2017年2月24日金曜日

龍文寺(山口県周南市大字長穂字門前)

龍文寺(りゅうもんじ)

●所在地 山口県周南市大字長穂字門前1075-1
●創建 陶盛政
●開基 不明
●宗派 曹洞宗
●備考 陶氏墓所
●参拝日 2017年1月21日

◆解説(参考文献『宍道町史』等)

 洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)の稿で少し紹介しているが、洞雲寺の開祖・金岡用兼(きんこうようけん)が師事したのが、龍文寺第4世であった大庵須益(以下「須益」とする)である。
 この龍文寺は、錦川中流部に当たる長穂にあって、以前紹介した須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)から北西方向に約6キロほど登った山間部に所在する。
 永享元年(1429)、周防国守護代であった陶氏第5代・盛政が創建したとされる曹洞宗の寺院で、別名「西の永平寺」ともいわれている。
【写真左】龍文寺・山門
 平成17年(2005)に再建されたみごとな山門が建つ。







 
現地説明板・その1

“ 鎮西吉祥山 鹿玉山

龍文寺(りゅうもんじ)

 龍文寺は、永享元年(1429)、周防国守護代を務めていた陶盛政が大内持世の命によって創建した古刹で、その後陶氏代々の菩提寺となりました。
 本尊の木造釈迦如来坐像は、その銘文によると応安7年(1374)に院什法印という仏師によって造られたもので、昭和59年に市指定文化財(彫刻)に指定されました。また、永正2年(1505)、陶興房が龍文寺蔵僧堂の公用とするために鋳造させた鉄造茶釜は、昭和53年に市指定文化財(工芸品)に指定されました。

 さらに、本堂西側の100mばかり離れた杉木立の中に位置する陶氏墓所は、宝篋印塔、五輪塔などの墓石85基が祀られており、平成17年に市指定文化財(史跡)に指定されました。

   周南市教育委員会”

【写真左】本堂
 山門をくぐると、正面には本堂が見える。今年(2017年)1月21日に訪れたが、瀬戸内側の周南市市街地では殆ど雪がなく、当山も雪の心配はないだろうと思っていたのが間違いだった。
 国道315号線の栄谷隧道トンネルを過ぎると、途端に景色が一変した。

 錦川中流部に当たるのだが、周防国でもこの辺りは中国山地のエリアに入るのだろう。ご覧の通りの雪景色だった。因みにこの付近の標高は350m前後である。


陶盛政

 陶盛政は陶氏第5代当主である。前稿でも紹介しているが、盛政の父は盛長で、一説では応永17年(1410)に富田保の地頭職に任じられ、その子盛政は永享4年(1432)に周防国の守護代(大内氏)任じられている。
【左図】 陶氏系図



 従って、上記の説明板の内容と照合するとその時期については整合していない点が残るが、これは陶氏の主君であった大内氏の家督相続をめぐる戦いがあったからと考えられる。
 このころの大内氏では、盛見が亡くなったあと、持世と持盛の間で継嗣を巡って争いが生じた。

【左図】大内氏系図



大内持世

 大内氏代27代当主となった人物で、父は25代の義弘である。義弘が応永の乱で足利義満と対立し、畿内で討死する(応永6年:1400)と、弟の盛見が跡を継いだ。その盛見も遠征先の筑前で戦死すると、義弘の子であった持世と持盛の兄弟の間で家督争いが生じた。

 永享4年(1432)2月10日、持盛は兄持世を襲撃、豊前国にあった持世は難を逃れて、石見・三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)に奔った。1ヶ月後の3月15日、持世は三隅城から周防山口に移った。その2日後、幕府は石見・安芸守護職であった山名時煕に命じて、両国の兵を差出し大内持世を援助させた(『満済准后日記』)。

  その後持世が大内家を継ぐことになるが、嘉吉元年(1441)6月24日に起った「嘉吉の乱」(鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)参照)において、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺、このとき義教派であった持世も深手を負い、これがもとで1ヶ月後の7月28日死去した。そして持世の跡を養嗣子の教弘が大内家を継ぐことになる。
【写真左】陶氏墓所に向かう。
 陶氏墓所は本堂の左側にあって、背後の山の一角に祀られている。






厳島い その

 宮尾城(広島県廿日市市宮島町)の稿でも述べたように、厳島の戦いで陶晴賢は戦死したが、その後陶氏をはじめ大内軍(義長)を中心とする勢力は暫く毛利氏に対し抵抗を続けた。

現地の説明板・その2

“ 山口県指定文化財

 長穂念仏踊
(ながおねんぶつおどり)

