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2016年10月10日月曜日

熊本城(熊本県熊本市中央区)

熊本城(くまもとじょう)

●所在地 熊本県熊本市中央区
●別名 銀杏城、千葉城・隈本城
●形態 平山城
●築城期 前期:応仁年間、後期:慶長12年
●築城者 千葉城(出田氏)、隈本城(鹿子木氏・菊池氏・佐々氏等)、熊本城(加藤清正)
●城主 出田氏、鹿子木氏、加藤氏、細川氏等
●廃城年 明治期
●遺構 櫓・門・塀、石垣、堀等
●指定 国特別史跡
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考資料 熊本市(城)観光ガイドブック、その他パンフ)
 2016年4月14日から16日にかけて襲った熊本地震は、過去に例をみない甚大な被害をもたらした。1年前訪れたとき、まさかこの天下の名城がこのようなことになるとは予想だにしなかった。

 地震が起きた時間帯は、夜間であったこともあり、観光客が入城していないときだったので、当城に於いては人的被害はなかったようだが、これが昼間だったら計り知れない数の死傷者が出ただろう。
【写真左】熊本城の大天守閣と小天守閣
 大天守閣は石垣の上から高さ29.5m、外観3層、内部6階地下1階。鯱の大きさ約1.2m。
 小天守閣は、石垣の上から高さ19m、外観2層、内部4階地下1階、鯱の大きさ約0.9m。



 さて、熊本城は当ブログのタイトルからいえば、近世城郭であり、山城ではないが、前稿隈本城の隣に位置し、先ごろは復元された「本丸御殿」の竣工もあって、一度は訪れたいと思っていた城郭である。
【写真左】坪井川周辺地図
 左方向が北を示した地図で、外側を白川が流れ、熊本城の東麓直下を流れているのが、濠の役目をした坪井川である。
【写真左】熊本城復元整備予想図
 現地に設置されていたものだが、この度の大地震によって、復元・整備の大幅な見直しを余儀なくされたことになる。




加藤家と細川家

 当城は余りにも有名なので、いまさら紹介するまでもないが、城主は冒頭でも紹介しているように、築城者であった加藤家(清正)と、細川家の二家である。

 清正が入ったときは当時隈本城といわれたころで、天正16年(1588)のことである。このときの禄高は肥後北半国の19万5千石で、その後関ヶ原の合戦(慶長5年:1600)後、同国南半国を加増され、併せて52万石(後に54万石)となった。
【写真左】法華坂周辺
 二の丸の西側に当たる個所で、手前の道は「法華坂」と呼ばれている。

 この坂を登っていく(右側)と、三宝院という寺院があったが、清正が父弾正清忠の菩提を弔うため大阪にあった本妙寺をこの三宝院跡に建てた。
 本妙寺は法華宗(日蓮宗)であったため、以後この坂を法華坂と呼ぶようになった。慶長19年(1614)当院は中尾山に移された。


 現在の熊本城の築城に着手したのは、このあとで、翌慶長6年といわれている。それから足かけ7年経った慶長12年(1607)、新城が落成竣工し、それまでの「隈本」から現在の「熊本」(城)に改称した。

 このころは、秀吉の恩に報いるため、大坂の豊臣秀頼を支援すべく、慶長16年(1611)の二条城における家康と秀頼の会見実現に意を注ぎ、自ら警護までかって出ている。二人の会見後熊本の帰途に着くが、途中で病に倒れ、同年6月24日亡くなる。清正の死因については家康による毒殺説や、ハンセン病説など様々なことがいわれているがはっきりしない。
【写真左】熊本城遠望
 南側の隈本城(古城)側から坪井川沿いに沿って歩いていくと、遠くに天守が見える。





 清正が亡くなったあと、跡を継いだのは三男忠広である。しかし、寛永9年(1632)理由ははっきりしないが、他の外様大名がそうであったように、加藤家は改易となり、出羽(山形)庄内へ配流された。

 加藤家の跡を継いで熊本城の城主となったのが細川忠利である。細川ガラシャ(明智珠)と忠興との間にできた三男で、肥後に入封する前は豊前小倉藩主であった。熊本城の新城主となってから4年後の寛永14年(1637)天草島原の乱が勃発する。
【写真左】長塀と平御櫓
 坪井川に沿って南から北に進むと、厩橋に差し掛かる。その位置から振り返ってみたもの。
 長塀は馬具櫓から手前の平御櫓まで伸びるものだが、文字通り長い石垣が続く塀である。


