害山
●高さ 249m(比高230m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 杉原氏
●城主 杉原匡信、理興、盛重
●遺構 石垣、土塁、郭、竪堀、井戸など
●登城日 2018年1月15日

解説(参考文献 『備陽史探訪の会』『日本城郭体系』等)

 山手銀山城(以下「銀山城」とする。)は、山陽自動車道の福山SAから北に1.5キロほど向かった山手トンネルの北西側の山に築かれた城郭である。

【写真左】山手銀山城遠望
 南西麓から見たもので、中央の高い山が主郭になる。






山手杉原氏

 銀山城については詳細な記録はあまり残っていないが、以前紹介した鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)の木梨杉原氏の一族・杉原匡信が当地山手に築いたのが始まりとされ、山手杉原氏始祖としている。

 匡信は戦国期に活躍した武将で、銀山城はそれ以前の室町初期にすでに城郭として築かれた可能性が高いが、この時期の城主ははっきりしない。
 匡信のあとを継いだのが理興、すなわちのちの神辺城主となった人物だが、理興自身は山手杉原氏の出でなく、彼は八尾杉原氏の出であるとしている(『備陽史探訪の会』)。
【左図】山手銀山城周辺の案内図
 銀山城は図の中央右の位置にあり、その東方には後段で紹介する三宝寺がある。




 八尾杉原氏とは、以前紹介した八ツ尾城(広島県府中市出口町)を本拠とした杉原氏で、建仁2年(1202)、征夷大将軍に補せられた源頼家より備後守護職を得て来住した杉原伯耆守光平を祖とする。

 理興のあと銀山城主となったのが杉原盛重である。盛重については、神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)の稿などで度々紹介しているが、盛重は理興に嫡子がいなかったことから理興の養子として名跡を継ぐことになる。
 盛重の家督相続については吉川元春の強い推挙が働いていたこともあり、後に尼子氏攻略のため山陰方面で大きな戦功をあげていく。
【写真左】登城口付近
 現地には登城口を示す標識などないが、案内図にもあるように、西麓から伸びる中国自然歩道を東に登っていくと、道路わきから向かうルートが確認できる。
 

 盛重は天正9年(1581)12月、伯耆の八橋城で没した。その後、盛重の家督相続を巡って、嫡子・元盛とその弟・景盛との対立があり、景盛は毛利氏の怒りに触れ、出雲の平田城麓で自害することになる(大林寺(島根県出雲市平田町496-2)下段参照)。
【写真左】竪堀
 登り始めるとすぐに竪堀が現れた。この辺りには多くの竪堀(群)が配置され、東方からの防御に備えている。


遺構
 銀山城の主だった遺構としては、北から伸びる尾根上に南に向かって数段の郭を配し、少し下がった東側の位置に4,5段の郭を置いている。
【写真左】畝状竪堀群
 この箇所は別のところのもので、こうした竪堀群が東から北にかけて多く見られる。
【写真左】上方に郭段が見え始める。
【写真左】帯郭
 上の段の郭から下の方を見たもので、かなり長い郭。
【写真左】東側に伸びる郭段
 この箇所に土塁があり、奥に主郭群が見え始めた。
【写真左】奥に主郭
 主郭周辺部にも見どころが多いため、まずこの先に向かう。
【写真左】虎口か
しばらく進むと、前方に虎口らしき開口部が見える。
【写真左】芦田川が見える。
 途中から無作為に歩いたため、どこの写真かはっきりしなくなったが、南西の方向に福山市街地や芦田川が見えてきた。
【写真左】西方を見る。
 おそらく高増山だろう。
【写真左】一通り周りの遺構を見た後、主郭を目指す。
【写真左】切岸
 この写真は西側から登る途中のものだが、かなり険峻な切岸。
【写真左】主郭・その1
【写真左】主郭・その2
 主郭の北端部から北を見下ろす。
【写真左】主郭・その3
 北端部まで進み、今度は南方向を見る。削平が丁寧な仕上がりとなっている。
【写真左】主郭西側の切岸
 この斜面も険峻なものとなっている。










