2014年6月1日日曜日

宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)

宇留津城(うるつじょう)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字宇留津
●別名 塩田城
●築城期 元暦年間(1184~85)
●築城者 緒方三郎惟栄
●城主 賀来次郎等
●形態 海城(館跡)
●比高 4.8m
●遺構 ほとんど消滅
●備考 須佐神社
●登城日 2014年4月8日

◆解説
 宇留津城は福岡県の北東部周防灘に面した築上町に築かれた海城である。
 当城については、以前石見の七尾城・その3(島根県益田市七尾)、及び宇留津城の西方にある障子ヶ岳城(福岡県田川郡香春町・京都郡みやこ町)でも少し紹介している。
【写真左】宇留津城
 宇留津城跡の一角にある須佐神社前に宇留津城の石碑が建立されている。

 この石碑の横には、「天正14年11月7日落城…」と記されている。



現地の説明板より

“宇留津城址

 天正14年(1586)、豊臣秀吉は九州統一のため薩摩の島津氏攻めを開始。先遣隊の軍艦黒田官兵衛孝高(よしたか)は、毛利、吉川、小早川の中国勢とともに小倉城の高橋氏を攻略、さらに軍勢28,000人で、2,000人が立て籠もる加来与次郎(かくよじろう)の宇留津城を攻めた。

 黒田勢は母里太兵衛が先陣を務めたが、大きな濠に阻まれた。しかし、一匹の白い犬が濠の浅瀬を渡っているのを見て、そこから一気に攻めて落城。そして妻子とも400人余りを浜で磔にしたと伝えられる。
 須佐神社から宝積寺(ほうしゃくじ)一帯が城跡で、周辺の堀跡の塩田(えんた)沼も埋め立てられてしまった。

   築上町・築城町教育委員会”
【写真左】塩田沼の地図
 付近にはご覧の説明板があり、須佐神社の南の湿田地帯を塩田沼と呼んで、昔から宇留津城の濠跡として伝えられているという。

 昭和50年頃より埋め立てが始まり、現在は濠などの痕跡はほとんど消滅している。






九州征伐と官兵衛の役割

 秀吉が九州征伐を開始するきっかけとなったのは、かつて九州六か国を手中に収めていた大友氏からの度重なる救援の依頼があったことも一因である。
 大友氏とは宗麟(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)のことであるが、宗麟が中央に援助を求めた相手は、実は秀吉が初めてではない。
【写真左】須佐神社参道
 宇留津城跡は現在の須佐神社・宝積寺を中心とした区域に当たる。
 写真は須佐神社の西側から伸びる参道入り口から見たもので、奥に鳥居が見える。

 なお、この位置で海抜は4.8mである。


 天正6年(1578)、宗麟は豊後の南隣・日向の伊東義祐が薩摩の島津氏から圧迫を受けていたとき、宗麟は義祐の依頼を受けて日向に陣を進めた。
 ところが、同年11月、高城(たかじょう・宮崎県児湯郡木城町)の戦いにおいて、島津氏と戦ったが、2万ともいわれる戦死者を出す大敗を喫し、大友氏の権威は失墜、ここから大友氏の衰退が始まった。

 さらには、南方の島津氏とは別に、築後から筑前に勢威を伸ばしてきた龍造氏などが台頭、武力による抗戦はもはや無理と判断した宗麟は、このとき初めて織田信長に援助を求めている。
【写真左】宝積寺の鐘門
 宝積寺は須佐神社参道の北側にある。









 このころ信長は、長引いた石山本願寺との抗争が終結し、西国の方へ眼を向けていた時期である。

 そして、石山本願寺を背後で後援していた毛利氏を落とすべく、九州の主だった諸将をまとめ、板挟みにする計画を立てていた。
 つまり、信長はその中の最大の勢力である大友氏と島津氏を和解させることに重点を置いていた。しかし、本能寺の変によってこの計画は頓挫してしまう。
【写真左】須佐神社
 宇留津城跡に須佐神社という出雲から来た管理人にとって縁浅からぬ社が建立されている。