島原の乱と宮本武蔵

 この乱は一般的に旧有馬氏を中心としたキリシタン領民への弾圧という面が強調されているが、これとは別に、乱に加わったものの中には、秀吉時代の小西行長、佐々成政、そして改易された加藤家の元家臣であった浪人も多数含まれていた。
 このため、それぞれの主君に仕えていた浪人たちにとって、この乱に加わった動機は各々違うものがあったのだろう。
【写真左】武蔵の井戸跡
 熊本城の東側にあった千葉城の位置にあり、現在NHK熊本放送局が建っているが、その東端部に残る。
 右側が放送局側になり、左側は崖となっているので、井戸の深さはかなり深いものだった思われる。


 ところで、この島原の乱において鎮圧する側に回った武将の一人に宮本武蔵がいる。

 武蔵については、以前誕生地であったとする美作の竹山城(岡山県美作市下町)でも少し紹介しているが、彼は中津城主であった小笠原長次(小倉城主小笠原忠真の甥)の後見として出陣し、武蔵の養子である伊織もまた小倉城主小笠原忠真の被官として従軍している。
【写真左】天守から武蔵の井戸、千葉城方面を見る。
 手前の広場が本丸で、奥にNHK熊本放送局(千葉城跡)があり、その通路側に武蔵の井戸跡がある。



 この乱は、翌年の寛永15年(1638)4月12日に終結、その2年後武蔵は熊本城主細川家の客分として招かれ、熊本城の東側にあった千葉城に屋敷が宛がわれた。

 武蔵が細川家に召し抱えられるきっかけとなったのは、おそらく慶長17年(1612)の巌流島の戦いの際、当時検分役を務めた細川藩筆頭家老で、杵築城(大分県杵築市杵築)の城代でもあった松井興長の推挙があったものと思われる。また、興長自身も島原の乱に参陣しているので、戦場で武蔵との出会いがあったものと推察される。なお、興長は後に八代城主となっている。
【写真左】武蔵の井戸から熊本城を遠望する。
 現在は周囲が植樹されているが、当時この位置から毎日武蔵は天守を見ていたのだろう。
【写真左】東十八間櫓
 武蔵の井戸跡から少し北に進むと、東十八間櫓が見える。このあとそこから少し北に進んで、不開門(あかずのもん)に向かう。



【写真左】不開門
「あかずのもん」と呼称されているところで、本丸の北東端の下に位置する。今回はここから入城する。
【写真左】天守閣方面と須戸口門方面の分岐点・その1
 不開門から奥に向かうと、この位置で天守閣に向かう道と、東南端にある須戸口門方面に向かう道の分岐点に差し掛かる。

【写真左】天守閣方面と須戸口門方面の分岐点・その2
 天守に向かって歩き出すと、途中で両側が石垣に囲まれ、さらに前にも石垣に囲まれた場所に出てくる。
 三方を石垣に囲まれ、何とも言えない高揚感を感じる。
【写真左】東三階櫓跡・本丸御殿大広間附近
 他の箇所も無作為に歩いたが、写真だけを見ているとどこの箇所なのか今となっては思い出せない箇所が多い。
 この写真は、本丸が近くなった箇所で、その入り口付近。
【写真左】大天守閣と小天守閣・その1
 最近復元された本丸御殿(大広間)も観賞したが、写真撮影は不可だったようで、記録がない。
【写真左】大天守閣と小天守閣・その2
 現在はどうかわからないが、この日の観光客は、中国人と韓国人が大半で、むしろ日本人が珍しい状況だった。
 それにしても中国人の会話はなんと賑やかなことか。音量も大きいが、全体に声のキーが高い。
【写真左】天守入口付近
 左が大天守、右が小天守。
入館(城)者が多いため、少し並んで待つことになった。
【写真左】宇土櫓
 第3の天守ともいわれている櫓で、西南戦争後にも焼け残った唯一の多層櫓。
 この櫓も一部損壊したようだ。
【写真左】西出丸の濠
 底にも亀裂ができたかもしれない。
【写真左】二の丸広場から熊本城を遠望する。
 左から宇土櫓、小天守、大天守

2016年10月5日水曜日

隈本城(熊本県熊本市中央区古城町古城堀公園)

隈本城(くまもとじょう)

●所在地 熊本県熊本市中央区古城町古城堀公園
●形態 平山城
●高さ 20m
●遺構 石垣、堀等
●築城期 不明(大永・享禄年間 1521~31 ごろか)
●築城者 鹿子木親員(かのこぎちかかず)か
●城主 城氏、佐々成政
●備考 県立第一高等学校
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考文献『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)