 天文24年(1555)、陶晴賢は厳島の戦いで、毛利元就に敗れ自刃しました。その後、地元に伝わる伝承では、若山城にいた晴賢の子長房と、小次郎は、大内氏家臣の杉重輔
すぎしげすけ)に攻められ、ここ龍文寺に逃れたということです。錦川と険しい山々に囲まれた龍文寺は、天然の要害であったことから、寄せ手は一計を案じ、古くから伝わる周防神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱入しました。このため、時の住職のお諭して、陶氏の一族は自刃したとされています。 

 踊りはその後、陶氏追善供養のため、毎年7月7日に舞われ、やがて雨乞い踊りへと変化し、念仏踊りとして現在に至っています。現在、県指定無形民族文化財になっています。

   昭和43年4月
   周南市教育委員会
   寄贈 周南西ロータリークラブ”
【写真左】陶氏墓所・その1
 ご覧のように、一か所に纏められている。









 このうち、陶氏は晴賢の子長房と貞明が居城であった周防・若山城(山口県周防市福川)で防戦に努めたが自刃したといわれている。また、これとは別に、長房はいち早く若山城を脱出し、菩提寺であったこの龍文寺に立て籠もり、討死したともいわれている。

 そして、当院に籠城した長房や貞明、並びに長房の子または晴賢の末弟と呼ばれる鶴寿丸を攻略するために、大内氏から毛利氏へ転じた杉重輔が念仏踊りに紛れて寺に侵入し、攻め滅ぼしたという伝承も残っている。
【写真左】陶氏墓所・その2
【写真左】陶氏墓所・その3
 墓石の形態は五輪塔形式のものもあるが、多くは宝篋印塔のものが多い。写真はそのうち、墓石を石で囲ったもの。
【写真左】陶氏墓所・その4
 宝篋印塔、五輪塔などの墓石85基を数えるというから、当山において行われた天文年間の戦いで討死した陶氏残党の墓もこの中にあると思われる。
【写真左】陶氏墓所周辺部
 山の斜面に墓所が建立されているが、その手前の道は上の方に繋がり、周回できるコースが造られている。ミニチュア版の遍路路が設定されているようだ。

 なお、上部の尾根筋を超えると、ゴルフ場の区域になる。
【写真左】本堂裏
 墓所の方から本堂側を見たもので、この斜面も含め龍文寺周辺部は天然の要害を持っていたことから、晴賢の子長房などはこうした箇所を使って抗戦したのかもしれない。
【写真左】本堂の峰瓦家紋
 山門の峰瓦にもあるが、左側には毛利氏の家紋があり、右には陶氏(大内氏)の家紋が設置されている。

 「念仏踊り」という陶氏追善供養が今日まで続けられていることから考えると、陶氏滅亡後、勝者であった毛利氏の手によって、本院も併せて庇護を受けてきたのだろう。



大庵須益

 さて、大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で紹介した大寧寺の第6世でもあった大庵須益(だいあん しゅえき)(以下「須益」とする)は、のちにこの龍文寺に移り、ここで金岡用兼らを育てた。金岡用兼はその後、洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)を創建することになる。
【写真左】大寧寺
 旧山門跡付近。山門は天正年間毛利永代家老であった益田藤兼が寄進したもので、寛永17年野火で焼失したが、延宝5年(1677)益田元尭によって再建された。その後藩の庇護もなく、明治末期に倒壊し礎石のみ残る。

 参拝日 2019年3月1日


 大寧寺歴代世代譜によれば、須益が大寧寺にあったのは、寛正4年(1463)から文明3年(1471)の8年間とされ、その後龍文寺に移ることになる。ただ、須益はその1年後の文明4年に亡くなっているので、当院にあったのはわずか1年ということになる。享年66歳。

須益、出雲国

 ところで、この須益は、生前出雲国に赴き、2,3の寺院を開基したといわれている。
 現在知られているそれらの寺院は、雲南市にある長谷寺、松江市宍道町にある豊龍寺、並びに飯南町にある明窓院などである。


(1) 長谷寺(ちょうこくじ)
 ●所在地 島根県雲南市加茂町三代

 出雲観音霊場第8番の札所で、曹洞宗の寺院である。
【写真左】長谷寺本堂

参拝日 2017年2月8日、2016年4月5日、2015年12月9日








現地の縁起より

“…(中略)… 宝徳2年(1450)、長門国深川曹洞宗大寧寺6世大庵須益禅師を招聘して、開基とし法灯連綿現在に至る。以下略”

