ラベル 豊後 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 豊後 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年12月13日水曜日

利光宗魚の墓(大分県大分市大字上戸次字利光)

利光宗魚(としみつそうぎょのはか)

●所在地 大分県大分市大字上戸次字利光
●備考 鶴賀城・成大寺
●参拝日 2015年10月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 豊前・豊後の山城探訪最終日となったこの日(2015年10月12日)、その7年前の2008年に訪れた長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)に関わる鶴賀城の麓を探訪した。

 この日は帰途に着く予定でもあったため、時間もなく最初から登城の予定を立てていなかった。しかし、そのまま近くをスル―するのも勿体ないため、登城口の確認だけして置こうと思い向かった。
【写真左】利光宗魚の墓
 宗魚の墓は中央のものだが、墓石が宝篋印塔又は五輪塔の形式でないことから、後年(近世)建立されたものとおもわれる。



現地の説明板より

“成大寺(じょうだいじ)由来

 開基は詳らかでないが、大日如来を本尊とする天台宗の寺であった。寛弘8年(1011)に佛工定朝(ぶつこうじょうちょう)が毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を刻し安置している。
 建久7年(1196)大友氏入封後、九州鎮護の「惣道場」となり、嘉禎2年(1236)には、戸次氏の「祈願所」となる。正平2年(1347)より利光氏の「香崋院(こうげいん)」として、末院六か寺を有する大寺院であった。

 天文22年6月26日(1553)に大友宗麟より、肥後にある土地10町4反を寺領として、寄進を受け隆盛を極めていたが、天正14年(1586)の鶴賀城の戦いで全部焼失した。
 慶安元年(1648)戸次願行寺(がんぎょうじ)住職仁山(じんざん)和尚により、臨済宗妙心寺派の成大寺として再興された。その後、昭和27年(1952)寺籍を無くし利光区の管理となり現在に至る。

    平成18年12月吉日
    大分市地域まちづくり活性化事業
    協力  成大寺保存会“
【写真左】成大寺 住職 信庵阿奢利正忠の墓
 宗魚の右側に建立され、標柱の側面には「観応元年1月15日亡(1350)」と記されている。
 戸次氏から利光氏へと替わった頃なので、説明板にもあるように、末院六か寺を有する大寺院となったときの住職と思われ、いわば中興の祖と考えられる。
 ただ、墓の形式が五輪塔なので、元は武士(阿南氏か)だったと推測される。



利光氏

 鶴賀城の城主利光氏の出自についてははっきりしない点が多いが、佐藤蔵太郎著『鶴賀城戦史』によれば、前稿の豊後・戸次氏館(大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺で紹介した大神氏系阿南基家のあと、大友氏(能直か)入国後、基家の弟親家が下賜され、姓を地名から利光としたとされる。

 しかし、上掲の説明板にもあるように、麓にあった成大寺が建久7年の大友氏入国後、九州鎮護の「惣道場」となり、嘉禎2年(1236)に、戸次氏の「祈願所」となったと書かれているので、この段階では、大友氏2代親秀の次男重秀が戸次荘(鶴賀城)に最初に入ったときと思われる。

 その後、理由は不明だが、戸次氏は当地・戸次荘を離れている(西部の大野荘地域へ)ので、大友氏傘下となった阿南氏が、正平年間(南北朝期)に戸次氏と入れ替わり、阿南から利光姓を名乗ったものと推測される。
【写真左】墓周辺
 成大寺跡には、件の墓石と左側に見える集会所のような建物が建っている。
 この場所が鶴賀城の登城口の一つになる。
なお、本丸はこの写真でいえば右側に当たる。


利光宗魚

 さて、長宗我部信親の墓・戸次河原合戦の稿で述べたとおり、天正14年(1586)、長宗我部信親ら豊臣軍が豊後水道を渡海する前まで、必死に島津軍の攻撃に耐えていたのが鶴賀城主・利光宗魚である。宗魚は別名、越前守鑑教、宗匡ともいった。

 当初2万の大軍を率いた島津軍が鶴賀城を包囲したとき、城主・宗魚は当城には在城しておらず、宗魚の嫡男・弾正忠統久をはじめ、弟の平助・叔父の成大寺豪永・高橋左近・村上三郎右衛門以下わずか700人、それに老若男女併せて3,000余人だったという。
【写真左】「鶴賀城跡↑」の案内板
 ここから本丸跡まで約900m(約30分)、のろし台(15分)、穀物倉(20分)などと付記してある。

 一瞬登城したくなったが、帰りの時間も考慮し断念した。機会があれば鶴賀城や鏡城などをはじめ、島津軍が進軍した城砦なども改めて訪ねてみたいものだ。


 城主・宗魚はこのとき、3,900余騎を引連れ肥前に出征中だった。この肥前とはおそらく島津方の島津忠長(ただたけ)及び伊集院忠棟の両将が2万の大軍を率いて北上し、大友氏に寝返った筑紫広門の守る肥前・勝尾城や朝日山城での戦いに援軍として向かっていたときと思われる。

