2018年6月12日火曜日

吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)

吉川興経 館(きっかわおきつね やかた)

●所在地 広島県広島市安佐北区上深川町
●形態 居館
●築城期 天文16年(1547)
●城主 吉川興経
●備考 吉川千法師墓・豊島兄弟墓
●登城日 2016年2月5日

◆解説(参考文献 『千代田町史・通史編』等)
 吉川興経の館跡は以前紹介した木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)の北東麓に所在する。
【写真左】吉川興経の墓
 吉川興経居館跡に興経の墓が建立されているが、後段でものべているように、居館跡とされる敷地も大変に狭い。




現地の説明板より

“吉川興経居館跡

 吉川氏は鎌倉時代から山県郡大朝町を本拠とした有力武士で、鎌倉時代には、小早川氏とともに戦国大名、毛利氏を支え、山陰地方の支配に当たった。享禄4年(1531)、吉川興経は毛利元就から小河内(現安佐町)などの地を与えられたが、出雲の尼子氏の配下となったため毛利氏と対立した。

 元就は天文16年(1547)、興経をこの地に幽閉し、元就の二男元春を吉川家に入れることに成功した。そして天文19年(1550)、元春を小倉山城(大朝町大字新庄)へ入城させたのち、この居館を襲撃させ、興経とその子千法師を殺害した。興経の遺骨はそのままこの地に葬られ、墓所となっている。

【左図】「吉川 史跡案内図」
 現地に案内図が設置してあるが、大分劣化していたため、管理人によって加筆修正を加えている。
 吉川興経居館跡・墓及び、手島五人兄弟の墓はいずれもJR芸備線の上深川駅の近くにある。



吉川氏尼子・毛利氏がり

 安芸・吉川氏については、駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町)の稿でも述べたように、鎌倉時代末期の正和2年(1313)、吉川経高が駿河国(静岡県)から安芸国山県郡大朝町(現北広島町)に下向し、その後小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)に移るまでの凡そ230余年にわたって当地周辺を支配した一族である。
 安芸・吉川氏の祖といわれている経高から数えて9代となる当主が興経である。

 興経の生誕年は永正5年または永正10年(1518)といわれており定かでない。父は元経で、母は毛利弘元(多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)参照)の娘といわれている。すなわち、元就の甥に当たる。
【写真左】吉川氏と毛利・尼子氏の関係
 元春(毛利)が吉川家に養子に入る前の関係図で、興経の母は元就の妹(姉とも)に当たり、元就の妻は興経の祖父・国経の女で、興経の叔母に当たる。



  ところで、説明板にもあるように、興経が享禄年間に尼子氏の配下となって毛利氏と対立した、と記されているが、吉川氏は興経の曽祖父・経基の代には、本国安芸をはじめ、石見、出雲両国の領主たちと積極的に婚姻関係を結んでいる。

 具体的には、本国安芸では、笠間・綿貫・三須・小河内の諸氏、石見国では、佐波・波根の諸氏、そして出雲では尼子氏と多賀氏である。特に注目されるのは、経基の娘(吉川夫人)が尼子経久の正室として嫁いでいることである。
【写真左】腹切石
 居館手前に残るもので、攻撃を受けた吉川興経は奮戦したがかなわず、屋敷内にあったこの石の上で腹を切って自害したと伝えらえている。



 毛利氏と婚姻関係を初めて結んだのは、次の国経の代からで、石見では小笠原・高橋・福屋などがあり、特に小笠原氏とはかなり以前から婚姻関係を結んでいた。そして、国経の娘が元就の正室として嫁いでいる。つまり、興経の叔母が元就の妻である。

 吉川氏が興経に至るまで、大内氏をはじめ、尼子氏や毛利氏とこうした婚姻関係を結びながら命脈を保ったものの、しかし興経の代にると、彼の独断専行や、元就の台頭によって次第にそのバランスは崩れてきた。
【写真左】吉川興経居館跡
 周囲は一般民家の建物に囲まれ、周囲が塀で囲まれている。
 塀で囲まれた跡が居館跡ということだが、中は予想以上に狭く、この中に興経の墓が祀られ、居館跡というより霊廟のような趣だ。

 このことからおそらく当時はもう少し大きく、隣接する民家も居館跡の敷地だったのかもしれない。


興経と吉川家臣団の軋轢

 興経の変転ぶりは激しかった。有田合戦のときは元就と共に戦い、尼子氏による郡山城包囲合戦では尼子方につき、尼子が敗走すると、今度は大内氏につく。そして富田月山城攻めでは、途中から再度尼子方についた。
 こうした興経の行動に対し、大内氏は天文12年(1543)8月、吉川氏の所領全てを没収、これらを毛利氏に与えた。しかし、元就は大内氏に興経の赦免を願い出たため、興経が出雲から帰国できたという(『陰徳太平記』)。
【写真左】居館と興経の墓
 ごらんのように、居館の敷地は石を積み上げた墓のみが残っている。








