白地・大西城(はくち・おおにしじょう)その2
●所在地 徳島県三好市池田町白地
●登城日 2013年11月16日
◆解説
前稿に引き続いて白地城を中心として取り上げる。
【写真左】白地城址から北東に吉野川などを俯瞰する。
白地城の北方で吉野川は大きく東に向きを変え、東進する。
南北朝期から戦国期
前稿でも述べたように、南北朝期に至ると、近藤氏(大西氏)は小笠原氏と与同し、南朝方として北朝方と戦った。当地における主だった武将としては、南朝方の脇屋義助を大将として、小笠原義盛やその子といわれる頼清らが、他方北朝方は大将として、細川和氏が派遣された。
南朝方の小笠原義盛らは大西氏(近藤氏)らと粘り強く戦うが、その後義盛は細川氏と和議を結んだ。しかし、頼清は途中から四国に入った脇屋義助と呼応し、田尾城や八石城を拠城として戦った。この時期には白地城があまり記録に見えないが、当城がこのころ重要な拠点となったことは明らかである。
なお、田尾城の項でも述べたように、この戦いの中で次第に南朝方にとって、利あらずと見た小笠原義盛は細川氏と和議を結んだ。これに対し、頼清が、細川氏と手を結んだ父に従わず、あくまでも南朝方とし戦っていくことになる。
このことが、のちに小笠原氏が吉野川東部(下流部)へ移っていくきっかけともなり、その際、姓も三好氏と改姓したといわれているが、諸説紛々あり、このあたりははっきりしない。
また、父と袂を分けた頼清は、その後大西姓を名乗り、以後戦国時代まで続いたといわれているが、この辺りも伝承に基づくものが多く、何とも言えない。
ただ、戦国期の段階で、下段にも示すように大西氏は覚養という白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予の境目を治めていた武将が出ているので(田尾城参照)、南北朝期から数えれば200年以上同氏の支配が当地にあったことを示す。
長宗我部氏の侵攻
戦国期に至ると、土佐の雄・長宗我部氏による阿讃進出が始まる。白地城に進攻してきた時期は、天正4年(1576)ごろとされ、当時の城主・大西覚養を味方に引き込み、覚養の養子であった上野介を人質とした。
【写真左】八幡神社・その1
白地城跡を北に進むと、伊予方面から流れて吉野川に合流する馬路川があるが、その手前の切り立った場所に当社が祀られている。
縁起は不明だが、長宗我部氏が四国統一の祈願をした場所でもあったのだろう。
下段の写真にもあるように、参道は急傾斜で切崖形態に近い。
南側が二の丸だったといわれているので、この場所も馬路川を壕として活用し、この場所を出城的な要塞としたのではないだろうか。
白地城の位置は、北に讃岐、東に阿波、西に伊予と分岐する位置である。地どりとしては理想的な場所になる。
翌天正5年3月、事実上の阿波国の盟主といわれた三好長治が、主君であった細川真之(さねゆき)(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)を那賀の茨ヶ岡城に攻めたが、逆に真之を支援した地元国人領主一宮成祐(一宮城跡参照)や、伊沢頼俊らによって破れ自害、当時勝瑞城を本拠としていた三好一族はこれを機に、動揺と混乱が走った。
【写真左】八幡神社・その2
参道の階段だが、ご覧の通り足を踏み外すと転げ落ちそうだ。
このため、それを立て直すべく、長治の実弟で、讃岐十河氏に養嗣子として入っていた十河存保(まさやす:三好政康)(十河城参照)が急遽勝瑞城に入って三好一族の鎮静化を図った。やがて三好一族の勢威が回復すると、大西覚養は、長宗我部氏から離反し、再び存保(三好氏)に与同した。
このため、元親は人質であった上野介を大将とし、阿波に出兵し覚養を讃岐に奔らせた。この後長宗我部軍は本格的に吉野川沿いを東に進み、天正7年には重清城を落とし、更に岩倉城も攻略していくことになる。
【写真左】八幡寺
八幡神社の北隣にあって、この箇所がもっとも北端部に当たる。
境内の北から吉野川俯瞰すれば、まさしく物見櫓があっただろうと思われる。
石見白地城と九条家の関わり
ところで、前稿で当地白地が西園寺家の荘園であったことを述べた。そこで、再び鎌倉・南北朝期に遡る話になるが、以前にものべた石見小笠原氏が阿波国から下向した経緯とは別に、西園寺家と深いかかわりのあった九条家の荘園が、石見国に鎌倉期までにあったという説も付記しておきたい。
川本町誌「歴史編」より
“ …三原楞厳寺文書によると、四か村(三原、田窪、北佐木、南佐木あるいは三原、田窪、崎、白地)に分かれていたが、都の貴族九条家の荘園として鎌倉期まで大家庄三原郷と呼ばれていたのではないかと云われています。…”
お気づきのように、この中には「白地」という地名があり、ここでは「しらじ」と呼称する。また、築城年代ははっきりしないものの、石見小笠原氏の出城として標高340mの「白地城」(島根県邑智郡川本町南佐木 白地)という城砦も残る。
このように、石見の白地という地区も、阿波国における九条家や西園寺家などが深くかかわり、その基礎の上に小笠原氏が介在していたのではないだろうか。
●所在地 徳島県三好市池田町白地