 鶴賀城の危機を知った宗魚は急ぎ軍を引き返し、途中で龍王城(豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)参照)にあった大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に謁して別れを告げ、鶴賀城に向かったという。

 義統が龍王城に在陣していた理由は、耳川の戦い後、大友氏に背いた安心院氏を当城で攻略した後ではあったが、本来ならば宗魚と一緒に鶴賀城に援軍すべきである。『九州諸家盛衰記』では彼のことを「不明惰弱(懦弱)(ふめいだじゃく)」と記している。優柔不断で識見状況判断に欠け、しかも酒乱であったという。一説には大友家の衰退は義統が招いたとも云われている。もっとも、このとき義統は、その後援軍してくる豊臣軍と合流するためにこの地に待っていたという説もある。
【写真左】成大寺跡から本丸方面を遠望
 成大寺からはほぼ南の方向に本丸が位置する。直線距離では700m前後となる。





 さて、宗魚が鶴賀城に戻ってから島津軍との戦いが再開された。時に天正14年11月末のことである。緒戦では局地的な戦いが繰り広げられたが、12月5日本格的な戦いが始まった。島津軍の猛攻により、三の丸・二の丸まで焼け落ち、いよいよ牙城本丸に差し迫った。しかし宗魚らの必死の抵抗があったため、島津軍は深追いせず一旦鶴賀城の南にある梨尾山の陣に引き上げた。

 12月7日の夕、宗魚は梨尾山にある島津軍の様子を見ようと、鶴賀城の櫓に上った。そのとき木陰に潜んでいた島津軍の一人の兵が一矢を放った。矢は宗魚の急所に当たり絶命したという。また、別説では流れ弾に当たったためともいわれている。
【写真左】成大寺から西方を眺望する。
 成大寺や鶴賀城の西麓を大野川(戸次川)が南北に流れ、対岸には阿南氏の居城といわれた天面山城がある。
 おそらく写真左側の山と思われる。
【写真左】大野川(戸次川)を見る。
 成大寺を少し降りたところの東岸部から北を見たもの。豊臣軍は下流となる奥の方から進軍してきており、西岸には豊臣軍が軍議を開いたという鏡城がある。

 従って、この位置はちょうど島津軍が鶴賀城を陥れたあと、豊臣軍と相対した場所になる。

2017年12月10日日曜日

豊後・戸次氏館(大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺

豊後・戸次氏館(ぶんご・べっきしやかた)

●所在地 大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺
●形態 居館
●遺構 不明
●備考 最乗寺
●築城者 戸次氏
●築城期 不明
●登城日 2015年10月12日

◆解説(参考資料 HP『戦国 戸次氏年表』、HP『城郭放浪記』等)
  大分県大分市には二つの大きな川が流れている。一つは西側にある大分川、もう一つは東側にある大野川である。いずれも一級河川であるが、このうち大野川の旧名は戸次川(へつぎがわ)と呼ばれ、長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)の稿でも紹介したように、天正14年(1586)この川を挟んで長宗我部信親ら秀吉から派遣された四国勢と、南から進軍してきた島津軍との壮絶な戦いが繰り広げられ、長宗我部元親の嫡男信親が悲運の死を遂げた。
【写真左】戸次氏館跡・最乗寺
 現在最乗寺という寺院が建立されているが、豊後大野市には14か所に及ぶ城郭(山城・館等)があったとされる。
 そのうち、大野町田中ある現在の最乗寺という寺院付近に戸次氏の館があったとされる。


 さて、この大野川(戸次川)を遡っていくと、大分市の南隣豊後大野市に入る。同川の支流平井川を北上していくと、矢田というところで二つに分かれ東側から田代川が注ぎ込む。

 この田代川をさらに遡り、国道57号線と交差する地域が現在の大野市のもととなった大野町である。
 戸次氏館はその大野町田中にあったとされる城館である。
【写真左】最乗寺前の通り
 この最乗寺から北へ約2キロほど向かった藤北にも戸次氏の館(藤北館)がある。また、そこからさらに北西方向に6キロほど向かったところに下段で紹介している鎧ヶ岳城がある。



大神氏その一族

 ところで戸次氏に関連する事項に入る前に、大雑把な豊後国の武士を中心とした中世の流れを見てみたい。

 平安時代後期、豊後(今の大分県中南部)に勢力を誇った一族に大神(おおが)氏がいた。大神氏はもともと宇佐神宮の神官として奉仕していたが、宇佐氏によって大宮司職を奪われると、宇佐を退去し豊後の南方に移り扶植していったといわれる。
 推測だが、この大神氏が宇佐を退去する前にいたと思われる本貫地が、現在の国東半島の南東部にある日出町大字大神(おおが)ではないかと考えられる。因みに、当地大神から宇佐神宮までは直線距離で25キロほどである。