 今年(2016年)4月、熊本を襲った大地震により名城といわれる熊本城も甚大な被害を受けた。管理人が訪れたのはその前年の2月である。このため、本稿も含めた熊本城周辺の写真などはその被害前のものである。
【写真左】隈本城跡
 隈本城跡に立つ熊本県立第一高等学校の正門前。

 この日は校内まで入っていないが、手前や奥にも石垣が見える。
 これらの石垣は佐々成政時代にある程度築かれていたのではないかと考えられる。



 今稿でとりあげるのは、その熊本城が築かれる前にあったという隈本城(くまもとじょう)である。位置的には、熊本城の南東1キロほどの場所に当たり、現在の県立第一高等学校周辺で、地区名も「古城町」といわれているところである。

 隈本城の築城期ははっきりしないが、おそらく大永から享禄年間(1521~31)ごろとされ、築城者は鹿子木親員といわれている。また、これとは別に、熊本城の北東側を千葉城町といっているが、ここにも「千葉城」という城砦があった。千葉城の築城期は隈本城よりも古く、応仁の乱の最中(室町期)といわれている。
【写真左】古城堀
 学校の正面玄関から右に向かって伸びるもので、これが堀(濠)跡と思われる。

 現在は少し高くなり、水はないが、当時はその奥に突きあたる坪井川と同じ川底だったと考えられる。


現地の説明板・その1

“(旧)古城堀端町ふるしろほりばたまち

 現在の県立第一高等学校のあるところは、中世の隈本城の跡で、加藤清正の熊本城築城以後は古城(ふるしろ)と呼ばれていた。そのため、古城の外の濠を古城堀(ふるしろほり)と言い、その堀端の町を「古城堀端町」と名付けたものである。

 旧藩時代には屋敷町であったが、西南の役で完全に焼失していまい、その後は高級料亭の並ぶ町としてその名を知られていた。
 昭和40年の新住居表示によってこの町名はなくなり、新町1・2丁目と古城町に分割吸収されてしまった。
  熊本市”
【写真左】隈本城の西側・その1
 左が隈本城(第一高等学校)側で、ご覧の通り、木立に囲まれた公園となっているが、下段の説明板にもあるように、当時はこのあたりも濠が巡らされていた。



佐々成政隈本城

 天正15年(1587)5月8日、剃髪した島津義久は川内太平寺で秀吉に降服した。ここに秀吉による九州征伐が終わることになる。翌月、筑前筥崎で諸将を招集し、九州諸大名の封城を定めた。この中で、肥後国については佐々成政が国主として任命され、同月6日、隈本城に入城した。

 しかし、この後、肥後国衆の抵抗は想像を超えたものとなり、「肥後は難治の国なれば」と秀吉に言わしめたように、同国各地において国衆一揆が蜂起した。
【写真左】隈本城の西側・その2
 左側の石垣の面は凹凸があるが、ほぼ直線で150~200m程度の長さを測る。






隈本城の攻防

 和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)の稿でも述べたように、肥後国衆による一揆は各地で行われているが、成政は隈本城を本拠として、その都度その鎮圧に向かう体制をとっていた。

 大きな戦いとしては、天正15年7月の隈府親永が拠る菊池隈府城攻略があるが、これは、いったん降伏した親永がその後、山鹿の城村城に逃げ込み、立て籠ったため、8月に当城を攻めたものである。

 成政が山鹿城村城攻めで、川を挟んだ東方の日輪寺に陣を構えていたその隙に、益城郡の肥後国衆である甲斐・田口・田代氏などが、成政の本拠隈本城を攻めたてた。
 成政が隈本城をあけているとき、その留守を預かっていたのが成政が越中から連れてきていた神保安芸守氏張(うじはる)である。
【写真左】隈本城の西側・その3
 ほぼ中間点で東側に絞られる。










 氏張は直ちに使者を使って、日輪寺の成政にその急報を知らせたが、抵抗する国衆たちの粘り強い抵抗にあい、成政は隈本城に向かうことは容易でなかった。

 その後、成政らに随っていた一部の肥後国衆たちの協力により、隈本城に入城した。しかし、入城したものの、依然として周囲には肥後国衆の大軍に包囲され、しばらく膠着状態となった。

 結局、隈本城の攻防に終止符がうたれたことになったのは、城内に人質として預けられていた攻め手側の阿蘇氏の大宮司であった惟光と惟善の扱いを巧みに利用し、攻め手側の攪乱を図ったことにより、この戦いは収まった。同年(天正15年)8月15日のことといわれている。
【写真左】隈本城の西側・その4
 おそらくこの石垣の下にも当時の石垣が残されていると思われるので、築城当時その高さは現在の約2倍はあったものと思われる。




