2009年12月10日木曜日

二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)

二ツ山城跡(ふたつやまじょうあと)

●所在地 島根県邑南町鱒淵永明寺
●登城日 2008年3月12日
●築城主 富永(出羽)朝輔
●標高 510m
●遺構概要 郭、空堀、竪堀、帯郭、石垣等

◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」等)
 所在地である邑南町鱒淵付地区は、合併前の旧瑞穂町にあり、東西に長い島根県のほぼ中央部に位置する。また、広島県との県境に接し、毛利氏の安芸の吉田郡山城や、大朝吉川氏の小倉山城とも近く、中世戦国期ではたびたび抗争が繰り広げられた。
【写真左】登城口付近
 中央後方に見える山が二ツ山城であるが、全容がよくわかるのは、この位置より下った旧瑞穂町の市街地付近の方から見た方がいい。




 当城の概要については、登城口にある説明板から転載する。

二ツ山城跡の概要
 出羽氏の居城である二ツ山城は、県内有数の規模を持つ山城で、尾根筋を切断した連続堀切から谷底まで続く大規模な竪堀群は、他の山城を圧倒するものがある。
 連続堀切より外側の尾根筋には、やや古い様相を持つ廓群が延々と続くが、枡形虎口を取り入れた主郭部の堅固な縄張りは、近世城郭に通ずるものがあり、戦国時代末期に大規模な改修が行われたことを示している。
 毛利元就の六男・元俱が養子として二ツ山城に入城した永禄年間(1565年頃)に現在の姿に改修されたものであろう。

二ツ山城の略歴
貞応2年(1223) 出羽朝祐二ツ山城築城
正平6年(1361) 阿須那・高橋氏に攻略され二ツ山城落城
享禄3年(1530) 毛利元就の攻略により高橋氏滅ぶ
享禄4年(1531) 出羽氏は出羽郷を回復し二ツ山城に復帰
天文11年(1542) 大内義隆、尼子攻略のため二ツ山城へ入城。石見の諸将、二ツ山城に結集し、出雲に進出する。
弘治3年(1557) 吉川元春、小笠原氏攻略のため二ツ山城に入城
永禄元年(1558) 毛利元就、小笠原氏攻略のため本陣を置く
永禄4年(1561) 毛利元就、福屋氏攻略のため二ツ山城に入城
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏に従い、出羽氏長州萩に移住する。”
【写真左】二ツ山城鳥瞰図
 この図も登城口付近に設置されている。立体的な図のためわかりやすい。




 本丸跡には由来についての説明板がある。以下転載する。

二ツ山城の由来
 二ツ山城の創始は、貞応2年(1223)富永祐純(出羽氏を称す)の子・朝祐が、出羽郷久永荘の地頭として、石見守護・佐々木定綱の庇護のもとに勢力を拡大するにおよび、その拠点として築いたのにはじまり、益田の七尾城についで石見国第2番の古い山城である。
 正平16年(1357)9月、出羽実祐の時、阿須那の藤掛城主・高橋貞光によって攻略され、やむなく本拠を君谷の地頭所に移さねばならなかった。
 高橋氏はやがて本城を築いて、芸備石の間に当地方最強の勢力となった。
 明徳3年(1392)、南北朝統一によって、出羽祐直は、高橋氏より出羽700貫地のうち、250貫地を得て、宇山に住むことになった。

 享禄3年(1530)、高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると、出羽祐盛は元就より出羽全域を与えられて、そのよき配下となった。
 天正19年(1591)、出羽元実は、出雲の頓原由岐に移封となってこの地を去った。かくて、本城についで二ツ山城も廃墟となって歴史の中に埋もれてしまった。
瑞穂町文化財愛護協会”



 この中に出てくる「本城」とは、二ツ山城の南西部2キロにある田所下地域にある山城で、高橋師光が1361年ごろに築いたとされている。
 また「君谷の地頭所」とは、二ツ山城から北へ約50キロほど行った江の川沿いの君谷湊(現美郷町)から、さらに君谷川を3キロほど登ったところにある。おそらくこの時は、当地を治めていた小笠原氏か佐波氏の庇護によるものと思われる。従って当地にも「地頭所城」という古城が残っている。
【写真左】登城口付近 ※イノシシか何か多くの獣の匂いがあるらしく、トミー嬢は終始大興奮状態

 平常時はこの登城口付近まで車で来ることができるが、この日(2008年3月12日)訪れたときは、途中までの車道に残雪や雪によって倒れた枝が散在しており、中腹の辺りに車を停め、後は歩いてこの位置まで向かった。



 前項の由来を見ると、出羽氏が貞応2年地頭としてやってきたということから考えると、この地頭は承久の乱のときのいわゆる「新補地頭」であったと思われる。ちなみに、出雲国で同年地頭としてやってきているのは、神西城(島根県出雲市東神西)を築いた神西三郎左衛門小野高通がある。
【写真左】西の丸付近
 登城口から登っていくと、途中で竪堀や堀切がある。しかし、現地は笹で覆われ確認が容易でない。

 その先には「天神丸」という小規模な郭があり、さらに「泉水の段」という帯郭状の付近から坂を登っていくと、この西の丸にたどり着く。
 西の丸は東方に配置された主郭を守備する重要な郭と考えられ、このためにそれまでの多数の要害施設(竪堀など)を配置している。

【写真左】西の丸から南方に旧瑞穂町の町並みを見る。
 眺望は東方の主郭部よりもよく、前記したようにこの付近の重要性がよりうなずける。
【写真左】お蔵の段
 西の丸から東に向かうとこの郭に出る。その後、少しずつ下降していくが、東郭群に入る前に、次の空堀(神明空堀)が現れる。

【写真左】神明空堀
 この空堀は規模が大きく、明らかに東郭群と分断させようとする意識が見える。従って、見方によっては二ツ山城も文字通り、二つの山に郭群を配置させた「一城別郭」形式ともいえる。
【写真左】馬場跡
 神明空堀を越えると、神明丸という小規模な郭があり、さらに下って舞殿の段が控える。その後尾根筋を相当加工した跡が見られるのが、この馬場跡である。
 実測はしていないが、有効長さは50m前後はあるだろう。

【写真左】本丸跡
 別名「東の丸」といわれているところで、標高は西の丸と同程度と思われる。広さはこちらの方が大きい。
 現地の状況は本丸であるにも関わらず、部分的に除草がしてあるのみで、雑草と枯れ木が目立つ。
【写真左】本丸付近より登城口方面を見る
 本丸からさらに東下方には「駄屋の段」という大きな郭や、本丸南方に「太鼓の段」および、分離して配置された「出城」などが鳥瞰図に示してあるが、現地に行く案内標識などが不明で、おそらく進入不能の状況と思われる。




◆感想
 冒頭で紹介されていたように、県内でも有数の山城であることは間違いないところだが、残念ながら現地の状況には少なからず不満が残る。
 主要な遺構を探訪しようにも、荒れ放題の状況に近いため、向かうことができない。

 西の丸には展望台だったと思われる廃材が残り、主要部周辺の雑草や笹類の繁茂など、山城探訪者の意欲を削がれるシーンが目に付いた。
 数年前の市町村合併で邑南町となった当地には、この二ツ山城をはじめとして歴史的に価値の高い山城が多い。すべての山城保全に費やす財源確保は、時代の趨勢上無理があるだろうが、せめて当県を代表するようなものには何らかの手当があってほしいものだ。

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