【写真左】主郭中央部
 窪みのある箇所で、井戸跡というより狼煙台の跡かもしれない。
【写真左】腰郭
 主郭の西側下にあるもの。このあと南の方へ進む。
【写真左】礎石?
主郭から南にかけて連続する郭段も削平が丁寧で、この箇所ではこうした石が散在している。
 郭の大きさや形状を考えると礎石建物があった可能性が高い。
【写真左】南から北を振り返る。
 全体に整備が行き届いており、踏査していても気持ちがいい。
【写真左】下の段
 L字状になった郭段が出てきた。このあとそのまま降りていく。
【写真左】虎口
 かなり降りたところにあったものだが、散策している間に、当城がかなり大きなものであることを実感した。
【写真左】左右に石が
 当城にはこのような中規模の石が点在しているが、この箇所などは城戸に使われた石かもしれない。
【写真左】畝状竪堀・その1
 遺構の特徴の一つとしては、こうした畝状竪堀が随所にみられることである。
【写真左】畝状竪堀・その2
【写真左】石垣
 当城の中で特に明瞭に残る石垣。









三宝寺

 銀山城の東麓には銀山城主・杉原匡信が再建したとされる三宝寺がある。

【写真左】三宝寺山門













現地の説明板より

“三宝寺

  1522(大永2)年、山手銀山城主杉原匡信によって再興されたと伝える曹洞宗の寺院で、匡信・理興・盛重と続く歴代銀山城主の崇敬を受け、境内西側には杉原氏のものと伝える供養塔や、一石五輪塔が残っています。

 江戸時代に著された「西備名区」などによると、城主杉原氏の軍勢は、寺の西側に当たる「旗谷」で勢揃いして出陣したと伝えられ、杉原氏の平時の居館や、城下町もこの付近に存在したと考えられます。門前一帯には当時の城下町の名残りを示す「小路」が、今も東西に走っています。

 また、1592(文禄1)年、九州の名護屋城に向かう豊臣秀吉が宿泊したことが記録に見え、現在も境内南方に「太閤屋敷」と呼ばれる地が残っています。

              福山市“


【写真左】杉原家墓
 杉原盛重の墓は供養塔をはじめ、中央の五輪塔と思われる。
【写真左】杉原盛重供養塔
所在地:鳥取県南部町 大安寺
 盛重の供養塔としては、このほか鳥取県南部町にある大安寺に建立されているものもある。
 この宝篋印塔は、盛重没後の三回忌法要が大安寺で営まれたとき、供養のため建立されている。

【写真左】杉原景盛の墓
所在地 島根県出雲市平田町496-2
 参考までに、盛重の次男・景盛の墓が当地に祀られている。

2022年9月30日金曜日

藤目城(香川県観音寺市粟井町竹成)

 藤目城(ふじめじょう)

●所在地 香川県観音寺市粟井町竹成
●高さ 136m(比高80m)
●築城期 不明(室町時代初期)
●築城者 斎藤下総守師郷
●城主 斎藤氏
●遺構 郭、土塁、堀
●登城日 2017年12月24日

解説
 藤目城は以前紹介した讃岐・天神山城(香川県三豊市仁尾町仁尾)、及び財田城(香川県三豊市財田町財田中)の稿で少し触れているが、観音寺市の東方粟井町竹成にあって、財田城(本條城)からおよそ8キロ隔てた位置に所在する。
【写真左】藤目城遠望
 登城途中から撮ったもので、中央の高くなったところが本丸に当たる。