 とある。従って、上述した大寧寺歴代世代譜と照合すると、須益が当院侍従職になっていない時期で、須益は応永13年(1406)生れといわれるので、長谷寺に招聘された時は44歳前後と考えられる。


(2)明窓院(めいそういん)
 ●所在地 島根県飯南町赤名
【写真左】明窓院

参拝日 2017年2月8日










現地の縁起より

“ 当院は宝徳3年(1451)当山の中本寺なる周防国(山口県)都濃郡長穏村(徳山市)龍文寺第4世大庵須益大和尚の創立にして、第4代瀬戸山城主(衣掛山城とも云う)赤穴美作守幸清は永正11年(1514)逝去せしが、生前殊のほか当院に帰依深く、よってその室を明窓院殿と号し、開基となる。長享元年(1487)逝去。”

 長谷寺に招聘された翌年、今度は長谷寺よりさらに南にあった明窓院に赴いて、明窓院を創建していることになる。


(3)豊龍寺(ほうりゅうじ)
  ●所在地 島根県松江市宍道町白石
【写真左】豊龍寺

参拝日 2017年1月20日










 豊龍寺は戦国期尼子氏から離れ、毛利氏に属した国人領主宍道氏の氏寺として知られているが、『宍道町史』によれば、元々慶隆寺と呼ばれ、真言宗寺院であったという。その後15世紀中ごろに、周防国龍文寺4世であった大庵須益が招かれて、開山となり真言宗から曹洞宗への改宗が行われたとされる。
【写真左】豊龍寺の寺紋
 お馴染みの佐々木氏の家紋で、当院では「石餅四つ目結」となっている。






 このため、この須益による改宗が即豊龍寺の成立と理解され、開山・大庵須益以下を豊龍寺の歴代住職とするとらえ方がなされている。しかし、『宍道町史』によれば、実際にはこのあとも慶隆寺の名が存続していたため、このあたりは検討の余地があるとしている。

  いずれにしても、豊龍寺に須益が招かれたのが15世紀中ごろとしていることを考えると、上記二つの寺院と同じころ(宝徳2~3年)と考えられ、須益がおよそ1年の間当地(出雲国)にあって教線を広めていたことが推察される。

2017年2月14日火曜日

陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)

陶興房の墓(すえおきふさのはか)

●所在地 山口県周南市土井一丁目 建咲院)
●創建 文明14年(1482)
●開基 大悦薫童
●創建 陶興房
●指定 木像聖観世音菩薩像等
●参拝日 2017年1月22日

◆解説
 前稿の勝栄寺(山口県周南市中央町)から、北東へ凡そ、1.3キロ向かったところに陶興房が創建したといわれる建咲院がある。当院には創建者である陶興房の墓が眠っている。
【写真左】陶興房の墓
 手前の宝篋印塔で、周囲には歴代住職の墓が隣接している。








現地説明板・その1

“陶興房

 陶興房は、文武兼ね備わる温厚な武将として知られ、陶隆房(のち晴賢)の父にあたります。
 1482年(文明14)に大内館において、吉見信頼に刺客された父弘護と、母益田氏の冥福を祈るため、大悦薫童(だいえつくんどう)和尚を請して建咲院を建立しました。

 この寺号は、父の法名「昌龍院殿建忠考勲大居士」と、母の法名「龍豊寺殿咲山妙◇大姉」の頭文字である「建」と「咲」から得たものです。両親を思う至情がよくあらわれています。
 興房は禅宗に帰依し、1530年(享禄3)に剃髪して道麟(どうりん)と号し、1539年(天文8)4月18日に死去しました。他に徳地の八坂、上村にも社寺を造営しています。
 この宝篋印塔は、隅飾まで残存していますが、その上の法輪等は欠除しています。

   平成17年3月31日
     周南市教育委員会”



陶弘護(すえ ひろもり)

 興房の話に入る前に、先に彼の父であった弘護について述べたいと思う。
 弘護は康正元年(1455)10月13日、父を陶弘房、仁保盛郷の女を母として生まれている。この弘房は、一時同族で子がなかった右田家の弘篤が亡くなると、主君大内教弘の命によって、右田氏の後継ぎとなっている。しかし、その後実家(陶家)の実兄が亡くなると、再び陶家に戻り、陶氏の跡を継いでいる。
【写真左】長門・嘉年城










 さて、周防・若山城(山口県周防市福川)でも紹介したように、応仁の乱で主君大内政弘や、弘護の父弘房らが京へ上っている隙に、大内政弘の伯父である大内教幸(道頓)が赤間関(下関市)で兵を挙げると、陶氏の留守を預かっていた幼い弘護が、果敢に防戦し、長門・嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に戦い、さらには豊前・馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)に教幸を追いこみ、自刃させた。時に文明3年(1471)12月26日のことである。(「大内道頓の乱」)
【写真左】豊前・馬ヶ岳城










