2019年4月23日火曜日

因幡・上ノ山城(鳥取県岩美郡岩美町恩地)

因幡・上ノ山城(いなば・うえのやまじょう)

●所在地 鳥取県岩美郡岩美町恩地
●高さ 38m
●比高 20m
●築城期 不明
●築城者 不明
●形態 平城(海城か)
●遺構 郭・堀切
●備考 恩地呂神社

解説(参考資料 『岩美町誌』等)
 因幡・上ノ山城(以下「上ノ山城」とする。)は、因幡国(鳥取県)の東方岩美町に所在し、国道9号線と並行して走る蒲生川の南岸にある独立丘陵に築かれた小規模な城址である。
【写真左】上ノ山城遠望
 東側の田圃から見たもの。
 東斜面は伐採されていた。







恩地呂神社と上ノ山城


 上ノ山城は小規模な城砦である。ただ、この小丘には恩志呂神社が祀られ、その奥に山城としての堀切などの遺構が残る。
 当城について記した資料はなく、このため築城期・築城者などもわからない。ただ、所在する当地・恩地周辺には多くの城郭があり、上ノ山城もこれらと関連するものと思われる。
【写真左】登城口
 国道9号線から南に細い道に入ると、恩地集会所があり、そこから奥に進むと、登城口即ち恩地呂神社の参道入口がある。
 この階段を登って行く。




 具体的には、上ノ山城の南西400mの地点に岩山城があり、蒲生川を挟んだ北東部には高山城や広岡城、そして蒲生川を1キロほどさかのぼった坂上には猪尾山城などが点在している。そしてこれらは概ね山名氏時代のものといわれている。

 上ノ山城の配置を考えると、岩山城及び、反対側の高山城と併せて、蒲生川と並行して走る因幡と但馬を結ぶ街道(現国道9号線)を見下ろす位置であったことから、戦国時代には重要な場所であったことが推察される。
【写真左】階段を登る。
 小丘の割に傾斜はきつい。









 上掲した諸城のうち、岩山城については、天正年間安芸判官という武士が在城していたという。また猪尾山城には、坂上定六という武士が居城しており、定六一族の末裔が昔から城下の屋敷に住み、大身の槍を代々受け継いでいるといわれてる(『岩美町誌』)。

 こうしたことから、上ノ山城は天正年間には安芸判官某の一族もしくは家臣が守城していたのだろう。
【写真左】腰郭か
 最初の階段を登って行くと、途中で御覧の踊り場のような平坦地がある。
 当社が創建された時よりあったものかわからないが、腰郭の役目をしていたのだろう。


 ところで、当城の頂部にあたる位置には恩地呂神社が祀られている。当社は延喜式神名帳に記載されており、往古当地が巨濃郡(こののこおり)と呼ばれていたときには既に所在していた古社である。従って、上ノ城が築かれる前に恩地呂神社があり、それを残したまま築かれた可能性が高い。
【写真左】2段目の階段を登る。
 先ほどの踊り場を過ぎると、再びさらに傾斜のついた階段がある。
【写真左】本殿下の段・その1
 先ほどの階段を登りきると、ここで再び平坦地がある。そして真正面に本殿が見える。
 3番目となる最後のこの階段を上がると本殿にたどり着く。
【写真左】本殿下の段・その2 境内の一部ということになるが、山城としても活用された戦国期は郭の役目を果たしたものだろう。
【写真左】本殿の東境内
 本殿に上がり、周りを見ると、東側は広く開放され、西側は狭い。そしてこの付近になると、東西両岸は険峻な崖となっている。
【写真左】上ノ山城から東方を俯瞰する。
 当城の東から蒲生川が流れ、北麓を通って網代方面(日本海)へ流下する。
 また蒲生川を挟んだ対岸には高山城が見える。
【写真左】本殿の裏を進む。
 本殿から裏側に進むと、一旦高くなった段があり、奥には岩塊が見える。
【写真左】主郭
 当城の最高所に当たる位置で、主郭と思われる部分にはかなり大きな岩塊が置かれている。
 基壇または物見櫓的な機能を持っていたと思われる。
【写真左】堀切・その1
 主郭を過ぎ尾根伝いにさらに進むと、堀切がある。
 当城の遺構として最も明瞭に残るもの。
【写真左】堀切・その2
 横から見たもので、深さは3m前後。
【写真左】二条目の堀切
 さらに奥に進むと、もう一つの堀切がある。
 この堀切はやや浅くなっている。
【写真左】反対側から振り返る。
 手前に二条目の堀切が見える。
 なお、上ノ山城にはこのほか両側斜面に2,3本の小規模な竪堀が散見されるが、明瞭でない。
【写真左】東麓から遠望する。
 中央部の主郭や堀切のある箇所を捉えた写真だが、斜面の伐採箇所に比べ、思ったほどはっきりした画像にならなかった。