現地の説明板より

❝粟井神社周辺名所案内

粟井神社
 祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと) 古くは刈田大明神と奉称した。807年(大同2)火災にあい、当地杉尾山に遷座されたといわれる。842年(承和9)に名神社に列せられ延喜式では讃岐国の大社三座の一座となる。
 天正年間長宗我部軍の兵火にあったが、江戸時代には領主生駒家、京極家の尊崇厚く、社殿の造営や社地の寄進を受けた。その後幾度も修復が行われ現在に至っている。
【写真左】粟井神社周辺の名所案内板
 麓に粟井神社があり、その脇にこの案内板が設置してある。
 「粟井神社」「あじさいの里」並びに「藤目城」について掲示されている。



あじさいの里
 アジサイは万葉集にも登場する古くからある美しい花です。
 ここ粟井神社の境内には、昭和60年に粟井地区住民と市観光協会・市イベント推進協議会等の協力により、新名所づくりとして500株のアジサイが植えられました。さらに充実したアジサイの里にするため、みんなで大切に育てましょう。
【写真左】藤目城の案内図
 シンプルな案内絵図で書かれている。
 麓から登っていくと、最初に二の丸跡があり、その先から藤目山に入り、頂部に藤目城の本丸跡が記されている。






藤目城跡
 当社の西方約300mに標高136mの藤目山があり、室町時代初期山上に本丸が築かれ、斎藤氏の居城として栄えた。
 1578年(天正6年)土佐長曾我部元親の来襲を受け落城。本丸跡は今は「ミニ四国」がまつられ崇拝されている。西方約200mの山上、以前は「御旅所」であったところが二の丸跡である。

   観音寺市文化財保護協会・観音寺市観光協会❞
【写真左】登城口付近
 粟井神社の駐車場になる箇所で、ここに車を停め歩いて向かう。






斎藤氏

 藤目城の城主は斎藤氏といわれる。平安時代中期、鎮守府将軍藤原利仁の後裔が越前・加賀など北陸地方に武家として根付き、その中でも利仁の子叙用が藤原北家利仁流斎藤氏の祖となり、ここから越前斎藤氏と加賀斎藤氏の二派に分かれた。

 藤目城の城主とされる斎藤氏はこの中の加賀斎藤氏といわれ、斎藤信国が当地に下向したという。その後信国の子師郷が戦国期に当城の城主となっているので、父信国も戦国期に来住したと思われる。
【写真左】岩鍋池
 香川県には大変に多くのため池があるが、藤目城の東側にも岩鍋池というため池がある。
 登城したこの日は水が落とされ空になっていた。
 写真の右側に藤目城があり、後段で述べる菩提山城は左側にある。


長宗我部軍と大西頼包

 ところで土佐の長宗我部軍が四国制覇のために動き出したのは天正4年(1576)ごろといわれている。最初にその目標としたのが阿波国であった。
 このことについてはすでに白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)の稿でも触れているが、長曾我部元親は当時の白地城の城主・大西覚養を味方に引き込み、覚養の養子(実弟とも)・上野介を人質としている。上野介はのちの頼包である。
【写真左】二の丸付近
 登城している途中から、車である程度向かうことができそうだと分かったので、一旦駐車場まで戻り、ここまで車を回した。
 二の丸は平坦な状況だが、遺構らしきものは散見されない。


 これは長宗我部氏と大西氏による和議の形であったが、やがて覚養はこれを破り、三好氏に帰順した。このため、人質であった頼包は長宗我部氏の元に残ることになる。この頼包はその後長宗我部軍の部将として藤目城攻めの一翼を担うことになる。

 藤目城主斎藤師郷はもともと大西城の大西氏とは縁戚関係であったこともあり、頼包は師郷に対し降伏するように誘った。その際、師郷は孫を人質として頼包に差し出した。
【写真左】二の丸付近の説明板と石碑
 簡単な内容が記された説明板と、奥に「史跡 藤目城址」と筆耕された石碑が建つ。
 なお、この位置から藤目山頂部にある本丸までは、西方へ200mほどになる。