 弘護の妻は益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)の娘である。『益田家文書』に文明2年(1470)8月6日付で、陶弘護が益田兼堯・貞堯に忠誠を誓う、という記録が残っている。

 これは、主君大内政弘らが応仁の乱で京に上っているとき、弘護としては、当時西軍として手薄であった周防・長門の軍勢に協力を仰ぐため、石見益田氏への合力を頼んだことからだと思われる。

 翌年(文明3年)11月2日付で、弘護は益田貞兼(益田兼堯の嫡男で義兄弟)に誓書を与え、翌月の7日には、京にあった主君大内政弘に対し、石見の吉見・三隅・周布・小笠原諸氏が長門嘉年城包囲、益田貞兼が杉峠通路城・カケノ城・高津小城攻略、並びに自らが道頓攻略などを行ったことなど戦況報告をしている。
【写真左】石見益田・七尾城










 なお、弘護は同じころ主君大内政弘の命によって、筑前大宰府に少弐氏を攻めている。この理由も伯父教幸が、東軍(細川勝元)に通じていた少弐教朝・大友親繁に誘惑されていたことからである。

 ところで、このころ陶氏と益田氏との結びつきは、陶氏の主君であった大内氏よりも強かったことが窺われる。既述したように、弘護の妻は益田兼堯の娘で、兼堯の嫡男貞兼の妻は陶氏の女である。また、さらには後の益田藤兼の祖父・宗兼の室即ち梅林智惷は陶氏の出である。このこともあって、毛利元就に厳島で敗れた晴賢が最後まで頼ったのが益田藤兼である。
【写真左】荒滝山城










 文明14年(1482)5月27日、山口の大内邸築山館で大内政弘が催した饗応の席で、吉見信頼は突如刃を抜き、同席していた弘護を斬りつけ刺殺した。驚いた内藤弘矩(荒滝山城(山口県宇部市大字東吉部字荒滝)参照)はすぐさま信頼を討ち果たした。

 この吉見信頼と陶弘護のそれぞれの正室はいずれも益田兼堯の娘で、二人はいわば義兄弟に当たる。しかし、もともと応仁の乱のころ、信頼は東軍(細川方)に属し、文明2年に教幸が周防玖珂で弘護に追われたとき、津和野城主の信頼は教幸を匿ったことがある。そして教幸が亡くなると、文明10年に大内政弘に恭順を示している。

 大内邸における刃傷に至る直接の動機は、二人が座席の順位を争ったことからといわれているが、件の饗応を主催した大内政弘は、両者が不仲であったことを知りながら招いている。弘護殺害のあと、直ぐに内藤弘矩が信頼を殺害したのも大内氏による謀(はかりごと)ではなかったとも思える。もっともこの弘矩も後に大内義興の代になると、義興によって誅殺されてしまう。
【写真左】建咲院
 ご覧のように本堂は鉄筋コンクリート製の建物となっており、往時の姿は見られない。









陶興房(すえ おきふさ)

 上掲した系図にもあるように、弘護の子で、晴賢の父となった武将である。文明7年(1475)に生まれ、天文8年(1539)、享年64歳で亡くなっている。

 建咲院を創建したのが、父弘護が亡くなったその年、すなわち文明14年(1482)と現地の説明板に記されているが、興房が未だ7歳の幼年期のことになる。父が悲運の死を遂げたことから、できるだけ早く供養したいという思いは理解できるが、しかし、建咲院の建立日がこの年(文明14年)というのは、興房の年を考えると少し無理があるようにも思える。
【写真左】建咲院本堂



現地説明板より

“建咲院

 陶興房が両親の菩提を弔う目的で文明14年(1482)に建立した古刹である。

 永禄3年(1560)毛利元就は富田地方の一揆を討つために、勝栄寺に滞在したが、その際に、建咲院の隆室和尚に授戒されお礼に袈裟、尼師壇(にしだん)、血脉袋(けちみゃくぶくろ)、念珠、香合、水晶の玉を寄進した。これらの寺物の由来の古記録建咲考とともに、市の文化財として指定されている(昭和49年12月1日)。
 このほか徳山7代藩主毛利就馴(なりよし)お抱えの絵師朝倉南陵、震陵の釈迦三尊、十六羅漢図などは仏画としても美術品として貴重である。