 大神氏からは後に、臼杵大野・植田・阿南・高知尾氏などが分かれていく。このうち臼杵氏の分流となった一族に緒方氏がいる。
【写真左】山門
 先ほどの通りを抜けると、手前に階段がありその上部に最乗寺の山門が控える。








緒方氏大友氏

 緒方惟栄(これよし)は当初平家(平重盛)の御家人であったが、のちに源氏方に与し平家の拠点宇佐神宮を攻撃し、神宝などを略奪したため上州へ配流されたが、平家追討の功を認められ、再び豊後に戻った。そして平家滅亡後頼朝と不仲になった義経を九州に招くため、竹田に岡城を築いた(豊後・岡城(大分県竹田市竹田)参照)。惟栄の本拠地は同市(豊後大野市)の緒方町である。

 周知の通り、義経らは惟栄を頼って舟で九州へ向かったが台風に巻き込まれ、軍勢も散り散りになり西下計画も失敗に終わった。こうした経緯もあったため、豊後国は幕府を開いた頼朝にとって完全に統治した国ではなく、敵対する者も多かった。このため、その鎮圧と知行を目的として大友能直(よしなお)を豊後に送り込んだ。
【写真左】山門から田中の町並みを見る。
 高さは5m前後のもので、館があったとされる時代には郭段を構成していたものと思われる。




 能直は相模国(神奈川県)愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、後に母の実家であった同国足柄上郡大友郷を継承して大友能直と名乗った。
 建久7年(1196)正月、能直は豊前・豊後両国守護並びに鎮西奉行を任じられた。

 能直の入国の前、先発として向かったのが能直の実弟とされる古庄重能である。果たせるかな、重能の入国を阻止するため一斉に立ちあがったのが、件の大神氏一族である。主だった同氏一族が拠って戦った城郭は次の通り。
  • 阿南惟家  高崎山城(大分市神崎)
  • 阿南家親  鶴ヶ城(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦で紹介している鶴賀城と考えられるが、豊後大野市緒方にある鶴ヶ城の可能性もある。)
  • 大野泰基  神角寺城(豊後大野市朝地町烏田 神角寺)
  • その他
【写真左】本堂
 本堂の裏側はさらに高くなった丘陵地があり、そこに田中神社が祀られている(下段写真参照)。
【写真左】境内
 境内周辺には民家などが建っているが、本堂も含めたこの平地を当時の館敷地とすれば、凡そ長径(南北)50m×短径(東西)30mといったところか。




大友氏による豊後支配体制

 大神氏一族らによる抵抗はゲリラ作戦的な戦いが多く、大友氏はこのためかなり悩まされたが、次第にこれら在地武士を支配下に治めていった。

 貞応2年(1223)、大友能直は死の直前大野荘地頭職を妻・風早禅尼(深妙)に譲った。そして、延応2年(1240)、深妙は大野荘の地を7人の子に分与し、詫摩・一万田・志賀ら有力武士が誕生した。その後、二代親秀、三代頼泰と継嗣させ、二代親秀に多くの男子があったことから、彼らをそれぞれ豊後各地に配し、姓をその地名からとった。

  氏名       領主名(所領地)
 次男・重秀 ⇒ 戸次氏(大野川(旧戸次川)の中流域)
 三男・能泰 ⇒ 野津原氏(大分川支流七瀬川沿いの旧野津原町付近)
 四男・直重 ⇒ 狭間氏(由布市狭間町)
 五男・頼宗 ⇒ 野津氏(臼杵市野津町)
 六男・親重 ⇒ 木附氏(杵築市)
 七男・親泰 ⇒ 田北氏(竹田市直入町上・下田北)

※なお、史料によっては、初代能直、二代親秀までは実際に豊後に下向せず、三代頼泰のとき初めて当地に入ったとされるものもある。
【写真左】最乗寺の脇から田中神社に向かう。
 境内北側が少し高くなって、その奥には田中神社に向かう階段付の参道がある。




戸次氏

 さて、このうち戸次氏については、元々大神氏系臼杵氏の流れを持つ戸次惟澄がこれ以前から在地していたが、惟澄には子がなかったので、重秀を養子に押し付けたといわれている。

 大友氏が養子を送り込んで、戸次重秀と名乗らせる前の戸次氏は、臼杵惟盛から分かれた惟衡の子維家が初めて戸次姓を名乗っている。以後、惟隆、惟継、惟房、そして惟澄と続いた。

