隈本城(くまもとじょう)
●所在地 熊本県熊本市中央区古城町古城堀公園
●形態 平山城
●高さ 20m
●遺構 石垣、堀等
●築城期 不明(大永・享禄年間 1521~31 ごろか)
●築城者 鹿子木親員(かのこぎちかかず)か
●城主 城氏、佐々成政
●備考 県立第一高等学校
●登城日 2015年2月24日
◆解説(参考文献『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
今年(2016年)4月、熊本を襲った大地震により名城といわれる熊本城も甚大な被害を受けた。管理人が訪れたのはその前年の2月である。このため、本稿も含めた熊本城周辺の写真などはその被害前のものである。
【写真左】隈本城跡
隈本城跡に立つ熊本県立第一高等学校の正門前。
この日は校内まで入っていないが、手前や奥にも石垣が見える。
これらの石垣は佐々成政時代にある程度築かれていたのではないかと考えられる。
今稿でとりあげるのは、その熊本城が築かれる前にあったという隈本城(くまもとじょう)である。位置的には、熊本城の南東1キロほどの場所に当たり、現在の県立第一高等学校周辺で、地区名も「古城町」といわれているところである。
隈本城の築城期ははっきりしないが、おそらく大永から享禄年間(1521~31)ごろとされ、築城者は鹿子木親員といわれている。また、これとは別に、熊本城の北東側を千葉城町といっているが、ここにも「千葉城」という城砦があった。千葉城の築城期は隈本城よりも古く、応仁の乱の最中(室町期)といわれている。
【写真左】古城堀
学校の正面玄関から右に向かって伸びるもので、これが堀(濠)跡と思われる。
現在は少し高くなり、水はないが、当時はその奥に突きあたる坪井川と同じ川底だったと考えられる。
現地の説明板・その1
“(旧)古城堀端町(ふるしろほりばたまち)
現在の県立第一高等学校のあるところは、中世の隈本城の跡で、加藤清正の熊本城築城以後は古城(ふるしろ)と呼ばれていた。そのため、古城の外の濠を古城堀(ふるしろほり)と言い、その堀端の町を「古城堀端町」と名付けたものである。
旧藩時代には屋敷町であったが、西南の役で完全に焼失していまい、その後は高級料亭の並ぶ町としてその名を知られていた。
昭和40年の新住居表示によってこの町名はなくなり、新町1・2丁目と古城町に分割吸収されてしまった。
熊本市”
【写真左】隈本城の西側・その1
左が隈本城(第一高等学校)側で、ご覧の通り、木立に囲まれた公園となっているが、下段の説明板にもあるように、当時はこのあたりも濠が巡らされていた。
佐々成政隈本城に入る
天正15年(1587)5月8日、剃髪した島津義久は川内太平寺で秀吉に降服した。ここに秀吉による九州征伐が終わることになる。翌月、筑前筥崎で諸将を招集し、九州諸大名の封城を定めた。この中で、肥後国については佐々成政が国主として任命され、同月6日、隈本城に入城した。
しかし、この後、肥後国衆の抵抗は想像を超えたものとなり、「肥後は難治の国なれば」と秀吉に言わしめたように、同国各地において国衆一揆が蜂起した。
【写真左】隈本城の西側・その2
左側の石垣の面は凹凸があるが、ほぼ直線で150~200m程度の長さを測る。
隈本城の攻防
和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)の稿でも述べたように、肥後国衆による一揆は各地で行われているが、成政は隈本城を本拠として、その都度その鎮圧に向かう体制をとっていた。
大きな戦いとしては、天正15年7月の隈府親永が拠る菊池隈府城攻略があるが、これは、いったん降伏した親永がその後、山鹿の城村城に逃げ込み、立て籠ったため、8月に当城を攻めたものである。
成政が山鹿城村城攻めで、川を挟んだ東方の日輪寺に陣を構えていたその隙に、益城郡の肥後国衆である甲斐・田口・田代氏などが、成政の本拠隈本城を攻めたてた。
成政が隈本城をあけているとき、その留守を預かっていたのが成政が越中から連れてきていた神保安芸守氏張(うじはる)である。
【写真左】隈本城の西側・その3
ほぼ中間点で東側に絞られる。
氏張は直ちに使者を使って、日輪寺の成政にその急報を知らせたが、抵抗する国衆たちの粘り強い抵抗にあい、成政は隈本城に向かうことは容易でなかった。