 さらに昭和53年9月1日、市の文化財に指定された観音堂の木造聖観世音菩薩像は、桧材の寄木造りでもと茶木原の富田山浄宝寺の本尊である。鎌倉時代の特色が見られる古い仏像であり、古くから周防国三十三観音の第17番札所として崇敬されてきた。またこの浄宝寺は、奈良西大寺の末寺で周防国では国分寺(防府)の二ヶ寺であったと伝えられている。
   平成7年3月1日
       周南市教育委員会”


 さらにこの時期の動向を見てみると、主君であった大内政弘が亡くなり、義興が跡を継ぐにあたって、譜代の家臣であった内藤氏や、陶氏が絡んだ内紛などがあり、創建時期はこれらの騒動が落ち着いてからではないかとも考えらえれる。

 上掲の陶氏系図にも記しているように、興房は弘護の三男とされている。長男は武護(たけもり)、次男は興明である。

 弘護亡き後、武護は家督を継ぎ、大内義興に従って京都にあったが突如出奔し、出家したという。このため、弟の興明が家督を継いだが、しばらくして出家していた武護が突然帰国し、弟の興明を討ち取って家督を奪ったという。そして、大内邸における吉見信頼刃傷沙汰で名を挙げた内藤弘矩が権勢をふるっていたことから、武護は義興に讒言(弘矩が義興弟の隆弘を大内氏に擁立しようとしている)を行い、これを信じた義興は弘矩・弘和父子を誅殺したといわれている。
【写真左】観世音菩薩像が祀られている堂に向かう。
 建咲院の墓地は現在本堂北側の高台に集約されているが、近年大規模に整備されたようだ。興房の墓はこの高台をあがった先に建立されている。


 なお、武護を中心としたこれら陶氏の内訌や、内藤氏との確執など不明な点が多いため、上述した内容がどこまでが史実であったか確定してはいないようだ。

 さて、こうしたあとを受けて陶氏の家督を受け継いだ興房は、主君大内氏の重臣として義興から義隆の二代にわたって活躍することになる。

 興房は説明板にもあるように、文武兼ね備わる温厚な武将であったという。興房が最初にその能力を発揮したのが、明応4年(1495)、すなわち興房20歳のときだが、石見における長い間の益田氏と吉見氏との美濃地・黒谷地域を巡る領地紛争の終結に向けて、大内義興は興房を双方の和解折衝に当たらせた。そして、同年8月、益田・吉見両家が将来、将軍家と大内家に対し倦怠のないよう注意することなど三項目を挙げて誓文を交付している。
【写真左】陶興房の墓周辺
 墓地の西方奥に墓が祀られているが、その左側には歴代住職の墓が隣接している。





 興房の功績としてもっとも強調されることは、主君義興亡き後、大内家の安定を図り、若い義隆を強力に支えた点である。

 大永4年(1524)まで毛利氏は尼子氏と組み、大内方の安芸銀山城を攻撃していたが、翌5年の6月、安芸米山城主・天野興定が興房に服属したのを皮切りに、次第に毛利氏も尼子氏を離れ、大内方に着くようになった。こののち、興房は安芸・備後両国で度々尼子氏と激突、一進一退を繰り広げていく。
 
【写真右】大内義興の墓
 大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾








 義興が亡くなったのは享禄元年(1528)12月で、義隆はこのとき20歳を過ぎたばかりであった。義興の死によって、それまで大内氏に属していた安芸・備後・石見、さらには豊前・筑前両国の領主たちに動揺が走り、離反していく可能性も高かった。しかし、それを興房がこの難局を巧みに切り抜けていった。
【写真左】陶興房の墓













 さらに興房に先見の明があったのは、大永3年(1523)ごろ、毛利氏の家督争いで、異母兄弟であった相合(毛利)元綱が、宿老の坂広秀・渡辺勝らと密かに尼子氏と結び、陰謀を企てたが、元就によって成敗され、同5年6月に興房は毛利元就と誓書を交わし、それまで尼子方であった毛利氏を大内氏へと帰順させたことである。この間、興房が節目々で毛利氏(元就)と関わっていた。
【写真左】欠損した墓石の塊
 近くには、中小の墓石が欠損したものを一か所にまとめたものがある。
 興房時代の家臣のものかもしれない。

2017年2月4日土曜日

勝栄寺(山口県周南市中央町)

勝栄寺(しょうえいじ)

●所在地 山口県周南市中央町
●指定 県指定史跡
●高さ 海抜2.7m
●形態 平城・寺院城郭
●築城期 南北朝期(1350年代)
●築城者・開基 陶弘政
●開山 其阿(ごあ)
●遺構 土塁
●登城日 2017年1月21日