 惟澄が大友家から重秀を養子として迎えたあと、時親、貞直、頼時、直光、直世、親載、親貞と続き、親貞の代になって、戸次家惣領には親宣を、親続には片賀瀬戸次氏を、親延には藤北戸次氏を継がせている。おそらく片賀瀬戸次氏や、藤北戸次氏も養子の形で押し込んだのだろう。
 この惣領親信の孫が戸次鑑連(あきつら)、すなわち後に「鬼の道雪」又は「仏の道雪」といわれた立花道雪である。
【写真左】鳥居
 額束には「熊野権現宮」と刻銘された文字が見え、また柱には「文久二…」の文字が見える。
 創建期など不明だが、これから推測すると紀伊の熊野本宮から勧請されたものだろう。



立花道雪(戸次鑑連)

 戸次氏を語る上で、戦国期もっとも名を馳せた武将としては、立花道雪と立花宗成の二人(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)が挙げられるだろう。
 
 ところで上述したように戸次姓の基となった戸次地域は、戸次川(大野川)の中流域にあった戸次の荘(大分郡戸次荘)からきたものと思われるが、その後重秀はそこからさらに上流部に遡った今稿で取り上げている戸次氏館の北方、大野市大野町田中に鎧ヶ岳城を築いた。

 永正10年(1513)初春、戸次氏13代当主親家の次男として道雪が生まれた。道雪の幼名は八幡丸といい、彼が生まれたとき既に長男は夭逝しており、生まれながらに嫡子としての重責を背負うことになる。

 なお、道雪が生まれた場所については、居城・鎧ヶ岳城とする史料もあるが、現地は居館跡らしきものや、郭といった遺構などが希薄であったことから、当城の南麓にあったもう一つの館・藤北館(常忠寺裏)ではなかったかとする説もある。
【写真左】拝殿
 蔀戸もなく、柱だけ残した構造となっている。往時はこの場所で神楽などの奉納がされたのかもしれない。




 父・親家の妻は、同じく大神氏の流れを汲む由布加賀守惟常の娘で、八幡丸(道雪)を生んだ翌年死去してしまう。
 父・親家も生まれながらにして病弱で、八幡丸は14歳のとき父の名代として初陣を飾り、その功を以て主君大友義鑑(宗麟の父)から正式に戸次家の家督相続の許しを得、さらに偏諱を受けて、鑑連(あきつら)と名乗った。
【写真左】「田中神社」の額
 名称は当地名の田中からきたものだろうが、日本全国にある「田中神社」との関連もあるかもしれない。



 その後の経緯については少し端折るが、道雪となったのは、その当時の主君義鎮が剃髪して宗麟と号したとき、多くの家臣も主君に倣い入道となり、鑑連もこのとき「道雪」と号したからである。

 また、立花姓となったのは、大友氏の一族立花氏(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)が度々主君大友氏に反旗を翻していたため、これを追いやり、宗麟が道雪をして立花の名跡を継がせたからである。そして、道雪は筑前の立花城の城主となった。
【写真左】絵馬
 この出で立ち衣装は何となく赤穂浪士を髣髴させるのだが、よく分からない。
【写真左】田中神社境内
 最乗寺境内からおよそ7,8m程度高くなったところに祀られているが、ここからさらに北に向かって丘陵上の尾根が続く。
 中世はこの縁あたりが当時の街道であったかもしれない。

2014年5月21日水曜日

豊後・岡城(大分県竹田市竹田)

豊後・岡城(ぶんご・おかじょう)

●所在地 大分県竹田市竹田
●指定 国指定史跡
●別名 臥牛城・伏牛城・豊後竹田城
●高さ 325m(比高100m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 緒方三郎惟栄
●城主 緒方氏、中川氏
●登城日 2013年10月13日

◆解説
 豊後・岡城(以下「岡城」とする)は、大分市から南西に約35キロほど向かった豊後・竹田市に築かれた城砦である。この竹田市からは、さらに西に豊後街道(R57)が走り、肥後(阿蘇方面)に繋がる要衝の地でもあった。
【写真左】岡城の石垣
  岡城の見どころの一つがこの石垣群である。
現存している石垣のほとんどは、下段の説明板にあるように、文禄3年(1594)播磨国・三木城から入部した中川秀成(ひでしげ)時代のものといわれている。

 施工にあたったのは、「穴太伊豆」で、有名な穴太衆らが大坂から呼び寄せられた。


 現地の説明板より・その1

“国指定史跡 岡城跡

 岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(註1)、惟栄は大物浦(だいもつうら)(兵庫県)を出航しようとして捕えられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
【写真左】「たけた」の街並み絵図
 豊後・竹田市の竹田は「たけた」と呼称する。但馬の竹田城と同じ名称だが、こちらは「たけだ」と濁音する。