当時の地勢

 ところで、下山したあと感じたのだが、こうした小丘もしくは低山に郭や堀切などを介した城郭は、麓が陸地であった場合、ほとんど城郭としての戦略的効用は期待できない。このため、当城については、当時の地勢を十分に考慮する必要がある。

 その際キーワードになるのが、麓を流れる蒲生川である。おそらく中世にはこの付近は西側の本庄地区が潟湾となって、奥まで入り込み、この恩地のあたりまで入江となっていた可能性が高く、上ノ山城の周囲は干満を繰り返す海岸部の姿を見せていたのではないかと考えられる。換言すれば上ノ山城は「海城」であった可能性が高い。

2019年4月7日日曜日

山家城(京都府綾部市広瀬町)

山家城(やまがじょう)

●所在地 京都府綾部市広瀬町
●高さ 115m(比高5m)
●形態 平城(陣屋)
●築城期 天正10年(1582)
●築城者 谷衛友
●城主 谷氏
●遺構 郭・土塁・井戸・空堀等
●登城日 2016年8月24日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 山家城は現在の京都府綾部市に所在し、由良川の支流上林川が合流する位置に築かれている。
【写真左】山家城
 後段でも述べるように、当城はいわゆる平城で、城館形態の跡をとどめている。

 写真は入口から入ってすぐに見える鎮守の石垣。



現地の説明板・その1

“山家城址
 ここは、谷出羽守衛友が天正10年秀吉より1万6千石をもって、美濃国から封ぜられた、谷藩政中心の地である。
 藩主出羽守衛友の父は、大膳亮衛好といい織田信長に仕え、天正4年の大阪本願寺攻めに軍功をあげ家紋「揚羽蝶」を賜るが、天正7年播州三木城別所長治を攻め討死し、三木の如意山金剛寺に祀る。(大膳郭に墓地)
【左図】山家城要図
 この図は主に谷氏が江戸期に、藩主として生活していた時の遺構を示したものと思われる。

 左図下方が入口となる表御門で、外周部は石垣や土塁・空堀などがある。西側の絶壁下は由良川支流の上林川が流れ、濠の役目をしていた。


 山家初代藩主谷出羽守衛友は、父衛好と共に三木城攻めに加わり、父討死のとき、その屍を奪い返し仇を討ち取る。
 このときの勇戦の感状を、秀吉から家紋「五三の桐」を受け、本領(山家)加増され、山家に封ぜられた。
 城址内の灯篭には、こうした史実を止める「揚羽蝶」と「五三の桐」の紋が残されている。
 こうした歴史を秘める、この山家城址は約21,300平方メートルの面積を有し、城址内には式内社の一つである伊也神社があり、歴史的な文化をいまも止めている。
 この城址は、春は梅と桜、夏は色濃い緑に上林川の瀬音、秋はもみじの紅葉と、広く市民が憩う風光明媚な地として親しまれている。
     綾部市”
【写真左】表御門
 南側にあるもので、近世に造られた。









現地の説明板・その2

“山家城の石垣・井戸
 この城は、由良川本流と上林川の合流点の突端部の断崖を利用して構築されたものであるが、このあたりは傾斜がゆるやかで、上林川方面からの敵の侵入を招きやすい。
【写真左】鎮守
 表御門を潜るとすぐ目の前に見えるのが鎮守といわれる社である。

 基壇となる部分は当初からあった岩塊のようで、これを利用して建立されている。
 近くには「山家城址」と筆耕された石碑が建立されている。



 そこで、この部分に二重の竪(たて)堀と横堀をめぐらし、さらに内側に石垣を積み上げて侵入を阻止したもので、山城から平城への過渡期の姿をとどめている。
 天正10(1582)年、谷衛友がこの地に築城した時期に構築されたものと考えられ、当時の緊張した様子をうかがうことができる。
 城内の井戸とともに数少ない近世城郭遺構である。
   石垣の高さ  5m
   東西の長さ  119m
   南北の長さ  70m    川端二三三郎 記

(山家城の石垣や井戸周辺の孟宗竹林伐採・整備は、2011年9月、立命館大学生、里山ねっと・あやべ・山家歴史の会・ひろせまちづくり協議会が京都府地域力再生プロジェクト支援事業交付金を得て行った)
【写真左】東側
 鎮守から右の東方向へ進むと、中の方は公園のように整備され、その外側を高くなった道が設けられている。
【写真左】中央部
 中の方は公園化を図ったような光景が広がる。おそらくこの中に数棟の建物があったものと思われる。