成政の自刃

 成政はこの戦いで、積極的に協力した山之上三名字衆ら(牛島・田尻)に170町を褒賞として与えている。
 ただ、隈本城の戦い後、成政は保留していた城村城や、和仁城攻めを開始しようと、天草五人衆や宇土の名和顕輝などに支援要請をするが、ことごとく拒否されている。

 こうしたこともあって、この戦い以後成政の目立った活躍は記録されていない。むしろ、このころから肥後国の総指揮は小早川隆景・安国恵瓊らに移っていたようで、秀吉から事実上肥後国主の任を解かれていたのではないかと考えられる。

 その後、成政は大阪の秀吉に弁明の機会を得ようと向かったが、尼崎に留めおかれ、天正16年(1588)閏5月14日、当地の法園寺にて引責自刃した。
【写真左】石垣
 野面積みと打ち込み接ぎが混在したような感じで、最終的には加藤清正によって整備されたのだろう。








現地の説明板・その2

“古城堀
 熊本城は日本三名城の一つにも数えられ、約98万平方メートルもの広さを持つ豪壮雄大な城です。
 明治10年の西南の役では薩摩軍の猛攻撃に耐え、その真価を発揮しましたが、その際天守閣を始め多くの櫓が失われました。そこで、文化庁と熊本市では本来の姿への復元を進めています。
 この付近一帯は古城の堀の跡で、戦前の段山を削った土や、昭和28年の大水害の際の排土で埋められたものです。そのため熊本市は、昭和54年度からこの地区の公有化を進めており、将来は浚渫して、旧態の堀に戻すことにしています。
  熊本市”
【写真左】南側
 当城の南端部に当たり、その先には第一高等学校の正門がある。










◎関連投稿
大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)

2016年9月24日土曜日

竹迫城(熊本県合志市上庄字城山)

竹迫城(たかばじょう)

●所在地 熊本県合志市上庄字城山
●別名 合志城、上庄城、穴の城、蛇の尾城
●指定 市指定史跡
●形態 平山城
●高さ 標高93m(比高30m)
●築城期 建久年中頃(1190~99)
●築城者 竹迫輝種
●城主 竹迫氏、合志氏
●遺構 郭、土塁、濠
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考資料 合志市HP等)
 竹迫城は、菊池城(菊池神社)から南に凡そ12キロ余り向かった合志市上庄に所在する城館である。

 当城が所在している地域は、古代「火の道の尻の邦」に属し、「加波志」と呼ばれていたという。そして応神天皇の時代に郷邑(ごうゆう)の地名改称が行われ、「皮石」と改め、さらに元明天皇の頃(700年代)に「好字好音」の詔が発せられたのに伴い、現在の「合志」と改称されたといわれる。
【写真左】竹迫城
 当城の北東部付近で、ご覧の通り大変綺麗に整備されている。

 ただ、残念ながら遺構の保存より公園化を優先したような整備状況なので、散策するには気持ちいいが、山城踏査の観点からいえば、少し物足りない気分になる。


現地説明板・その1

“竹迫城

 竹迫城は、別名合志城、穴の城、蛇の尾城ともいわれ、建久年中頃(1190~99)竹迫輝種により築城され、天正13年(1585)に、薩摩の島津家久に城を明け渡すまでの約400年間、竹迫氏、合志氏による旧合志郡統治の拠城であった。

 最高所は、海抜90m、深田や濠や土塁に囲まれた天然の要害をなし、城の規模は高さ135間、東西1,030間、南北3,180間余であったといわれている。

 天正15年(1587)4月7日、竹迫城を守っていた新納忠元、伊集院忠棟が、八代に去るとき城を焼き払って、今はただ土塁と濠を残すのみであるが、この竹迫城は、中世時代の城跡として、熊本県内でも有数の貴重な文化遺跡である。”
【写真左】竹迫城跡公園案内図
 この図では遺構名として、本丸跡、土塁、井戸跡程度しか表示されていないので、下段の「竹迫城古絵図」と見比べながら見るしかない。
【写真左】竹迫城古絵図
 文政年間に書かれたもので、精緻なものではないが、凡その配置が想像できる。

 『合志家記』という史料によれば、当城の城域規模は東西1.8km、南北1.4kmで、惣構えとして外掘りが約5.9kmあり、このエリアを含めると、東西2.3km、南北1.4kmとなり、当城のあるこの丘陵地のほとんどがその対象となる。