 この絵図では岡城は右側に図示されている。


 建武のころ豊後国守護大友氏の分家で、大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(註2)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。

 天正14年(1586)から翌年の豊薩(ほうさつ)戦争では、島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(ちかよし)(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
【写真左】岡城案内図
 現地に設置されているものだが、図の表面はアクリルのようなものがあるため、写真では反射して見ずらい。
 白い部分が遺構部で、東西に大変に長く伸びた城域を構成している。


 文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(註4)

 明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げ(註5)ですべてが取りこわされた。
【写真上】岡城絵図
 岡城は北に稲葉川、南を白滝川という川に挟まれ、さらに両川はいずれも内側まで切り立った断崖絶壁となって深い谷を構成している。これだけでも十分要害性があるが、さらに険しい傾斜を持たせた石垣で造成されているため、要害堅固な城砦である。


 滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

註1
 『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)

註2
 『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安2年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文21年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)

註3
 『中川史料集』に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。

註4
 岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。

註5
 明治7年2月19日付『大分県布告書」で、(県内五城の建造物)岡城は69棟が入札に付されている。

平成10年3月
 竹田市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 南西側に総役所跡だった広い駐車場があり、そこに停めて、暫く歩くと登城口がある。






現地の説明板より・その2

“ 国指定史跡 岡城跡
      指定年月日 昭和11年12月16日

指定の理由

 岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼としていたが、昭和6年より一部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲ばせ、公衆行楽の諸施設を施している。
 さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡(うち)い収め、実に天下絶景の地である。
【写真左】大手門
 坂道を登ると最初に大手門がある。
 ここからさらに350mほど進むと本丸にたどり着く。


【写真左】古大手門
 上掲の大手門はおそらく近世城郭となった江戸期に整備されたものと思われるが、それ以前の中世にはご覧の大手門が残る。

 現在の大手門の右側にあり、当時の大手道は現在とは異なるルートがあったものと思われる。


説明事項
 城の外観が牛の臥せたる如きにより、別名「臥牛城(がぎゅうじょう)」という。
築城伝説
 文治元年(1185)豊後武士団棟梁であった、緒方三郎惟栄が築城。建武年中(1333~38)志賀貞朝から17代、260年間志賀氏の居城。
戦歴
 天正14年(1586)城主志賀親次は、島津義弘率いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭
 文禄3年(1594)中川秀成が入部してから13代、277年間中川氏の居城。

注意事項(省略)
(説明文は、指定申請書を現代文に改め、抜粋復刻したものである。)
【写真左】朱印倉跡
 祐筆、又は右筆とも書くが、この場所の建物の中で公式文書などを専門に清書する役人がいた。
【写真左】城代屋敷跡
 藩主が江戸参勤中には、留守を預かる責任者が必要となる。これが、いわゆる城代家老という役職者で、藩主に成り代わって治政を司った場所である。

 ここからさらに奥に進み、本丸方面に向かう。
【写真左】石垣群
 岡城の見どころの一つはこの石垣群である。
全国にある平城や平山城に見られる石垣もそれなりの趣があるが、土台となるこうした険阻な山を基礎とする山城はさらにその周辺部の景観と相まって、独特の凄味さえ醸し出す。


【写真左】太鼓櫓跡
 ここから中に入り、冒頭の写真にある三ノ丸側から上に進み、本丸に向かう。
【写真左】本丸跡・その1
 ご覧の通り、大変に広く、奥には岡城天満神社が祀られている。



 説明板の一部を掲載しておく。

“岡城天満神社
 ……(中略)……
 ここ岡城本丸跡は、中世の志賀氏時代は天神山といわれ、天神祠(やしろ)が祀られていました。中川氏時代になると城を拡張して、この天神山を本丸として天神祠を岡城の守り神としました。そして1595年(文禄4)4月29日には社殿を新築し、片ヶ瀬(この拝殿の対岸の丘陵地帯)の天満神社が所蔵していた狩野元信筆といわれる「菅原道真公の影像」と、名刀「天国作の太刀」をご神体として迎えて祀りました。…(後略)…”
【写真左】本丸跡・その2 御金蔵跡
 本丸の隣に設置された箇所で、文字通りに解釈すれば、ここに藩の軍資金やお宝があったということか。
【写真左】二ノ丸跡
 本丸の北側下の段に配置されたもので、作曲家・滝廉太郎の銅像が建立されている。

