2014年6月6日金曜日

馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)

馬ヶ岳城(うまがたけじょう)

●所在地 福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳
●高さ 標高216m(比高190m)
●築城期 天慶5年(942)
●築城者 源経基
●指定 国指定史跡
●城主 新田氏、橘昌頼、草野氏、長野三郎左衛門、黒田官兵衛
●遺構 郭・堀切・横堀・土塁その他
●登城日 2014年4月7日

◆解説(参考文献『馬ヶ岳城主黒田官兵衛の軌跡』行橋市編等)
  豊前の馬ヶ岳城は、秀吉が九州平定した天正15年(1587)7月、黒田官兵衛がその功績により最初に居城とした城砦である。
【写真左】馬ヶ岳城遠望
 北側から見たもので、右に本丸、左に二の丸が控える。








 現地の説明板・その1

“黒田官兵衛の居城 馬ヶ岳城

 京都平野を眼下に一望する豊前の要衝・馬ヶ岳(216m)に初めて城を築いたのは、天慶5年(942)源経基と伝えられています。神馬の姿に似ていることから馬ヶ岳と呼ばれています。
 城の遺構は東西二つの山を中心に曲輪が造られていますが、西山の平坦面が本丸で、東山が二ノ丸です。また東山から北に下る尾根には約500mにわたる土塁や畝状竪堀群も確認されています。
 江戸時代の軍記物語などには、14世紀半ばから15世紀前半にかけて義基、義氏、義高の新田氏三代が在城したと記されています。
【写真左】案内図
 北麓にある「リレーセンターみやこ処理場」の奥に当城専用の駐車場(「西谷駐車場」)があるが、その脇にこの案内板が設置されている。

 ここから歩いてご覧の赤い線を辿りながら向かう。



 南北朝から室町時代を経て、豊臣秀吉による九州平定までの動乱の時代、豊前地域をめぐって少弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏などの群雄が覇を競いました。

 この時代、馬ヶ岳城は香春町の香春岳城、苅田町の松山城、添田町の岩石城などとともに、戦略上の重要拠点として攻防の舞台となりました。

 天正14年(1586)関白太政大臣となった豊臣秀吉は、島津氏征討を決め、翌天正15年(1587)遠征軍を率いて自ら九州に上陸します。秀吉は小倉城を経て3月29日に馬ヶ岳城に着き、滞在しています。
 九州平定後、馬ヶ岳城は豊前六郡を与えられた黒田官兵衛(孝高・如水)がその拠点を中津に移すまでの居城でした。”
【写真左】居館推定地・その1
 駐車場から暫く東に向かって麓を歩くが、途中で官兵衛が居館としたとされる杉の木という谷が見える。
 左図では円で囲んだ箇所になる。
【写真左】居館推定地・その2
 この写真に見える奥の白い建物がある場所で、現在数軒の家が並んでいる。
 なお、向背の山が馬ヶ岳城。

 ここから直接向かうこともできるようだが、地元では「馬ヶ岳ウォーク順路」という道が設定されているので、これに従う。



宇都宮氏の領地と黒田氏の所領

 官兵衛が秀吉から与えられた領地は次の通りである。
  1. 京都郡
  2. 仲津郡
  3. 築城郡
  4. 上毛郡
  5. 下毛郡
  6. 宇佐郡(西部地域)
 これらは豊前国の大半を占めるものだが、官兵衛が当地に入る前にこの地を治めていたのが、宇都宮(城井氏)鎮房である。宇都宮氏については、以前伊予の大洲城(愛媛県大洲市大洲)でも紹介しているが、鎌倉期から豊前を治め、築城郡の城井谷を本拠(城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)参照)としていた名族である。

 秀吉の九州攻めの直前まで島津氏に属していたが、急遽秀吉に従う態度を示した。ただ、このときは実際に鎮房自らは参陣せず息子(朝房)に任せている。九州平定後、秀吉は宇都宮氏に対し、国替えを命じられ、これを拒否、このため黒田氏と対立することになる。
【写真左】土塁と畝状竪堀群の配置図
 登城コースの途中にはご覧の遺構が示されている。