 周防灘に面したこの豊前の地にスサノウノミコトが祀られた社があるとは驚きでもあった。

 宇留津の須佐神社の縁起については、現地に紹介するするものはなかった。
【写真左】出雲・須佐神社
 所在地 島根県出雲市佐田町須座730

 







 おそらく創建されたのは天正年間の落城後と思われるが、創建者は不明だ。ただ、攻め落としたのが毛利勢であることから、この中にあった熊谷氏が建立(高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)参照)した可能性もあるかもしれない。


 信長亡き後、大友宗麟は改めて秀吉に対し支援を求め、秀吉は島津・大友両氏に対し、停戦命令を出した。当然ながら大友氏はこれを受諾、島津氏も何度も家中で激論が交わされ、基本的には受諾する意思を示した。

 しかし、秀吉が停戦命令と併せて出した条件の中に、島津氏にとって納得しがたい九州全土の国分け案があり、この命令に対する回答を期限直前まで引き延ばしながら、一方で島津氏は肥後八代に出陣を開始した。天正14年(1586)6月13日のことである。
【写真左】須佐神社・本殿













 そして、7月筑後の諸城を攻略、さらに筑前に入った。島津氏が筑前において最も戦果を挙げたのが、大宰府の岩屋城(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)や宝満城である。そしてその勢威は留まるところを知らず、ついに立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)を包囲した。

 こうした情況下にあったにもかかわらず、毛利氏の動きが当初鈍かったのは、その直前まで大友氏と交戦していたため、毛利氏は薩摩の島津氏との盟約を結んでいたからである。しかし、秀吉の命を受けた毛利氏は、後段でも述べるように、ついに島津氏の動きを傍観するわけにはいかなくなった。
【写真左】刻像一石宝篋印塔
 一般的な宝篋印塔の形とは少し違うが、こうした様式のものはこの地方によく見られる一石五輪塔と類似しており、宝篋印塔とされている。

 もともと、宇留津城跡にあったものではなく、近くの旧松原街道に面した字屋敷にあったものを昭和になってから移されたという。
 天正年間の宇留津城の戦いに関係したものだろうか。


 7月10日に島津氏の動きを知った秀吉は、一方で島津氏の回答(受諾)を待ちながらも、ついに島津氏を逆賊として決断し、九州征伐の命を発した。

 このころ、九州は秀吉にとって、確かに島津氏が最大の抵抗勢力ではあったが、当地には島津・大友・龍造寺といった主だった一族とは別に、各地に中小の国人勢力が蟠踞しており、彼らもまた、中央(秀吉側)からの命などを無視する態度を固持し続けていた(和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)参照)。

 こうした九州の情勢を見定める役割を果たしたのが黒田官兵衛孝高である。官兵衛は秀吉から検使の任を受けつつも、併せて軍師として毛利勢を督促する役目も担った。
【写真左】境内を取り囲む林
 本殿を囲んで北・東・南に鬱蒼とした林が拡がる。
 この辺りが宇留津城の周防灘沿岸部にかけての防衛施設があったところと思われる。


 官兵衛としては、おそらく、九州の情勢を把握した上で、島津氏と少なからぬ与同の関係を持っていた毛利氏に対し、秀吉の意向と毛利氏の面目を保つことを最優先にして出兵するよう督促したものと思われる。
【写真左】周防灘側から見る・その1
 林を通りぬけて、周防灘海岸側から振り返ったもので、須佐神社はこの写真の中央奥に鎮座する。
【写真左】周防灘側から見る・その2
 同じく東側の海岸部のもので、こちらは海から参拝する道が設けられていたようで、鳥居が設置されている。
【写真左】周防灘
 堤防からみたもので、撮影時は干潮時だったようだ。

 官兵衛や毛利勢らは宇留津城の濠の効果が弱まる干潮時を見計らって攻めてきたのかもしれない。
【写真左】宇都宮鎮房の幟
 地元築上町では、官兵衛の活躍よりむしろ、地元の名族で悲運の武将・宇都宮鎮房を讃える幟が目立つ。




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