 廉太郎は、この竹田市に12歳から14歳まで暮らした。有名な「荒城の月」は土居晩翠の作詞で、晩翠は宮城県仙台市の青葉城や、会津若松市の鶴ヶ城などをイメージしていたといわれ、これに対し、作曲した滝廉太郎は、少年時代に過ごしたこの竹田市の岡城をイメージして作曲したとされる。
【写真左】二の丸から家老屋敷を見る。
 後段で紹介するように、岡城は西側の西の丸を扇の要のようにして、北西側に伸びる尾根伝いに家老屋敷や普請方跡などが配置されている。
【写真左】九重連山
 同じく二の丸付近からは北西方向に九重連山が眺望できる。
【写真左】家老屋敷・普請方方面に向かう。
 二の丸・三ノ丸の北側から、上掲した家老屋敷に向かう道が内側に造られているが、この写真はそのうち家老屋敷の東側の入り口付近に当たる。
 なお、この位置からすぐに左に向かうと近戸門へ繋がる。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その1
現地の説明板より

“中川覚左衛門屋敷跡

 岡藩家老中川覚左衛門門家は、茶道織部流の祖、古田織部正重勝の子孫です。覚左衛門門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享2年(1745)にこの屋敷地に移りました。
 古田家の記録には、「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地は広く2,300石取りの家老屋敷にふさわしい所である。」といっています。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その2

 また、歴代お藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄ることが慣例で、覚左衛門屋敷には文化8年(1811)、安政4年(1857)・5年の三度の訪問が確認されています。

 覚左衛門屋敷跡は、平成5(1993)~7年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、束石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構をもとに、間取り等の復元を行いました。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡から谷を隔てた二の丸・三ノ丸方面を見る。

 復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床束の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の緑を黒色塗料で表現しました。”
【写真左】普請方跡
 家老屋敷の隣で、近戸門との間にあるもので、岡城の北西端に位置する。
【写真左】岡城から騎牟礼城を遠望する。
 騎牟礼城は岡城から西方へ約5キロほど向かった飛田川字古城にある城砦で、仁平年間、源為朝が築いたといわれる。

 戦国期の天正年間には、岡城の支城となり、薩摩島津氏の襲来に備えたといわれる。
【写真左】西の丸
 最初に登城した大手門の左側にある郭。非常に広大で、ほぼ長方形となっている。







おわりに

 岡城は今稿で紹介したところ以外にも多くの遺構があり、城下の武家屋敷・足軽屋敷跡や市街地の中にも多くの史跡が点在している。

 今回の登城はあまり時間がなかったため、駆け足で見た程度である。岡城そのものも見どころ満載だが、竹田市の街並みも旅情をそそる。いずれまた機会があったら、じっくりと散策探訪したい城下町である。

2010年3月10日水曜日

杵築城(大分県杵築市杵築)

杵築城(きつきじょう)

●所在地 大分県杵築市杵築
●登城日 2008年12月4日
●築城期 明徳4年(1393)
●築城者 木附頼直
●城主 木附氏、前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏、松平氏等
●別名 木付城、勝山城、臥牛城
●形式 平城(海城)、模擬天守

◆解説
 大分県別府湾の北部で、国東半島の南部に位置する杵築市の守江湾を望む位置に築城されている。現在は模擬天守となっているが、築城当初はおそらく海城として、砦形式のものであったと思われる。
【写真左】杵築城配置図
 上が北を示す。なお、この図は江戸期のもので、現在は天守東部、北部は干陸化され市街地となっている。




●現地の説明板より

杵築(木付)城について
 建長2年(1250)、大友親秀の六男・親重は、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城し、竹ノ尾城にいった。
 木付氏4代頼直のとき、城を現在地の城山に移築、応永元年(1394)9月竣工、木付城と名づけた。

 木付城を別の名を、台山城、臥牛城また勝山城とも呼ばれるが、台山とは八坂川、高山川の合流地点に突出した台地に由来し、臥牛は、台山の地形が牛の寝た姿に似ていることによる。勝山城のいわれは、木付16代鎮直の時代、島津義弘軍の攻撃を受けたが、天正15年(1587)2月、これを撃退勝利をおさめた武功にあやかるものである。
【写真左】杵築城遠望
 杵築城の北東部(パチンコ店)駐車場からみたもの。








 さて、文禄2年(1593)、木付氏滅亡後、藩主の交代相次ぎ、正保2年(1645)、松平英親が転封されてより、明治に至るまで松平氏の治藩下に栄えた。

 杵築の地名は、正徳2年(1712)8月、徳川6代将軍家宣下賜の朱印状に木付の文字が杵築と書かれたことによる。”



 杵築という文字が使われたのは、当城主松平(能見家)3代・重休(しげやす) (1691~1715)の時代で、 幕府の伺いをたてたのち、承認され杵築とされている。杵築という名が最も知られているのは、出雲大社(島根)の旧名である「杵築大社」であり、明治4年までこの名が使われている。

 「杵築」の語源は、「…を築く、あるいは建てる」というようなところからきているらしいが、豊後木付の漢字にこれが充てられたのは、たぶんに出雲杵築大社の名前も参考になっているかもしれない。
【写真左】杵築城入口の門








