2017年4月18日火曜日

信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

信貴山城(しぎさんじょう)

●奈良県生駒郡平群町大字信貴山
●指定 平群町指定文化財
●別名 信貴城、磯城
●高さ 433m(比高250m)
●築城期 天文5年(1536)
●築城者 木沢長政
●城主 木沢長政・松永久秀
●遺構 郭・堀切・土塁・門跡・石積等
●備考 朝護孫子寺
●登城・参拝日 2007年5月29日、2015年12月1日

◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く』仁木宏・福島克彦編等)
 前稿河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)から、生駒山系をおよそ15キロほど南下していくと、東隣に当たる奈良県側には、古刹朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)がある。当院の創建時期については詳細な記録はないものの、平安時代後期に創作されたという国宝『信貴山縁起絵巻』が残されている。
【写真左】信貴山城遠望
 南麓の朝護孫子寺側から見たもの。









 当院は信貴山真言宗総本山の寺院として、本尊は毘沙門天を祀る。そして信貴山は当院の北方に聳える標高433mの山で、おそらくこの山全体が当時の修行僧の場であったものと考えられている。戦国期に至ると、当山に城砦が築かれた。
 信貴山城を本格的に築いたのは、戦国時代前期、室町幕府の草創期その功によって管領の一人となった畠山氏の家臣であった木沢長政といわれている。
【写真左】信貴山観光案内図
 写真中央上部にある山が信貴山城で、朝護孫子側からは多宝塔の脇を通って登山口となる。






現地の説明板より

“信貴山城 
      平群町(へぐりちょう)指定文化財 
      平成5年4月12日指定 
    所在  平群町信貴山1308の1番地 
    所有・管理  信貴山歓喜院朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)

 標高433mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西550m、南北700mにわたって120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
 空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡がよく残り、特に高櫓跡は著名で、中世末、織豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。

 信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智期における高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
 その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。
 天正5年(1577)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月10日に落城。
 その後、廃城となる。

   平群町教育委員会”

【写真左】信貴山城の縄張図
 下方に朝護孫子寺があり、ここから北の方向に向かう。なお、左図は現地に設置されていたモノクロの図に管理人が郭、及び池等を着色したもの。

 説明板にもあるように、規模は大きく、
(1)雄岳地区
(2)雌岳地区
(3)支尾根地区
で構成されている。






木沢長政

 長政の名が知れ渡ったのは天文5年(1536)9月、細川晴元が将軍足利義晴に出仕したときである。このとき、晴元を護衛同行したのが、三好仙熊(後の長慶)、波多野秀忠(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)、並びに木沢長政である(『麓宛日録(ろくおんにちろく)』)。

 長政は元々畠山氏の被官であったが、その後細川高国に、さらに晴元へと鞍替えしていった人物で、その後山城国守護代となり、さらには北河内に進出、河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)に入った。同じ年の6月、大和国守護職を担っていた興福寺が勢力を弱めると、その代役として大和国にも支配を広げ、信貴山城を築いた。この頃の長政の隆盛は目覚ましく、同国支配強化のために、5年後の天文10年7月になると、大和国北東部入口を抑えるため、笠置山城も支配下に置いた。
【写真左】登城口付近
 登城口は上記案内図にもあるように、朝護孫子寺境内を通過し、多宝塔のある脇から向かう。

 写真は、その多宝塔で、鳥居を潜って上に向かう。


 しかし、長政の終焉は早くも翌年に訪れることとなる。この年(天文10年・1541)9月、摂津多田の一庫城(かずくらじょう)(別名山下城)において塩川伯耆守国満による籠城事件が起こった。

 この事件に絡んで長政は細川晴元の命に逆らい、塩川方に与した。これをきっかけに翌年の3月、長政は飯盛山城及び信貴山城などの兵を糾合し、河内守護代・遊佐長教の籠る高屋城を攻めはじめた。同月17日、遊佐長教と三好政長の兵が木沢長政を太平寺(柏原市)で迎撃(「太平寺の戦い」)、この戦いで長政はじめ木沢一族は討死した。
【写真左】登城道
 信貴山城の主郭跡には空鉢護法堂が祀られ、参道でもある。この日も熱心な信者の方々が往来されていた。

 このため、道は傾斜があるものの、整備されていて登りやすい。



松永久秀三好三人衆

 木沢長政が亡くなったあと、信貴山城の城主となったのが松永久秀である。久秀は戦国の三大梟雄の一人といわれている。彼については、既に上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)の稿でも紹介しているが、そもそも何故彼を梟雄と呼ぶようになったのだろうか。