竹迫氏と合志氏

 竹迫城の城主は、下段にも示すように、前期に竹迫氏が約320年、後期になると合志氏が約80年と続いている。

 初代は竹迫輝種といわれ、元の名は中原師員(もろかず)とされている。師員は鎌倉時代の御家人で、鎌倉にあった時、主君は最初藤原頼経に仕え、その後頼嗣となった。源実朝が落命し、源氏(河内源氏)による統治が途絶えたあと、京都から頼経が摂関将軍として鎌倉に下向した際、随伴してきている。
【写真左】本丸入口南面
 公園化されため、当時の詳細な遺構を想像するのは難があるが、左側にある段が本丸を示し、その間にある通路を介して、右に現在芝生広場という名称の段が残る。

 おそらく隣接した郭だった思われるので、二の丸のような場所だったかもしれない。


“竹迫城歴代城主

《竹迫家》
 (初代)中原師員(改 竹迫輝種)(中原親能斉院次官)
  ↓
 2代 師能 → 3代 師常 → 4代 師實 → 5代 師光 → 6代 師種 
  → 7代 師次(以降は下段へ) ↓

【写真左】竹迫家の家紋
 説明板より

“竹迫家紋
 「蘘蓉の紋」と言い茗荷の図案である。戦に敗れて山中をさまよえる折に幻の翁あらわれ茗荷漬を給いて武運ひらけりの由来である。”




  ↓
 8代 定種 ― 信次 ― 友次
  ↓
 9代 秀種 ― 實種
  ↓
 10代 行種 ― 秀行
  ↓ 
 11代 信種 ― 重成 ― 景雄
  ↓ 
 12代 重種 ― 信吉
  ↓
 13代 正種 ― 重岑
  ↓
 14代 忠種 ― 朝員 ― 正廣
  ↓
 15代 公種

 現地には竹迫城の築城者がその中原師員(竹迫輝種)で、その時期が建久年間(1190~99)とされているため、これでいくと、彼が頼経・頼嗣に仕える前に肥後にあったということになるが、聊か不自然である。

  そもそも彼の生誕年が元暦元年すなわち、1184年なので、竹迫城を築いた時は未だ10代の若さになる。従って、築城者は師員でなく、中原師平(流)の一族ではないかと考えられる。
【写真左】本丸付近
 凡そ30m四方の大きさで、フラットになっている。
【写真左】「合志城址」と刻銘された石碑
 本丸の隅に設置されたもので、この石碑には竹迫城ではなく、「合志城址」と刻銘されている。




 《合志家》
 (初代)佐々木長綱(合志と改める)
  ↓
 (中略)
 12代 隆岑(たかみね)
  (竹迫家15代公種が豊後国の大友義鑑に仕えるために移住し、竹迫城は「合志隆岑」に譲遷する)
  ↓
 13代 隆房 ― 隆成
  ↓
 14代 高久 ― 高實
  ↓
 15代 親為(赤星重隆の次男・養子) ― 重遠 ― 親重 ― 隆賢
  ↓
 16代 高重(最後の城主) ― 重賢
【写真左】合志家紋
 初代が佐々木長綱の名でも分かるように、お馴染みの家紋「四ツ目結紋」であり、宇多源氏(近江源氏)で、出雲尼子氏と同じである。

 因みに、合志家の出自は近江国蒲生郡神前郡の大領であったとされる。





竹迫氏から合志氏へ

 竹迫氏15代の公種の代に、大友氏に仕えるため豊後国に移住し、その後を任されたのが合志氏とされている。その時期については書かれていないが、大友義鑑(よしあき)が、肥後国に侵攻を始めたのは大永から享禄年間のころとされているので、1520~30年代と思われる。

 そして、新城主となった合志氏は、元々菊池氏家臣であったとされる。おそらく城主交替の命を出したのは大友義鑑と思われる。
【写真左】五輪塔
 本丸近くには二基の五輪塔が建立されている。特に明記されたものはないが、おそらく合志氏ゆかりの者だろう。






竹迫城肥後国衆一揆

 当城もまた、前稿の和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)と同じく、肥後国衆一揆が勃発した城砦である。

 この頃の城主は、合志氏15代の親為といわれている。実際に城を守備していたのが、おそらく説明板にある新納忠元、伊集院忠棟らと思われ、攻め手は秀吉の命を受けた鍋島勢と龍造寺晴信を将とした軍である。
 因みに、その後龍造寺氏は秀吉の機嫌を損ねないように、途中から政家、すなわち隆信の嫡男が当地に参陣し指揮をしている。
【写真左】土塁と空堀
 本丸の北端部まで進むと、ご覧の通り綺麗に管理された土塁が見える。手前の窪みはおそらく空堀だったのだろう。