 なお、初代木付(大友)頼直が建てたといわれる竹ノ尾城は、現在若宮神社となっているところで、杵築城の北側を流れる高山川を2キロ余り登った宮司地区にある。ここは探訪していないが、『城格放浪記』さんのサイトで紹介されているので、御覧頂きたい。

【写真左】城内に安置された多数の古墓
 城内には写真にあるような多くの古墓が安置されている。

 木附氏、松平氏など杵築城に関わった武将の墓で、五輪塔形式のものや、宝篋印塔形式のものなどが整然と配置されている。

 これらのほとんどは、近在に分散していたものらしく、のちに当地にまとめられたものという。

 城郭内にこうした形でまとめられたケースは、意外と少ない。多くは菩提寺や祈願所などそれぞれに設置されているケースの方が多い。

【写真左】天守真下から見上げる
 模擬天守で、しかもRC造りで小ぶりな建物である。建物内には展示品が収められており、博物館のような内容だ。

 主な展示品としては、杵築藩主松平氏の具足・陣羽織をはじめとし、石田三成の兄・石田正澄が着用した兜がある。

 石田正澄は、関ヶ原の戦いにおいて、弟三成と同じく西軍として参加。佐和山城で小早川秀秋の攻撃を受け、父正継とともに当城で自害している。
 なぜ、彼の兜がここにあるのか 展示室に経緯が書いてあったかもしれないが、残念ながらメモをとっていなかったため、分からない。

【写真左】天守付近から西南方面を見る
 杵築城が設置されている台地は、写真にみえるような岩山が繋がった地形で、今月紹介した「臼杵城」周辺の地形・地質とよく似ている。


【写真左】天守跡から国東半島を見る。
 写真左方向をさらに進むと、六郷満山といわれる国東半島の山岳信仰のメッカに繋がる。
 



宮本武蔵について

 ところで、当地に宮本武蔵についての説明板があったので、転載しておく。

“宮本武蔵 杵築(木付)に

 慶長17年(1612)、関門海峡に浮かぶ巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行ったとき、この試合の検分役を務めたのは、細川藩筆頭家老で、杵築(木付)城代の松井興長であった。

 決闘が終わって、門司城代沼田延元のもとにいた武蔵は、佐々木小次郎の門人たちに命を狙われたので、鉄砲組に護衛されて養父無二斎のいる豊後へ送り届けたと沼田日記に記されている。
「二天記」では、松井興長は、無二斎の門人であると記述されており、地元では、武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。

杵築市観光協会”

長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)

長宗我部信親の墓・十河一族の碑
(ちょうそかべのぶちかのはか・そごういちぞくのひ)
戸次河原合戦
(へつぎかわらかっせん)

●所在地 大分県大分市中戸次・竹中)
●探訪日 2008年12月4日

◆解説
 大分市の東部に流れる大野川の旧名は、戸次(へつぎ)川という。この戸次川の中流域に戸次という地名があり、現在国道10号線が平行して走っている。

戸次河原の合戦
 
 天正14年(1586)、この地で、大友義統(宗麟の子)および秀吉から派遣された四国勢である長宗我部信親、十河一族の連合軍と、怒涛の勢いで北上してきた島津軍との壮絶な戦いがあった。

 この戦いで、長宗我部元親の最愛の息子・信親は悲運の死を遂げることになる。
【写真左】「長宗我部信親の墓・十河一族の碑」入口付近
 右に見える道は、東部の臼杵市方面から国道10号線に繋がり、大分市方面に向かう枝線で、この位置から500m奥に向かうと、10号線と接する。

 写真の案内板には、当該墓・碑の案内があり、ここから歩いて100mほどの地点にある。なお、上段の文字は「戸次本町の町並み」まで1.8キロの表示。


 現地には長宗我部信親の墓、十河一族の碑が建立されている。以下現地の説明板より転載する。

“1586年(天正14)11月下旬、薩摩(鹿児島県)の島津家久が2万の軍勢を率いて豊後(大分県)に侵入してきました。鶴賀城の城主利光宗魚(そうぎょ)は、兵700を含む老若男女3000と共に島津軍に激しく抵抗しました。

 しかし、城は包囲され宗魚は討死しました。知らせを受け、豊臣秀吉が豊後に派遣した長宗我部元親・信親(土佐・高知県)、十河存保(そごうまさやす)仙石秀久(讃岐・香川県)の軍勢が、大友義統(よしむね・22代)の軍勢と合流、大友・四国連合軍6000が鶴賀城を救援するため、鏡城に到着しました。
【写真左】鎧塚
 戦士を祀ったと思われる石祠