讃岐領主たちの藤目城攻め

 こうした藤目城の動きを知った讃岐の主だった領主達は激怒し、聖通寺城の城主・奈良勝政は、当時阿波にあった十河存保(十河城(香川県高松市十川東町)参照)に藤目城攻めを依頼した。これにより、存保は天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の香川氏と奈良勝政に命じ、藤目城を攻めさせた。

 天正6年(1578)、奈良勝政は長尾大隅守(西長尾城(香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町長尾)参照)、羽床氏(羽床城(香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下)参照)、香川民部少輔などを引き連れ藤目城を攻撃した。
【写真左】旧道を登る。
 整備された道を過ぎると、石碑があり、左右どちらからでも行ける道に着く。当日は旧道側を選択し進む。



 対する藤目城側は長曾我部元親の家臣・桑名太郎左衛門、浜田善右衛門など約1千の兵がいたが、香川氏がその後3千の兵を率いて攻撃に加わるという流言が飛び交い、恐れをなした斎藤師郷らは闇夜に乗じ阿波に奔ったという。

 こうしたこともあってこの時の藤目城での本格的な戦いの記録は残っていない。師郷が藤目城を捨てた後、奈良勝政が城に入り、新目弾正を城代として守らせた。
【写真左】竪堀
 登城途中に見えたもので、劣化しているが竪堀だろう。








財田城攻め後、藤目城攻略へ

 その後、長曾我部元親は藤目城攻めに結果的に香川氏が援軍として来なかったことから、この年(天正6年)の秋、財田城(本條城)攻めに向かった。財田城主・財田和泉守は香川氏に援軍を要請したが断られ、敢え無く討死した。

 余勢を駆った長宗我部軍は、5千の兵を率いて新目弾正が守将として拠る藤目城攻めを決行した。これに対し、新目弾正は先手を打つべく、城から出て伏兵による奇襲攻撃をかけ、長宗我部軍を慌てさせた。
【写真左】劒山大権現(けんざんだいごんげん)
 本丸に向かう途中の段には、藤目山不動院(不動明王・千手観音)、劒山大権現を祀る剣山神社、少し上っていくと、藤目稲荷があり、頂部に藤目城の本丸及びミニ四国八十八ヶ所などがある。
 写真は剣山神社拝殿。


 ところで、この戦いでは長宗我部軍は松茸山に陣したと記録が残る。残念ながら、この場所ははっきりしない。

 しいて言えば、藤目城の東にある谷を挟んだところに菩提山城という山城が残るが、ここから長宗我部軍が鉄炮を盛んに打ったということを考えると、だいぶ距離が離れているので現実的でない。このことから、藤目城の南の谷を隔た山側とも考えられる。
写真左】鳥居と祠
 すでに城域だが、北の方に祠が見える。藤目稲荷と思われる。






 
 さて、この戦いでは新目弾正の奮闘ぶりもあって、長宗我部軍はかなり苦戦している。しかし、元親自らもこの戦に参戦してからは優勢になり、夜になってから城の一角が崩れると、そこから城内に侵入し明け方ついに藤目城は落城、弾正以下5百人は全滅した。

 激しい戦いであったことから、長宗我部軍も7百余騎が討死するという大きな痛手を受けた。このあと師郷は再び当城に帰還したという。
【写真左】本丸が見えてきた。
【写真左】本丸・その1
 奥行きは50mはあろうか。
【写真左】本丸・その2
外周部には地蔵が建立されている。
【写真左】ひときわ高い石仏
 中央部には痩身の仏像が建つ。
【写真左】井戸跡か
 本丸の一角には御覧のような円形の窪みが残る。おそらく井戸だったのだろう。
【写真左】さらに奥へ
 整備はされていないものの、削平された郭が続いている。
【写真左】帯郭
 本丸の片方側には帯郭が付随している。
【写真左】麓が見える。
 本丸の一角から麓の集落が見える。
【写真左】藤目稲荷大明神
 本丸の隅には、もう一つの藤目稲荷大明神が祀られている。
【写真左】堀切
 下山はもう一つのコースを使ったが、途中で御覧の堀切が確認できた。