●登城日 2013年11月16日
◆解説
前稿に引き続いて白地城を中心として取り上げる。
【写真左】白地城址から北東に吉野川などを俯瞰する。
白地城の北方で吉野川は大きく東に向きを変え、東進する。
南北朝期から戦国期
前稿でも述べたように、南北朝期に至ると、近藤氏(大西氏)は小笠原氏と与同し、南朝方として北朝方と戦った。当地における主だった武将としては、南朝方の脇屋義助を大将として、小笠原義盛やその子といわれる頼清らが、他方北朝方は大将として、細川和氏が派遣された。
南朝方の小笠原義盛らは大西氏(近藤氏)らと粘り強く戦うが、その後義盛は細川氏と和議を結んだ。しかし、頼清は途中から四国に入った脇屋義助と呼応し、田尾城や八石城を拠城として戦った。この時期には白地城があまり記録に見えないが、当城がこのころ重要な拠点となったことは明らかである。
なお、田尾城の項でも述べたように、この戦いの中で次第に南朝方にとって、利あらずと見た小笠原義盛は細川氏と和議を結んだ。これに対し、頼清が、細川氏と手を結んだ父に従わず、あくまでも南朝方とし戦っていくことになる。
このことが、のちに小笠原氏が吉野川東部(下流部)へ移っていくきっかけともなり、その際、姓も三好氏と改姓したといわれているが、諸説紛々あり、このあたりははっきりしない。
また、父と袂を分けた頼清は、その後大西姓を名乗り、以後戦国時代まで続いたといわれているが、この辺りも伝承に基づくものが多く、何とも言えない。
ただ、戦国期の段階で、下段にも示すように大西氏は覚養という白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予の境目を治めていた武将が出ているので(田尾城参照)、南北朝期から数えれば200年以上同氏の支配が当地にあったことを示す。
長宗我部氏の侵攻
戦国期に至ると、土佐の雄・長宗我部氏による阿讃進出が始まる。白地城に進攻してきた時期は、天正4年(1576)ごろとされ、当時の城主・大西覚養を味方に引き込み、覚養の養子であった上野介を人質とした。
【写真左】八幡神社・その1
白地城跡を北に進むと、伊予方面から流れて吉野川に合流する馬路川があるが、その手前の切り立った場所に当社が祀られている。
縁起は不明だが、長宗我部氏が四国統一の祈願をした場所でもあったのだろう。
下段の写真にもあるように、参道は急傾斜で切崖形態に近い。
南側が二の丸だったといわれているので、この場所も馬路川を壕として活用し、この場所を出城的な要塞としたのではないだろうか。
白地城の位置は、北に讃岐、東に阿波、西に伊予と分岐する位置である。地どりとしては理想的な場所になる。
翌天正5年3月、事実上の阿波国の盟主といわれた三好長治が、主君であった細川真之(さねゆき)(仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)を那賀の茨ヶ岡城に攻めたが、逆に真之を支援した地元国人領主一宮成祐(一宮城跡参照)や、伊沢頼俊らによって破れ自害、当時勝瑞城を本拠としていた三好一族はこれを機に、動揺と混乱が走った。
【写真左】八幡神社・その2
参道の階段だが、ご覧の通り足を踏み外すと転げ落ちそうだ。
このため、それを立て直すべく、長治の実弟で、讃岐十河氏に養嗣子として入っていた十河存保(まさやす:三好政康)(十河城参照)が急遽勝瑞城に入って三好一族の鎮静化を図った。やがて三好一族の勢威が回復すると、大西覚養は、長宗我部氏から離反し、再び存保(三好氏)に与同した。
このため、元親は人質であった上野介を大将とし、阿波に出兵し覚養を讃岐に奔らせた。この後長宗我部軍は本格的に吉野川沿いを東に進み、天正7年には重清城を落とし、更に岩倉城も攻略していくことになる。
【写真左】八幡寺
八幡神社の北隣にあって、この箇所がもっとも北端部に当たる。
境内の北から吉野川俯瞰すれば、まさしく物見櫓があっただろうと思われる。
石見白地城と九条家の関わり
ところで、前稿で当地白地が西園寺家の荘園であったことを述べた。そこで、再び鎌倉・南北朝期に遡る話になるが、以前にものべた石見小笠原氏が阿波国から下向した経緯とは別に、西園寺家と深いかかわりのあった九条家の荘園が、石見国に鎌倉期までにあったという説も付記しておきたい。
川本町誌「歴史編」より
“ …三原楞厳寺文書によると、四か村(三原、田窪、北佐木、南佐木あるいは三原、田窪、崎、白地)に分かれていたが、都の貴族九条家の荘園として鎌倉期まで大家庄三原郷と呼ばれていたのではないかと云われています。…”
お気づきのように、この中には「白地」という地名があり、ここでは「しらじ」と呼称する。また、築城年代ははっきりしないものの、石見小笠原氏の出城として標高340mの「白地城」(島根県邑智郡川本町南佐木 白地)という城砦も残る。
このように、石見の白地という地区も、阿波国における九条家や西園寺家などが深くかかわり、その基礎の上に小笠原氏が介在していたのではないだろうか。
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