その後、成政らに随っていた一部の肥後国衆たちの協力により、隈本城に入城した。しかし、入城したものの、依然として周囲には肥後国衆の大軍に包囲され、しばらく膠着状態となった。
結局、隈本城の攻防に終止符がうたれたことになったのは、城内に人質として預けられていた攻め手側の阿蘇氏の大宮司であった惟光と惟善の扱いを巧みに利用し、攻め手側の攪乱を図ったことにより、この戦いは収まった。同年(天正15年)8月15日のことといわれている。
【写真左】隈本城の西側・その4
おそらくこの石垣の下にも当時の石垣が残されていると思われるので、築城当時その高さは現在の約2倍はあったものと思われる。
成政の自刃
成政はこの戦いで、積極的に協力した山之上三名字衆ら(牛島・田尻)に170町を褒賞として与えている。
ただ、隈本城の戦い後、成政は保留していた城村城や、和仁城攻めを開始しようと、天草五人衆や宇土の名和顕輝などに支援要請をするが、ことごとく拒否されている。
こうしたこともあって、この戦い以後成政の目立った活躍は記録されていない。むしろ、このころから肥後国の総指揮は小早川隆景・安国恵瓊らに移っていたようで、秀吉から事実上肥後国主の任を解かれていたのではないかと考えられる。
その後、成政は大阪の秀吉に弁明の機会を得ようと向かったが、尼崎に留めおかれ、天正16年(1588)閏5月14日、当地の法園寺にて引責自刃した。
【写真左】石垣
野面積みと打ち込み接ぎが混在したような感じで、最終的には加藤清正によって整備されたのだろう。
現地の説明板・その2
“古城堀
熊本城は日本三名城の一つにも数えられ、約98万平方メートルもの広さを持つ豪壮雄大な城です。
明治10年の西南の役では薩摩軍の猛攻撃に耐え、その真価を発揮しましたが、その際天守閣を始め多くの櫓が失われました。そこで、文化庁と熊本市では本来の姿への復元を進めています。
この付近一帯は古城の堀の跡で、戦前の段山を削った土や、昭和28年の大水害の際の排土で埋められたものです。そのため熊本市は、昭和54年度からこの地区の公有化を進めており、将来は浚渫して、旧態の堀に戻すことにしています。
熊本市”
【写真左】南側
当城の南端部に当たり、その先には第一高等学校の正門がある。
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今年(2016年)4月、熊本を襲った大地震により名城といわれる熊本城も甚大な被害を受けた。管理人が訪れたのはその前年の2月である。このため、本稿も含めた熊本城周辺の写真などはその被害前のものである。
【写真左】隈本城跡
隈本城跡に立つ熊本県立第一高等学校の正門前。
この日は校内まで入っていないが、手前や奥にも石垣が見える。
これらの石垣は佐々成政時代にある程度築かれていたのではないかと考えられる。
今稿でとりあげるのは、その熊本城が築かれる前にあったという隈本城(くまもとじょう)である。位置的には、熊本城の南東1キロほどの場所に当たり、現在の県立第一高等学校周辺で、地区名も「古城町」といわれているところである。
隈本城の築城期ははっきりしないが、おそらく大永から享禄年間(1521~31)ごろとされ、築城者は鹿子木親員といわれている。また、これとは別に、熊本城の北東側を千葉城町といっているが、ここにも「千葉城」という城砦があった。千葉城の築城期は隈本城よりも古く、応仁の乱の最中(室町期)といわれている。
【写真左】古城堀
学校の正面玄関から右に向かって伸びるもので、これが堀(濠)跡と思われる。
現在は少し高くなり、水はないが、当時はその奥に突きあたる坪井川と同じ川底だったと考えられる。
現地の説明板・その1
“(旧)古城堀端町(ふるしろほりばたまち)
現在の県立第一高等学校のあるところは、中世の隈本城の跡で、加藤清正の熊本城築城以後は古城(ふるしろ)と呼ばれていた。そのため、古城の外の濠を古城堀(ふるしろほり)と言い、その堀端の町を「古城堀端町」と名付けたものである。
旧藩時代には屋敷町であったが、西南の役で完全に焼失していまい、その後は高級料亭の並ぶ町としてその名を知られていた。
昭和40年の新住居表示によってこの町名はなくなり、新町1・2丁目と古城町に分割吸収されてしまった。