 このように、当初元就は興経の行動に対し、ある程度寛大な対応をしていた。これは興経が元就にとって甥であったことも働いだのだろう。

 小倉山城に戻った興経であったが、その後彼は大塩右衛門尉という一人の家臣を重用し過ぎ、他の譜代家臣から反感を買い、家臣団との軋轢を深めていった。そしてその施政は横妨極まるもので、ついに叔父の吉川経世をはじめとする面々は、大塩の館を急襲し右衛門尉一家を殲滅させた(『陰徳太平記』)。
【写真左】吉川家系図
 この頃軋轢が生じたのは、同家(吉川家)では伝統的に一族・重臣の発言権が強かったことも影響しているのかもしれない。

 興経が家督を継いだとき、すでに元経は死没しており、祖父国経が後見役を務めていたものの、天文13年(1544)に亡くなると、興経は独断専行し始める。


興経の隠居を巡る毛利氏との交渉

 この後、彼らは興経を隠居させ、元就の二男元春を養子として吉川家の家督を継いでもらうことを元就に申し入れた。元就はこれに対し、当初応じなかったが、叔父の経世をはじめ市川経好・今田経高ら一族の連判起請文が届くと、元就はこれに同意し次男の元春を吉川家に送り込むことを決意した。
【写真左】近くにあった石垣
 居館跡から少し東の方へ向かった、JR芸備線脇に残る石垣。
 上には民家が建っているようだが、この石垣は周辺の民家のものとは大分趣が違う。
 興経居館時代の石垣か、又はそれを再利用したものかもしれない。


 当然この計画は興経には内密で進められ、元春が吉川家を継ぐ前年の天文15年(1546)7月ごろには次のような交渉内容があったとされる。
  1. 興経の子・千法師は元春のもとに引き取る。
  2. 元春に男子、興経に女子が生まれたら二人を結婚させる。
この2点が合意内容の基本となっていた。さらに、経好ら重臣はこれらに加えて、次の6項目を提案している。
  1. 日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)(このころ興経が小倉山城から日野山城に移る準備をしていた)を渡すので、元春殿に登城してもらいたい。
  2. 但し、日野山城を何の代償もなく渡せば、世間では「城を追払われた」などと陰口をたたく者がいるだろうから、興経を隠居させるにあたっては、隠居分の所領を確保してほしい。
  3. 計画が成就した際、以前確約した「与谷城(※)は森脇祐有に与える」との話を今一度確認しておきたい。                         ※与谷城(余谷城:北広島町寺原字狼谷)
  4. 興経の隠居地については、できれば有田にしていただきたい。
  5. 隠居分としては、与谷城に付属する所領を充てていただきたい。これは将来城を持たせるときの備えである。
  6. 寺原へ退去した者も、寺原から当方(経世派の籠る与谷城か)に来た者も、ともにそれぞれもとに帰す(詳細は不明)。
 などとなっている。この後も度々交渉は断続的に行われ、最終的には興経自身も元就をはじめ隆元・元春兄弟に書状を送り、養子契約が成立した礼を述べ(『吉川文書』)、さらに天文16年(1547)2月には、一度は承諾した態度を示している。
【写真左】豊島(手島)兄弟の墓・その1
 興経居館跡の近くには、手島兄弟の墓が祀られている。







現地説明板より

“豊島(手島)兄弟・墓

 天文19年(1550)毛利元就は、熊谷信直・天野隆重に命じて、吉川興経を攻撃させた。不意を突かれた興経勢は、豊島5人兄弟(内蔵充興信、又四郎満武、又五郎弘光、又七郎頼達、又八郎重康)などが奮闘したがかなわず、ことごとく討死、または自害して果てた。

 豊島5人兄弟の墓は、当時は、いまより少し左の方に一つ一つ散在していたが、明治18年5月、第十一世孫岩国豊島諒がここに5人墓として建碑した。
    出展 藝藩通志、ふるさと高陽
    平成26年(2014)2月
    制作者 てくてく中郡古道プロジェクト・狩留家郷土○会
    協賛 株式会社 研創   (以下略)”
【写真左】豊島(手島)兄弟の墓・その2
 駐車場の一角に祀られているが、生垣で囲われているので意外と分かりにくい。