 土塁は、高さ2~3m、全長500m以上のもので、畝状竪堀群は50条も敷設されている。
 以下、下段の写真で示す。
【写真左】土塁と虎口
 土塁の途中に開口された虎口で、この箇所は居館跡に繋がるルートでもある。
【写真左】横堀
 土塁とほぼ並行して続くもので、この辺りには併せて畝状竪堀群も併設されている。
【写真左】畝状竪堀群
 主に横堀の右側に設置されているので、東側からの攻めを意識したものだろう。







宇都宮氏と黒田氏の戦い

 官兵衛の息子・長政は馬ヶ岳城を本拠とし、宇都宮氏の居城である城井谷に攻め込んだ。しかし、城井谷独特の地形と宇都宮氏の巧みな戦術によって、黒田氏は敗退。

 このため官兵衛は、城井谷の入り口付近に陣城を構え、谷を封鎖、その間に宇都宮氏に与同する周辺の国人領主を次々と制圧した。これにより宇都宮氏は孤立し、ついに黒田氏と和睦することになる。
【写真左】官兵衛岩と又兵衛岩
 登城途中にある展望台には、両将の名を冠した岩がある。この写真にはないが、左側には「太閤岩」と命名された岩がある。

 正面には二ノ丸と本丸が見えだす位置で、おそらくこの場所は物見櫓などがあった場所だろう。

なお、この箇所の標高は144.6mである。


馬ヶ岳城から中津城へ移る

 宇都宮氏と和睦したことにより、豊前領内平定に一定の目途がたったため、官兵衛は居城を馬が岳から東方の中津へ移し、城を築いた。これが中津城(大分県中津市二ノ丁)である。
 なお、中津城を築き始めたのが天正16年(1588)1月頃といわれているので、官兵衛らが馬ヶ岳城に在城したのは約半年程度となる。
【写真左】二ノ丸
上掲の三岩から次第に急坂となり、最初のピークとなるのが二ノ丸である。

 標高208m、およそ10m四方の規模で、ここから京都(みやこ)平野が眺望できる。


宇都宮氏一族の誅滅

 さて、中津城に入った黒田氏であったが、和睦した宇都宮氏との関係は好転しなかった。黒田氏が中津城に入ったこの年(天正16年)の4月、ついに長政は中津城において鎮房を謀殺した。この事件に絡んで、のちに黒田家臣団二十四騎の1人であった後藤又兵衛(又兵衛桜(奈良県宇陀市大宇陀本郷)益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)は長政の下を離れることになる。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう中間点
 二ノ丸から本丸に向かうコースは、思った以上に急坂な下り勾配となっている。

 その後平坦な道となって次第に本丸に向かって再び登り坂となっている。
【写真左】井戸跡か
 本丸に向かう途中で右側に伸びる小郭があるが、その北側隅には窪みが見える。

 先端部は堰堤のようなものがあるため、溜池跡のようにも見えるが、当城の水の手については他に見当たらないので、おそらくこの箇所に井戸があったかもしれない。
【写真左】北端部小郭の祠
 先ほどの位置から北に延びる郭の先端部で、郭は長さ約70m×幅5m前後の規模。
 この祠からさらに北に進むと、切崖となっている。
 この位置は二ノ丸と本丸の間にあるが、おそらく本丸側のエリアと一体のものだろう。そしてこの郭は北側の状況を確認できる場所だったのだろう。

 このあと再び元のコースに戻り、本丸に向かう。
【写真左】横堀
 本丸直下にある遺構で、本丸に向かうコースの左側から約20mの位置にある。
 南側の斜面に設けられているもので、左側土塁天端から約3m前後の深さを持つ。奥行は先端部まで踏査していないが、50mはあろうか。
【写真左】本丸・その1
 標高216mの高さ持つもので、中央には南北朝期から室町初期にかけて当城を本拠とした新田氏の石碑が建立されている。
【写真左】本丸・その2
 本丸から北東方面を俯瞰する。
前方には行橋市の街並みと周防灘が見える。
【写真左】本丸から北東に豊前・松山城を遠望する。
 豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)参照
【写真左】本丸・その3
 西側から見たもので、本丸は石碑がある個所からさらに西に約30m近く削平地が伸びる。
 この先には尾根に筋に下った約100mの位置に堀切があるということだったが、この日はここまでしか踏査していない。
【写真左】当城保存会の看板
 昨年(平成25年12月31日)地元・花熊区の方々による整備作業が行われたようで、南側斜面が伐採されていた。




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 陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)

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