 久秀の出自は不明である。このため誕生年も確定しておらず、一説では永正7年(1510)ともいわれているがはっきりしない。彼が戦国史に初めて登場するのは、三好長慶に仕えた頃で、天文11年(1542)ごろである。当時長慶の下で右筆や訴訟取次などを任されている。
【写真左】雌岳方面
 縄張図でも述べたように、3区域の一つ、雌岳地区に当たる個所で、登城コースから少し逸れるが、南側に伸びる尾根筋に凡そ60mほどの長さを持つ郭。
 残念ながらこの日は、踏査せず遠望のみとした。


 丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の稿でも述べたが、天文20年(1551)7月、三好長慶は京都相国寺の戦いで敵対する細川晴元を破り、その2年後再び晴元の逆襲を退けた。この戦いで久秀は功を挙げ弘治2年(1556)6月、摂津の滝山城(神戸市中央区)の城主となった。このころから久秀は一挙に頭角を現してくる。

 永禄2年(1559)に至って、久秀は大和国に進出、当時大和国は興福寺や筒井氏などが守護職として治めていたが、これを奪取し、この年信貴山城の城主となった。久秀による信貴山城入城は、前任者であった木沢長政を意識したものといわれている。それは、長政が大和国を支配する際、信貴山城を居城としたことが強烈なアピールになったことを知っており、久秀はその先例を意識していたとされる。
 信貴山城を基盤とした久永は、その後河内国にも侵攻し、翌永禄3年には大和国を完全に支配し、本丸には信長に先んじて四階建ての天守を築いた。また当城から北東18キロの位置に多聞城を築いた。
【写真左】雄岳区域の三の丸東端部
 上述したように、雄岳区域西端部が本丸といわれ、そこから東に向かって、二の丸・三の丸と続く。
 なお、写真の切崖から北東及び東へ二つの尾根が続き、それぞれ中小の郭段が連続している。


 この段階までは戦国の梟雄といわれるほどの動きを見せていないが、永禄7年(1564)に主君であった三好長慶が亡くなったころから久秀の動きは先鋭化してくる。長慶が亡くなった直後、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と久秀は三好政権を掌握するが、それも長続きせず、翌年13代将軍足利義輝を暗殺したころから、三人衆と久秀は対立した。
【写真左】空鉢護法堂
 この付近が三の丸から二の丸に向かう位置にあたり、信貴山奥の院すなわち空鉢護法堂の鳥居が建立されている。



 永禄9年(1566)、久秀は畠山高政及び安見宗房と連合し、三好三人衆・筒井順慶らと上芝に戦うが敗退、その後再起を図るものの、再び三人衆に駆逐され遂に大和国の領地を失った。しかし、三人衆が担いでいた長慶の継嗣・義継が彼らと袂を分かつと、久秀は義継と連携し、再び信貴山城を奪還、奈良東大寺に拠った三人衆を攻撃、この戦いで大仏殿が焼失した。永禄10年(1567)10月10日のことである。

 この2か月前、織田信長は美濃の斉藤龍興を稲葉山城に破り、当城に入城、名を岐阜城と改名した。久秀と三好三人衆による攻防が決着しないまま、信長の足音は次第に京の方へ響くようになった。
【写真左】「信貴山城」の幟
 二ノ丸の一画にはご覧の様な幟が数本建っていた。







織田信長上洛

 永禄11年(1568)9月26日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。三好三人衆は信長の脅威に恐れをなし逃亡、利あらずとみた久永は抗することもなく信長の前にひれ伏し、大和一国と河内半国を安堵された。同年10月18日、足利義昭は室町幕府の第15代・征夷大将軍に任じられ、久秀は義昭の臣下となる。

 しかし、義昭と信長の良好な関係は長くは続かなかった。二人のこうした変化は久秀の目にも留まっていたのだろう、元亀2年(1571)久秀は密かに甲斐の武田信玄に通じ、信長に反旗を翻した。久秀の変質の背景には多分に義昭の意向も働いていたのだろう。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
 雄岳区域の尾根幅は10~15m程度と狭いが、総延長は100m近くになる。

 東から西に向かって50m程度進むと、そこから少し高くなって本丸に繋がる。



二度にわたる久秀反旗

 久秀が最初に信長に対し反旗を翻したのは元亀3年(1572)である。この年の9月、信長は足利義昭に対し「異見十七箇条」を提出して失政を諌めている。これがきっかけとなって義昭は反信長へと態度を変えていくことになる。

 反信長の包囲網がさらに拡大したのは、翌天正元年・元亀4年(1573)の2月ごろである。主だった面々は、義昭はじめ、武田信玄、本願寺光佐(顕如)、朝倉義景、浅井長政らで、久秀自身は義昭の命を受け、その画策に動いていたものと思われる。しかし、その包囲網を画策した矢先、最も頼みとしていた武田信玄が西上途中の信濃国で病没した。このため、義昭らが計画した信長包囲網の策は実現できなくなった。ところで、皮肉にも反信長の態度を示した者の中には、久秀と対立していた三好三人衆もいた。
【写真左】「信貴山城址」の石碑
 二の丸付近に建つ石碑









