2011年8月12日金曜日

黒岩城・その2

黒岩城・その2

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 今稿では黒岩城に関わる史跡を中心に紹介したいと思う。

大合戦橋

 前稿でも少し紹介したが、黒岩城東麓にある和泉合戦の激戦地となった橋である。
この橋を流れる竹地川は、東方から流れてきた宮内川と合流し、神野瀬川となって西城川へと下る水系だが、現地に立つとまとまった雨が降ればかなりの激流となる雰囲気を持つ。
【写真左】大合戦橋
 現在の川幅は河川改修の結果、御覧の通り2,30m程度のものとなっているが、当時は恐らく西方の竹地川と、東方から流れてきた宮地川が合流する地点で激しくぶつかり、200m前後の川幅(砂州)だったと思われる。




毛利元就縁の地
 現地にはこの合戦の経緯について、上記のタイトルを掲げた説明板がある(2007年現在)。内容は以下の通り。

“大合戦橋と泉合戦


 毛利氏が、備北地方での勢力を確立した戦が「大合戦橋」を中心に繰り広げられた「泉合戦」である。戦国争乱の世に、三次盆地や、その周辺の小領主たちは、大内・尼子という二大勢力の狭間にあって、自家の存亡をかけて戦いに加わっていた。尼子氏にとっては、中国全土を支配するためには、大内氏を倒すことであり、そのためには、大内氏の前衛的な存在である配下の毛利氏を倒すことが先決であった。


 毛利氏が大内氏の命令により、大内氏の配下から、尼子氏配下に転じた旗返城主・江田入道氏を討つため、四千余騎をもって出陣したと聞いた尼子晴久は、この機に毛利氏を倒そうと二万の軍を率いて冨田を出発し、仁多郡より王貫峠を越えて口和町に入って来た。


 当時、口和町大字湯木の釜峰城主・湯木氏は、大内氏に背き、尼子氏に味方していた。また、口和町大字大月には黒岩城を居城とする毛利氏方の泉(和泉)氏があった。


 毛利氏は、先ず尼子氏に寝返った湯木氏を討つために釜峰城に向かった。尼子氏はこれを聞き、天文22年(1553)5月20日に五千余騎を、向泉の萩の瀬に陣を張らせた。一方、毛利氏は二千余騎を大合戦橋を挟み対陣させ、自らは、小早川隆景と共に二千余騎で第ニ陣の構えとして後方の小高い丘(大月)に陣を布いた。


 このような勢力配備のもとで泉合戦は、萩の瀬橋(大合戦橋)を中心に繰り広げられたが、なかなか決着せず、そのうち雨がしきりに降り、川は増水し双方戦いを挑むことができず、互いに状況の偵察を繰り返すうちに、尼子軍は萩の瀬を去って、恵蘇郡山内(庄原市)へ移動していった。これによって、毛利氏は一帯を手中に収めることができた。さらに、尼子氏の配下にあった地方の小領主たちも、毛利氏に追随するものが増えてきた。
 この戦いののち、江田氏も討ち、毛利元就は備北地方での勢力を確立したのである
    口和町教育委員会資料より”


尼子方陣地

ところで、和泉合戦において尼子方が配したといわれる陣地としては、次のような地名が残る。

  • こしき岩山
  • 重信山
  • 柞山
  • 八幡山
  • 万福寺跡

【写真左】大合戦橋から西方に黒岩城を遠望する。
 橋の東岸から見たもので、写真中央の寺院は、月照山正専寺。


 なお、この写真は中国横断道の工事前に撮ったもので、現在は黒岩城の東麓を横に当該道路が走っている。




【写真左】月照山 正専寺
 江戸期に建立された寺院で、黒岩城との直接の関係はないが、大合戦橋の西岸に建立されている。

 参考までに当院の寺歴を記す。


月照山正専寺沿革(寺記による)


 下総(今の茨城県)の鄕士渡辺好房は真宗に帰依し、法名教圓と授かり、弘法のため西下して、備中(今の岡山県)哲多郡に照専寺を創立した。


 5代目祐圓は寺務隠退の後、衆生済度のための諸国を行脚し、その途次永享年中(1429~40)、備後の国恵蘇郡竹地谷村芦原山中に阿弥陀仏の正像を拾得、一宇を建て正専寺と号した。
 7代目祐観は、寛文9年(1669)、当村三上庄屋の招請でこの地に移り、寺院を建立し現在に至る。”

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