 ただ、興経に与える隠居分を巡って両家(吉川・毛利家)の思惑が一致していなかったようで、その後毛利側は元就・隆元・元春父子の3人の起請文によって次のような提案を伝えている(『古代中世史料編』)。
  1. 興経は毛利領に隠居させる。
  2. 興経に異心がなければ、我々も末代まで違背しない。
  3. 興経に与える隠居分は、興経の死後は子の千法師に与える。
  4. 大内氏から要求されても、興経を渡すようなことはしない。
  5. 興経を備後に送り出して、再び尼子氏と手を結ばせるようなことはしない。
 とあり、とくに3.~5.は吉川氏からの疑念に応えたものである。
 毛利側からのこれら起請文に対し、興経は承諾・誓約した。そして翌閏7月、交渉を担った吉川経世・経好、今田経高の3人も血判起請文を毛利家に提出し、異心無きことを誓った。
【写真左】千法師の墓・その1
 興経の嫡男千法師の墓は居館跡から東へ直線距離でおよそ400m程向かった椎村山の西麓に祀られている。


興経の隠居と
      元春の吉川家相続

 『陰徳太平記』によれば、興経の隠居地は深川(広島市安佐北区)とされ、8月1日(天文16年)、手島内蔵允ら(豊島兄弟)わずかの家臣に伴われて新庄(北広島市)をあとにしたという。そして、興経は新庄から遠く離れた毛利領の深川に幽閉され、元春が吉川家を相続する手続きが完了した。

 最終的に大内氏がこれを正式に承認したのは、天文18年4月(『吉川家文書 430号)とされ、興経が築城開始して間もない日野山城へ元春が入城するのは翌19年2月とされている。
【写真左】千法師の墓・その2
 興経の妻については史料がないため不明だが、興経の嫡男千法師の墓は居館から離れたこの山中に建立されている。
 襲撃を受けたとき、幾人かの家臣らが千法師を引連れ逃亡を図ったものの、この場所で囚われ、殺害されたと考えられる。

 因みに、この千法師と言う名前は、父興経も幼少期に名乗っているもので、殺害されたときはおそらく元服前の年齢だったのだろう。


興経父子の殺害

 結局、興経の隠居場所は、彼が望んでいた有田(吉川領)でなく、毛利氏が提案した深川となっている。実質上興経を拘束したいという毛利氏側の意向が半ば強引に決まったわけである。

 この間の興経の心情を示すものとして、天文16年2月から7月の間に、花押を二度も変えていることが挙げられる。また、退去して間もないこの年の8月17日、興経は元就に下記の書状を送った。
 「…もし私があなたに恨みを抱いて不穏なことを企てているなどという者がいたら、私のもとに送っていただきたい。私の異心のなき本心を言ってやります。…」
 この書状から想像するに、興経は幽閉されたあとも一縷の望みを持っていたのだろう。しかし、毛利氏の対応は次第に厳しくなっていった。
【写真左】中郡古道(なかごおりこどう)
 千法師の墓の脇には中世の古道といわれる中郡古道が横断している。

 この道は、毛利輝元が広島城築城のために、天正17年(1589)白木町に本拠をもっていた井原氏(北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)参照)に命じて、吉田郡山城から広島(城)への資材輸送・連絡道として整備させたもの。


 さて、興経が事実上の幽閉をされた天文16年から3年経った天文19年2月、毛利元春は日野山城に入城、姓を毛利から吉川と替え、吉川元春と名乗った。それから7か月後の同年9月、元就は深川に、元春の舅で高松山城(広島県広島市安佐北区可部町)の城主・熊谷信直、及び財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)の城主・天野隆重らを送り、興経・千法師を殺害した。ここに安芸・吉川氏の正統は断絶した。
【写真左】千法師の墓入口付近から上深川の街並みを遠望する。
 千法師の墓から少し下がった位置の高台には、(株)研創という会社があるが、そこの先端部から見たもの。

 興経館跡の南側にはJR芸備線と並行して県道37号線が走り、北側には三條川が流れ、同川はこの先で太田川に合流し、広島城に繋がる。


 残された記録からだけで興経の心情や、毛利方の対応を詳細に見極めることは難しいが、どちらにしても元就としては、丁度このころ三男の隆景を小早川家に養子として送り込む背景もあったことから、最終的には毛利氏による版図拡大を目指すため、安芸・吉川氏の根を断つ必要があったのだろう。
【写真左】木ノ宗山城遠望
 上深川の興経館跡から南西に目を転ずると、木ノ宗山城(木之宗山城)が見える。

 木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)の稿でも紹介しているが、当城の城主として吉川興経や、奥西綱仲の名が古記録に見えるとしている。
 もしも、幽閉されていた興経が実際に当城の城主となっていたなら、これが毛利氏による襲撃・殺害の最大の理由となるだろうが、監視され続けていた者が城を持つことは不可能だろう。