◆解説
  前稿・陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)から南におよそ2キロほど下った現在のJR新南陽駅の西に、同じく陶弘政が築いたといわれる寺院城郭・勝栄寺がある。
【写真左】勝栄寺の土塁
 北側から見たもので、右側の道路も当時は濠の一部だったものと思われる。





現地説明板・その1

“錦城山 寶樹院
 勝榮寺

 勝榮寺は南北朝時代、1350年代頃に建立された寺院で、開山は其阿(ごあ)上人、開基は大内弘世の重臣陶弘政といわれています。
 勝榮寺の旧境内は、寺院でありながら同時に土塁と環濠を廻らせる城館的な施設であったと考えられており、現在も土塁の一部が残存しています。
【写真左】勝栄寺本堂
 南側から見たもので、土塁はこの写真の左側に残る。








 毛利元就が一揆を鎮圧した際には、当地を本陣としたとされており、元就が三子に宛てた教訓状は当寺で書き残したと伝えられています。また、豊臣秀吉が九州進発の際、当寺に宿泊したとも伝えられています。
 勝榮寺土塁及び旧境内は、昭和62年に山口県指定文化財(史跡)に指定されました。
 このほか、境内の勝榮寺板碑は、阿弥陀如来種子で、かつ紀年銘がある板碑として貴重であり、平成4年に市指定文化財(建造物)に指定されました。”
【写真左】想像図と濠・土塁複式図
 この図にもあるように、当時は土塁は全周囲を囲繞し、その周囲には田圃が広がり、北側には街道が走り、南側には富田の湊がすぐ近くにあったものだろう。
 土塁の見取図については、下段のものを添付しておく。


現地説明板・その2

“山口県指定史跡
 勝栄寺土塁及び旧境内

繁栄した中世の富田

 中世(鎌倉~戦国時代)富田は富田保(とんだのほ)と呼ばれ、周防国国衙領の一部で東大寺が知行していました。南北朝時代になると、陶弘政が地頭として入ってきました。富田は山陽道上の交通の要地であるだけでなく、「富田津」は瀬戸内海の主要な港のひとつで、富田保や周辺の物資を積み出し、兵庫に運んでいました。また、ここには対明貿易のため渡海する大船も停泊していました。

 戦国時代になると、陶氏の城下町富田には訪れる人も多く、町には市が開かれて各種の店が並び、周防国屈指の都市として繁栄しました。
【写真左】土塁見取図
 元文5年(1740)の寺社由来に「寺廻り大土手有り、外側は堀なり」と書かれ、土塁と環濠があったことが分かる。









勝栄寺土塁

 勝栄寺は、もとは大内氏の重臣陶氏によって創建された時宗の寺院で陶氏の菩提寺でもありました。要港・富田津に位置していたので、戦乱の続く南北朝時代、寺院としてだけでなく、合戦時には防御のとりでとなることもありました。そこで、陶氏は当寺に土塁や堀を構築したと考えられます。現在は、当時の施設の一部を残すに過ぎませんが、中世の城郭的寺院の例として貴重な遺構です。
【写真左】北西側曲り付近

 歩道と土塁の間が広くなっている箇所は濠であったことを示す。






土塁の調査の経緯について

■昭和47年、関連資料および遺跡の調査の結果、土塁が中世の城郭的寺院の遺構であることがわかる。(三坂圭治・小野忠煕両教授)
■昭和56年度・58年度、都市計画道路の建設にともない、外濠の跡・および寺院内西側の発掘調査で濠の形態・犬走りの部分および境内内部に古墳時代の墓があったことなどがわかる。(市教育委員会と県埋蔵文化財センター)
■昭和62年3月27日、山口県指定史跡となる。
■平成元年度・2年度 保存整備に先立ち、土塁の内部構造および土塁上部を発掘調査し、土塁上に建てられていた囲柵の柱穴跡などを確認する。
【写真左】土塁・東端部
 勝栄寺の北側入口付近に当たるが、当時はこの土塁はこのまま東まで回り込んでいたものと思われる。
 高さ2.5m×幅8.4mの規模




保存整備事業について

 今回の事業は、勝栄寺土塁及び旧境内の保存を目的とし、あわせて周辺の本市文化ゾーンにふさわしい環境整備を行い、市民の憩いの場となるよう取り組みました。
■土塁は、約30cm程度の盛り土を施し、もとの姿に復元(高さ2.5m、幅8.4m)するとともに、内側に残されていた土塁本体をそのまま保存してあります。また土塁上部に発見された14個の柱穴は、上部構造物の具体的な姿を復元するまでにはいたらなかったため、今回は柱の位置に擬木を埋め込むにとどめています。
■濠の部分は、水面を表す日本古来の「観世水」文様を、伊勢砂利を使って表現しました。

