2020年1月3日金曜日

由佐城(香川県高松市香南町由佐字中屋)

由佐城(ゆさじょう)

●所在地 香川県高松市香南町由佐字中屋
●別名 井原城
●形態 平城
●築城期 南北朝期
●築城者 由佐氏
●城主 由佐氏
●遺構 土塁等
●備考 香南歴史民族郷土館
●登城日 2016年11月12日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 由佐城は以前取り上げた王佐山城(香川県高松市西植田町) から南西方向約5.5㎞ほど向かった香南町由佐に築かれた平城である。
【写真左】模擬天守
 模擬天守風のこの建物は、香南町歴史民俗郷土館で、由佐城跡に建てられた近世の建築物。




現地の説明板より

‟由佐城跡

 建武3年(1336)足利尊氏に従って京都東寺で戦死した益子下野守顕助の子弥次郎秀助が、阿波屋形細川頼春に従って四国に渡り、父の功績により讃岐国香川郡井原荘を賜り、姓は由佐と改め、由佐に屋敷を構えたのが由佐城の始まりです。

 城は、東は香東川、南に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞で、天正11年(1583)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城せず、和議を申し出たほどでした。
 その後、由佐家の居宅とした屋敷内には、内堀、土塁跡を見ることができました。
 香南町歴史民俗郷土館は、その由佐城跡に建築されたものであり、庭園内には、土塁跡が現在も残されています。”
【写真左】西側から見たもの。
 戦国時代の長曾我部氏侵攻の際、当城の中にはどのような建物があったかよく分からないが、土塁と堀を駆使した平城形式の城郭であったと考えられる。


由佐氏

 説明板にもあるように、城主由佐氏の始祖は益子下野守顕助の子弥次郎秀助である。
 益子氏は、元は下野国(栃木県)の守護であった宇都宮氏の家臣とされ、鎌倉期下野国芳賀郡益子邑の地600町を領有し、同国武士団紀党の棟梁ともいわれている。因みに本拠となる益子邑は現在の益子町で、江戸時代後期に始まった益子焼が有名である。

 益子顕助が建武3年(1336)、京都の東寺の戦いで戦死したといわれるのは、この年の1月尊氏軍が京都に入京した際、南朝方の北畠顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村) 参照)が尊氏軍と激闘し、獅子奮迅の活躍で奪還したときの戦いと思われる。
【写真左】周辺部の側溝
 現在では埋め立てられ当時の面影を残す景観はほとんど見られないが、東側を流れる香東川から大量の水を引き込み、二重三重の濠を巡らせていたものと思われる。


 そして顕助の遺児・秀助が細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原) 参照)に従って四国に渡ったのは、足利尊氏がこの年(建武2年)の2月、九州へ敗走する際、尊氏の命により、頼春をはじめ顕氏といった細川一族が四国に分遣されたときである。

 因みに、頼春が亡くなった後、嫡男頼之の代になると、三河国渥美郡二川郷を出自とする二川四郎左衛門光吉が、同じく井原荘龍満に下向し、龍満城(高松市香川町川東下字立満)を築き、龍満氏を名乗っている。龍満城はいずれ取り上げる予定だが、由佐城から香東川を1キロ余り下った対岸の立満に所在した城館である。

【写真左】土塁・その1
 登城の中で唯一残る土塁の跡

 当時の形状をそのまま残しているのか分からないが、平城城館であったことから、特に堀と土塁には防御上の堅固さを持たせたのだろう。

 土塁の幅は3m前後は確保されている。





戦国期から近代まで

  由佐氏はその後、細川氏に仕えていくが、応仁の乱後細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞) 参照)の代に内訌が起こり、政元が香西氏(勝賀城(香川県高松市鬼無町) 参照)によって殺害されると、替わって台頭してきたのが被官であった三好氏である。

 由佐氏は秀盛の代に三好長慶(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) 参照)の臣下となり、畿内を転戦した。しかし、長慶の病死をきっかけに三好氏も衰退すると、秀盛は本拠地讃岐に帰国することになる。やがて、土佐の長宗我部元親(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町) 参照)が阿波・讃岐に侵攻しだすと、にわかに讃岐の国人領主も浮足出した。

 ところで、あとで知ったのだが秀盛の墓が当城から少し北に向かったあぜ道付近に建立されているらしい(HP『城郭放浪記』参照)。
【写真左】土塁・その2











 

 長宗我部軍が由佐城を攻め始めたのは、天正10年(1582)といわれる。この頃の城主は秀武で、怒涛の勢いを見せていた長宗我部軍は、秀武の堅固な守りに手こずり、一旦兵を引いた。このとき秀武が伏兵を敷かせたのが後段で紹介する冠纓(かんえい)神社が祀られている冠纓山である。

 冠纓山は由佐城から西に1キロほど向かった標高100mほどの小丘で、当山に陣を構えていた由佐方の伏兵は、秀武が敗走する長宗我部軍を追撃すると、直ちに当山から急襲し、長宗我部軍を翻弄させた。

 しかし、緒戦の秀武の勝利も束の間で、態勢を整えた長宗我部軍はその後の戦いで由佐城を落とし、由佐秀武らは長宗我部の軍門に降り、元親の臣下となった。
【写真左】模擬天守周りの堀
 この堀は当然ながら新たに設置されたものだが、由佐城(郷土館)から南におよそ170mほどむかったところに、「南門」という地名がある。

 おそらくこれは由佐城時代の名残りと思われ、その地区にも東西を横断する小規模な川が流れていることから、これも当時の堀跡ではないかと考えられる。
 従って、城域は少なくとも南北方向に200m近く伸びた規模ではなかったかと推測される。



 天正14年(1586)、秀吉の命により、九州薩摩の島津氏征伐の任を受けた長宗我部信親らは、豊後戸次川の戦いに挑んだ(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)参照)。このとき、 秀武の嫡男三郎秀景も軍監・仙谷秀久の失態によりあえなく討死した。

 関ヶ原の戦い後、讃岐の新領主は生駒氏となり、秀景の嫡子久右衛門は同氏に仕えた。しかし、その後生駒氏が改易されると久右衛門は地元に残り郷士となった。
 その子孫は下段の写真にあるように、当城跡に屋敷を構え現代に至ったが、平成8年過ぎから取り壊され、現在の香南歴史民族郷土館が建てられている。
【写真左】「在りし日の由佐家」写真
 館内には平成8年時の同氏屋敷写真が掲示されている。

【写真左】城内(郷土館)の中庭
【写真左】香南町の史跡案内図
 館内には当町の主だった史跡・施設の案内板が掲示してある。
 この中には、由佐城のほか、城郭としては、横井城、行業城・岡館跡があり、西側には前述した細川頼之が崇敬した冠纓(かんえい)神社や由佐天満宮などがある。


【写真左】槍・薙刀展
 この日訪れたとき、館内では「槍・薙刀展 -戦国の長柄武器ー」と題した展示会が行われていた。
 写真は薙刀で、上から巴形薙刀拵、薙刀拵など。
【写真左】槍の部
 
【写真左】矢の部
 様々な種類の矢じりも展示されている。

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