 12月12日朝、大友・四国連合軍は、戸次川(大野川)を渡り、山崎、脇津留、迫の口に陣を敷き、脇津留で両軍が激突、合戦が始まりました。
 島津軍先陣の伊集院久宜(ひさのぶ)は、一旦脇津留から利光まで兵を引くと、大友・四国連合軍はこれを追撃しました。

 すると繁みや土手にいた伏兵に鉄砲で攻撃を受け、後方の島津家久と新納大善正(にいろだいぜんのしょう)に反撃され、さらに迫の口東方の本庄主税介に側面を攻撃され、島津軍のわな(釣野伏戦法・つりのぶせせんぽう)に落ちました。

 敵に囲まれる絶望的な状況の中、信親は家臣700と獅子奮迅の戦いをします。しかし刀の刃は欠け、鎧はちぎれついに力尽き、家臣全員とともに22歳の短い生涯を終えました。
【写真左】墓所全景
 この区域全体が墓所公園のような造りになっている。写真はアップしていないが、「鶴賀城戸次河原合戦之碑」や仁王像のようなもの、また数十体の地蔵が並べられている。



 大友・四国連合軍は中津留まで押し込まれ、総崩れとなり府内に退却しました。この戦いを「戸次河原の合戦」といい、両軍併せて2000人以上もの死者を出しました。

 信親は島津氏によって山崎に葬られ、のちに元親が遣わした僧により、荼毘にふされました。持ち帰られた信親の遺骨と遺品を見て、元親やその家臣たちは悲しみのあまり涙したといいます。”


長宗我部信親(1565~1586)

 長宗我部元親の長男。1575年織田信長から「信」の字を与えられ、「信親」と名乗るようになりました。背の高さは6尺1寸(約184cm)と長身で、色は白く礼儀正しく、家臣には分け隔てなく接し、領民には常に情けをかけるなど、人々から慕われていたと伝えられています。
 元親にとって期待の息子でした。”
【写真左】長宗我部信親の墓その1






【写真左】長宗我部元親の墓その2
 よくある五輪塔や、宝篋印塔の形式のものでなく、 幅広い円柱型のものとなっている。







【写真左】戸次河原の合戦要図
 地図が細かいため読みづらいが、同図をクリックすると拡大できるので、多少は配置が確認できると思われる。上方が北になり、大分市側になる。






【写真左】鶴賀城縄張図
 上記図の下方にあるが、この縄張図を見ると、遺構の種類や個所が多いようだ。
 なお、鏡城の縄張図はこの場所には明示されていない。








鶴賀城

 日向国(宮崎県)から府内および臼杵へ向かう交通の要衝地に築かれた城で、土塁や堀切、畝状空堀で敵の侵入を防いでいます。

 フロイスの『日本史』に「利光と称するキリシタン貴人の城」とあり、城主利光宗魚は、キリスト教徒であったことがうかがえます。”



【写真左】同墓地から南方に、鶴賀城を遠望する。
 おそらく写真右の山だろうと思われる。








四国霊場33番札所・高福山 雪蹊寺(せっけいじ)の長宗我部信親の墓

 ところで、長宗我部信親の墓は彼の領地・土佐にも建立されている。
【写真左】高知市長浜にある雪渓寺の山門









 場所は、高知市桂浜に近い四国霊場33番札所・雪渓寺境内にある。

 当院は、延暦年間弘法大師が高福寺として開基し、その後鎌倉時代には、運慶と湛慶の作になる毘沙門天の仏像などが安置されたことにより、慶雲寺と改称される。

 戦国時代になると、信親の父、すなわち元親の菩提寺となり、彼の法号にちんなんで、雪渓寺と改称された。

 雪渓寺境内の最深部にあるが、ここには信親はじめ部下の供養塔も祀られている。
【写真左】長宗我部信親の墓
 この墓は宝篋印塔形式のものである。
 なお、蛇足ながら、この写真背後の山は長浜城跡で、戦国期、本山梅慶の子・茂辰の支城で、大窪美作守が城主だった。

 永禄3年5月26日、長宗我部国親(元親の父)が、奇襲し攻略した。


 ここには信親の討死の原因を次のように記している。

“天正14年(1586)12月12日、豊後の国(大分県)戸次川畔で薩摩の島津義久の大軍と対峙しましたが、四国勢の主将・仙石秀久の無謀な渡河作戦のため、対岸に控えていた5千の島津軍の伏兵により、仙石勢は敗走しました。

 信親以下土佐勢は、踏みとどまって奮戦しましたが、衆寡(しゅうか)敵せず、700余人と共に22歳を一期として戦死しました。”

◎関連投稿
十河城(香川県高松市十川東町)
利光宗魚の墓(大分県大分市大字上戸次字利光)
由佐城(香川県高松市香南町由佐字中屋)