    周南市教育委員会”
【写真左】土塁・南端部
 土塁は東側から西に伸び、そこから南まで伸ばして復元されている。
 左側の建物が勝栄寺の本堂。






富田・政所・古市

 勝栄寺の縁起・由来などは上掲した説明板のとおりだが、当院が所在する周辺の地名を見てみると、西方には「古市」があり、北東方向には「政所」という地名が残っている。「古市」などは、当地富田保が湊と旧山陽道の要所であったことから、同国で最大の商工業が営まれた場所であったと思われる。

 「政所」については、陶氏が当地に入る前から国衙であったことや、平安期まで東大寺の寺領であったこと、つまり荘園の経営を管理する役所、政所であったことからきたものだろう。

 戦国期には、この場所から北西方向に直線距離で4キロほど向かったところに以前紹介した周防・若山城(山口県周防市福川)がある。若山城は文明2年(1470)、すなわち応仁の乱の最中(さなか)に築城している。従って、当地は南北朝期から始まって戦国期にいたるまで、陶氏の本拠地として隆盛を誇った商業都市であったと思われる。
【写真左】海抜2.7mの標識
 南側に設置されているもので、この付近は湊と接近していたことを示す。
【写真左】南側から東西に伸びる土塁を見る。
 土塁の内部には現在東に墓地があり、西側はご覧の様な更地となっている。
【写真左】毛利元就の「教訓状発祥の地」と刻銘された石碑

 勝栄寺の南側入口付近に設置されているもので、有名な教訓状「三矢の訓」が以下のように記されている。



“「教訓状発祥の地碑」由来

 毛利元就は、弘治元年(1555年)10月、厳島合戦において陶の大軍を壊滅させ、陶晴賢を自刃せしめました。
 その後、防長二国(長門・周防)の各地で、大内氏の残党の蜂起が相次いでいるとの報に、事態を重視した元就は、弘治3年(1557)11月、長男隆元を伴って再びこの地、富田に進駐し、ここ勝栄寺を本陣として一揆を鎮定した。

 元就は、老躯を顧みずして毛利家の為に精励するの範を自ら示すと同時に、在陣中に自ら筆を執り、長男「隆元」、次男「元春」、三男「隆景」にあて、各自毛利家の為に一致協力して努力すべきことを懇々と諭した14ケ条にわたる教訓状(三矢の訓)を認めたと言われている。

 現在、この教訓状は国の重要文化財に指定されており、毛利博物館(防府市)に所蔵されている。”


太閤松

 ところで、上記「教訓状」の石碑の脇には、文禄元年(1592)に秀吉が朝鮮出兵した際、当院を一時的に陣営としているが、そのとき二本の松を植えたといわれ、現在はその切り株が残っている。
【写真左】太閤松
 昭和55年の台風で倒木し、現在切り株のみが残っている。

 秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に向かったのは、文禄元年(1592)の5月7日(旧暦3月26日)といわれている。
 京都聚楽第から船に乗り瀬戸内海を西進し、6月5日に名護屋城に着いている。従って、当地(富田保・勝栄寺)に停泊したのは5月の中旬ごろだったと考えられる。

2017年2月2日木曜日

陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)

陶氏居館・平城(すえしきょかん・ひらじょう)

●所在地 山口県周南市大字下上字武井
●別名 平城
●高さ 25m
●築城期 南北朝期
●築城者 陶弘政
●城主 陶氏
●遺構 殆ど消滅
●備考 富岡公園
●登城日

◆解説
 前稿の陶氏館(山口県山口市陶・正護寺)で述べたように、陶弘政が後に移った居館といわれているのが、今稿で紹介する平城(ひらじょう)とよばれた周南市に所在する同氏居館である。

 現在跡地は富岡公園という広場となっており、当時の遺構を思わせるようなものはあまり残っていないが、その周囲には2,3か所の山城が分布し、南北朝期における陶氏の中核的な場所であったことが推測される。
【写真左】陶氏居館
 写真は、南側斜面付近で、右側が居館があったところとされている。

 居館の南側は畑地になっているが、おそらくこの畑地にも居館に付随した施設(郭等)があったものだろう。
【写真左】陶氏居館跡周辺図
 陶氏居館跡の東麓を富田川が南北に流れ、北には城山と海印寺があり、南側には七尾山城が配置されている。