 そして、政家は最初合志氏へ降伏を勧めたが、これを合志氏は受け入れず、戦いとなった。
 この戦いでは特に龍造氏の家臣武藤丹後守が大砲の威力をまざまざと見せつけ、ほどなく竹迫城は落城、合志氏は四散逃亡したといわれている。
【写真左】東端部から西方を見る。
 中央のやや左側高い位置が本丸になり、そこから右へ堀を介して土塁があり、さらに下がって削平地が残る。
 手前の段も郭状のもので、館などが建っていたのかもしれない。
【写真左】北東部から見る
 先ほどの位置からさらに北に回り、南側をみたもので、中央の木立がみえるところが本丸になる。
【写真左】井戸跡
 先ほどの位置からさらに降りたところで、中央の四角いものが井戸跡で、中を覗き込んだがかなり深いようだ。
【写真左】説明板
 竹迫城公園内の一角には、竹迫城をはじめ地元合志(町)の歴史などを紹介した説明板が設置されている。

 この中には、竹迫城の「外城」も列記してある。これによると、合併前の合志町には、当城以外に、原口城、千束城があり、西合志町に1か所、泗水町に4ヵ所、大津町に10か所、旭志村に2か所、菊陽町に3か所と竹迫城を含め、23か所の城砦が紹介されている。
【写真左】東側から振り返って見る
 右奥に本丸が位置している。なお、奥に竹林のようなものが見えるが、城域付近では一番高い場所だったように見えたので、物見台のようなものがあったのかもしれない。
【写真左】上庄堤
 北西端に当たる個所から北側を見たもので、奥に橋がみえるが、これが寛永堀橋といわれているもの。
 その下には池が見え、上庄堤といわれるものだが、上掲した絵図から考えて、竹迫・合志氏時代の中世にはかなり大規模な濠だったと思われる。

2016年9月21日水曜日

和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)

和仁・田中城(わに・たなかじょう)

●所在地 熊本県玉名郡和水町和仁字古城
●指定 国指定史跡
●別名 田中城、和仁城、舞鶴城
●形態 平山城
●高さ 標高104m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝以前)
●築城者 不明(古代豪族和邇氏末裔か)
●城主 和仁親実等
●遺構 郭・堀切・井戸等
●登城日 2015年2月25日

◆解説(参考文献『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
 和仁・田中城は別名田中城(以下「田中城」とする)ともいい、熊本県の北西に位置する和水町(なごみまち)に所在する平山城である。築城期は不明だが、古代豪族であった和邇氏の末裔である和仁氏が築いたものとされている。
【写真左】田中城の空堀
 当城の見どころの一つで、主郭を形成している丘陵周囲裾部に約300mにわたって巡らされている。





肥後国衆一揆

 豊前の大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたように、当城では戦国期における「肥後国衆一揆」の代表的な戦いが繰り広げられた。この戦いの経過について、詳細な内容の説明板が現地に掲示してある。
【写真左】遠望
 南側から見たもので、この写真では全体が入っていないが、中央部が本丸などに当たる。

 なお、正面中央部が新城口といわれた箇所で、民家が建っている附近である。


現地説明板・その1

“国指定史跡
  田中城跡(和仁城跡)
     所在 三加和町大字和仁字古城
     指定日 昭和61年4月15日(※国指定:2002年3月)

 田中城は、廣瀬(ひろせ)文書の暦応3年(1340)の項に出てくる鰐(わに)城にあたると考えられているが、いつ築城されたかははっきりせず、落城する天正15年(1587)まで250年以上は続いたと思われる和仁一族の居城である。

 天正15年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、肥後国主として佐々成政を任命したが、この成政に対してそれまで肥後の国を分割統治していた国衆が反旗をひるがえし、いわゆる肥後の国衆一揆がおこった。
 和仁氏もこの一揆に加わり、姉婿の辺春(へばる)親行(坂本城主:上十町)とともに、田中城に籠城した。この模様を描いたのが、山口県立文書館保存の『辺春・和仁仕寄(しより)陣取図』である。
【写真左】和仁軍の守備配置図
 この図は、当城北西端麓にある田中城の磨崖仏付近に設置してある絵図だが、大分劣化し、色が不鮮明になったものを管理人によって少し修正加筆した。
 左方向が北を示す。