熊本市”
【写真左】隈本城の西側・その1
左が隈本城(第一高等学校)側で、ご覧の通り、木立に囲まれた公園となっているが、下段の説明板にもあるように、当時はこのあたりも濠が巡らされていた。
佐々成政隈本城に入る
天正15年(1587)5月8日、剃髪した島津義久は川内太平寺で秀吉に降服した。ここに秀吉による九州征伐が終わることになる。翌月、筑前筥崎で諸将を招集し、九州諸大名の封城を定めた。この中で、肥後国については佐々成政が国主として任命され、同月6日、隈本城に入城した。
しかし、この後、肥後国衆の抵抗は想像を超えたものとなり、「肥後は難治の国なれば」と秀吉に言わしめたように、同国各地において国衆一揆が蜂起した。
【写真左】隈本城の西側・その2
左側の石垣の面は凹凸があるが、ほぼ直線で150~200m程度の長さを測る。
隈本城の攻防
和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)の稿でも述べたように、肥後国衆による一揆は各地で行われているが、成政は隈本城を本拠として、その都度その鎮圧に向かう体制をとっていた。
大きな戦いとしては、天正15年7月の隈府親永が拠る菊池隈府城攻略があるが、これは、いったん降伏した親永がその後、山鹿の城村城に逃げ込み、立て籠ったため、8月に当城を攻めたものである。
成政が山鹿城村城攻めで、川を挟んだ東方の日輪寺に陣を構えていたその隙に、益城郡の肥後国衆である甲斐・田口・田代氏などが、成政の本拠隈本城を攻めたてた。
成政が隈本城をあけているとき、その留守を預かっていたのが成政が越中から連れてきていた神保安芸守氏張(うじはる)である。
【写真左】隈本城の西側・その3
ほぼ中間点で東側に絞られる。
氏張は直ちに使者を使って、日輪寺の成政にその急報を知らせたが、抵抗する国衆たちの粘り強い抵抗にあい、成政は隈本城に向かうことは容易でなかった。
その後、成政らに随っていた一部の肥後国衆たちの協力により、隈本城に入城した。しかし、入城したものの、依然として周囲には肥後国衆の大軍に包囲され、しばらく膠着状態となった。
結局、隈本城の攻防に終止符がうたれたことになったのは、城内に人質として預けられていた攻め手側の阿蘇氏の大宮司であった惟光と惟善の扱いを巧みに利用し、攻め手側の攪乱を図ったことにより、この戦いは収まった。同年(天正15年)8月15日のことといわれている。
【写真左】隈本城の西側・その4
おそらくこの石垣の下にも当時の石垣が残されていると思われるので、築城当時その高さは現在の約2倍はあったものと思われる。
成政の自刃
成政はこの戦いで、積極的に協力した山之上三名字衆ら(牛島・田尻)に170町を褒賞として与えている。
ただ、隈本城の戦い後、成政は保留していた城村城や、和仁城攻めを開始しようと、天草五人衆や宇土の名和顕輝などに支援要請をするが、ことごとく拒否されている。
こうしたこともあって、この戦い以後成政の目立った活躍は記録されていない。むしろ、このころから肥後国の総指揮は小早川隆景・安国恵瓊らに移っていたようで、秀吉から事実上肥後国主の任を解かれていたのではないかと考えられる。
その後、成政は大阪の秀吉に弁明の機会を得ようと向かったが、尼崎に留めおかれ、天正16年(1588)閏5月14日、当地の法園寺にて引責自刃した。
【写真左】石垣
野面積みと打ち込み接ぎが混在したような感じで、最終的には加藤清正によって整備されたのだろう。
現地の説明板・その2
“古城堀
熊本城は日本三名城の一つにも数えられ、約98万平方メートルもの広さを持つ豪壮雄大な城です。
明治10年の西南の役では薩摩軍の猛攻撃に耐え、その真価を発揮しましたが、その際天守閣を始め多くの櫓が失われました。そこで、文化庁と熊本市では本来の姿への復元を進めています。
この付近一帯は古城の堀の跡で、戦前の段山を削った土や、昭和28年の大水害の際の排土で埋められたものです。そのため熊本市は、昭和54年度からこの地区の公有化を進めており、将来は浚渫して、旧態の堀に戻すことにしています。
熊本市”
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