谷氏

 山家城の築城者・谷出羽守衛友(もりとも)(以下「谷衛友」とする)は、説明板にもあるように、秀吉より美濃国から当地に封ぜられたとされる。

 谷衛友がいた美濃国とは現在の大垣市赤坂町で、「谷屋敷跡」といわれるところである。衛友が丹波山家城に移ったあと、谷屋敷には叔父であった谷長広が跡を継ぎ、以後代々その子孫が住んだ。
【写真左】井戸
 北東部の一角には井戸が残る。なお、写真の奥は草が繁茂していて分かりにくいが、石垣を介して空堀があり、その外側には土塁が残る。



 因みに、江戸期に至って大垣の舟問屋の豪商として名を高めた谷木因は、一方で松尾芭蕉と一緒に北村季吟の門下となって俳諧を学んでいるが、彼はその谷氏の子孫でもある。

 また、谷屋敷の南隣には慶長10年に徳川家康が築いたといわれる「茶屋屋敷」があり、今でも堀や土塁などが残っているが、おそらく家康が築城する前は城郭形態の「谷屋敷」が先にあり、その後家康が現在のような形にしたのではないかと想像される。
【写真左】北端部
 井戸跡から反時計方向に回って、北端部に行くと、直角に区画された箇所になる。この下にも堀や郭段があるが、その先は上林川上流部で、切岸状となっている。


三木城攻谷衛好討死

 三木城攻めについてはすでに三木城(兵庫県三木市上の丸)で述べているが、谷衛友の父・大膳亮衛好は、三木城攻めの天正7年に討死している。

 三木城攻めで有名なのは「三木の干殺し(ひごろし)」という三木城に籠城した別所氏らの兵糧を阻止した秀吉らの作戦だが、この年(天正7年)9月、別所氏及び毛利氏は兵糧を三木城に補給する作戦を立てた。そのとき毛利氏側からの補給作戦を阻止しようとしたのが衛友の父衛好(もりよし)である。
【写真左】北西端から見る。
 外側の番所という付近から中を見たもので、後背に山が見えるが、これは後段でも紹介する甲ヶ峰城及び、照福寺などがあった場所である。



 衛好は享禄2年(1529)、美濃国筵田郡伊良地村に生まれている。すでにこの地名は消滅しているが、現在の本巣市に当たる。実父は福田氏だが、浅井亮政(竹生島・宝厳寺(滋賀県長浜市早崎町)参照) に仕えていた伯父・谷衛之の養子となり、谷衛好を名乗った。

 さて、三木城攻めにおいて、衛好は当時三木城の北西側にあった平田に陣を構えており、ここを毛利氏が攻めた。この戦いで谷衛好は討死することになる。しかし、衛好の討死はあったものの、秀吉方のその後の奮戦で、別所方淡河定範(淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)参照) など多くの武将が討ち取られ、結局別所・毛利氏らによる補給作戦は失敗に終わり、三木城における兵糧はいよいよ底をつき、翌天正8年1月ついに三木城は落城した。

  なお、討死した衛好の墓は三木の如意山金剛寺というところに祀られているが、この場所は既述した平田の陣、すなわち平田村山ノ上付城の近くで、北西というよりも真北の方向になる。
【写真左】石垣・空堀・土塁の場所へ向かう。
 公園化された内郭から外に向かって、上林川の蛇行に沿い突き出た箇所があるが、このルートに空堀・土塁などの遺構がある。
【写真左】空堀
 北側の方に伸びるもので、ここから北東側まで続く。
【写真左】土塁・その1
 空堀と対となっている。
【写真左】土塁・その2
 上林川の鋭角に蛇行する内側に向かって、鑓のような鋭角に細く伸びる丘陵があるが、奥に行くほど幅が狭くなっていく。その手前には土塁が構築されている。

 左側の斜面は絶壁で、簡単にはよじ登れないが、それでも土塁が配置されている。
【写真左】行き止まり
 御覧のように、次第に細くなり、両側が険峻な状況となっている。






山家陣屋と甲ヶ峰城

 ところで、本稿の山家城とは別に、この場所から東に向かった標高236mの山にもう一つの城郭が築かれている。これが甲ヶ峰城(別命左衛門屋敷)である。
【写真左】甲ヶ峯城案内板
 山家城表門まで戻り、一旦外に出ると手前に当城の案内板が設置してある。

 「甲ヶ峯城跡(左衛門屋敷跡)ここより471m、照福寺跡 甲ヶ峯城跡より116m」と記されている。
 なお、この日は時間がなく、こちらには登城していない。



 当城は永禄6年(1563)和久義国によって築かれたもので、その後明智光秀による丹波攻めの際落城し、城主和久氏は帰農したと伝えられる。

 史料によっては、本稿の山家城を山家陣屋とし、山家城をこの甲ヶ峰城としているものもある。
【写真左】この階段を登って行く。
 甲ヶ峯城へ向かうルートには、当城とは別に、照福寺や、伊也(いや)神社も祀られている。
 祭神は大日霊貴尊素戔嗚尊月夜見尊。