 絵図によると、田中城の周りに二重の柵列を設け、その外側に小早川秀包(ひでかね)・安国寺恵瓊など毛利氏関係のほか、鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など九州の諸将が陣を張っている様子がわかる。その数約1万ともいわれ、およそ40日後の12月5日、内部の裏切りでついに落城した。

 城の規模は、総面積約8万㎡で、主郭は約1,700㎡である。現在までに判明している遺構としては、主郭から14棟の掘立柱建物跡、主郭をグルリと巡る空堀跡、捨て曲輪跡などがある。さらに、絵図発見後の調査で、主郭の西裾から連棟式建物跡群が見つかり、また、主郭の南側に空堀をはさんで伸びる尾根筋に描かれている「やぐら」と思われる遺構も確認された。この他、地元で弾正屋敷跡といわれていたところからは、建物跡と井戸跡が見つかっている。

 遺物の主たるものとしては、中国の明時代の染付碗のほか、青磁・白磁などの輸入磁器、火鉢・すり鉢・土師器皿などの生活用具、兜の前立・小札(こざね)などの武具などがあり、また、この戦いで使用されたと思われる鉄砲の玉が現在までに45個出土している。

  平成12年 3月
    和水町  教育委員会”

(※下線、管理人による。)
【写真左】城門と柵
 本丸入り口付近に復元されたもので、発掘調査によって城門と柵の柱穴が発見された。
【写真左】本丸付近
 本丸付近はご覧のように大変綺麗に整備され公園のような姿になっている。







現地説明板・その2

“日本最古の城攻め絵図
  『辺春和仁仕寄陣取図へばる わに しより じんどりず

(中略)
…絵図の中央には、柵や深い堀をめぐらした上に、やぐらを立てた防備厳重な田中城の姿が、西側から見たように描かれ、和仁氏・辺春氏の陣も区別されている。周囲には、二重の柵が立てまわされ、四方の丘の上などに陣を取った攻撃軍の諸将の名と、城からの距離も記入されている。小早川秀包(毛利元就の末子で、小早川隆景の養子)、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂などの秀吉側の大名の名がわかる。
【写真左】辺春和仁仕寄陣取図
 少しぼやけた線や文字もあるが、かなり詳細な陣取図である。

 肥後国衆一揆の際、当時秀吉から国主として任命されていた佐々成政の名がこの中に見出されないが、田中城落城時、成政は八代に居たことが恵瓊との書簡で分かっている。
 ただ、このころから成政の失態が秀吉の耳に伝わっていて、当城の攻撃側総大将は、名目上小早川秀包だったと考えられる。


 また図には2か所の『仕寄』(攻め口)が描かれ、攻撃の主方向が示されている。秀吉得意の兵糧攻めと直接攻撃を併用する作戦と見える。

 この絵図には、さらに『軍中法度(ぐんちゅうはっと)』(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、この種の絵図としては日本最古というべきまことに貴重な史料である。今もよく残る田中城の跡とくらべてみるとき、興趣はいよいよ深まることであろう。

  平成5年3月吉日
東京大学名誉教授
  石井 進”    
【写真左】空堀に向かう
 冒頭で紹介している空堀で、本丸の西隣にある二の丸を過ぎてさらに西の方へ数段の郭を降りていくと、ご覧の堀切を介して奥には「付け曲輪」が見える。
【写真左】堀切底部中央をさらに抉った箇所
 上掲した「和仁軍の守備配置図」にも示しているが、この箇所だけ更に深く抉られており、珍しい遺構である。

 敵の侵入を妨げる目的もあったのかもしれないが、排水機能を持たせた可能性もある。


そして、絵図にもあるように、「南」に「立花左近」、「西」に「安国寺」「秀包」、「北」に「鍋島」の文字が書かれ、

一、諸陣大廻(しょじんおおまわり)五十町
一、城ト陣トノ間三、四、五町
一、仕寄四口 芸州衆一口 肥前衆一口 立花一口 筑紫一口

と陣形を示し、軍中法度は次のように記されている。

軍中法度
一、喧嘩停止之事
一、押買(おしがい)停止之事
一、懸引者安国寺秀包可被任申分事

 付普請同前之事
  以上”
【写真左】「西捨て曲輪」から二の丸・本丸を見る。
 「捨て曲輪」というのは、攻め手の眼を欺くために設けられた陣地のようなもの、と説明されている。

 田中城の本丸の外周部にはこの郭のように、小規模な独立した高台が北・南にも設けられている。地元では以前から「物見やぐら跡」としていたが、平成2年度の発掘調査によって、この郭が物見やぐらを想定させるような遺構がなかった。