 包囲された信長は直ちに、討伐に向かうべく上洛し、首謀者・足利義昭を二条城に囲み(4月4日)、7月には逃れた義昭が拠った宇治槙島城を攻略、義昭はついに京を離れ、河内若江城に逃亡し、ここに室町幕府が滅亡した。

 同年(1573)12月、久秀は信長に降伏した。信長の性格からいえばこの段階で久秀は誅滅されてもおかしくないが、どういうわけか信長は久秀を許している。信長には久秀を生かすことによる何らかの目論見があったのだろう。
【写真左】本丸
 旧本丸跡で、空鉢堂が建立されている。
 長径(東西)凡そ20m×短径(南北)10m前後と小規模な郭だが、現在多くの祠や鳥居が建立されている。

 この場所に天守が建てられていたというが、地形・地盤を考えると、基礎として石垣を積まず礎石を要所に配して建てた天守だったのだろう。


久秀、信貴山城にて爆死

 しかし、久秀がその後信長と良好な関係を持つことはなかった。具体的な理由は分からないが、天正3年(1575)、信長は久秀に対し大和国知行をはく奪、久秀のもう一つの居城であった多聞城も放棄せざるを得なくなった。このため、久秀は越後の上杉謙信に救いの手を伸べ、再び信長に敵対する構えを見せた。
【写真左】主郭から南方を俯瞰する。
 時期にもよるだろうが、天守跡(空鉢堂)から望む視界は思ったほどよくない。

 写真は登ってきた南方面で、遠くには紀伊山地の山並みが控える。


 天正5年(1577)8月、信長は家臣で茶人でもあった松井友閑を遣って久秀の真意を質そうとしたが、久秀は友閑の面談に応じなかったため、信長は同月10日、嫡男信忠を総大将とし、明智光秀・筒井順慶を中心とした軍勢を派遣、信貴山城を包囲した。

 もはやこれまでと悟った久秀は、信長が欲しがっていた名器「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、信貴山城と共に爆死したという。天正5年(1577)10月10日のことである。なお、久秀の生誕年は確定していないが、永正7年(1510)頃といわれているので、亡くなった時は68歳だったと考えられる。
【写真左】主郭南側
 縄張図にもあるように、主郭周囲は険しく、特に南側は見ごたえのある天険の要害である。

 このあと、支尾根地区のひとつで、松永屋敷跡といわれている北側の郭群に降りていく。



 因みに、この2か月後の12月3日、播磨では秀吉が上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)を攻略し、その城番として尼子再興軍の尼子勝久及び、山中鹿助らが三木城(兵庫県三木市上の丸)から移ることになる。
【写真左】松永屋敷周辺部の縄張図
 支尾根地区の一つで、北側に伸びる尾根筋郭群をズームしたもので、登城したこの日、「立入殿屋敷」及び通称「松永屋敷」といわれる箇所が描かれている。

 なお、整備されている箇所はこの尾根筋のもののみで、他の郭群は今のところ整備されていないようだ。

【写真左】立入殿屋敷(たていり とのやしき)
 主郭のほぼ真北に伸びる尾根伝いに築かれた郭段の一つで、立入殿は、久秀家臣であった立入勘介のことを指すのであろうか(『『近畿の名城を歩く』)、としている。
 長径(南北)40m×短径(東西)20mの規模を持つ。
 写真は東側から見たもので、左側に急峻な切崖を持つ主郭が控える。
 このあと、さらに北の尾根筋に向かう。

【写真左】松永屋敷・その1
 左側の切崖上部に「立入殿屋敷」があり、そこからかなりの高低差をもって「松永屋敷」の郭群が連続する。

 なお、現地縄張図では上段から下段までおよそ6段の郭が連続し、それらを総称して「松永屋敷」の郭群としているが、史料によればこのうち、上段半分までは木沢氏時代の「古屋敷」ともいわれ、残りの下段のものが「松永屋敷」とされている。
 また、「松永屋敷」の松永は別名「弾正郭」すなわち、久秀の郭とされているが、別説では一族の秀長ともいわれている。
【写真左】土塁
【写真左】上の段と下の段
【写真左】土塁
【写真左】土塁と簡易タラップ。
 タラップの位置は虎口か
【写真左】振り返ってみる。
 さらに下の段に向かう。
【写真左】綺麗な郭
 上部から何段目の郭だったのか覚えていないが、このあたりから後期(松永久秀時代)の郭かもしれない。
【写真左】東側斜面
 右上が松永屋敷関係の郭段がある個所で、下の道になっている箇所から見たもの。
なお、この左側にも郭群があるようだが、雑木などで覆われていて確認できない。