現地の説明板・その1

“陶氏の居館跡

 この周辺は現在平城(ひらじょう)と呼ばれています。これは室町時代、陶氏の居館がここにあったことに由来するものです。


 陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭(わしず)氏を討つために吉敷郡陶(現・山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに居館を構えたとされています。
 南方の国道2号線付近に七尾山城
ななおやまじょう)、北に上野の城山うえのじょうやま)、別所城(べっしょうじょう)などがありました。
【写真左】富岡公園・その1
 陶氏居館であったこの場所に最初小学校が建てられ、その後富岡公園となったようだ。







 一方、陶氏は海においても、優れた兵力を抱えており、その本拠地が現在の防府市の富海(とのみ)、或いは周南市の古市にあったとされています。
 また、近くの海印寺には、陶弘護の次男の興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔があり、大切にされています。

 平成16年9月 周南市教育委員会”

【写真左】陶氏系図
 現地の説明板にあったものを参考にして管理人が作成したもの。

 なお、陶氏は大内氏の分流右田氏から分かれたものとされ、弘賢を祖とする。
 
 






現地の説明板・その2

“陶氏居館址碑の文

 陶氏は大内氏の流れを汲む右田氏の祖、摂津上盛長5世の孫弘賢が吉敷郡陶村の領主となり、よって陶を氏とした。
 2代弘政は世の中が南朝、北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い、下松の鷲頭氏(大内家庶流)の北朝方と争戦。


 居館を大字下上字武井の岡の原に築く。これを平城(ひらじょう)と云う。もと富岡小学校の敷地であった。
 平城の南に続いて一段低い所を「にいとん」と云い、即ち新殿の意で陶氏が新館を建てた所と伝えている。

 古社上野八幡宮は、正平10年(南朝1355)陶弘政の建立したものと伝えている。上野の城山は、また陶氏の一支城であり、建咲院の裏山にも七尾城を築く。四熊岳(504m)の麓を通り、花河原の西に陶氏の本城若山城(217m)がある。大手門に当たる東南方は、福川に属し、搦手の北面と西南は夜市の地である。”

【写真左】富岡公園・その2
 学校のあと公園として改修されているため、殆どこの箇所での遺構は確認できない。

 なお、左側には公民館が建っているが、この付近も当時の館跡だったと考えられる。



陶弘政大内弘世

 陶氏2代・弘政のときがいわゆる南北朝の動乱期に当たるが、主君・大内氏は弘世の代である。

 霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1の稿でも述べているように、当初大内氏は北朝方に属していたが、観応の擾乱が勃発すると、直冬に属し、後には南朝方に与し周防守護職に任じられている。そして隣の長門守護職であった厚東氏をも攻略して、同国の守護職も得ることになる。
【写真左】石碑
 「陶氏居館址」と記銘された石碑が脇に建立され、その隣には、碑文(説明板・その2)が添えられている。




 しかし、その後弘世は正平18年(1363)になると、幕府に降った。その前年の11月、足利義詮は山名氏討伐を図り、次第に武家方の勢力が強まっていた。

 因みに、弘世は石見守護職も補せられていたので、石見の益田兼見(七尾城(島根県益田市七尾)・その1参照)なども弘世の命に従い武家方となっている。
 陶弘政の動きに関する資料はあまりないが、その名から考えて弘世から偏諱を受けたものだろう。

 ところで、大内弘世が幕府に降る前に攻略していたのが、当時幕府側であった鷲頭氏である。この鷲頭氏の本拠地は現在の下松市西豊井付近(殿ヶ浴)といわれ、本稿の陶氏居館地から南東におよそ11キロほど離れた位置に当たる。
【写真左】南側斜面
 冒頭の写真とは反対に西側から見たもので、法面はコンクリートで石垣が補修されているが、この中にあるいは館時代の石が残っているかもしれない。
【写真左】東側から見る。
 左が南に当る。なお、公園の規模は、目測だが、東西60m×南北30mである。
【写真左】密嚴山 海印禅寺
 陶氏居館跡から北に少し歩いて行ったところに海印禅寺という寺があり、陶晴賢の伯父・興明と、晴賢の兄・興昌の供養塔が祀られている。
【写真左】陶興明、興昌の墓
 二人の墓以外にも五輪塔など中小の墓石がこの位置に並べられている。






説明板より

“陶 興明

 春圃孝英大禅定門
  明応4年(1495)2月13日 生年(享年)19歳

 陶 興昌

  信衣院春翁透初大禅定門
   享禄2年(1529)4月23日 生年(享年)25歳”