和仁・田中城の落城

 ところで、説明板・その1の下線にもあるように、当城が落城した原因は内部の裏切りによるものとしている。
 当時田中城には、以下の面々が籠城していたとされる。

  〔総大将〕 和仁勘解由親実
  1. 大手   和仁弾正親範・松尾日向以下150人、鉄砲30挺、弓20張
  2. 宮嶽(北の堅め)   和仁入鬼親宗・松尾市正以下100余人、鉄砲20挺、弓20張、槍20
  3. 新城口   中村治部少輔以下150人、鉄砲、弓、槍20
  4. 本丸   辺春親行勢300人、鉄砲100挺、弓80張、槍50
  5. 二の丸   和仁勘解親実以下100余人、鉄砲30挺、弓20張、槍30
  6. その他   浮武者頭・草野隼人ら100余人、鉄砲20挺、弓30張、槍30
 この他、芋生摂津守・石原刑部ら武士は総勢800余人あり、更には当城に多数の農民が入城していたとされる。
【写真左】「西捨て曲輪」からさらに西に伸びる郭段
 捨て曲輪から西に向かうと、細長い舌陵状の形で伸びる郭段がある。

 田中城の外周部は全体にこうした幅の狭い段を設けた箇所が多く、施工が精緻である。



 田中城における総大将は、城主和仁親実で、父は親続といわれている。親実は長男だが、次男は小野久右衛門統実で、後に立花宗成の家臣となっているので、この段階で和仁氏から離れていたものと思われる。そして、三男が親範であるが、四男・親宗は異母兄弟である。親宗については、後段で改めて述べたい。
【写真左】南西麓を俯瞰する。
 西捨て曲輪付近から見たもので、東西に走る195号線沿いには、下段で紹介している「和仁三兄弟」の銅像が建立されている。



 そして、辺春親行は親実の姉婿に当たり、義弟・親実に対し、いわば義理を立てる意味で当城に籠っていた。

 『和仁軍談』という軍記物によれば、これを知った安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)は、親行に内応をしかけ、内部離反を誘ったという。そして、親実の家来で「鷽(うそ)の蔵人」という日頃親実から重用されないのを不満に思っていた人物を抱き込み、蔵人は二の丸にあった親実を夜半の寝床に襲い、首級をとった。
【写真左】本丸東側の郭
 本丸(主郭)周辺部のうち、北側から東側にかけてかなり規模の大きな郭が接続している。大型の帯郭といえる。

 このあと、南側に向かい、一旦新城口方面に向かう。

 
 その報告を聞いた親行は、本丸に火を放ち、田中城はパニックに陥り、多くの者は城外へ脱出した。それでも、残った弟の弾正親範らは最後の戦いを挑んだが、討死したとされる。

 なお、恵瓊の誘いに乗って和仁氏を裏切った辺春親行は、落城のあと生存した記録がないことから、結局和仁三兄弟と同じく殺害されたのではないかとされている。
【写真左】本丸南端部の切崖先端から三の丸方向を見下ろす。
 本丸・二の丸の周囲は険しい切崖をなしているが、特にこの付近は顕著となっている。




人鬼親宗

 ところで、和仁氏は南北朝時代すでにこの地にあったことが記録されているが、戦国時代には当初大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)に属し、その後龍造寺氏、そして秀吉の九州征伐直前には島津氏に属している。
【写真左】和仁三兄弟の銅像
 南麓に設置されているもので、中央が親実、右が親範、そして左が親宗。

 後方に田中城が見える。



 大友氏時代かなり多くの南蛮人が来国しているが、和仁氏が大友氏傘下にあったとき、親続に妾として南蛮人の女性が宛がわれたのではないかという逸話が残っている。そして、その子が親宗といわれ、彼は手足は熊のようで、大力の大男であったため、「人鬼親宗」と呼ばれていた。従って、今で言う「ハーフ」ではなかったかとされている。
【写真左】三の丸西端部
 本丸の東側の急峻な切崖を降りると、東に三の丸の先端部が見える。
【写真左】本丸と三の丸
 右側が本丸で、道を挟んで左に三の丸が見える。
【写真左】三の丸西側
 左側が三ノ丸になるが、この西面も見事な切崖といえる。
【写真左】三の丸最高所
 三の丸は細長い郭で、次第に先端部につれて下がっていく形だが、凡そ150m前後の長さを持つ。
 写真は先端部から南方向をみたもの。
【写真左】三の丸から北に本丸方面を見る。
 奥にある樹木がなければ、本丸・二の丸がよく見えると思われるが、全体に郭を構成している切崖が険しいため、伐採すると崩落する箇所もでるかもしれない。